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2005年03月02日

『ブランドに恋して-日本人のブランド消費の今-』加藤晶也

1.はじめに みんな高級ブランド品を持っている!

 とある休日。何気なく街に出る。絶えることのない人通り。ぼーっとしながら、待ち行く人々を眺めていると、ふと気づく。

 さっきから同じようなバッグを持った人が、何人も目の前を通るのである。

 おなじみの茶色の生地のモノグラム柄、アルファベットの「C」と「C」が背中合わせに重なった大きなロゴ、Gが背中合わせにくっついている小さなロゴがモノグラムになっているもの……どれも、いわゆる「高級ブランド」といわれるブランドのバッグである。こうやって意識的に眺めてみると想像以上に、高級ブランドの品物を身につけている人が多いものである。シャネル、ルイ・ヴィトン、グッチ、エルメス、クリスチャン・ディオール……

さまざまな高級ブランドのバッグや財布を持っている人が、街中を歩いているし、自分の周囲にもいる。渋谷でカメラを設置して定点観測を行ったら、いったいいくつの、あのモノグラムのついたバッグを持った人がその前を通るだろうか。満員の山手線の車両一台の中に一体、何人のあの「C」が重なったロゴのバッグを持っている人が乗っているだろうか。よほどの暇があったら調べてみたいものである。
 また周囲の友人などでも「高級ブランド品」を持っている人は多い。友人との食事の際に会計のために財布を皆取り出したとき、男女を問わず「高級ブランド」の財布を持っていることにびっくりすることがある。それらは決して安い代物ではない。しかし、みんな持っているのである。現在、日本には2500万個以上ものルイ・ヴィトンの製品が存在しているという。日本人のおよそ5人に一人はルイ・ヴィトンの商品を持っている計算だ。ルイ・ヴィトンジャパンの売り上げはルイ・ヴィトン全体の30%を超えているといわれている。日本人の皆さん、海外に行っても胸を張ってルイ・ヴィトンの店に入ってください。ルイ・ヴィトンの経営を支えているのは他ならぬ日本人なのだから。
 またセゾン総合研究所の行った20代~60代の男女1200人に行ったアンケートによれば、男性で7割強、女性で9割弱が「海外高級ブランド」の商品を持っている、という調査結果が出ている。女性のほとんどが何かしら「高級ブランド」の商品を持っているのである。また、この調査において、「海外高級ブランドのバッグ」の購入限度額は平均で六万円であり、かなりの額を「高級ブランド」のバッグに費やしてもいいと、多くの人が考えているのである。なぜ、これほどまでに皆「高級ブランド品」を欲しがるのだろうか。その素朴な疑問がこの作品の出発点である。
 中学生のころ、母親が学校の保護者会や部活の食事会に集まり、帰ってくるといつも「○○君の母親はブルガリの時計を持っていて……」「△△君のところはエルメスのケリーバッグを持ってたわ」「××君のお母さんなんて見るたびに違うシャネルのカバンを持っていて……」などと、うらやましそうに語っていたのを思い出す。そして、新聞のブランドショップの折り込みチラシを見ながら「これはちょっと買えないわ~」とため息を漏らすのである。私も一緒にそれを見て「うわ~、高いね~」などといいながら一緒に見たものだ。
その頃から友人や初対面の人のバッグや財布のブランドチェックすることが好きだった。今思うとなんといやらしい中学生だろうか。
気づいてみれば自分の友人なども「高級ブランド」のバッグや財布を持つようになっている。ファッションに関して、おそらく「高級ブランド」ではないにしても多くの人が少なからず「ブランド」というものにこだわっているのは間違いない。
 ほら、今これを読んでくださっている方も、自分の着ている服や、クローゼットの中にあるバッグ、財布、アクセサリーを見てほしい。気づかないうちにいかに自分が「ブランド」というものにまみれて生活しているかがわかるだろう。わたしたちはもはや「ブランド」というものなしには生活することができない。
 「ものを運ぶ」という同じ機能を持っていても、ユニクロのバッグなら1000円、エルメスのバッグなら数十万円、というような状況に疑問を持ったことはないだろうか。先ほどのセゾンのアンケートからバッグを購入する際の限度額を多くの人が数万円と平気で指定するのはなぜか。世の中には数千円から、十分な機能を持ったバッグが山のように存在しているにもかかわらず、である。
 人々はなぜ「高級ブランド」に魅了されるのか。「高級ブランド品」に限らず、私たちは「ブランド」というものに囲まれて生活しているし、多くの人々は、生活とファッションとが切り離せないものになっているといっても過言ではない。みんな必死でお洒落をしようともがいている。休日に街を歩いていても、ファッションブランドの袋を持っている人を本当に多く見かける。いったいなぜ人はこれほどまでに「お洒落」を追い求め今日も買い物に走るのだろうか。そして、その中で若者は高級ブランドをどのように受け入れているのであろうか。多くの人々を虜にしてやまない、ファッションと「高級ブランド」の関係について探っていきたい。

2.ファッションのパラドクス

みんな同じ?みんな違う?

