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2005年02月28日

『昭和花街残影』神山幸恵

 昭和64年1月7日、昭和天皇崩御。静かな正月のあとの音のない朝に、昭和天皇崩御を知った。戦争と復興、激動の昭和という時代が終わった。
 あの時、祖父母はどうしていたろうか。おごそかに進められた大喪の礼も何もかも、私の日常とは遠い気がした。まだ昭和が終わった実感はなくて、しばらくは大事な書類に年号を書き間違えたりしていた。
 あれから、すでに十分な時が過ぎ私の中の昭和は振り返るべきときにある。祖父母が死に、戦争を語れる大人たちも減った。
 私は、昭和の片隅に咲いた花を探して生まれ育った横浜を歩いた。花街の残り香を求めて、ある日、地図を片手に街を歩いた。

ハマの日本橋

 「日本橋」。地図にない橋の名を冠した花街が、私の生まれた街にはあった。戦後生まれの私はその賑わいを知らない。
 「にほんばし」と呼べば東京。「にっぽんばし」と読めば大阪よみ。横浜のそれは、東京を習ってか「にほんばし」と発する。
 明治37年、民間会社による横浜電気鉄道が市内に路面電車を開業すると間もなく、日本橋には電停が設けられた。明治44年12月のことである。羽衣町線と呼ばれるこの電車は、馬車道から駿河橋の区間を走っていた。
 当時の馬車道は横浜開港以降、もっとも洋風化の進んだ街だった。ガス灯、アイスクリーム、牛なべ。発祥はすべてこの街だ。洋装に身を包んだ男女が文明開化の風を受け、次々と新しい生活スタイルを獲得していった。「はいから」なる言葉も馬車道から生まれた。
 明治、馬車道は流行の発信源であった。
 駿河橋は横浜の2級河川、大岡川と中村川を結ぶ富士見川にかけられていた。今は埋め立てによって富士見川は失われ、駿河橋もない。当時の川幅のままに広がる鎌倉街道、駿河橋交差点はかつての駿河橋跡地だ。
 日本橋の電停は、駿河橋の手前にあった。日本橋は吉田川にかけられていて、吉田川は大岡川と富士見川に流れ出ている。駿河橋同様に日本橋もまた、今はその姿を消している。
 大正5年頃、発行されたパンフレットがある。横浜電気鉄道が発行した「横濱市内電車案内」には、「横浜の名勝」と共に「横浜電車案内」として地図と30の停留所が記されている。
 「1 神奈川駅前」から「30 不動橋」の間に、「23 日本橋」の文字を確認することができる。
 パンフレットによれば、乗車運賃は普通券片道5銭、往復9銭とある。往復の乗車券を割引する工夫が、こんなに早くなされていたのは興味深い。ちなみに開通当時の乗車賃は普通券片道3銭であったが、明治37年2月の日露戦争の影響を受けて、その後4銭に値上がっている。
 パンフレット「横濱市内電車案内」には、英語の料金表も併記されていて当時の様子が窺える。明治32年の居留地撤廃後も横浜には多くの外国人が暮らしていた。
 戦前に横浜と呼べば、伊勢佐木町か関内のことだ。伊勢佐木町から目と鼻の先「ハマの日本橋」の賑わいは、この頃ではなかったか。
 花街「ハマの日本橋」は、現在の横浜市営地下鉄、阪東橋駅と吉野町駅の間に位置する。鎌倉街道を関内から上大岡に向かって下ると程なく、駿河橋交差点に行き着く。次の交差点が吉野町2丁目。市営地下鉄・吉野町駅はその先、3丁目交差点にある。
 「ハマの日本橋」は吉野町2丁目と新川町2丁目付近にあって、厳密には吉田川に架かる日本橋とは位置が異なる。かつての橋は駿河橋の手前にあって、「ハマの日本橋」は駿河橋の先だ。
 「ハマの日本橋」には、吉野町2丁目の交差点沿いに「日本橋」と記されたアーチがあって花街を訪れる人を静かに迎えていた。
 昭和32年の地図には、「芸妓置屋」の文字と並んで置屋の屋号が記されている。江戸屋、花菱、立花屋、桐の家、幸村、小川屋、林家、藤枝、桔梗屋、婦じ村、小松屋、藤よし。林屋と桔梗屋は、それぞれに分家があって分林屋と桔梗屋・向日葵とある。
 昭和30年ともなれば、他の花街ではカフェー調の屋号が目立つ。だが、ここは昔ながらの芸者町で日本髪に和装の芸者が、お座敷をつとめた。地図では、芸妓置屋の間に花街を支える商売を見ることが出来る。割烹、料亭、酒屋、菓子店、美容室、金融、質店、旅館、ハイヤー・タクシー。中でも料亭の数は、群を抜く。
 古くは置屋、料理屋、待合の建設が許された土地を三業地。置屋と料理屋だけが許された土地を二業地と呼んで区別した。
 通常、芸者は置屋から待合へ出向き、料理屋が待合に「台の物」と呼ぶ、仕出し料理を運んだ。料亭とは待合が廃止されたあとに、待合と料理屋の機能を併せ持つ場として開かれた。
 芸者は芸を持って、身を立てる。だから日々の稽古は欠かせない。花街の見番とは芸者のお稽古場であり、また組合の事務所だ。見番は芸者の取り次ぎや送迎、玉代の精算を行った。かつて「ハマの日本橋」にも見番はあって、稽古に励む三味線や唄の音が聞こえたという。
 地図上、「ハマの日本橋」は細い通りの左右に向き合うようにして芸妓置屋が並んでいる。昭和32年の地図も実際の町名は、吉野町または新川町とあって、そこが「日本橋」と呼ばれる花街であることはわからない。
 ただ、花街の奥に構えるタクシー会社は「港タクシーKK、日本橋営業所」とあって地図上で唯一日本橋の名を見つけることが出来た。
 父や祖父の世代が呼ぶほかは、呼ばれることのなくなった「日本橋」。遠い日、なぜここを「日本橋」と呼ぶのか、その理由もわからぬままに道を聞かれれば教え、ランドセルを背負って幼い日の私は「日本橋」のアーチをくぐった。
 友人のうちの一人は、この花街に母と祖母と暮らしていた。たしか祖母は三味線のお師匠さんだ。周りから「せんせい」と呼ばれていた。友はよく熱をだし、学校を早引けした。虚弱な孫を「せんせい」は和服姿で保健室に迎えに来た。昼間、時おり見かける母もきれいな和服姿だった。友も母も祖母も、あの家はみんな美人だ。細面のくっきりとした目鼻立ちをしていた。いまはどうして暮らしているだろうか。

