« 『カミングアウト』篠田茜 | メイン | 『国民と共に歩みたい党、共産党』河合顕子 »

2004年12月01日

『見ないを見る--川崎市ホームレス緊急一時宿泊施設建設を巡る声と力--』②宮田清彦

三章 自省

 誰だって、自分の利益を考えるのは当然だろうが、欲求を充足するための「保障」を求める相手は権力に対してだった。そして、自己の望むように他者の行動を決定できる能力「威信」は、一人一人不均等に配分されている。だから、影響力にも差が出る。しかし、そこにこそ、私達がホームレス問題と向き合えない理由のヒントがあるのではないか。

愛生寮

 それを考える前に、愛生寮を見てみたい。
 ノーネクタイに半袖のワイシャツという「省エネスタイル」に眼鏡を掛けたやや大柄な青年が、汗を拭きながら入ってきた。やさしそうな笑顔で声を掛けられる。「お待たせしました、山口です」。ホームレス一時宿泊施設「愛生寮」の事務所で川崎市健康福祉局健康福祉課の山口高弘氏に話を聞いた。
 8月の終わりに作成されたばかりの川崎市ホームレス自立支援基本計画案について話を聞きながら、差別について話が及んだ。「黒人など出自ではなくその人が置かれている状況に関する差別が、ホームレスに対する差別ですから、僕は自立することが差別をなくす方法だと思って仕事しているつもりです」。市健康福祉局に4月から5名の枠で新設された役職、ホームレスの自立支援が担当だ。「いや、僕だって、嫌だなって思うことはありますよ。昨日、立ち小便しているホームレスを見て、これだから『善良』なホームレスが誤解されるんだって舌打ちしちゃいましたし」。山口氏は行政マンとしては若手の方だが、とつとつと誠実そうな語り口でまじめそうな人柄と仕事ぶりがしのばれた。
 愛生寮を案内してもらう。事務所棟と宿泊棟と食事やテレビ鑑賞などを行うプレハブなどの建物で構成される。工場の跡地だったという性格上、資材の搬出を行うための駐車場だったであろう広い空間が敷地の真ん中に空いている。「ここが無駄なんで何かに利用できればと思っているのですが」と山口氏。周辺住民との交流事業も検討したいという。
 食堂に入ると、まだ新しいペンキの匂いがした。角にテレビが置いてあり、その横のボードにメニューが貼ってある。「ライス280グラム、8月30日 朝 焼き魚、小鉢、漬け物、みそ汁」。
 ふと壁に目をやると、美容室のカットモデルの募集チラシが貼ってあった。「キチンとした格好で行くこと、酔っぱらって行かないこと」。チラシにそう書いてあるのを見て山口は顔をしかめた。「本当はこういうの良いと思わないんですよね。プライドがある人が見たらどう思うだろうって」。

 緊急一時宿泊施設という性格上、愛生寮に滞在できるのは夜6時から朝6時までの間に限られる。食事は朝食と昼の弁当が出る。「不満もありますよ。ご飯のことなんかもありますし、もっと自立支援策をやってくれ、というのもありますよ」と山口氏。
 川崎市のホームレス支援は94年にさかのぼる。92年に警察官が駅構内に寝泊まりをするホームレスに熱湯を掛けるという事件が起き、それに抗議した人などを中心にホームレス自立支援団体「川崎水曜パトロールの会」が発足した。また、94年に起こった「公園追い出し」事件をきっかけに、行政は野宿者有志と水曜パトロールの会からの163項目に及ぶ要求を受け、その結果、パン券と呼ばれる金券を配布する制度、年末年始の宿所の提供、健康診断などが実施されるようになった。しかし、それらはあくまで「人道的」見地に基づいて「緊急」的に行われる施策として長年位置づけられていた。
 2002年、国のホームレス自立支援法の制定を受けて、各自治体はようやく本格的な施策に取り組むよう動き出す。川崎市ホームレス自立支援実施計画案は、「緊急援護から生活づくり支援へ」と題され、ただ失業しているだけでなく、1居所を失い、2職を失い、3健康を害しつつ、4人間関係、社会関係を失いつつ、5意欲も減退し、6身だしなみにも無頓着となり、7人間としての尊厳維持が難しくなっているという特徴がある、という段階を想定し、初期支援(=生活づくり)を重視するとしている。愛生寮を第一弾として、滞在型の就労支援センターや大師公園や富士見公園など公園に滞在しているホームレスを対象に公園ホームレス対策型シェルターなどの設置を検討している。
 