 年も明けて間もない一月三日。この日は買い物の好きな人にとっては一大イベントが始まる日である。そう、冬のセールが始まるのだ。僕は名古屋の実家で正月を過ごしていた。年末年始のお笑い番組の多さに飽き飽きしていた私は、ここぞとばかりに買い物に出かけた。自分が普段よく行く店を覗くと、そこには驚くべき光景が広がっていた。あふれんばかりの人が棚に置いてある商品に群がり、次々とその商品をレジに持って行き会計を済ませ、意気揚々と別の店へと向かうのである。「あふれんばかり」の人と書いたが、店によっては実際に人があふれてしまい、入場制限を行っている店すらあった。それでも多くの人(自分も含め)は並んででもその店に入ろうと列に加わるのである。列に並んでいる人々や躍起になって棚に陳列されている商品をかき乱している人々を見ていて気づいたことがある。先ほどの街中での印象と同じように、やはりみんな同じような格好をしているのである。
 皆同じブランドを着ているわけではないし、それぞれ違う店で商品を買っているに違いない。しかし、何か同じような印象を受けるのである。違うといえば違う。同じといえば同じ。細かく説明しろ、といわれれば、ボタンが違う、とか、ラインが入っている、とか指摘することはできるがやはり同じような服装をしている印象がぬぐえない。とふと自分の服装にも目が行く。自分の服装とほとんど同じような服を着ている人が周りに大勢いるのである。ハイカットのスニーカーに、古着のデニムのパンツにピーコートを合わせ、マフラーをその上から巻いている人のいかに多いことか。
 何か自分がその人ごみの中に埋もれて消えてしまうような印象を覚えた。自分の服はここが違う、と心の中で主張してみてもむなしいだけである。それでも私は店内に入り、自分の気に入った、他の服と似ているようで違う服を買って他の人々と同じように満足気に帰宅したのである。これだけ多くの人が買い物をしている。いったい何のために人はこれほど買い物に走り、似たような服を買い求めるのか。

お洒落さんに聞け!

「周りの人と服装がかぶるのが嫌」
 こう語るのは、私のサークル随一の「お洒落さん」と言われるT君だ。腰にシャツを巻いたり、横から見ると、逆さにメガネをかけているように見える妙なサングラスをかけてみたり、髪の毛の色は黒と茶色がまだらになっていたり……
 それでも似合うのがT君のすごいところだ。「人とちょっと外れている服を買うように心がけている」と語る彼のファッションは実は家族には受け入れられていない。「あのファッションはお洒落なのかしら? 」とお母さんは首をかしげる。妹には「高校時代までは尊敬できるお兄ちゃんだったのに……」とまで言い放った。おばあちゃんは「あの子、今日腰に変なもん巻いて出て行ったわよ」と驚いてお母さんに報告することもあるとか。「別にそういうことを言われてもかまわない」と彼は自信を持って語る。「だって年寄りの意見じゃん」とそ知らぬ顔をしている。
 それでは誰に認められたいのか。何を認められたいのか。疑問をぶつける。年代の違う人には認められる必要はない、と考えおり、同年代の人や彼がお洒落だと思う人にほめられるのがうれしいようである。
「やっぱりちょっと外れてるところをほめられるとうれしいかな。変なサングラスとか。」
 彼の話を聞いていると不思議に思うことがある。外れていたいけど、それでもそのことを認めてもらいたい、と考えているのである。外れていたいけど認められたい、ということはおそらくかなり難しいことであるように思う。それはある意味では、ある程度のお約束の中で、「外れよう」としているのではないだろうか。それは、彼が街行く人や、雑誌のストリートスナップを参考にしているということからも伺える。ある程度既存のものを受け入れつつ、その中で「外れよう」としているのである。多くの人々に話しを聞いてみても、やはりファッションに関して「他の人と少し違っていたい」と主張する人が多かった。
 そういう人たちもやはり、雑誌や街を歩いている人を参考にしているのである。ファッションは模倣の中の逸脱によって成り立っているのではないだろうか。周りのお洒落だといわれている人を見てほしい。おそらくそれが当てはまる、雑誌のストリートスナップに載っている人などもみんなと同じようだけどちょっと違うのである。「お洒落である」ということは「同一化」と「差異化」の微妙なバランスによって成り立っているといえるのではないだろうか。
 
「同一化と差異化の狭間で」~日本発? 「JJ」研究!~

 さまざまなファッション雑誌を見てみても、ファッションとは「同一化」と「差異化」が混在しているものだということがわかる。今回は10代後半から20代の女性に人気のファッション雑誌『JJ』にご登場いただこう。『JJ』 は1970年代後半ごろ女子大生を中心に支持され、「JJガール」なる女性も登場し、若い世代の女性に高級ブランド志向を浸透させたとも言われている。今でもいわゆる「お姉系」と呼ばれる女性たちに支持されており、今回話を聞いた女性の多くが『JJ』を読んでいると答えた。
 さて、今手元にあるのは『JJ』二月号である(男の大学生が一人で「JJ」を買うのは若干恥ずかしかった)。
この雑誌の太字で書かれているところだけに注目してみる。さまざまなスタイルが紹介さされており、今年の流行のアイテムや、コーディネートについてのアドバイスなどがなされている。その中のいくつかをあげてみよう。
「ファーで可愛さ120%の白ワンピで友達に『差をつけます』」
「着まわしの定番アンサンブルは“ひとクセ”を選んで『差をつける』」
「流行アイテムで劇的に変身するには合わせる小物や他のコとは違うディテールをセレクトするのが肝心」など他の人たちとの「差をつける」ことが重視されており、それが薦められている。また、
「ミニスカートはテーラードジャケットで大人っぽく着るのが『新鮮』」
「可愛いテイストになりがちなミニ×ブーツスタイルも大人っぽく仕上げると彼もハッとする新鮮さが出る」
といったように新鮮さもまた差をつけるための方法として、強調されているのである。ちなみにこの2月号で、太字で書かれているところに限っても「差をつける」という言葉が6回、「新鮮」という言葉が7回も使われている。「JJ」編集部もまさか「新鮮」と「差をつける」という表現を使った回数を数えられるとは思っても見なかっただろう。
 その一方で、
「今度のミニ丈カーデは大人っぽく着るのが正解」
「いい女度の高い小物はやさしいパステルカラーが基本」
など、「正解」だとか「基本」を提示していつのも興味深い。そのほかにも「定番」「失敗しない」「外す心配がない」などといった言葉が多用されており、コーディネートを画一化させようとしているかのような見出しが多く見られるのも事実である。
 結局みんな違っていればいいの? 一緒ならいいの? と頭が混乱してしまう。それならこの見出しはどうだろう。
「みんな持ってる7大アイテムだから知りたいあの子と差のつく着回し術」
 みんな同じようなものを持っているけどそれだからこそ差をつけなければいけない、ということだろうか。
 ここまで見てきた中で考えられるのは、「同一化」の過程の中で微妙な「差異化」を図ることこそが「お洒落をする」ということであり、ファッションの醍醐味だということができるのではないだろうか。
「同一化」と「差異化」を同時に図っているのは私たち消費者だけではない。当然のことながら、商品を提供する側、すなわちファッションブランドも、同様に「同一化」の過程の中で度重なる「差異化」の闘いを繰り広げているのである。