 ある日、地図を片手に街を歩いた。
 見慣れた街の風景も今日は違った顔をしている。明治から昭和初期にかけて、ここは大人たちが繰り広げる社交の場だった。今は小さなスナックや小料理屋の間に、民家とマンションが目立つ。民家の表札は、よく見ればかつての芸妓置屋の主人と苗字を同じくするものがある。
 いつ取り外されたのか「日本橋」花街のアーチは消えてしまった。アスファルトで舗装された道路に、外されたアーチの跡が一つ。ぞんざいな始末で残っていた。地面にわずかに開いている穴は、おどろくほど小さな窪みで、昨夜降った雨がほんのわずか溜まっていた。引き抜いた際に取り除けなかったアーチの柱部分が残って、穴の内側に折りこまれていた。
 記憶の中のアーチは、大きなものであったけれども、実際のそれは細い柱に支えられた華奢なつくりのものだったろう。こんな小さな穴で、大きな柱を支えようもない。幼い日、交差点の向こうから仰ぎ見るアーチは道幅いっぱいに広がって立派に見えた。
 不思議な橋の名を擁する花街の歴史も、時の流れの中で消えてしまった。ここが花街であったことを、新しくできたマンションの住人は知らない。
 アーチ跡の脇に一軒。昔を懐かしむようにして「旅館 明美」だけが、待合の雰囲気を残して現存していた。

チャブ屋

 横浜、特に本牧を中心に発展した花街のかたちに「チャブ屋」がある。この花街の存在を抜きに、横浜の夜は語れない。「チャブ屋」とは、おもに居留地の外国人や外国船の船乗りを相手にした私娼のことだ。
「チャブ屋」の起こりは、1864年に結ばれた「横浜居留地覚書」に遡る。幕府と諸外国との取り決めを定めた「横浜居留地覚書」には、英仏両国公使の申し入れによって外国人遊歩道の建設が約束されている。
 横浜村から根岸村へ通じる、長さ5マイル、幅20フィートの馬車道は、着工から1年英国隊の指揮のもと完成した。
 明治も二桁になると、外国人遊歩道に「チャブ屋」の原型とされる休憩所ができた。はじめは外国人が喉を潤すための休憩所も、いつしか酒を出し料理を振舞い、着飾った女が給仕にあたった。休憩所は、やがて「チャブ屋」へかたちを変えて明治後期から大正時代にかけて流行を迎えた。
 「チャブ屋」。その語源には諸説ある。英語の軽食屋「CHOP・HOUSE」が訛って「チャブ屋」になったという説が最も有力だ。繁盛期の大正8年には、本牧、小港付近に26軒、大丸太(現在の石川町)に16軒が営業していた。
 居留地に住む外国人は馬車を乗りつけ遊歩道をやってきた。また、外国船員たちは船を降りると人力車に揺られて「チャブ屋」へ通った。
 人力車を操る人力夫。通称リキシャマンたちは、かたことの英語を駆使して客を運んだ。俗に車屋英語と呼ばれる外国客とのコミュニケーションは、まったくのピジン・イングリッシュで耳から入った英語をそのまま覚えて会話した。
 西洋風に設えた館に、華やかなドレスを着た女。いかにも純日本風といった着物に高帯を締めた和装の女。いずれも外国人の好みを巧みに取り入れて、女たちは横浜の夜を演出した。
 かの谷崎潤一郎は、大正9年から3年間横浜に居住している。横浜ではじめの住居となった「本牧宮原883」は、本牧「チャブ屋」の代表的存在。「キヨ・ハウス」の隣に位置する。
 谷崎の「本牧の住居のこと」によればこうある。
 「小田原から引き移って来た私の家、最初に住んだ家は本牧の海岸にあって、他の家よりも一層海につき出てゐる木造二階だての西洋館だった。東向きのヴェランダの直ぐ下にはコンクリートの崖の裾まで青い波が寄せてゐて、港へ出入りする大小の船はいつも目の前を通って行った」
 「――更にその向こうには、私の家と呼応する如く海に突き出たキヨ・ハウスと言うチャブ屋があった。『キヨ・ハウスの名は亜米利加までも響いてゐる。』と、そう云はれるほどの名高いチャブ屋で、東京の人は或は知らない者もあるが、横浜の港へ出入りする外国の船員であったら知らない者は恐らくなかったであろう。私の二階の書斎からは、恰もその家のダンスホールが真向いに見え、夜が更けるまで踊り狂ふ乱舞の人影につれて、夥しい足踏みの音や、きゃっきゃっと云ふ女たちの叫びや、ピアノの響きが毎晩のやうに聞えるのだった」
 谷崎の筆によって、賑やかな女たちの暮らしぶりが伺える。谷崎は引越しの翌年、台風に見舞われキヨ・ハウスも被害を受けた。大正10年、谷崎は「山手267番地A」へと居所を移す。その後、震災ののち神戸へ越すまで時折「チャブ屋」を訪れている。谷崎作『痴人の愛』のナオミは「チャブ屋」の女がモデルだ。
 震災後の「チャブ屋」は外国人客のほか、新しい遊びを求めて日本人客も度々訪れた。翳りをみせる芸妓や女郎の人気に比べ、カフェーの女給や「モガ」、「モク・ガール」と呼ばれた「チャブ屋」の女は特に人気が高かった。
 淡谷のり子が歌った「別れのブルース」は、本牧「チャブ屋」が舞台だ。このあまりに有名なブルースは、昭和12年に生まれた。
 次第に色濃くなる戦争の足音を背後に、「チャブ屋」が最後の輝きを放っていたころだ。やがて戦争がはじまり戦時体制が敷かれると、入港する外国船の数は減り「チャブ屋」は衰退、栄華は夢へと消えていった。
 「チャブ屋」の主な造りは洋館の二階建て、一階がダンスホール、二階が女たちの個室だ。酒を飲み、ダンスを踊って、個室へと消える。嬌声とともに「モガ」たちの夜は更けてゆく。
 遠く海を越えてゆく男を忍んで、女がひとり窓から海をながめる。女は船の数だけ恋の数があり、男には港の数だけ恋の歌があった。たとえ一夜の恋だとしても、別れはつらいものだった。ブルースの女王が歌った恋の歌は、エキゾチックな横浜の側面を見事に歌い上げている。
 はるか海外にまで名を広めた本牧「チャブ屋」。かつては小さな漁村にすぎなかった街が、幕府によって設置された外国人遊歩道を契機に独自の花街を形成した。
 「チャブ屋」については、重富昭夫著『横浜チャブ屋物語』に詳しい。この本は副題に「日本のムーランルージュ」とついている。本牧に赤い風車はないけれど、夜ごと繰り広げられるロマンスは、異国のそれと同じであったかもしれない。