 また、愛生寮では利用者が協力して、運営に参加する「パートナー制度」を設けている。例えば、仕事のやり方などはパートナーが会議を開いて決めていくという方針をとっている。会議はボランティアが自立支援協力員としてサポートに当たる。そのボランティア団体、水曜パトロールの会の水嶋陽氏は会報「頭痛のたね」(2004年8月15日発行)にパートナー制度の意義について言及している。「お互いを配慮し、自分たちで悩み、決定し、担っていくことだ。結果ではなく途中経過そのものが目的といえる。例えば、ごみを拾う速度を競うことには意味がない。全く逆で、自分とは意見の違う人や、作業スピードの違う人とも一緒にできなければならない(中略)福祉事務所や病院に行くかどうか自分で悩むことに意味がある。パトロールでも愛生寮でも、野宿者への命令はもちろんのこと、結論の先取りも本人のためでなく『運動屋』の自己満足でしかない。緊急事態以外は、たとえ遅くなっても、本人が決定するまでのプロセス、費やした時間が貴重な経験だ。それは自分の何が問題なのか見つめることだ。その先に『自分と向き合うこと』さらに『問題との対峙や解決に向けて顔を上げること』がある」。
 また、施設の方針を決定する運営協議会には、市職員、施設の職員の他に、地域住民、それに利用者自身もが参加する予定だという。こうした運営の仕方は全国でも珍しい。
 宿泊棟の2段のパイプベッドの間を縫って歩いた。「ヨーロッパのユースホステルみたいですね」。山口氏が言う。空間的余裕はあまりないが、清潔な印象だ。夜は蒸し暑いのか、エアコンが設置されていた。もともとは工場だった建物で、広い空間にただベッドを置いたというような案配。ベッドはギッシリと詰まって配置されていて、プライバシーを確保するのは難しいだろう。窓は少なめかもしれない。夕方なので西日が入ってもよさそうだったが、思いの外、暗い印象を受けた。
 愛生寮の敷地を覆う灰色のコンクリートの壁にはこんなチラシが貼ってある。「愛生寮開所に伴うホットライン設置のお知らせ 地域の皆様よりの、要望・苦情を受けるために下記のホットラインを設けますので御利用ください」。川崎市の担当課と愛生寮の電話番号が記されている。この施設が設置されている堤根と隣接する下並木・日進町の住民が反発運動を展開した際の交渉でホットラインの設置が決まったという。
 さっきまでちょっと歩くだけで汗ばむようだった日差しがちょっと和らいできた。山口氏は、移動手段に使っている自転車を起こした。「指定道路」を歩いて、自転車を引く山口氏と一緒に駅に戻る。「僕が言うのも変ですけど、良くないと思うんですよ」、山口氏が言う。「指定道路」とは、利用者が施設に入る際、通らねばならない道のことだ。そして、利用者はチェックイン、チェックアウトをそれぞれ一時間の間に行わなくてはならないので、通行の時間帯も限定されている。もちろん、「ホームレス」でない人にとっては単なる公道だ。いつ通るのも勝手だ。しかし、「ホームレス」だけが他の道を通ってはいけないというのは何故なのか。
 徒歩にして、10分ばかり。駅前まで山口氏と歩いた。そろそろ、ネオンが付き始める。街は相変わらずの人混みで溢れていた。