「差異化」という戦い

 百貨店やファッションビルに行き、さまざまな店内を見ていると、同じような商品を何度も見つけることがあるだろう。しかし、それぞれが小さな範囲の中で異なっているのに気づく、形、色、ボタン、ポケット……さまざまなところに工夫を凝らしている。試着などした際に、店員さんたちが「この商品、実はここが違うんですよ」と嬉々として教えてくれた、などという経験がある人も多いのではないだろうか。
そこでの差別化は「より品質がいい」とかそういった次元ではなく、「ただ違う」というだけである。社会学者のジャン・ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』で、消費社会を「記号の消費」として分析した。人はモノをその機能的価値だけではなく、社会的な威信や、幸福感などといった記号的意味を持つものとしても消費している、ということを明らかにしたのである。例えば現代社会で言えば、液晶テレビが「テレビ」という機能としての役割を持ちながら、さらには「ちょっとお金持ち」といった意味が付与されているといったようなことである。
しかし、ファッションにおいては記号的な意味など関係なくとも、ただ、「他と違ってる」ということ自体が「価値」として成立している。ボタンに工夫を凝らしたシャツや、ちょっとだけ模様の違うセーターには幸福感や、社会的な威信といった社会的な意味はなんら付与されていない。ただ異なっているだけである。そして商品の無限の差異化が起こるのだ。さらにファッションに関して特殊なことはデザイン的な差異が最優先されるために機能性が、二の次にされるのである。『JJ』でバッグを紹介している見出しで、「外見だけではなく、機能性もばっちり」と書かれているのを発見した。これを見ると機能性よりも外見のほうが重視されていることがわかる。

他と違ってさえいれば機能性なんて関係ない!~差異化の生む悲劇~

 先日お洒落なショップにいって、胸の辺りが破れているセーターを見つけた。「店員さん、このセーター破れてます!」などと騒いではいけない。その種類のセーターは一様に同じ場所が意図的に破られている。デザインの差異化のためである。しかし、ここで注目すべきは、ウールで編まれている保温性の高いセーターをわざわざ破いて、風通しを良くしてしまっている、という点である。デザインの差異化が機能性を低下させているという逆説が見事に起こっている。
 ファッションの世界においてはこういったことがしばしば起こる。数年前、厚底ブーツが流行り始めたとき、さまざまなファッションブランドが厚底ブーツをこぞって販売し、より底の厚いブーツが至る所で見られるようになったことを覚えている人も多いのではないだろうか。その際にどれだけ多くの人が階段や道端で転倒し、怪我をしたことか。また、細くて高いヒールを履くことの危険性を専門家に指摘されたり、ウオノメに苦しみながらもなお、細くて高いヒールの靴をはく女性は後を絶たない。
 その他にもデザインの差異化の巻き起こしてきた悲劇をあげれば枚挙に暇がない。あるディナーパーティーで、ある女性がかぶっていた帽子の「長すぎる」羽根にキャンドルに火がつき、帽子が灰になる、といった事件や、長すぎるマフラーが自分のバイクの車輪に引っかかり、頸部を骨折して死亡してしまった事故など、デザイン重視のファッションが招いた事故などは多数ある。
 しかし、こういったことが現代の消費社会特有のものである、と結論付けるのも早計である。中国の纏足の風習や、ミャンマーの首長族であるパダウン族の首長族など、さまざまな文化の人々がファッションのために過去にも現在にも苦痛に耐えてきたのである。これらのことも差異化と同一化の過程で起こっている。纏足の場合、もともと中国には「足は小さければ小さいほど良い」という価値観があり、そこから足を縛って、小さくするという風習が広まったと言われている。しかし纏足を施された女性はまともに歩くことすら困難であり、布と靴で常に縛り付けられていたため、とてつもない異臭を放っていたとも言われている。これも差異化がエスカレートしすぎた結果だと言えよう。
こういった同一化と差異化の混合というものはボードリヤールが指摘するような現代の消費社会の特質と言えるだけでなく、ファッションそれ自体の特質とも言えるのではないだろうか。

3.「高級ブランド」ってなんだ!?

「高級ブランド」の定義は?

 こういった中で、「高級ブランド」はどういった役割を果たしているだろうか。そもそも「高級ブランド」とはいったい何なのか。「高級ブランド」とかぎ括弧をつけてきたのは「高級ブランド」というものの定義が非常に曖昧であるからである。雑誌や本などによって「高級ブランド」として扱われるものが違っている。しかし、多くの人に「高級ブランド」の説明をしなくても「高級ブランド」が何かということをイメージしているし、具体的にいくつかのブランドを思い浮かべるであろう。
 しかし、「高級ブランド」が何かということを全く定義せずに話を進めるのは困難なので、ここで「高級ブランド」の定義をしておきたい。そもそも「ブランド」という言葉それ自身で「高級ブランド」という意味で使用されることがしばしばあるが、ここでは「ブランド」と「高級ブランド」は分けて考える。まず「ブランド」とは広辞苑によれば、
ブランド(brand)
(焼印)商標。銘柄。特に、名の通った銘柄。

とある。ここでは「名の通った銘柄」として扱うこととする。
 堺屋太一は『どうして売れるルイ・ヴィトン』で、ブランドを「伝統ブランド」「大量生産ブランド」「知価ブランド」の三つに分けている。「知価ブランド」を「特殊なデザインや品質イメージを醸し出すことで、社会的に高級定評を確立し、特別に高価な価格で一般的かつ継続的に販売されている商品の名称や商標」と定義している。おそらくこれが私たちの一般的にイメージしている「高級ブランド」の定義として最適だと思われるので、今後「高級ブランド」という単語を使うときはこの「知価ブランド」の定義を用いることにする。
 さて、それでは多くの若者は、高級ブランドをどのように捉えているのだろうか。大学生を中心に数人の女性に、「高級ブランド」について聞いてみた。

ロゴがついてなきゃイヤ!
 