 ある日、地図を片手に街を歩いた。
 谷崎の「本牧宮原883」も「キヨ・ハウス」も空襲で焼け、戦後は米軍のキャンプ地にあって跡形もない。
 肩を落としてかつての外国人遊歩道を歩いた。小港の「チャブ屋」は、現在の山手警察署の裏手あたり。ここも、当時の名残はない。街全体が、高層マンションとバブル期の複合ショッピングセンターを擁する整った町並みに姿を変えてしまった。
 小港から1時間、港の見える丘公園へ出た。開港当時、ここは丘の上にはイギリス軍、下にはフランス軍が駐屯する外国人居留地だった。
 園内のフランス山をしばらく散歩すると、赤い多翼式風車をみつけた。フランス領時公邸に設置されていた風車を復元したものだという。なんと明治の本牧に風車があったのだ。
 聞けば水事情の悪い山手には、明治20年から30年にかけて、複数の風車が揚水用に使われていた。いずれも震災や台風の影響を受けて倒壊してしまったが、平成14年、横浜市緑政局公園部による再整備工事の際に、レンガ造りの風車の基礎が発見され、昨年復元に至った。
 重富氏著作の副題「日本のムーランルージュ」と、偶然みつけた風車が「チャブ屋」のイメージを一層ふくらませてくれた。「チャブ屋」を訪れたフランス山の兵隊たちは、母国のそれを本牧の夜に感じただろうか。
 甘美で退廃的な本牧の「チャブ屋」は、明るい高層マンションに照らされて、はっきりとした場所さえ見つけ出せなかった。

百合子の大門

 少女の目に映る、遊郭の風景はどんな姿をしていただろうか。
 「坂下を流れる川の川下の方向に、お女郎屋さんが何軒かあった。昔はもっとあったという。バス通りに面した一方の出入口に、錆びた乳鋲のついた黒い大きな門が、こわれかかったまま建っている。夕暮れから夜、この前を通ると、昼間よりずっと大きな門に見えた。大門から中は、子供の入るところではない、と聞かされているから、大門に貼ってあるビラを大急ぎで見て通りすぎる」
 武田百合子は、故武田泰淳夫人にして稀有な文章家。著書に田村俊子賞を受賞した『富士日記』や『犬が星見た』『遊覧日記』などがある。
 冒頭、引用した文章は昭和59年に出版した『ことばの食卓』から、「お弁当」と題するエッセイの一部だ。
 『ことばの食卓』は、昭和56年から58年にかけて発表された12編に他の2編を加えた14編で構成されている。このうち、「牛乳」「続牛乳」「キャラメル」「お弁当」「雛祭りの頃」「怖いこと」は、いずれも百合子が幼少期を過ごした横浜の昭和初期の風景を丁寧に描写して読む者を惹きつける。
 百合子は、大正14年9月横浜市神奈川区に生まれた。誕生の翌年、大正は昭和と年号をかえて、百合子は平成5年に亡くなっているから、ちょうど昭和を挟むようにして生きた。
 百合子は、幼い日を横浜で暮らした。戦時中のひと時、山梨県へ疎開するも戦後まもなく横浜へ戻って異母長姉宅へ寄宿。戦後は、長姉の露店の菓子屋、出版社事務員、PX横流しの舶来化粧品売り、チョコレートの行商などをしながら、再び横浜で生活。その後、長兄のもと世田谷で暮らし、泰淳へ嫁ぐが横浜での暮らしぶりは、時折エッセイで紹介されている。
 『ことばの食卓』、「お弁当」では小学校での出来事を書いている。百合子は昭和7年4月、横浜市立栗田谷尋常小学校に入学した。百合子自身の筆によれば「平らな顔に、つり気味の一皮まぶたの黒い眼。緑色の鼻汁。私は子供のとき、こんなだった」(1)とある。昭和初期、日本の子どもたちの多くは百合子と同じだったろう。
 さて、「お弁当」の中で百合子は級友にお弁当を届けに来るお女郎さんを書いている。再び百合子の筆を借りる。
 「四時間目の授業がはじまると、少し開けてある廊下側の引戸窓から、どっとほつれた日本髪の、青黄いろい顔をした女の人が、よく顔を覗けた。先生の話すことが面白くて堪らない様子で、しまいには教室の中へ半身のり出して熱心に聞いている。みんながおかしがるところでは一緒になって、声を出さずに、くったりと笑った。四時間目が体操だと、運動場の隅の砂場で、全身に陽を浴びながら、うっとりとしゃがんでいる。洗い晒して模様のわからなくなった着物を、肩からずり落しそうに巻きつけ、細帯一つだから、ふらふらと寝巻きのまま起き出してきた病人のように見えた。若そうだった。
 あの人はKさんのお弁当を届けにくるナントカおいらん。Kさんちは大門の中のお女郎屋さんだ。と事情通の友達が教えてくれた」
 百合子の町の遊郭は、「横浜青木町遊郭」という。「坂下を流れる川」は滝の川、土地の人は反町川とも呼んだ川下に、その遊郭はあった。現在の東急東横線反町駅から第二京浜国道へ向かう辺りがそれだ。
 春陽堂が昭和4年に発行した「日本遊里史」によれば、横浜市青木町における遊郭の数は20軒、娼妓数は202人と紹介されている。
 昭和5年に発行された、遊郭ガイドブックの草分け的な存在。「全国遊郭案内」にもその名が記されている。
 「横浜青木町遊郭は神奈川県横浜市青木町字反町に在つて、東海道線東神奈川駅から南へ約四丁、市電は只の一丁場だから敢て乗る程の事は無い。
 今は横浜市の中に編入されて居るが、昔は青木町辺一帯から、今東神奈川駅のある辺を神奈川宿と云つた処で、五十三次の一だつた。恰度野毛山のふもとに当つて居て、昔は直ぐ傍らで海の波頭が白く砕けて居た処だつた。今の遊郭は此の国道筋の宿場から移転して来たもので、妓楼は目下二十三軒あつて、娼妓は約百七十人程居る」
 かつて、宿場には飯盛女と呼ばれる女たちがいた。飯盛女は、旅籠の下女として食事の給仕にあたったが、やがて旅人と夜を共にし、遊女となった。
 明治14年「娼妓貸座敷規則」により、神奈川(宿)は「娼妓貸座敷営業ヲ許ス可キ場所」であり、明治15年、神奈川県庶務課編纂の『神奈川県統計表』によれば、芸妓16人、娼妓199人、貸座敷48軒とある。娼妓は遊女・公娼を指し、貸座敷とは、遊廓をいう。
 「青木町遊郭」は、飯盛女がのちに遊女となって古くから栄えた遊郭なのであった。
 長く、反町に住む鳶職の岡部由蔵さんと松本町に住む戸塚正二さんによって、戦前の「反町遊郭と大門通り」を復元したイラストマップがある。(2)
 地図の中、東急東横線・反町駅前に広がる、大門通り商店街は人々の暮らしぶりを伺える。出征軍人旗屋、酒店、寿司屋、うなぎ屋、床屋、交番、人力車、タバコ屋、小間物屋、質店、医院、カフェ、布団屋、呉服店。
 日々のおつかい、魚屋、八百屋、くだもの屋、豆腐屋といった店も商いをしている。
 百合子の描いた大門は商店街の真ん中あたり、床屋「倉床」とうなぎ屋「菊屋」の間にある。この大門をくぐれば、そこが遊郭で岡部さんと戸塚さんの記憶に寄れば、大門の通りに14軒、道をたがえて滝の川沿い裏門の通りに7軒、計21軒が軒を連ねていた。
 百合子は幼くして母を亡くした。身の回りの世話は、母方の大叔母があたっていた。おばあさんと呼んでいる大叔母に、百合子が弁当を届けるお女郎さんの話をすると「ああ、よっぽど大人しい人なんだねえ、きっと。お女郎さんは、ふつう滅多に一人で外へは出られないもんだよ。逃げられないように、帯も締めさせないんだ」とおばあさんが言う。
 借金を抱える「お女郎さん」に、自由はない。女の多くは、生まれた街を離れ借金を抱えて売られていった。斡旋人と呼ばれる人々は、妓楼主人の意向を聞いて条件に見合った娼妓を仲介した。お弁当を届ける「ナントカおいらん」もきっと売られてきたのだろう。
 昭和13年、百合子は神奈川県立横浜第二高等女学校へ進む。
 「私は市電に乗って遠い女学校へ通うようになった。遅刻した日、停留所で、男の人に連れられて、どこかへ出かけて行くお女郎さんたちに会うことがあった。電車通りを真直ぐに吹き抜ける風に、赤茶けた日本髪を、ほつれ放題にさらして、七、八人一かたまりになって電車を待っている。立ったり、しゃがんだりしているお女郎さんたちのお尻が、細帯一つのせいか、ぽたぽたと大きく、垂れ下って見える。ケンバイ、ケンバイ、とそばにいた職人風の男が、私を触るような、ちらちらした眼つきで言った。検診の検に、黴菌の黴だ、とすぐわかった。どんなことをされるのかも、何だか、もうわかったような気がした」
 百合子十三歳、少女の目をもって見つめた遊郭の風景。定められた検査は、梅毒の検査だ。
 大門の外で暮らす百合子と大門の中で暮らす女たち。大門ひとつ隔てたそこには、やはり決定的な違いがある。
 あの日、お女郎さんは検印をもらえたろうか。娼妓の検黴を実施した病院規則「外来娼妓心得」(3)には次のようにある。
 第21条 検査日割に當る者は、當朝必ず第八時迄に出頭すべし。
 第23条 其身検査を受る迄は、出順に臨み差支なき様注意すべし。(略)但、検査終りて黴毒なきときは定規の證書検印を受け、直に退院すべし。
 第25条 検査当日に出頭する者は、必ず検査證および営業鑑札を持参すべし。
 第27条 新たに娼妓の許可を得たる者は、該免許鑑札を所持し、所管病院に於て黴毒検査を受くべし。
 娼妓は原則、満18歳から許される。該免許鑑札は、所定の手続きを踏んで所轄署から与えられる。
 「初見世」。すべての検査を終えて新しい娼妓が楼へ出ることを楼主たちは、そう呼ぶ。はじめて検診台へ上がる、女の胸のうちを思う。
 「全く自由が出来ない娼妓金の為に数年束縛される所の奴隷制度を在置されると言うことは、私は甚だ間違ったことであると言うことを、(略)天下に向かって叫びたい」。大正9年、青木町遊郭の移転問題で牧内議員はそう言った。(4)遊郭の廃止も公娼の廃止も、まだ声は小さくて女たちは災害や凶作のたびに売られて行った。