迷い
 自転車をこぐ山口氏の後ろ姿を見送る。取材の中で、彼が見せてくれた「迷い」を思いだす。彼は正確に言えばホームレス問題のプロフェッショナルではない。市役所の職員は主にゼネラリストであることが求められる。彼も半年前までは別の仕事をしていた。「本当は僕なんかよりふさわしい人がいるんですよ」と彼は自嘲していた。そして、無力感も感じている。「10年後ですか?僕もホームレス問題が解決しているとは思いません」。その一方で、愛生寮の利用者について、とても生き生きとした表情で話しをする。彼らのことを思いながら、懸命に仕事をしていることもうかがえる。それでも、やはりその仕事、そのやり方が果たして正しいのだろうかと迷っている。
 迷う言葉を聞いたのは久しぶりだった。そして、自分の中にある迷いを率直に語ろうとする態度に好感を持つ。潜在的な強制力、「威信」をその身にまとった人にはできないことだろうと思う。「迷いなく」行動し、発言することは、たしかに信頼感を醸し出す。しかし、重大な瑕疵もある。失敗を受け入れられなくなる可能性がある。失敗は信頼感や「威信」を低下させ、求心力の低下を招くから、目的が成就しにくくなる。だから、常に正しく「見え」なくてはならない。
 恐らく、そうでなくても人間は自分が起こした失敗をなかなか直視できないという習性を持っている。だから、失敗に気が付いてもそれから目をそらしがち。それなら、常に失敗しているかもしれないという「恐れ」がそれぞれの胸の内に担保されているべきだ。
 それは「責任」という概念に深く関係している。責任とは、「個人の自由意志によって行われた行為の結果に対して当人が負う意識」のこと(参考:小学館『日本百科全書』など)。つまり、「責任」は行為の結果に対して配慮することを要求している。目的を遂行する中で、引き起こった「結果」を真摯に捉える眼差しを持つためには、過ちを想定するための「恐れ」が必要だろう。
 もう少し言うと、個人、集団にかかわらず、すべての決定は暫定的であるという認識が必要なのかもしれない。間違っているかもしれないという意識を頭の片隅に起きながら、行動したい。しかし、自組織の正当性を訴えざるを得ないパワー・ゲームの中からは、自省的な発想は出にくいのではないだろうか。

不安
 自省的思考を妨げるのは何か。2004年9月3日、愛生寮の第7回施設運営協議会を傍聴した。
 冒頭、大坪剛志川崎警察署生活安全第一課長が「地域防犯について」というテーマで講話を行った。その中で堤根の犯罪件数は7件、下並木は28件、日進町は173件と指摘して、昨年と比べて日進町は半減し、下並木は微増したことを付け加えた。声をかけあうことなどが防犯効果があるそう。また、川崎でもオレオレ詐欺が増えてきており、家族構成を事前に調べて電話するなど手が込んできたことや空き巣の防犯法などホームレスとは直接関係のない話題に終始した。
 住民委員は少し気色ばんだようで、声色を高くし質問を始めた。「子供が声を掛けられるということが多い。駆けつけた時にはもういない。パトロールは増えたが、車で2、3周するだけ。酩酊している人がいても放っていく。抑止力のあるパトロール、実のあるパトロールをして頂きたい」。この発言から読みとれることは、住民は迷惑行為を治安問題と結びつけて捉えているということだ。大坪課長は答える。「事件にならないと。酔っぱらい同士の喧嘩は多いが数は上がってきていない」。住民委員は高い声で食い下がった。「ホットラインにも限界があるので(恐らく警察署と)リンクさせて欲しい。ただ通り過ぎるのではなく降りて注意するパトロールも一緒にやって頂きたい。声を掛けたり実のあるパトロールをして頂きたい。2、3人で寝てると声を掛けにくい」。時折、外からは踏切と列車の音が聞こえてくる。それをかき消すほどの大きな声。狭い室内に緊張した声が響き渡る。大坪課長の答えは「警察としてもどこかへ行けとは言えない」ということ、それから、メールによる双方向の防犯システムを考えていることを述べた。
 次に、住民はスーパー防犯灯について言及。通常の防犯灯の照明機能に加えて、テレビ電話によって警察と直接会話ができ、監視カメラを付けたもので、住民からの要求により設置の検討がされていた。「我々が一番望んでいるのは抑止なんです。(スーパー防犯灯が)あることによって、(犯罪)が起きにくくなる。住民側として行政にお願いしている」。一種、異様ささえ感じられる絶叫調の声色。答える大坪課長の声も微妙に震える。「予算が問題。カメラはプライバシーの問題がある。全部クリアになって、モニターの設置場所、メンテナンスの問題、警察者は人的にないので、お断りしている。値段も高い。警察は賛成は賛成だが、人的には無理、付ければ終わりじゃない」。住民委員は興奮してまくしたて、「不安」を訴えたが、警察は型どおりに答えを返して去っていった。住民委員は落胆したのか、それとも怒りをたぎらしたのか。
 ただ、一方でここで声を荒げることができるのはもしかしたら、ものすごく気持ちの良いことなのではないだろうかとも感じる。その日の議題は、他に市職員と施設職員が行っている巡回活動を停止しようとしていることについて、昼間にシャワー、洗濯のみの利用者を受け付ける「リフレッシュデイ」の登録者の範囲を広げることについてなど。住民委員は余りいい顔をしない。委員は市役所の担当者を論破すると、何をこの人は言ってるんだと言わんばかりに、満足気な笑いを浮かべた。ようやく発言力を獲得したことに対する満足の表れなのかもしれない。
 協議会終了後、委員にインタビューを試みようとした。「すいません、ちょっと、よろしいですか」。しばらく無言が続く。委員は背を向けたままつぶやいた「よろしくありません。もう充分話しましたから。この前、新聞に名前が載っちまって。全く刺し殺されちまうよ」。何か薄暗い悲哀のようなものを感じさせた。
 住民の会が自省的かどうか規定することはできない。しかし、私は、彼らの「不安」が自省的思考を阻害している予感を強く持った。
 