 デニムのジャケットに膝丈位のスカートに黒いブーツで現れたEさんはいかにも「今時の大学生」といった感じだ。見たところそれほど高級ブランド品を身につけていない様子だった。
 スターバックスに入りコーヒーを注文する際、彼女が取り出したのはプラダの財布だった。でもプラダは今はそれほど好きではないという。その理由を尋ねると「何か最近あんまり人気ないし、ちょっと素材が安っぽいしあんまりかわいくないから」と答えた。今は仕方なく使っているそうだ。それでは好きなブランドは何かを聞いてみたが「いろいろなブランドに手を出しちゃう。雑誌とか読んでて、あ、これかわいいな、って思ったものを買ってもらったりするかな」と特定のブランドにこだわりがあるわけではないようだ。
 「シャネルのバッグが欲しくて、バイトでお金貯めてたけどなかなか貯まんないから贋物買っちゃった」と贋物でもかまわないらしい。「バレなければいいんじゃない?」とサバサバした感じだ。「ブランドのイメージを買ってるのかも。ロゴとか付いてて、見てすぐにどこのブランドかわかるぐらいのほうがいい。やっぱり無難だし」と、まさにボードリヤールの語る「意味の消費」を実践している、といった感じである。そこでは「高級ブランド」は社会的なステータスの高いことの「記号」として働いている。ボードリヤールの言っていることはやはり的を得ているということができる。消費社会論の大家の言うことは鋭いものだ、と妙に納得してしまった。ブランドを「記号」として消費するということはいったいどういうことだろうか。

ブランドの価値は「意味世界への入場料」?

 「『コカコーラ』や『シャネル』のマークが入ったTシャツがそれなりの値段で売れる理由は、そうしたブランドが独自の意味世界という価値をもっているからである。そうしたマークがつくことによって高くなった価格分は、その世界への入場料でもある」(石井淳蔵、『ブランド 価値の創造』岩波新書、1999)
 ブランドの剰余価値を「意味世界への入場料」として捉える、ということは多いようだ。『どうして売れるルイ・ヴィトン』でも、ルイ・ヴィトンの商品を買うことを「ルイ・ヴィトンコミュニティ」への参加のための「切符」として位置づけているなど、ブランド品を買うことによって、そのブランドの威信だとか「金持ちである」とか「お洒落である」というステータスを得るための「切符」であり、それが高価であっても、そのイメージを手に入れるための代償である、ということである。ブランドの「意味世界」にどっぷりと浸かってしまう女性は多くいる。
 
ブランドの意味世界へ突入します!

 自他共に認めるブランド好きである作家の中村うさぎは初めてシャネルで買い物を買ったときのことを以下のように記している。

    そして(シャネルの店内に)踏み込んだ途端、そこに黒い革のコートを見つけ
    たのである。ウエストシェイプでスラリと細く見える、シンプルかつ美しいシル
    エット。四つ並んだかわいい金色のボタンとファスナーの先には、燦然と輝
    く憧れのシャネルのマーク……!
      ああ、このマークよ! これなのよっ! いくら美しいシルエットでも洒落た
    デザインでも、このマークが付いてなきゃ、何のありがたみもありゃしない。こ
    の小さな小さな、しかし威力抜群のマークを手に入れるために、私は今まで生
    きてきたのだわっ!
                       (中略)
    「これ、くださいっ!」
    「ありがとうございます」
     店員は深々と頭を下げた……とその瞬間だ!!!
     突然私の胸に、思いもよらぬ陶酔感がどっとばかりに押し寄せたではないか!
    シャネルの店員が、私に頭を下げている! そーよ、買ったのだわ、私!つい
    にシャネルのコートを着れる女になったのよっ!
    ふと見ると、数人の女性客が、チラチラと私のほうを見ている。たまたま見ただ
    けかもしれないが、それを私は、嫉妬と羨望の眼差しと受け取ってしまった。
    さあ大変だ。中村の鼻はたちまちニョキニョキと伸びましたね。ピノキオのご
    とく。
     ホーッホッホッホ、この私をごらん!六十万円もするシャネルのコートを、ポン
    と衝動買いした女よ!あっぱれ日本一のブランド・バカ女! この私についてら
    っしゃい皆の者ーっ!

 まさにシャネルの意味世界の中に突入した瞬間である。中村うさぎはシャネルの高級感を買ったのである。「いくら美しいシルエットでも洒落たデザインでも、このマークが付いてなきゃ、何のありがたみもありゃしない。」というところからやはりデザインよりも、シャネルのロゴといった社会的なイメージを「60万円」という大金をはたいて買ったのだ。まさに「切符としてのブランド」がここにはある。
 
