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2005年07月11日
『1969年の上野高校学園闘争_2』高橋直純
第5章 闘争を成功させもの
ここまで駆け足で1969年のバリ封を頂点とする上野高校で起きた一連の改革を見てきた。そして改めて最初の問いについて考える。上野高校における闘争は比較的成功裏に終結することが出来たと言われている。教育評論家の丸山邦夫氏は1970年2月号の「蛍雪時代」の中で、上野高校の改革を「(学生の処分がなかったことと ※筆者)高校紛争における、これも(3つの要求が通ったこと ※筆者)はじめての「無血革命」といえるのかもしれない」と述べている。多くの高校で、関係学生の停学、退学、警官隊の導入という処分が行われた中で、なぜ上野高校は他校と違う形で紛争を解決できたのか。それは、多くの人が述べているように、教員の大きな理解と、セクトから離れ一般学生のシンパシーを集めることが出来た全闘委の組織としての性格によるものだと思う。
5章-1 森杉多校長と教員たち
話を聞いたすべての人が当時校長だった森杉多の人柄と教育理念によって紛争が穏便のうちに終了できたと言っていた。話を聞いたある全闘委のメンバーは「森校長はわかっていたよ。この人にはかなわない。たぬき校長の手のひらで踊らされた」と笑いながら語った。
大正4年に生まれ、教員生活の最中に「ノモンハン事件」「沖縄戦」に参加。その体験を「空白の沖縄戦記」「ノモンハン事件従軍記」として本にしている。「空白の沖縄戦記」はテレビドキュメンタリーにもなっている。山形国際ドキュメンタリー映画祭2003公式カタログより引用する。
「―空白の沖縄戦記 沖縄住民虐殺35年― 放映日:1980年11月2日 沖縄戦の最中、沖縄本島北部で起こった日本軍による地元住民の虐殺のあり方に迫る。元日本軍の通信兵として沖縄戦で戦った森杉多が、沖縄に単身赴き、被害者の遺族に会って「日本軍の犯罪」を詫びる内容。ディレクターの森口は本作の制作を振り返る中で、虐殺に立ち会った元日本兵のひとり(森)が東京で生存している事実を探し当て「何としてもこの人と会い、真相に迫らなければならない」と決意。カメラの前で取材に応じる森の口からは、戦時中の凄惨な経験が明らかになる」
戦争体験が彼のその後の教育理念に強い影響を与えたのは間違いないだろう。1994年に出された『戦争と教育』という本の中で、自身の戦争体験と教師経験が記されている。森校長は上野高校の受験勉強体制をかなり批判的に捉えており、生徒の要求を理解する姿勢を持っていた。『戦争と教育』より引用する。
「街頭の政治デモで警官隊の規制を無視したため警察に留置された者の釈放には校長がよく呼び出された。私は警察に、申し訳ないと低く頭を下げて、少しも感謝の表情などを表さず私を無言のまま睨みつける活動家を学校へ連れて帰り、保護者に引き渡すのだが、どう考えてみても活動家生徒の主張のほうが正しいと思うのだった。 -中略- 安保反対、沖縄無条件返還には私は沖縄戦を戦った一人として賛成であった。もちろん高校生が街頭に出て、ジクザグデモを繰り広げ、「安保反対」「沖縄返還」「全面返還」と叫び廻るより、学校で近現代史と政治を学び、正しい知識を父母や近隣に伝え、選挙も民主的にしてもらうほうがはるかに力になるとかんがえたけれども」
森校長の下、平均年齢が38,9歳という若い教師達が9月のうちから改革案を作成していた。紛争後、わずかな期間で校内体制を改革できたのは、そうした準備があったからであろう。
また教師の中には学生への心情的理解を示す者も多かったが、革マル、中核、民青の三派に所属する者がいなかったことも教師の統一行動をとる上で大きな助けになったとある教師は述べている。教師の中でも大きく意見が割れたそうだが、そうした教師の努力や生徒への理解なしでは、改革は上手くいかなかっただろう。筆者がインタビューをお願いした、ある紛争の解決に最も尽力した教師の手紙を引用してみたい。
「紛争のとき、教員のこわばった心がゆるみ、生徒の言うことをも聞いてみよう、分かってみようと思うように皆で動きだせたのは、職員会議の議論のなかで、私か誰かが、ボクらが高校生だったころあの戦争直後のなかで、(いわゆる「民主化」流行の時代)どんな気分で、どんな形で勉強(授業)をしたか思い出してみては?とめいめいの10代後半の頃のことを振り返り話合ったことがきっかけでした。教室・クラスの壁をとりはらうことや、自主ゼミも結構じゃないの、という考え、生徒心得などなくてもよいという発想は、こうして生まれたものだったのです。もちろん服装も自由でよいと」
バリ封から2年後72年3月に森杉多校長は都立練馬高校校長へと転任することになる。上野高校を最後に勇退する校長が多いことを考えると、これは校長人事としては異例のことだという。転任の翌年度、72年6月2日号の東叡新聞に掲載された森校長へのインタビューを引用する。
校長 そうねえ。上高を追放されたみたいでねえ。
―知らされたのはいつですか?