不安の所在はどこに
 彼らの中で、ホームレスは迷惑ばかりでなく、犯罪を起こすかもしれない者として位置づけられている。
 数日後、私は警察に取材を申し入れた。ホームレスを治安問題としてどう見ているのか、と。電話口で警察官はいらただしげに言った。「君ね、ホームレスだから犯罪を犯すって、それ差別じゃない」。全く、その通りだろう。返す言葉もない。
 未だ導入が危険視されてもいる監視カメラの是非はここでは問わない。ただ、「抑止」という言葉を不思議に思うだけだ。
 例えば、こんな人に出会った。堤根地域から少し離れたある公園。60過ぎの白髪のおじいさん、髪の毛が変な抜け方をしていたり、少し動作がぎこちない部分があった。話し方もゆっくりしている。その人は年金生活者、18で高校を卒業して以来定年まで働いた後に退職。この辺りにいるホームレスのことを聞いてみた。「あんまり、いないんじゃないか。少しはいるけど」。簡易宿泊街の人達は?「ああ、たくさんいるよ。偉そうな顔してるからすぐ分かる。でも、今は朝早いからあんまりいないよ。競輪に行くだろうから」。おじいさんはたばこをゆっくり吸った。「いやあ、最近のことは分かんねえよ、入院してたから」。どこか悪いんですか?「脳挫傷。頭殴られてね」。喧嘩したんですか?「いやあ、そうじゃねえ、駅前の飲み屋で飲んで酔っぱらって帰る所、殴られた。多分物盗りだ」。おじいさんは悪態をつく。「酔ってたから顔も覚えてねえ。多分、横浜の方からでも来たんだろう」。
 「住民」が抱く不安は、「愛生寮」によってのみ引き起こされているのだろうか。最近、治安情勢の悪化が叫ばれている。しかし、どうして、それが「不安」に繋がるのかと言えば、いつ、どこで、だれに、何を、されるか分からないからだろう。「危険」なのか、「安全」なのか定まらないからこそ、「不安」になる。
 「不安」問題として考えるとホームレス問題は断然、タチの良い問題だ。不安を引き起こす相手が特定できるからだ。だったら、解決策は一つだ。その相手が「危険」なのかを吟味することだろう。
 人は無意識のうちにそれをしている。例えば、住民委員が愛生寮の人々を危険視しているわけではない。第8回施設運営協議会で住民委員はこんな発言をした。「愛生寮の人は(迷惑行為等)しないでしょ。ぶっちゃけて、簡宿(簡易宿泊所街)の人なんですよ」という認識もある。委員は強く反発の意思を持っていた人達だが、そういう変化はある。協議会等、ホームレス問題に関わり続けてきたからだろうか。だとすれば、ある種の偏見はそうした方法で解決していけるのかもしれない。また、一方、住民は、今まで行われ続けてきたという「迷惑行為」に対して、声掛けをするなどで注意をし、住民が自分達自身で問題を解決してきたことを示唆している。