ブランドの「ディドロ効果」への疑問

 前述の『ブランド 価値の創造』においては、ブランド品を買うことはその「意味世界への入場料」であると同時に、「ブランドの選択はすなわち、同時に選択基準の選択でもある」ということが述べられている。これはブランドの「ディドロ効果」と呼ばれるものである。これは、昔でディドロ伯爵という人が、ある部屋着(ガウン)をプレゼントされ、それを身に着けるようになって以来、ディドロ伯爵書斎のインテリアが徐々に、そして最終的にはガラっと変わってしまったことに由来している。
 彼は書斎の机が、そのガウンにあっていないことに気づき、書斎を買い換えた。そして次第に、椅子、時計、絵画……とすべてのインテリアをガラっと変えてしまったというのである。これはたとえば、これは現代社会に置き換えていえば、たとえば無印良品のシンプルな家具を買った場合に、自分の家の他の派手な家具が気に入らなくなり、すべてシンプルな家具に取り替えてしまった、といったところであろうか。
 このディドロ効果に関連しておもしろい本があるので紹介したい。『ブランドの達人』である。これは3万1570人に対して行ったアンケートをもとに消費者のブランド嗜好性を徹底的に分析したものである。
 たとえば「ラルフローレンが好き」と答えた人を「ラルフローレンな人」とし、その人のブランドの嗜好性を分析する。そしてその「ラルフローレンな人」を「何につけ無難なものを選ぶ傾向が強いが、そういう自分の選択を賢い選択である、と結論付けている。特にブランドに興味はなく、よく知られ、定着しているものを自分に欲しいものとしている。」「バッグはたくさん持っている。ルイヴィトンを持っていることが多い。」「雑誌を選ぶなら、女性はファッション雑誌よりも「オレンジページ」や「サンキュ!」「週刊文春」。家計を考えたり社会を考えたり、社会問題を考えたりするのが私のあり方、と思っている。男性は当然のように「日経」の文字のついた雑誌を選んでいるが週刊誌も欠かせない」などと、ブランドの嗜好性のみならず、その人の趣味や考え方までも分析している。また、いわゆる商標としてのブランドだけに限らず、「銀座な人」「スヌーピーな人」「黒木瞳な人」なども分析しており、その趣味やブランド嗜好性について研究している。また、それぞれのブランドの差異を表現するためにブランドを「エモーショナル・マトリックス」というものの中に位置づけ、縦軸を感性の精神年齢、横軸を感性のテイスト(保守的、革新的という分類)として表している。これを見ると、エルメスは保守的であり、コーチも同じくらい保守的とされているが、エルメスは「成熟したブランド」として定着している一方で、コーチは「若い」印象を持たれている、といったことが人目でわかるブランドの地図のようなものである。Eさんの話を聞いたり、中村うさぎのエッセイを読んでみると、やはり多くの人がブランドのイメージを意識して、「記号」として消費しているのがわかる。しかし『ブランド 価値の創造』などで示されているように私たちはそれほどまでにブランドの「意味世界」を意識しているのだろうか。『ブランドの達人』で示されるように、全てのブランドはマトリックス上で表され、「このブランドはあのブランドより革新的」といったように皆が意識しているか、ということには少々疑問を抱く。ラルフローレンが好きならば「無難なものが好き」な傾向が強い、と決めてしまうにも違和感が残る。取材の過程で話を聞いているうちに、必ずしも多くの若者がブランドイメージにそれほどこだわっていない、ということが見えてくる。

人とかぶるのはイヤ!

「将来エルメスのケリーバッグが似合うようなおばさんになりたいの」と微笑んで語るのは都内の私立大学に通うTさんだ。淡いピンクのコートに黒っぽいタイトなスカートにと黒のストッキングを合わせている。高そうなカバンを手に持ち、現れた。いわゆるJJ系のファッションというのだろうか、そのファッションが見事に板についている。
 好きなブランドはエルメスだそうだ。エルメスのバッグは3つ持っている。高級ブランド品は主に親からのプレゼントとお下がりだという。
「好き、っていうよりどちらかというと憧れかな。やっぱり持っているもので、どういう人かある程度わかっちゃうから、そういうのを持ちたいっていうのもあるかな」というのがエルメスを好きな理由だそうだ。「やっぱり良いものは長く使っていても飽きないし、ある程度ステータスもある。高いけどやっぱりそれだけの魅力はあると思う」と高級ブランド品のよさについて語る。しかし、「ロゴとかが大きくついていて、一目でどこのブランドかわかるようなものはイヤ」「他人とかぶるのはイヤ」と言ったように高級ブランド品を持つことで、他人と同じような自分になってしまうことに抵抗があるようだ。また、「贋物は絶対に買わない」と断言する。「高級ブランドのイメージだけでは買わない。やっぱり自分でいいと思ったものを買いたい」というように、高級ブランドを「高級ブランドだから買う」ということはないようだ。
 これは私にとっては少々意外であった。高級ブランド品を買う人は、何かしら、その権威だとか社会的なステータスといった、「意味」を強く求めている先ほどのEさんのような女性が多いことを予想していたからだ。しかし、必ずしもそうとは言えない。やはり「エルメスのケリーバッグを持ちたい」という願望は、ケリーバッグの「意味」を買いたいとい願望ではあるものの、「ロゴの大きく入ったものはイヤ」だとか、「他人とかぶりたくない」という考え方を見るに、高級ブランドを買うことが「意味の消費」とは一概には言えないということを表しているのではないだろうか。

 高級ブランドには全く興味がない、というSさんは、
「高級ブランドの中で多少格付けみたいなのがあるかもしれないけど、全然わかんない。見れば、どこのブランドかはわかるけど、高級ブランドなら高級ブランドとして一括りにして見てる」という。彼女の頭の中には、『ブランドの達人』で示されるような緻密な、マトリクスは存在していないようだ。「高級ブランド品は周りの人からかぶるからイヤ」なのだという。「人と同じものを欲しいとは思わないな~」というのは先ほどのTさんと同じ考え方である。やはり「差異」を求めているのである。このようにブランドと「意味」を全く切り離している人もいるのである。服を買うとき「とにかく自分がいいな、と思ったものを買う」というのである。

とにかく自分の好きなものを!