 ある日、地図を片手に街を歩いた。
 東急東横線反町駅は、平成16年みなとみらい線開通に伴い地下3階、新しいホームとなって生まれ変わった。廃線の跡地は、フェンスを張られて工事の最中だった。
 「横浜青木町遊郭」は、昭和20年5月の横浜大空襲によって焼失した。517機のB29は短時間で横浜を火の海にかえた。遊郭の裏門、横を流れる滝の川は逃げ遅れた人々で溢れ多くの犠牲者をだした。みんな焼けてしまったのだ。遊郭の名残などあろうはずもない。
 反町駅から、かつての大門通り商店街に向かって歩く。マンションの間に、スーパーと飲食店。ここはもう商店街とは呼ばない。
 冬の陽は落ちるのが早い。私は急ぎ足になって歩き去ろうとした瞬間、ビルの間に古い建物を見つけた。低い二階建てには、看板が出ている。「菊屋」とあった。ああ、ここがかつての大門だ。「菊屋」は今も変わらぬ場所でうなぎ屋を営んでいた。
 「菊屋」からはこうばしいにおいがただよっている。私は急な空腹を覚えて、今は無き大門をくぐった。
 大門は女たちの悲しみを刻んで、空襲と共に消えてしまった。戦後、遊郭の跡地は昭和24年に日米貿易博覧会が開催され、その後市役所が建設された。市役所はのちに移転し、昭和38年からは公園として利用されている。
 細帯一つのお女郎さん、職人風の男の目、楼主の呼び声。戦争を境に、反町の風景は変わった。夕暮れ、公園を制服姿の女子高生が通る。すれ違うサラリーマンの男は帰宅途中だろうか。遠くから、子どもを呼ぶ母の声。ここには金銭によって虐げる者も虐げられる者もいない。「奴隷」、牧内議員の発言は娼妓の悲しみにふれる。
 空襲は、多くの犠牲を払ったけれど、人々の悲しみも焼ききった。この街に遊郭が立つことは、二度とない。「それでよかったんだ」。すっかり暮れた空の下、燃えてしまった大門に私は安堵するような気持ちで駅へ戻った。

(1)『犬が星見た ロシア旅行』 武田百合子著 中央公論新書より引用
(2)『わが町の昔と今 3 神奈川区編』 岩田忠利著 とうよこ沿線編集室
(3)『横浜市史稿 風俗編』 横浜市役所編纂 臨川書店より引用(文中旧字およびカタカナは一部表記を改めました。)
(4)『史の会研究誌 大正の響きをきく』 史の会編 江刺昭子より引用(文中旧字およびカタカナは一部表記を改めました。)