解決の間接化
 少なくとも、これからは愛生寮の設置と共に、自分で問題を調整しなくて済む「装置」は用意された。電話だ。その電話は役所と愛生寮に繋がる、ホットライン。自分が嫌だと思った行為を目にし、電話を掛ければ施設職員や市役所員が対処してくれる。
 しかし、愛生寮利用者は基本的に、自立の意志があり、また、宿泊を続けるためにも問題を起こすわけにはいかない。「迷惑行為」はあるのか。愛生寮を取り囲む灰色の壁にはこう張り紙がしてあったことを思い出す。「愛生寮開所に伴うホットライン設置のお知らせ 地域の皆様よりの、要望・苦情を受けるために下記のホットラインを設けますので御利用ください」。
 施設と住民との間のコミュニケーションは必要だろうが、「要望・苦情」のために設けられたホットラインは本来の役目を果たしているだろうか。現在までの所、通報があるとしても、愛生寮利用者以外の者による「迷惑行為」が圧倒的多数だろうし、お酒を飲んでいると言った「主観的」には迷惑と感じても、それが禁止されるべきなのか判断しきれない種のものもあるだろう。ホットラインは、主観的に感じた違和感をその吟味もなく他者に委ね、かつその解決まで他者に任せることができる。
 電話を掛けるだけで、手を汚さずとも、問題解決。便利な道具ではある。


不安の延命
 しかし、直接自分で手を下す必要ないということが、逆に「不安」を高める場合もある。理解が深まらないからだ。人は異質なもの、知らないものに不安を覚える。なら、異質なるものを理解しなくてはならない。他者をカテゴリーで分けるのでなく、一個人として認識していこうとする態度をとりたい。
 個人で対応するなら、否応もなく相手の態度、印象を計りながら、個人として相手を認識せざるを得ない。しかし、他者に解決を求めれば、自分の理解は浅いままで、理解の不足は不安を延命させる。結果、安心は遠のいていく。他者への依存が、不安を助長させている。
 そして、住民が解決のために努力を重ねてきたということなら、問題の「解決」のみを志向する「理解」だけでは、不安の解消には不十分だということになるだろう。その先にある「理解」が必要とされるのかもしれない。

住民とホームレスの幸せ、利害調整
 ホームレス問題は、果たして単なる迷惑問題で済む問題なのだろうかといえば、答えはNOだ。「迷惑だから出て行け」という論法はゴミ処理施設には当てはまるかもしれないが、「ホームレス」には当てはまらない。まず、「迷惑」は排除する理由になるのか検討されなくてはいけない。そして、ホームレス全員が迷惑を行う意図をもっているわけではない。
 当然だが、ホームレス=迷惑だなんて図式が完全に当てはまるはずがない。それぞれ、違った意志や考えを持つ個人なのだから、迷惑的な行為をする人もいれば、そうでない人もいる。日本人の中に凶悪犯罪者がいるからと言って、日本人全員が凶悪犯扱いされることの不当さを思えば、ホームレス=迷惑の愚かさが直ぐに分かるはずだ。また、ホームレス=迷惑という論法が、放火と見られる火事や、続いているホームレスに対する襲撃事件などに影響している部分も、当然考慮に入れなくてはならないはずだろう。
 もちろん、それぞれがそれぞれに生活の幸せを追求しようとするのは当然だ。しかし、お互いの幸せにはそれぞれ価値がある。「住民」の幸せ、ホームレスの幸せ、どちらが重要かという問いは不可能だし馬鹿げているし、それを読み違える時、間違いを起こしがちだ。やはり、いかにお互いの利益を調整できるかが鍵だ。
 