 とにかく自分に似合う格好をすることを心がけているというYさんの話を聞いてみた。好きなブランドは「ルイ・ヴィトン」だという。「ルイ・ヴィトンは今の年代にある程度あってるし、あのモノグラムがすごい好きなの。いろんな格好に合わせやすいし。自分の好みとヴィトンのデザインが合ったって感じ」とルイ・ヴィトンの良さにについて語った。
 雑誌と友達の持っているものを見て、欲しい高級ブランド品を探すそうだ。「友達の持っているものでも、よほど仲の良い友達が持っていない限りは、かぶってもいい」という。理由は「いくら知り合いが持ってても欲しいものはやっぱり欲しい」から。服を買うときも「あ、かわいい」と思ったら、ある程度高くても買ってしまう。「安くてもかわいいなら全然買っちゃうよ」「ブランドに関係なくかわいいものは一杯あるし」と「かわいい」ものなら、値段は関係ないということを強調した。また、「ブランドを持っている人を見ても、あ~ブランド好きなんだ~、ぐらいしか思わないし、ブランド嫌い、って人を見ても、あ~ブランド嫌いなんだ~としか思わない」という言葉から、彼女にとっては高級ブランドがそれほど社会的な意味を帯びていない、ということが明らかになる。「伝統とかそういうことは気にしてないし、持ってて優越感とかも特に感じない」と当然のように語る。「高いものだから持ってうれしいし大事にしよう、とかは思う」という言葉からも社会的な意味は感じられない。彼女にとっては「高い」ということにのみ意味があるようだ。
 このように見てみると若者は必ずしも「ブランド」を社会的に意味のある「記号」として消費しているとは限らず、「かわいい」という価値観に基づいて高級ブランドや自分の服を選んでいる人も多く存在している。 
  そして注目すべきは彼女が繰り返し使った「かわいい」という言葉だ。実はこの「かわいい」は日本独特の価値観なのである。

か~わ~い~い~!

 「この形容詞は単にものに使われるだけでなく、考え方、話し方、振る舞いすべてに用いられ、ある意味で最高の誉め言葉だ。いとおしさを起こさせるさまざまな感情のすべてをひっくるめたものが『かわいい』という表現だ」(井伊あかり、南谷えり子『ファッション都市論』平凡社新書、2004)。
というようにこの表現は至る所で注目されている。フランスの『ル・フィガロ』紙は「kawaii」という表現を取りあげ「ノスタルジー、夢中になること。(cute)な、子供っぽい、甘ったるい、小さい、性別を感じさせない、無防備なものを示す一つのあり方。誰もが愛すべきもの、そして幼年時代へのノスタルジーを表すもの、そこから離れたくない欲望」であるとしている。
 確かに若い女性の話を聞いていると頻繁に「かわいい」という言葉を使う。若い女性が友人同士で「あ、その服かわいいね」「髪型変えたんだ~、かわいいね~」「これかわいくない?」といった会話を耳にしたことがある人、あるいは実際にこういった会話を日常的にしている人も多いのではないだろうか。そこには先ほどの『ル・フィガロ』で触れられているような「子供っぽい」とか「小さい」という意味はあまり込められていないように感じる。おもしろいもの、珍しいもの、綺麗なもの、かっこいいものなど、全てをひっくるめてまさに最高の、そして気軽に使える「誉め言葉」なのである。彼女たちの前ではルイ・ヴィトンのカバンも、キティちゃんも、ガッツ石松でさえも一様に「かわいい」という「最高の誉め言葉」で表される。「かわいい」は必ずしも小さいものや愛らしいものだけに使われるわけではない。高いものでも安いものでも、高級ブランドでもぬいぐるみでも、「かわいければいい」という感覚が若い人々の間で流布しているのではないだろうか。「かわいい」という言葉の前で、全てが並列になる。彼女たちの前ではブランドのディドロ効果も起こらない。携帯にはキティちゃんのストラップをジャラジャラとつけて、バッグはルイ・ヴィトン、それでいてアディダスのスニーカーを履いている、という人も良く見かける。そこでは既存のブランド論や、消費社会論は通用しない。

パリジェンヌはファッショナブルじゃない!?

 日本人はブランドの使い方がうまい、ということが欧米のファッション関係者の間でよく言われる、という話を聞いたことがある。日本人の感覚からするとなんか欧米の人の方がお洒落なような気がするし、雑誌のストリートスナップでもパリやニューヨークの若者のファッションが紹介されていたりする。しかしその中で高級ブランドの服やバッグを持っている人は少ないのだ。意外と、無地のTシャツにチノパン、という服装が多かったりする。とにかくシンプルな服装が多いのである。日本人はといえば服装に工夫を凝らし、重ね着をしたり個性的なアイテムを身につけたり、高級ブランドのバッグを持つなど、お洒落を存分に楽しんでいる、というような印象を受ける。日本に留学してきたフランス人が、それまでファッションにそれほど興味がなかったのに日本に来たとたん、ァッションに夢中になり始めた、ということもあるようである。日本の若者のファッションに傾ける情熱と、あふれかえる情報の中では、ファッションに興味を持たずにはいられないのかもしれない。
それでは欧米ではどんな人が、高級ブランド品を身につけるのか。答えは簡単、「金持ち」である。欧米の人たちはいかにも金持ち」ということをアピールするかのように高級ブランドを身に着けるのである。
一方日本では、TシャツにGパンにルイ・ヴィトンのバッグというスタイルも受け入れられている。これが欧米の人たちの言う「日本人はブランドの使い方がうまい」ということである。日常のファッションの中にうまく高級ブランド品を取り入れているのである。渋谷のギャル男も、中学生も、銀座のマダムも同じようにルイ・ヴィトンのバッグを持つ。これは日本人がブランドを「記号」として、というよりも純粋にファッションとして楽しんでいるから、ということをあらわしているのではないだろうか(当然高級ブランドがまったく記号としての意味を持たない、という意味ではなく、他国と比べて、という意味であるが)。純粋にファッションを楽しんでいる、というのは皆がファッションの前で平等である、ということを意味する。高級ブランドを持っていることが金持ちだということを意味しない、言うなれば「ファッションの前の平等」だ。
 「東京では、ファッションは記号としての意味を持たず、コンテクストを欠いた現象でしかない。」と『ファッション都市論』では述べられている。日本のBボーイズやBガールズは、その服装を純粋にファッションとして楽しむ。彼らはファッションとして楽しんでいるだけで、かつて白人に抑圧され続けてきた黒人のマイノリティとしての歴史への共感などといった意味ではない。雑誌で紹介されている「セレブ風ファッション」を実践する人は必ずしも本当に「セレブ」とは限らない。”No War”と書かれたTシャツを着ている中学生は特に反戦のメッセージを込めて着ているわけではない。同じように迷彩柄の服を着る原宿の高校生からも戦争支持のメッセージも反戦のメッセージも読み取ることはできない。2001年9月11日のアメリカで起こった同時多発テロの直後、欧米のデザイナーはすでに発表していたアーミー風ファッションや迷彩柄のものの商品化を取りやめた。しかし、日本ではそういった動きはなく依然として迷彩柄はただの「流行」として人気であり続けている。イギリスの階級社会への怒りを込めたカウンターカルチャーとして登場したパンクスも日本では「個性的なファッション」としての意味しか持っていない。
 