校長 3月27日に電話がかかってきてね。意外だったよ。校長でない教師として居残ることをたずねてみたけれど、ダメなんだね。「前例がないから」だそうだ。
―そうなったことの心あたりがありますか。
校長 全然ない
-中略―
―大変失礼になりますが、私達は先生が左遷されたのではないかと思いたくなるのですが。
校長 (真面目顔になり)そう思ってはいけないね。栄転というのも変だがね(笑い)もし君らがそう思っていて練馬の人がそれを知ったらどう思うだろう。そういうわけで俗世間ではそう思ってほしくない。でも僕自身そうなった格好に不満はない。なぜなら僕は上野を踏み台にして出世したくなかったからね。
―先生はこの間の卒業集会の時、「自由のこわさを君たちに教えてやれなかった」と、卒業生に話されましたが、そのことばから、最後に在校生に何か言ってください。
校長 上高生の中には、あらゆる束縛、統制から解放されて何でもできる状態を自由だと思っている人がいる。それは間違いじゃない。が、自由の第一段階なんだ。何でもできるということは、言い換えると何もしなくてもよい、ということになる。この第一段階のみの態度を取った人が闘争後には多いんだ。その自由は積極的な意味を持たず、高校生としてこれだけでは成長せず、無気力な状態に陥って、やがてヒットラーを望むようになる。実際、今の上高生は権力を求めているんじゃないかな。-後略―
転任の理由は、闘争後の生徒に対しての対応が甘かったためとも言われているが、真相はわからない。
5章-2 全闘委のキャラクター
当時、社会問題研究会(通称社研)と呼ばれるサークルがあった。中核派・革マル派・民青の学生が在籍しており、後に全闘委になるメンバーの多くはここにいた。
全闘委のメンバーの何人かは前年の12月ごろ中核派からオルグ活動を受けている。ある者はそのまま中核派に入り、またある者はその教条主義的な、そして学外の活動に重きを置く姿勢に違和感を覚え、入ることはなかった。中核派のリーダーも1969年春先の街頭デモの際、麹町署に拘留されてから政治的街頭活動に上高生を動員することに無理を感じ、それ以来上部機関に逆らうようになり、行動を「教育」にしぼるようになっていた。
後に全闘委のリーダーとなるこの学生が剣道部に在籍していたため、全闘委には多くの剣道部にも在籍していた。メンバー全員の段位を足すと20段を超えた。体育会系的なつながりを持っていたのは上野高校紛争の特徴だとある教師は言う。基本的には仲良しグループからスタートした。
当初は中核派だったメンバーもしだいにセクトの思想や行動様式に違和感を覚えだした。
「運動には興味はあるんだけど、彼らが戦っているものは少し違うんじゃないか。」
とあるメンバーは語った。
こうしてセクトから離れていった学生たちが、授業をサボって部室でだべったり、勉強会をしていく中で全闘委を結成するメンバーが集まっていった。コアなメンバーは夏ごろには固まっていたという。
社研に属するセクト中心の学生が運動の主導だったころには、一般の学生からは遊離しがちだったが、運動部を中心としてノンセクトの学生が加わったことによって、校内の人気を集めることができたという。当時、上野高校内には中核派と革マル派、民青の三派が存在していたが、脱中核派とノンセクト学生による「全闘委」に対してもっとも一般生徒のシンパシーが集まっていた。
ちなみにセクトの学生とノンセクトの学生の組み合わせがバリ封を起すというのは他校でもみられた。県立佐世保北高校では社青同解放派の学生と村上龍などのノンセクト学生、東京教育大付属駒場高校ではブントの学生と四方田犬彦などのノンセクト学生によってバリ封がなされている。
インタビューの最中、僕が村上龍は女子生徒に持てたくてバリ封をしたそうですよと言うと、メンバーだったある人は「その必要はなかった。僕らはもてていたから」と答えた。「どこかで、俺たちにならみんなもついてきてくれるんじゃないかという計算もあった」とも述べている。バリ封時、あるメンバーのヘルメットは、「アナーキー」を表す黒に「IS」という文字が書かれていた。「IS」とは「いいじゃないの、幸せならば」というその時期に流行った相良直美という歌手のヒット曲から取られた。セクトの大仰な漢字熟語中心の言葉より、ミーイズムから出発する率直な言葉のほうが多くの学生の共感を集めたと思う。
バリ封後も彼らは分散していったかもしれないが、けして内ゲバのような争いに陥ることもなかった。先にも記したように、バリ封後全闘委は憧れを持って入ってくる新たなメンバーを得ている。