話せない
 しかし、こう書きながらそれは理想論に過ぎないという気もしている。理解することの難しさよ。例えば、愛生寮の利用者達もその困難に苦しんでいるだろう。利用者にも運営協議会への参加資格があることは指摘したが、実は利用者代表は9月まで会議に1回も出席していない。傍聴するものが数名いるだけに留まっている。実は、代表者が決められないようなのだ。利用者も同じホームレスだからといって千差万別だ。考え方も、経歴も、出身地も、年齢も何もかも違う。また、施設を利用する頻度も違えば、施設に対する思い入れも違う。簡単に代表となるような人物は選べない。
 また、利用者達は、果たして議論に参加できるかと、不安を抱いてもいるようなのだ。発言するということはとても勇気のいることだろう。うまく話せるか分からない、そして、自分の言いたいことが伝わったとしてもそれが認められるか分からない。冷笑されるかもしれないし、嘲笑されるかもしれない。極めて不安だろう。そうだとすれば、彼らは自らの「威信」の欠乏を自覚してしまっているのか。
 もちろん、個々人の声や話し方は個性であり、優劣はないはずだが、前述の社会学者、宮島喬氏はこう述べている。「測定可能なものへの置換の要求、これはまさに近代社会の衝動であるともいえるが、このなかで、人々の好み、ものの見方、感じ方、生き方、そして現実のライフスタイルも『能力』という連続的な量的要素におきかえられてきたのではなかろうか」(p24『文化と不平等』有斐閣)。私達は、どうしても人の個性に優劣をつけようとしてしまう。そして、劣っていると自覚した時、本人はそれにとても敏感になってしまうだろう。その優劣は影響力の差を生み、その影響力は行政の「保障」を呼び出すことができた。
 案外、住民も施設の利用者もお互いに似た悩みを抱いているのかもしれない。愛生寮の施設運営協議会で発言する住民委員は、どこか嬉しそうに話しをしているようにも見えた。つまり、その喜びの顔は、今まで彼らの発言が受け入れられてこなかったという経緯を思わせる。
 ならば、反対に相手の影響力「威信」に関係なく、言葉を聞こうとする態度が必要なってくる。

聞けない
 しかし、発言ができるもの同士でも会話が成立しないこともある。例えば、地域住民の会の西井氏はNPO法人水曜パトロールの会に対して、こう言ったという。「彼らのやり方はやり方で良いと思うんだけど、我々の所に来て話しろって言ったことあるの。俺らは反対してるわけじゃねえんだぞって。話聞けよと。行政のやってることがおかしいんだ。お前達からもそれを言え。会長に直談判した。ホームレスのためになるような施設を作りましょうって。そうじゃないと納得できないだろって。そこんところは理解してくれって」。
 西井氏個人は水曜パトロール会との協力を望んでいたということだろうが、お互いの関係の中に協力するための土壌があったかどうかは疑問が残る。と言うのも、地域住民で水曜パトロールの会のメンバーが施設建設の際の住民説明会に出席していたのだが、施設の設置に理解を求める発言をしたところ、かき消されるような怒号に見舞われたという証言もあった。
 もちろん、愛生寮の運営に両者、参画しているわけだから、お互いに誤解を解こうと努力しているのだとは思う。
 しかし、お互い反目している同士の声は耳に入らない場合もあるということだ。話すこと以上に聞くことは難しい。ここで求められるのは、自省的な思考だ。もしかしたら、自分に非があるかもしれないと、相手の言葉に耳を傾ける態度。特に影響力の強い者であればあるほど、それに気をつけなくてはならないはずだ。

固定化された社会観
 当たり前だが、理解できないものは、理解しようとしても、なかなか理解できない。
 取材の中で、立ち小便するのを見かけることはよくあった。やはり、はじめて見た時はかなりショックだった。夜間にするのなら分かる。物陰でするのも分かる。でも、白昼堂々、周囲の目を気にすることなく用を足している人がいることには驚いた。しかし、これは疑問をかきたてられるではないか。そうだ、「どうして、ここでおしっこしてらっしゃるのですか」と聞いてみようと思った。
 ある日、簡易宿泊所街の近くを歩いていたら、自分のズボンと下着を降ろして道ばたで佇んでいる人を見かけた。ただ、佇んでいるだけなんて立ち小便よりも衝撃的ではないか。そうだ、この人に聞いてみよう。「何故、ここでズボンを降ろされたのですか」と質問しよう。ズボンを上げるタイミングを見計らって、その人の方向へと歩を進める。
 しかし、何故か、足が勝手にその人を避けて動くではないか。どうしても近づけないのだ。そして、今見た光景を忘れようとしている自分に気がついた。まるで頭が真っ白に漂白されていくかのようだった。嫌悪感や羞恥心も特になかった。「見なかったようにしよう」と頭の中で誰かがささやいたような気がした。ただ、その人の風体、姿、形は頭から自然に消えていった。結局、質問できないまま。三回目の挑戦はまだできていない。
 下半身を晒して道ばたで佇んでいる風景など見たことがなかった。自分の受け入れられない現実は、頭が反応しきれないのだろうか。解釈することすら出来ず、ただ消去しようとする。