「かわいい」≒「差異」?

 そこにはファッションを純粋に楽しむ若者の姿を見ることができる。ひたすらに差異を追い求める。そして「かわいい」ものを追い続ける。先日も女性の友人が自分の服を私に見せ「これかわいくない?」と尋ねてきた。彼女のファージャケットの裏地の色が綺麗な緑色であることを強調した。なるほど、確かにちょっと変わっている。そして私は「かわいいね」と答えた。当然そうするしかなかったし、事実、それは珍しい色だった。
 彼女はそのあとも別の友人に「これかわいいでしょ?」と携帯につけているストラップを見せていた。それは何かの「確認作業」のように見えた。
 お互いがかわいいことを確認しあう、という不思議な状況。そこでの「これかわいくない?」には、他と違うことのアピールと、違うことを認めてもらいたい、という気持ちが見え隠れする。そこで「かわいい」と「違う」がほぼ同義で使用されているのではないか。
再び雑誌『JJ』にご登場いただこう。先ほどの「差がつく」という言葉の多さと同様にやはり「かわいい」という言葉も目立つ。
「OLが目指すシンプル可愛いのルール」といった特集が組まれている。
「パールとラインストーンが茶色を可愛く変化させる」「カラフルマフラーで可愛めカジュアル完成」「友達から必ず可愛いといわれるこのチョーカーはお気に入りです」など、挙げはじめたらキリがない。「可愛い」とう単語の使われている回数を数えようかとも思ったが、驚くほど出てくるので、やめておこう。とにかく「差異」と「かわいさ」がひたすらに強調される。
 その中で高級ブランドはどういった意味を持っているだろうか。日本においては、多くの女性が「差異」や「かわいさ」を求めて高いものでも安いものでもいいと考えているのは事実であるが、当然ファッションが高級感を表す「記号」としての意味を持っていない、というわけではない。

4.高級ブランドの二面性 これが新たなブランド受容の形!?

高級ブランドの二面性

『JJ』には「手っ取り早くお洒落に印象づけられるブランド小物(注:ここでの「ブランド」は「高級ブランド」という意味)はとても頼もしいもの」とある。簡単に「差異」を手に入れることができるものとして高級ブランドが位置づけられている。また、クリスチャン・ディオールのアクセサリーに関して、「かわいくて華やかな印象」と語っている。また他の女性も高級ブランド品を「上品でかわいらしくなるところが好き」と語る。こういった雑誌の記事や何人かの女性の話を聞いてわかってくるのは高級ブランドというものは「かわいいもの」と「高級感のあるもの」という二面性を持っている、ということが明らかになってくるのではないだろうか。ブランドの高級なイメージを買う人もいれば、「かわいいもの」として買う人もいる。当然その両方を得たい、という人もいるであろう。高級ブランドが豊かさを示す「記号」として強く働いている欧米にはない「高級ブランド観」が日本にはあるのだ。

村上隆とルイ・ヴィトンに見る新たなブランドの形

2002年にルイ・ヴィトンが村上隆とのコラボレーションでド派手なモノグラムやキャラクターのついたバッグを発表して世界中の人々の度肝を抜いた。村上隆は「スーパーフラット」というコンセプトの元で平板で余白が多く、奥行きがなく遠近法的な描写を排除した日本画やアニメに見られるような手法を取り入れ、現代美術を根底から覆そう、と考えている気鋭のアーティストである。現代美術にいわゆる日本の「オタク文化」を取り入れたものである。「オタク文化」と「高級ブランド」とは似ても似つかないし、ルイ・ヴィトンといえば誰もが思い浮かべるであろうあの茶色のモノグラムをド派手でかわいい色に変わってしまったのには多くの人が驚いたことだろう。しかし、それは驚くべきことではなかったのかもしれない。ルイ・ヴィトンにとって絶好の市場である日本においては高級ブランドが、「高級なもの」であると同時に「かわいいもの」として意味を持っているということを理解した上での戦略だったのかもしれないからである。なんと、その発表の前には村上隆が『Kawaii ! Vacances d’été(かわいい!夏休み)』という個展を開いていたのだ。まさに村上隆とルイ・ヴィトンのモノグラム・マルチカラーラインは「かわいい」と「高級」を手に入れられる絶好のものなのかもしれない。
 日本で高級ブランド品が売れることについて、「個性がない」とか「自信のない女が背伸びしようとしているだけだ」などといった批判的な意見も多く見られる。しかし、日本のこういった二面的なブランドの捉え方というのは世界でも珍しい。これは新しい形の高級ブランドの消費のあり方を示しているのかもしれない。
 村上隆はこう言う。
「日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまは super flat」と。
 
スーパーフラットって何? 日本文化のなぞを解く鍵がここにある!