第6章 闘争後の荒廃
上野高校におけるバリ封を含む紛争が成功したと言われているのは、以上の2点によって説明できると思う。これは、改めて僕が分析したことではなく、多くの人によって言われていることである。
バリ封は成功裏に解決し、その後校内体制は大きく改革された。多くのマスコミが注目し、そして賞賛した。では、その現実の姿はどうだったのだろうか。
まず、改革の直後から、全闘委のメンバーはこの改革は欺瞞的なものとする批判的なビラや立てカンを出している。一連の改革も最大の攻撃目標としていた文部省指導要領の枠を超えることが出来ていなかった。東京都教育指導部長の北沢弥吉郎が1969年12月の『週刊朝日』によるインタビューの中で
「結構なことだと私は思いますよ。今まで大学受験を目指す考え方が強すぎた。今の指導要領のワクからはみ出しているわけではないし、しかも従来の高校教育のワクを一歩踏み出したことを、私は高く評価しています」
と述べているように体制側も十分に認める範囲のものでしかなかった。
さらに、一般学生においてはどうだったのだろうか。卒業単位が85単位に削減されたため、3年生においては実質的に単位取得の必要性が大幅に減少した。クラスがなくなり、クラスメイト同士で顔を合わせることもなくなってしまった。登校時間もばらばらになり、ゼミ形式なので顔を合わせるのも限られたメンバーだけである。この状況は卒業するまで変わらなかった。ある人はバリ封後の学校の印象は「暗かった」と語った。
翌年から自主ゼミは徐々に衰退していく。バリ封から2年後、バリ封時2年生だった学生が卒業間近に書いた『日和見者の小唄』というレポートの中を引用する。
「現在、上野高校に〈自主ゼミ〉があるのか、ないのか、わからない。しかし、どんな形の〈自主ゼミ〉にしても、あまり歓迎を受けてないように思われる。教師にとってお荷物であり、生徒にとって重荷である。受験というような直接的利益に結びつくなら、まだやる気もするかもしれないが、それは、「学校」で〈ゼミ〉などやらなくてもことはすむ」
一般生徒がどのように闘争をとらえていたのかを知るために、1970年の交友会大会(文化祭)時に、3年生有志と新聞部が共同で行った展示のためのアンケート結果の一部を見ていきたい。全文を引用することにする。3年生とあるのは、69年には2年生だった生徒たちである。回答数は151人。
「(問) 昨年の上高闘争についてどう感じていますか
<肯定的意見>
1 いろいろなことを考えさせた点において有意義だった(6人)
2 自覚を促した、自己を意識、政治・人生観などにめざめた、あるべき高校生活、受験体制について意義があった(10人) やってよかった、すばらしい
3 意義はあったがみのりなし、運動が継続しなかった、受験という壁で思うことができない、その精神は急速に消滅せんとしている。これから維持する困難、全生徒に伝えていくことが大切、自分の意志が弱いので試験・通知表の廃止で勉強するかいがなくなった。(7人)
4 その他
・ あの闘争は絶対的に必要、必然なものであった。その後の混乱は、以前の教育から僕らが受けた「受け身」「自主的でない」ことによるもので、この混乱は当然のものだ。しかし、それをのりこえないかぎり、よく真に近代的な学校はできあがらないだろう。そして何度でも昨年の闘争のようなことがくりかえされるだろう。
・ 解放区バンザイ! 解放区の中で時間は止まる。物は存在物であることをやめ、物自体に回帰する。そしてその中でオレは支配者になる。すべての王、われこそは神ぞ。
・ 学校生活において一つのよい経験。
・ 今になるとそんな気持もわかるように思う(2人)
・ 個性を出したことは確か。バラバラの中に淘汰された人々のつながりがある。1組などはそのよい例。体制ベッタリの人に大きな転換をもたらした。私にとってもプラスだった。
・ 各人が現在行動しているならそれでよい。
・ もし闘争がなかったら、順調に受験勉強にはげんで、番付が目の前にチラついて青白くなっていただろう。ゾッとする。
<否定的意見>
1 なんの意味もなし(13人) むだ、ばかばかしい、心情三派、つまらない、一時的動揺、
しない方がよかった、今年と去年の入試状況を比較すればアキラカ。
2 一部の生徒によってなされた感じ(14人) 排他的過ぎた全闘委、傍観者多し、無関心、
無発言全校集会が多く、すみずみまでいきわたらなかった。
3 その他