 「既知」はたしかに心地良い、そして、安心を与えてくれる。有り得ない、知らない、考えたこともない。そういった「未知」は認識しにくい。
 しかし、個人の事情などお構いなしに、この先「未知」は増え続けるだろう。その変化の中で今まで、向き合う必要が無かったような人となんとかうまくやっていくしかないような機会も増えていくだろう。

 ホームレスと私達の間にある断絶の原因は一つに、権力との間に結ばれる「保障」と「支配」の関係が上げられた。また、私達の「保障」を求める欲求とそれを成就させるために必要な「威信」の維持は、他者と向き合う際に必要な自省的思考を妨げていた。確かに、今、川崎では新しい試みが始まっている。しかし、それぞれが抱く不安や価値観の齟齬が断絶を延命させる可能性もある。
 川崎の経験は、川崎に留まらず、今の日本社会に通底する問題だろうと私は思う。


 終わりに代えて

 パトロールを終えると、夜半を過ぎていた。駅のホームの明かりも落ちた頃だろう。男は終電を逃した私に、車で送ると、言ってくれた。
 何故、ホームレスを支援する活動をしているのか。さっき聞いた時、男は照れ隠しをするように「なんでだろうなあ」と、とぼけてみせていた。
 流れていくヘッドライトとテールライト。国道を照らすややオレンジがかった照明。その中を走り抜けていく男と私が乗る軽自動車。おあつらえ向きと言えばいいのか、車内ステレオからは中島みゆきの「時代」が流れていた。男の好みなのだろう。「今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ」中島みゆきはそう歌う。普段はベタベタした中島みゆきの声はあまり好きではない。しかし、そんな歌も素敵に響くときがある。その時がそうだった。
 男も一人の旅人の話をしてくれた。
「広島で被爆したおじいちゃんが流れ着いて川崎に住んでいたことがあるんだけど、そのおじいちゃんは、台車に捕まりながら歩いて10分間に1メートル位しか歩けない人だった。一メートルだぞ。ほとんど歩けないんだ。それにその人ほとんど耳が聞こえなかったんだ。
 で、面白いんだけど、当時、言語障害の元左官屋さんの野宿者がいて、僕らも彼とは全然話ができなかったんだけど、そのおじいちゃんだけはその左官屋さんの話が分かるんだ。それは多分、体全体で感じとっているということなんだと思う。僕らは声だけで聞いてたから分かんないんだと思うのね」。男は笑って言う。「本能。いや、俺はもともと、もっとロジカルな人間で、本当はそういうの嫌いだったのにさ」。男はハンドルを握り、じっと前を見ている。ずっと、遠くを見ているようだった。
 恐らく、闇の中を這い回るような活動を男が続ける理由がこの話の中にある。そう私は直感していた。「野宿者問題って何だろう。よく、不況がどうとか言うけど、それは一部だ。それよりも、生きるための条件ってなんだろうってことに、この問題はつきると思う。
 そのおじいちゃんの周りのホームレスがそのおじいちゃんの世話をしてやろうってことになった。俺は、着替えを手伝う、俺はラーメン煮てやる、俺は身体をふく。俺は台車を押す。役割分担勝手に決めて。で、そしたら、なんかそいつら仲良くなんのな。今までいがみあってばかりいたのにさ。
 で、おじいちゃんはもう死にそうだから、入院を手配してたんだけど、おじいちゃんはなかなか行こうとしなかった。最後、救急車呼んで、連れていこうとしたんだけど、ホームレス達が救急車の周りを取り囲んだ。『行かないでくれ』って。結局、おじいちゃんは病院で死んだんだけど、看護婦さんは『ベッドで管をグルグル巻かれて動けないよりみんなのそばが良かったのでしょう』って言ってたな」。男は私に問いかける。「で、その後、どうなったと思う?」私は、さあ、と首をひねりながら、お墓でも作ったんですか、と味気ない答えを返す。
 「また、喧嘩ばっかりになったんだ。おじいちゃんの遺骨を見たんだけど、腰から下はボロボロだった。あれじゃ、歩けるはずないよな。彼らはおじいちゃんを助けてたんだけど、多分、反対なんじゃないかなって気もする。誰かに必要とされているとか、誰か必要な人間がいるってことが、やっぱり(生きるための)条件になるんじゃないか」。
 私は話を聞きながら返す言葉が見つからなかった。生と死をめぐる人間の姿が剥き出しになって立ち現れるその現場で、男はそれらを見届けてきた。多分、その活動は男にとっての支えであり、それなくして彼は生きられないのだろうと思う。
 10年以上、ホームレス支援活動を続けている男にしてみれば、メディアなどで話題に上る「ホームレス問題」のとらえ方は片面的にしか思えない。「もっと真っ正面から問題を切り取った」記事が読みたいと男はつぶやいた。