メリーさん

 昭和生まれの浜っ子で、メリーさんを知らない人はいない。メリーさんは伝説の娼婦だ。白塗りの化粧に、幾重にも縁取られたアイライン。きっちり引かれた口紅。金髪の髪をひとつにまとめてアップにしている。背中の少し曲がった体に、盛装のドレスを着て静かに歩く姿は異様だ。
 メリーさん。もちろん本名ではない。人はいつしか彼女をそう呼んだ。官公庁街に隣接する繁華街、伊勢佐木町。ここはメリーさんの庭だ。買い物客や勤め人に混ざって、メリーさんは行く。明らかに異質なメリーさんの姿は人目を引く。メリーさんに注がれる、無遠慮なまなざし。好奇な視線。彼女はどんな思いで、その視線を感じていたのだろう。
メリーさんが伊勢佐木町から消えて、久しい。最後に彼女を見かけたのは、いつだったろうか。森永ラブ、バーガーキング。ファーストフードの店内や、トイレで時折すれちがった。
 私がはじめて「メリーさん」を見かけたとき、私は小学生で、最後に見かけたときは大学生になっていた。彼女はいつも決まった場所に立ち、街を見ていた。
 「真っ白なお化けみたいなお婆さんを見た」。本を買いに行った先で、はじめて彼女に出会った。有隣堂。伊勢佐木町の入り口にある老舗の本屋で彼女を見かけた。トイレの鏡に向かって、化粧を直す老婆は、圧倒的な存在感に満ちていた。
 一人入ったら入り口を塞いでしまう小さな化粧室で、メリーさんは体をずらして私を中へ通してくれた。あの時、私はきちんと礼が言えただろうか。ただ、ただ気圧されて、礼など言い忘れてしまったかもしれない。私に、メリーさんと言葉を交わした記憶はない。
 「メリーさんだよ」。大人たちの誰かが教えてくれた。それから時折、街で見かけた。いつも場違いなドレスを着ていた。はじめて会ったとき、メリーさんは水色のドレスだった。ピアノの発表会で着るような、フワフワとしたドレス。たしか持っていたスーツケースも同じ色をしていた。
 「メリーさんは何をしている人?」。そんな風に周りの大人にたずねたことがあった。困ったような顔をして、大人は「メリーさんはアメリカ人の恋人を待ってるんだよ」。「戦争が終わって、たくさんの兵隊さんが国へ帰っていったから」。そんなことを言った。
 ずっと後になって、「恋人」の意味がわかった。戦後、メリーさんは米兵将校の「オンリーさん」だったと教わった。
 昭和20年8月、厚木飛行場に到着した連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーはその日のうちに横浜に進駐、ホテル・ニューグランドを宿舎にあてた。横浜税関ビルには総司令部が置かれ、空襲で難を逃れたビルや市街地の大半が接収された。
 兵舎、PX(占領軍用の売店)、事務所、下士官クラブ、病院、劇場、球場。従来の施設とは名前を変えて、横浜は918万㎡の土地と建物96万㎡におよぶ面積の接収を受けた。戦後、伊勢佐木町は進駐軍の街と化した。
 占領当初、進駐によって混乱をおそれた神奈川県の藤原孝夫知事や横浜市の半井清市長は、「婦女子退避令」を勧告し、女たちに地方への避難を呼びかけた。
 その一方、政府は進駐軍向けの慰安施設RAA(Recreation and Amusement Association)を組織し、接客婦を募集した。
 横浜、山下町のアパート「互楽荘」は、その施設。開設当初は多くのGI(進駐軍兵士)たちが詰め掛けたという。RAAではトラブルも多く、翌年GHQによって全てが閉鎖。「OFF LIMITS」立入禁止となった。
 昭和20年12月、横浜の進駐軍の数は24,000人。その後もGIの数は増え続けた。伊勢佐木町にはGIを相手にふざけあう女たちの姿があった。GI好みの派手な洋服に、PXの真っ赤な口紅。伊勢佐木町の裏手、若葉町あたりにはGI向けのホテルが並んだ。
 昭和27年、記録によれば横浜の売春婦は3,600人ほど。そのうち半分が「オンリーさん」だったという。(1)「オンリーさん」とは、専属のこと。おもに、将校や高官を相手に特定のGIと関係を持った。
 世間は、物不足、食料不足の中、「オンリーさん」たちはGIが軍から支給された食料や、配給制限のきびしい趣向品に囲まれて日本人がうらやむ生活ぶりだった。
 昭和25年に朝鮮戦争がはじまると進駐軍の特需受注を受けて、横浜の戦後復興は加速、伊勢佐木町の町並みは活気づいた。
 しかし、復興の灯は長くは続かなかった。昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約が発効されると進駐軍による接収の解除、兵士の撤退が進められた。また翌年7月、朝鮮休戦協定が調印されると特需景気は下降をたどり、市況も停滞した。
 盛り場の消費はGIたちの財布に依存していたから、GIが本国へ引き上げてゆくと伊勢佐木町は再び活力を失った。
 伊勢佐木町における接収解除は他都市と比べ遅かった。進駐軍による早くからの接収で、活力を取り戻した街ではあったが、接収解除後もつづけられた駐留は逆に、復興を遅らせた。
 他都市が復興の足がかりを掴んだ20年代後半、伊勢佐木町は「関内牧場」などと揶揄されて、あちこちに手付かずの空き地が目立った。事実、昭和31年の地図では番地だけが記された空白の土地が目立つ。
 GIのいなくなった街に、フリーで街頭にたち客をとる女たちの姿も消えていった。「オンリーさん」の中には、そのままGIと結婚しアメリカ本土へ渡った者もいた。
 いつから「メリーさん」は再び、街に立ちはじめたのだろう。80歳を過ぎても毎日、決まった場所に立ち「メリーさん」は戦後の横浜を見続けてきた。
 「メリーさん」の姿が見えなくなってしばらく、「メリーさん」とは旧知の仲という男性に出会った。消息をたずねると、「故郷の施設で暮らしているわ。今も元気よ」。男はそういって笑った。「メリーさん」がポーズをとる写真をみせて、「今度はもっとたくさん見せてあげる」。「また、いらっしゃい」。そう言った。