 スーパーフラットとはいったいどういうことか。多くの人にとってはあまり耳慣れない言葉かもしれないので少々解説を加えておこう。先ほど述べたように日本画やアニメに見られるように奥行きのない、遠近法を排除した日本美術特有の概念であり、村上隆が積極的に実践している。遠近法の排除、ということはすなわち視点を一つに統一しない、カメラアイが欠落しているということである。近代以降、遠近法の発明以後の欧米の美術作品はその作品を見れば作者がどこに立っていて、どこからその絵画を描いたのかがわかる。しかし、アニメや日本画では視点が統一されていないのである。つまり複数の視点から物事が捉えられている、ということを意味する。こういった物の捉え方は美術やアニメの世界にとどまらない、ということを指摘したのが東浩紀の『動物化するポストモダン』である。オタク文化の登場以降、日本人は物事をデータベースとして捉えている、というのがこの本の主旨である。オタクの登場以降、私たちは「大きな物語」を消費しなくなった、というのだ。「物語の消費」というのはたとえば、ドラゴンボールのカードを買う際に、それは「ドラゴンボール」という大きな物語があるからこそそのカードは意味を持ち、価値を持つ、ということである。しかし、それだけでは解釈できない消費の形が近年現れてきたのである。これまでは原作の漫画が人気になり、それがアニメ化され、その結果、トレーディングカードなどが発売される、という形が主流であった。しかし、近年のオタク文化ではそれが必ずしも、そうではない。あらかじめキャラクターが作られ、トレーディングカードやマグカップ、フィギュアなどが売れてから、そのキャラクターたちが登場するアニメや漫画が登場する、ということがあるようだ。ここではアニメも、グッズも等価である、というのである。そしてそのキャラクターたちは、いくつかの「萌え要素」の組み合わせで構成されているという。たとえば「猫耳」「メイド服」「尻尾」などの「萌え要素」の組み合わせによって一つのキャラクターが形成されており、それは「作家の個性が創り出す固有のデザインというより、むしろあらかじめ登録された要素が組み合わされ」ており、「作品の強度は作家がそこにこめた物語=メッセージではなくその中に配置された萌え要素と消費者の嗜好の相性によって判断される」と東は指摘する。
 ブランドとオタクは関係ないだろ、という声が聞こえてきそうなので話を元に戻そう。この東のオタク文化に関する考察と私たちのブランドの消費とは似ている部分が非常に多いように感じる。「私とオタクを一緒にしないで!」と言う前に、落ち着いてもうしばらく読み続けて欲しい。まず「物語の消費」ということに関してだが、これはブランドの「意味世界」というものとつながる。中村うさぎなどはブランドの「意味世界」という物語を消費していたが、YさんやSさんなどは「意味世界」を気にせずにかわいいものを消費している。彼女たちはルイ・ヴィトンが貴族向けの旅行鞄を作るところから始まった、ということや、エルメスが馬具職人から次第に革製品を扱ったファッションブランドへと変容していった歴史や伝統などは全く気にしない。これはすなわち、ブランドの創り出す物語を消費せずに、その商品を「かわいい」だとか「自分で気に入ったから」といって消費する。これは物語を消費せずに「萌え要素」の組み合わせとしてキャラクターを消費するオタクたちと繋がるものがある。その消費の動機が「萌え」ではなくて「かわいい」ということの違いだけである。その「かわいさ」(≒差異)というものもある程度データベース化されているといってもいいのではないだろうか。モノグラムだとか、ボタンの色が違うだとか、裏地の色が違う、鮮やかなピンク色が使われている、などといった、ある程度お約束の「かわいい」要素の中から、選び取られて商品が作られている、と言える。そして「かわいい」という言葉の前で、すべてが並列になるという世界観こそまさに、村上や東の言う「スーパーフラット」という概念なのかもしれない。欧米では人のファッションを誉めるとき「そのセーターの色は君に似合っているね」とか「そのアクセサリーと髪型はすごい合っているね」などというように人や、他のアイテムとの関係性の中で誉めることが多い。一方日本では「そのピアスかわいいね」だとか「そのシャツの柄めずらしくていいね」といったように物それ自体を誉める。これは日本人がいかに、「大きな物語」と切り離してファッションを楽しんでいるかを表しているのではないだろうか。

日本人はファッショナブルアニマルだ! 

 これまで見てきたようにやはり日本のブランドの受容の仕方は独特のものである。そしてこれは村上の言うように「日本は世界の未来かもしれない」のだ。高級だとか安いとか、派手だとか地味だとかを気にせずに、純粋にファッションをファッションとして楽しむ日本人の姿は、社会の階層などに縛られた欧米のファッションに比べてはるかにのびのびとして、無邪気だ。東はデータベース的に消費をする人々を「データベース的動物」と名づけた。そして私たちはファッションを「動物的」に消費している。歴史や伝統、社会的な意味を切り離し、無邪気に、そして純粋にファッションを楽しむ日本人は「ファッショナブルアニマル」といえるのではないだろうか。この表現はこういったブランド消費のあり方を揶揄したものでないということは言うまでもない。

 今日も街ではファッショナブルアニマルたちが差異を求めて、ファッションを楽しんでいる。
 
 さて、今日はどの服を着て出かけようかな?

(参考文献)
東浩紀『動物化するポストモダン』2001、講談社現代新書
石井淳蔵『ブランド 価値の創造』1999、岩波新書
堺屋太一と東京大学堺屋ゼミ生『どうして売れるルイ・ヴィトン』2004、講談社
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造<普及版>』1995、紀伊国屋書店
戸矢理衣奈『エルメス』2003、新潮新書
中村うさぎ『うさぎの行きあたりばったり人生』2002、角川文庫
中村うさぎ『ダメな女と呼んでくれ』2003、角川文庫
ミシェル・リー、和波雅子訳『ファッション中毒』2004、NHK出版
南谷えり子、井伊あかり『ファッション都市論』2004、平凡社新書
WATER STUDIO + EP- engine 『ブランドの達人』2004、ソフトバンクパブリッシング
 

投稿者 加藤 : 2005年03月02日 00:55

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