 恐らく、本稿を読んで「どうして、ホームレス問題を扱いながら、ホームレスが出てこないのか」と訝しく思う人もいるだろう。彼らの痛みに目を向けることなく、どうして文を連ねることかできるのかと。もちろん、逆の立場からの反論もあるだろう。「ホームレス達のせいで苦労を重ねてきた行政、商業者、地域住民達を軽んじ過ぎてはいないか」。彼らが抱く不安に鈍感でいて、どうしてこの問題に口を出せるのかと。
 双方の痛みを理解すべく、筆者なりには気を使ったつもりではいる。しかし、違和感を抱く人がいないとは言い切れない。
 ホームレス達の生と死。行政、商業者、地域住民の苦悩や不安を真っ正面から捉えるような作品。繰り返しになるが、本稿は真っ正面からそれを捉えるものではない。それぞれの立場から無理に距離をとり、「冷たい」書き方をしていると思う人もいるだろう。しかし、それでも、なお関係者に話を聞きに行き、こうして文章に仕上げたのは本稿で扱った川崎の一時宿泊所を巡る紛争は川崎だけに留まる問題ではないからだ。それはホームレス関係の問題のみに矮小化されるべきでもない。「外部」にいる、「関係のない」人ともなんとかうまくやっていかざるを得ない状況は今後、社会の至る所で起きるだろうと思う。そうであるなら、「外部」の実態を表すよりも、「内部」に目を向け、「向き合うこと」を阻害する要因を考えた方が建設的だと考えた。「外部」と言っても、「内部」と関係がないわけではない。本当は関係があるけれど、意識の上で「外部」と思えてしまう問題だ。どうして、私達はその関係があるはずの「外部」へと目を向けられないのか。この問題は今もっとも考えられるべき重要な問題の一つだと筆者は思う。

 最後に、長い時間をかけて取材にご協力頂いた方々に感謝の言葉を述べたい。そして、幾度となく足を踏み入れた川崎市の皆様に感謝を述べたい。どうも、ありがとうございました。

投稿者 宮田 : 2004年12月01日 00:15

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.journalistcourse.net/blog/mt-tb.cgi/303

このリストは、次のエントリーを参照しています: 『見ないを見る--川崎市ホームレス緊急一時宿泊施設建設を巡る声と力--』②宮田清彦:

» 遅れる施策、効果鈍く from Caseworker"s"
 千人くらいなんだ……いいなぁ……とか思ってしまうあたり問題やなぁ。  神奈川県川崎市のホームレス対策事情。  ホームレスの自立には生活保護も含んだ取り組み... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2005年10月25日 02:13

コメント

正直、川崎市に越してきてからホームレスへの支援等の考えは減少ぎみ。
支援用の住まいに移ると、住所が定まる。
住所が定まると生活保護を受ける。
生活保護を受けているホームレスが酒屋の周りで明るい時間から毎日たむろう。なかなか職につけないのも現状だが、本当に働く気があるのかと思う。
高い税金払って苦しい生活しているというのに、毎日商店街を通るたびにそれを見ると嫌になる。

投稿者 コメントさせていただきます : 2006年04月25日 14:59

Try to look here and may be you find what do you want:,

投稿者 Kramsat : 2008年06月12日 09:18

Most Interested facts about that you can read here:,

投稿者 Nusaklo : 2008年06月15日 08:55

コメントしてください




保存しますか?