 ある日、地図を片手に街を歩いた。
 ここは連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが寄宿したホテル・ニューグランド。部屋は315号室だったか。「マッカーサールーム」と呼ばれる部屋は、横浜港に面している。あの日、サングラスにコーンパイプをくわえて厚木飛行場へ降り立ったマッカーサーは、そのままこのホテルへ直行した。
 用意された昼食はあまりに貧しく、マッカーサーは口をつけただけで食事を終えた。マッカーサーが連合国軍総司令官として、ホテル・ニューグランドに寄宿したのは3日。だが、以前にも一度ここを訪れている。
 昭和12年、二度目の夫人とのハネムーンにホテル・ニューグランドを選んだ。ハネムーンの思い出の地、戦火に焼かれ変わり果てた横浜の姿はマッカーサーの目にどのように映っただろうか。
 進駐軍の街と呼ばれた伊勢佐木町。現在はイセザキモールと呼ばれる商店街になっている。一丁目の入り口近く、「松坂屋」は占領軍の事務所だった。
 「ジョスコ」と呼ばれた組織は、占領軍が日本国内で使用する石油を掌握していた。その先、定員制場外勝馬投票劵発売所「エクセル伊勢佐木町」は、かつてのPX(占領軍の売店)。ペコちゃんでおなじみ「不二家」は、下士官クラブだった。
 「松坂屋」と「エクセル伊勢佐木町」の間、老舗書店「有隣堂」の向かいに化粧品を扱う「柳家」がある。「メリーさん」御用達の店だ。明るい店内に、海外ブランドや国産トップブランドの化粧品が処狭しと並べられている。
 「メリーさん」はここで千円に満たない、塗りおしろいとアイライナーを仕入れていた。昔、有隣堂のトイレで鏡にむかった「メリーさん」は、口紅を薬指につけて引いていた。
 子供時分にも、母や若い叔母が使うスティックの口紅は見慣れていたけれど、メリーさんの手で器用に引かれる本紅は、初めて目にするそれだった。
 本紅は水を含ませた筆や指で溶き、唇にのせる。本紅の赤は紅花が原料。白塗りの顔にくれないの色はよく映えた。
 平成の世、口紅に求められる要素は、落ちにくく色持ちの良いものだという。水性の本紅はその要素を満たさない。あの日、唇にそっと指を添えて真剣なまなざしで紅をひく「メリーさん」の背中は、まだしゃんと伸びていた。
 その後の「メリーさん」は、住む家もなく雑居ビルの廊下に寝泊りしていた。小さな椅子を向かい合わせに並べて、ベッドにすると「メリーさん」は一人、朝を迎えた。
 「メリーさん」の近況を教えてくれた男は、昨年死んでしまった。永登元次郎。「横浜のジャン・ジュネ」と呼ばれたシャンソン歌手だった。
 京浜急行・日之出町駅徒歩1分、ライブハウス「シャノアール」が元次郎さんの店だった。伊勢佐木町からほど近く、歌い終わったステージの後で「メリーさん」の近況を話してくれた。「今度」の約束は果たされないままに、時間ばかりが過ぎてしまった。
 伝説の娼婦「メリーさん」は、今も横浜を愛する者たちの胸にかたちを変えて刻まれている。「メリーさん」をモデルにした映画や芝居が製作され、好評を得ている。元次郎さんもきっと喜んでいるだろう。
 夕暮れ時、ここを歩けば今でも「メリーさん」に出会う。伊勢佐木町、この街の本質は何も変わっていない。飛び交う言葉は、どこの国の言葉だろうか。一瞬、それが日本語とわからない。
 「オニイサン、カワイイコイルヨ」。「ショート、ステイ?」「アナタ、アソビタイ?」。「メリーさん」の多くは、金髪や青い目をしている。片言の日本語で、行き交う男の袖をひく。この街に立つ女は、昔も今も食べるために夜を待つ。
 「このへんじや、オンリーなんていつたつて、文字どおりのオンリー・ワンなんかじやないのよ。そんな人一人もいないわ。普通、オンリーというのはね」。「少くて、オンリー・ファイブ、多い女になるとオンリー・テンくらいあやつつているのが、いわゆるオンリーさんでとおるのよ」。(2)その昔、きみちゃんは笑って言った。

(1)月間情報誌『有鄰』 第409号より大西比呂志氏(横浜市史編集室)の発言をお借りしました。
(2)『危険な毒花』 常盤とよ子著 三笠書房より引用   

真金町・赤線地帯

 昭和花街の転換期は、「公娼制度」の廃止だ。
 昭和21年1月、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは日本政府に対し「日本における公娼の存続はデモクラシーの理想に違反し、且つ全国民間における個人の自由発達に相反するものである」と覚書を送った。
 これを受けて政府は、国内における公娼に関する一切の法令を撤廃。公娼制度は廃止された。
 「特殊飲食店街」とは、公娼制度廃止に伴う特例措置として地域を限って設けられた。ここは地図上、赤い線が引かれた。線によって囲まれた地域は赤線区域と呼ばれ、売春が許された。
 赤線区域には、戦前の遊郭が赤線へと移行したものと、戦後に新興のカフェーとして広がりをみせた街とがある。横浜市真金町は旧遊郭の名残り。
 この遊郭の発祥は、安政6年「日米修好通商条約」が結ばれた際、幕府によって居留地内に遊郭が設けられた。港崎町、「横浜遊郭」である。新田の沼地に15軒で開業した「横浜遊郭」は、慶応2年の大火によって焼失した。火災後、遊郭の跡地には公園が造られたため「横浜遊郭」は以後、移転を繰り返す。
 慶応3年に吉田橋の南、吉原町へ、明治5年に高島町、明治13年に現在の真金町へ落ち着いた。昭和5年発行の『全国遊郭案内』の紹介にはこうある。
 「横浜真金町遊郭は神奈川県横浜市真金町に在つて、東海道横浜駅から東へ約十丁、市電は足曳町又は横浜橋で下車する。横浜は安政年間、幕府と米国全権ハルリス氏とが、最初に通商条約を結んだ地として、永久に忘るゝ事の出来ない地である。(略)復興の新装成つた大横浜市は真に堂々たるもので、伊勢佐木町乃其附近は東京の銀座界隈よりも遥かに善い処がある。人口は既に五十万を数へ、六大都市の一つに数えられて居る。(略)目下は貸座敷が五十九軒あつて娼妓は約五百人居るが、福島、山形、千葉、茨城地方の女が多い」
 横浜真金町遊郭は大正12年の震災で多くの死者をだした。
 遊郭は大門と黒壁によって囲まれ、出口は非常門と大門のほかはなかったから、逃げ遅れた娼妓や客は犠牲となった。大門は震災によって破壊され、以後廃止された。
 昭和12年、落語家・桂歌丸はこの花街で生まれた。60歳を過ぎた祖母タネが経営する「富士楼」は、10人の娼妓を抱え「張見世」をもつ大店だった。「張見世」とはショーウインドウのこと。娼妓は並んで、客の指名を待った。「顔見世」とは写真による指名のこと、現在でも多くの風俗店では、この顔見世の方法をとっているのではなかろうか。
 「富士楼」は売春防止法が施行される前に、タネが手放した。タネは、売れっ妓を抱え、商機に強く時世を読める女であった。「ローマ」、「イロハ」と呼ばれる妓楼の女主人と並んで、「真金町の三大ばばあ」と呼ばれた。「真金町の三大ばばあはヤクザもよける」。(1)そんな話が残されている。
 「富士楼」のように昭和21年の公娼制度廃止後も、昭和32年に売春防止法が施行されるまで、この地は「特殊飲食店街」として営業を続けてきた。妓楼を廃業し、カフェーや旅館に転業しながら、個室を提供し続けた。
 昭和28年、この街の喧騒をファインダー越しに切り取って写真におさめた女性がいる。常盤とよ子。赤線地帯に働く女たちの写真は、写真集『危険な毒花』として昭和32年に出版された。
 赤線地帯に入り込み被写体を探して、とよ子は歩く。初めの一枚。買い物かごにカメラを忍ばせ隠し撮りした。現像すると、地面しか写っていなかった。
 とよ子は、物陰に隠れて女たちにレンズを向けた。あるときは所在なく店前に立つ女に「写真をとってあげようか」と近寄って、カメラを向けた。
 「最初、わたしが彼女たちを素材に仕事をはじめたときは、彼女たちに対して、微塵も愛情を覚えることもなく、可哀そうだなどと考えたことは一度もなかつた。単なる素材としてカメラを向けていたにすぎなかつた。そしてその裏側には憎しみさえ感じていた。憎しみも感情の露呈だといえば、わたしの出発には多分に感情的なものがふくまれていたことを否定しない」。写真集『危険な毒花』で、とよ子はそう告白している。
 とよ子の憎しみとは、「進駐軍に対する反感めいた憎しみ」であった。憎しみはやがて、進駐軍に媚を売る女たちへも向けられてゆく。戦争で父を亡くし、やりばのない憎しみを抱える若い女は「引き金を引く思いで」シャッターを切り、自らの気持ちを慰めた。
 カメラマンとしての探究心だろうかそれとも同性の目をもってした気持ちの変化だろうか、とよ子の女たちの内側へと向けられた視点はやがて彼女たちの克明な姿を映し出す。
 夕暮れどき、娼婦と変わってゆく女たちの姿。夕闇、新吉田川の川面に浮かぶ赤線の灯りが客をよぶ。昼間の顔と夜の顔。この街はふたつの顔を持つ。
 とよ子が写した昭和29年昼下がりの一枚。椅子に腰掛けた子どもの手遊びを頬杖をついて見つめる女の姿。祭りだろうか子どもの頭にねじり鉢巻が見える。椅子に腰掛けた子どもの足は、地面につかない。宙に浮かぶ小さな足袋の白さ。開け放たれた戸口から覗く、昼間の顔。この女も数時間後には夜の顔を持つのだろうか。
 昭和30年夜の一枚。間口の狭い引き戸から通りを伺い男が出てくる。男の上、左右に並ぶ窓からは明かるい光りが漏れている。男はコートを着て、両手をポケットへ預けている。男の後ろに見えるのは、目の入っていない達磨だ。玄関から、少し身を乗り出して男は左へ顔を向けている。引き戸には「辰川」の文字。
 戸口の外、和服に羽織を着た女が男と同じように外を見ている。女は胸の位置で寒そうに手を組んでいる。男は今夜の客であろうか、男の迎えの車を二人して待っているのだろうか。
 いずれの写真もこの街の時間と共にかわりゆく風景と人間模様を鮮明に切り取っている。凝縮された一枚の写真に、何人もの男と女の顔を想像することができる。
 とよ子は赤線に診療所をもつ医師や妓楼主人の紹介を受けて、次第に女たちと向きあってゆく。正面からカメラを構え、女たちの奥深くへ入り込んでゆく。
 「変形された憎しみから」はじまったとよ子の写真は、赤線地帯のさまざまな女の姿を覗きみることで、社会悪を追求する視点を獲得してゆく。
 昭和31年診療所の一枚。検査の順番を待つ女たちの後ろ姿。壁に貼られた文字は「一に健康 性病の予防のため毎日の洗滌と検診を受ける事を必ず守りましょう」と読める。検査に落ちれば、営業は停止。女たちの一大事だ。
 治療中の女を写した写真が一枚。女は粗末な診察台の上で、よつばいになって下半身をさらしている。女の右手に挟まれているのはタバコであろうか。髪の毛に阻まれて女の表情は見えない。床に脱ぎ捨てられた女のサンダルは、脱いだままの格好で置かれている。看護婦は二人。この女はペニシリンの注射を受けるのだ。
 女たちの中には梅毒によって神経系が侵され、精神病院へ送られる者もいた。神経を病むのは、梅毒末期の症状だ。女たちには定期的な検診が義務付けられているが、客にその義務はない。当然女の、感染リスクは高い。夜の顔を長く続ければ、それだけ感染のリスクを負う。
 昭和31年5月、売春防止法が国会を通過した。初夏、とよ子のカメラは神奈川県の更正施設へ向けられている。ここは寮長の指導のもと、60人の女たちが暮らす。
 あどけなさの残る女たちの顔。かつての夜の花たちは、ここで定められたプログラムをこなす。真剣なまなざしで黒板をみつめる女たちの顔。休み時間だろうか、仲間の髪を編む女と編まれる女の、はにかんだ笑顔。おしゃべりに身をのりだす女。机に頬をよせて眠る女の横顔。女と呼ぶには、まだ若いのだ。
 とよ子はたくさんの少女の顔を捉えている。ここを出るとき、少女たちは過去に別れを告げることができるのだろうか。思い描く幸せを、掴み取ることができるのだろうか。

 ある日、地図を片手に街を歩いた。
 明治5年、江戸吉原を例にならって祭られた「おとり様」。大鷲神社をスタートに「真金町・赤線地帯」を歩く。
 大鷲神社は、毎年11月に市がたつ。酉の日、幸福をかき集める縁起物の熊手を求めて、大勢の人で賑わう。酉の市は、平成3年横浜市無形民俗文化財の一つに登録された。
 大鷲神社を出て新吉田川にむかって歩く。埋められた川はいま、地下鉄が走る。突き当たりを右に曲がる。男と女が戸口に立っていた「辰川」は、立体駐車場と化している。
 歌丸の生家「富士楼」は、カフェーに転業したのち、主人を変えた。工務店の倉庫がそのあたりではないだろうか。
 いずこも遊郭の跡地は、おおむねマンションか駐車場だ。
 「お女郎さんが悪さをするからね。遊郭のあった土地は商売に向かない」。「何をやってもだめですよ」。初老の男が教えてくれた。
 「僕はね。赤線後世代って言うんだ。売春防止法が施行されたときは、まだ中学生だったからね。ちょっと上の先輩たちの中には詳しい人もいたけどね」。「子どものころは、鼻をね、マスクで覆った人がずいぶん歩いていたよ。あれ梅毒なんだってねえ」
 梅毒によって、鼻骨が侵され鼻が陥没するのは感染から約3年。筋肉や骨、内臓にゴム腫と呼ばれる腫瘍が見られるころだ。3週間、3ヶ月、3年。梅毒は一定の潜伏期間ごとに症状が出る。神経を侵されて、病院へ送られた女は感染後10年近く経っていたはずだ。
 昭和33年版「横浜市南区の衛生統計」。その概況にはこうある。「当区には、貧困世帯が比較的多く大衆飲食店が実に多い。これは、総人口の73%、約13万人が総面積の半分に充たない北部各地区に居住しているにもかかわらず、大企業をほとんど持たない悲哀であろう」
 昭和31年、経済白書は「もはや戦後ではない」と発表したが、横浜にはまだ敗戦の名残が色濃く残っていた。真金町は昭和18年、南区新設によって中区から編入している。
 「横浜市南区の衛生統計」は性病患者についても言及している。
 「性病患者は昭和26年の5,203人を頂点として年々急激に少くなつてきた。戦後米軍の駐留と共に南区の特飲街は最盛期を迎え、性病患者もすさまじい勢いで増えたが、駐留軍の引揚げが始まり売春禁止法が制定されるに及んで急激に減少してきた」。「昭和32年の患者を職業別に見ると、女の場合は88%が女給で占められ、男は会社員並びに船員がそれそれ23.1%、人夫、無職がそれぞれ11.5%となつていて遊客の幅の広さをあらわしている。感染源別患者数では女の内93%が売淫(ママ)行為者の相手となつていて、男の場合も69%が娼婦になつている」とある。
 感染源別届出性病患者の割合には、先天性、男4パーセント、女0.3%と記されている。梅毒に感染した母親から生まれた子どもの数字だ。先天性梅毒。病原体、梅毒トレポネーマは胎盤を通して胎児に感染する。治療時期を失えば、女の背負ったリスクは次の世代まで伝えられてしまう。
 「お女郎さんが悪さをするからね」。まんざら嘘でもないような気がした。どこへも、ぶつけることのできない悲しみや怒りをこの遊郭の女たちは、百年もの間抱えてきたのだ。
 地図が風にめくれて、パタパタと音をたてる。冷たい風が頬を切った。私は、歩きはじめた大鷲神社へ戻る。神社のすぐ裏の通りは、にぎやかな商店街だ。威勢のいい掛け声が聞こえる。この街の新しい朝は、はじまったばかりだ。

(1)月間情報誌『有鄰』 第415号より桂歌丸氏の発言を引用。

一枚の名刺

 一度だけ、「コマーシャル・セックスワーカー」と書かれた名刺をもらったことがある。性産業従事者。彼女の場合は娼婦で、産婦人科医の話を熱心に聞いていた。「プロテクションなしの性行為で感染の可能性がある病気」について医師は彼女に説明していた。
 医師が一通りの説明を終えると、彼女がぽつんと言った。「嫌がる客、多いんだよね」。「そのプロテクションていうの」。笑顔の隅に困った表情を浮かべて、彼女は去っていった。
 昭和に咲いた花街の花は、今はどの地に根をおろしているだろうか。女たちは幸せを掴んだのだろうか。
 今年の冬はよく歩いた。「江戸は三代住んで初めて江戸っ子。横浜は三日住めば浜っ子」。昔から、誰が言ったかそう聞かされていた。私は三代続いた浜っ子であるけれど、あの日、地図を片手に歩いた街は私の知らない顔をしていた。夜の顔は時に残酷で、女たちの泣き声が聞こえるようだった。
 私は食べるために売る性を否定しない。一日も早く、女たちが自分を売らずに食べてゆけることを願う。繰り返される夜の営み。どうか地球の女たちに静かな眠りが訪れますように。

参考文献

●ハマの日本橋
『南区明細地図 昭和32年度版』経済地社/編 経済地図社
『南区明細地図 昭和35年度版』経済地社/編 経済地図社
『横浜市電が走った街今昔』JTBキャンブックス 長谷川弘和
『横浜の鉄道物語 JTBキャンブックス 長谷川弘和
●チャブ屋
『横浜チャブ屋物語』 センチュリー 重富昭夫
『痴人の愛」 新潮文庫 谷崎潤一郎
『横浜市史稿 風俗編』臨川書店 横浜市役所/編纂
●百合子の大門
『ことばの食卓』武田百合子/文 , 野中ユリ/画 ちくま文庫
『犬が星見た ロシア旅行』 武田百合子 中央公論新書
『文藝別冊 総特集武田百合子』西口徹/編 河出書房新社
『わが町の昔と今 3 神奈川区編』 岩田忠利 とうよこ沿線編集室
『日本遊里史』上村行彰 藤森書店
『近代庶民生活誌 第14巻 色街・遊廓 』南博 三一書房
『史の会研究誌 第3号 時代の目覚めをよむ』 史の会/編 江刺昭子
『史の会研究誌 大正の響きをきく』 史の会/編 江刺昭子
『横浜の空襲と戦災 1 』横浜市,横浜の空襲を記録する会/編 横浜市
●メリーさん
『中区明細地図 昭和31年度版』経済地社/編 経済地図社
『接収解除の歩み』横浜市総務局渉外部/編 横浜市総務局渉外部
月間情報誌『有鄰』第409号 有隣堂
『危険な毒花』 常盤とよ子 三笠書房
●真金町・赤線地帯
月間情報誌『有鄰』第415号 有隣堂
『南区の歴史』南区の歴史発刊実行委員会
『横浜再現』奥村泰宏, 常盤とよ子 平凡社
『横浜の遊廓の研究 』中村数男 横浜開港資料館
『横浜の遊廓の研究 (資料編)』中村数男 横浜開港資料館
『かながわの神社ガイドブック』 神奈川県神社庁設立五十周年記念事業委員会出版事業室
『横浜市南区の衛生統計 昭和33年版』横浜市南保健所/編 横浜市南保健所
『横浜の町名』横浜市市民局総務部住居表示課/編 横浜市市民局総務部住居表示課

断り本文中、敬称を省略しました。

投稿者 神山 : 2005年02月28日 20:27

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