・ 特に指導的立場の中のほとんどは冷静を欠き、単に一時的興奮の結果、旧体制を破壊した感がある。もし自己や皆の能力をもっと考慮に入れていたらそう簡単には起こらなかったと思う。もちろん現状の状態が悪いというのではない。もはやこうなった以上、建設的な心構えでいかなくてはなるまい。
・ 個人主義徹底のはずが、実際は全体主義復活と、利己主義の横行に終わっている。
・ ゼミは改革しなくてもできたはずで、改革以来の学力低下はひどいものだ。
・ 背伸びしすぎ、受験体制には勝てなかった。
・ 真剣に考えたものがどれくらいいるか。
・ 破壊されたものが多すぎた。
・ 自己改革なしえず。
・ 学校がバラバラになってしまった。(2人)
・ 真の改革はなしえなかった。(生徒自身が下降ぎみ)
<中間的意見>
1 闘争以来各人がバラバラになった。この状態は正常な高校生活とはいえないと思う。なぜなら高校生はまだ大人ではなく、大人の監視下にあると思うからで、正常な高校生活というものは、自由と義務がある割合で含まれている状態だと思う。
2 本質を知っているのは今3年のわずか。過去の出来事として葬り去られようとしている。五年後位には受験校上野が再スタートしようとしている。
3 今は何とも言えない。(4人)
4 今から考えると夢のように矛盾だらけだが、あのころの一つのことを真剣に考える態度はまさに若者、青年だと思う。
5 あの闘争は一部の生徒の行動が目立ったが、生徒の中にも多数の同調者がいたことは事実。本当は勉強につかれた苦痛が自分の生き方に迷った、そんなエモーションによってできあがったのではないか。
6 現在は最低の状態であるが、新しい芽が吹くときも間近か。
7 昨年ほど短時間にものを考えたことはなかった。
8 外部から熱病のように言われているが反論はできない。
9 起こるべくして起きた。「政治は力によってなされる」ということを実感した。
10 昨年のことより現状を見よ。
11 当然の結果に終わった。
12 現実ばなれしていた、日常生活に根をおろしていなかった。
13 理想と現実の差に。
14 私にはついていけなかった。
15 良悪両面あり。
16 その他。わすれた、無関心、授業がさぼれてよかった、大変楽しかった、はしかのようなもの」
この他にも、紛争の一年後、二年後に出された多くのビラやパンフレットが改革後の荒廃を指摘している。ある全闘委のメンバーは、学校郡が都立高のレベルの目的を下げるのが目的だったなら、俺たちもその貢献者として表彰してほしいよ、と自嘲気味に語ってくれた。
たしかに、前年、前々年から見られた学生の学校やそれを取り巻く社会への不満や憤り、1969年の10月にあった2週間以上に及ぶ話し合いの中で顕在化していった改革への思いがそこにはあった。だが、それらは、インタビューに答えてくれた人がいうように「徹底的な話し合いをしたからといって見えてくるわけじゃない」問題であった。
その一つとして否定できないのが、バリ封自体への憧れであろう。インビューに応じてくれたメンバーの一人は、バリ封のための要求だった面もあると語った。要求の4と5、職員会議の公開と文部省指導要領の拒否というのは、学校側も絶対に飲めないと分かっていて、だからこそ要求に入れられたという。27日の雨中の集会はバリ封の理論的根拠を得るためのものだった。9月から各地の都立高ではバリ封が頻発し、上野高校でもバリ封をしなくちゃ面子がたたないという思いもあったという。バリ封後に出された『全闘委の質的内部変革へ向けて』というビラには、
「ついでに、……〈カッコよく〉バリをはってみたかった意識が全闘委にあったことは否定できないし、野次馬めいて、まわりで見ていたのも否定できないだろう。それがバリを成功させた要因の一つを形づくっていたなら、それゆえに全闘委はまたくずれていったとも言える」
とある。「バリ封」への憧れは強かったのだろう。
そして、なにより勝ち得たものの重さであった。
「自由を与えられて、ためされた。だけどそれをみな生かしきれなかった。その後ろめたさがあるんじゃないかな」
自由を生かしきれなかったからこそ、バリ封の直後から「改革は欺瞞的だ」というビラを出し、卒業集会から「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」といいながら去っていく者がいたのだと思う。
バリ封から30年を経た現在においても、この問題は複雑な思いが交錯しあい、いまだ当時の関係者の多くは語りたがらない。同窓会でもきちんと話し合うのが憚られる雰囲気だという。紛争時3年生だった22期生が数年前の同窓会を開く際、幹事の集まり席でバリ封について話合いをしてみないかという提案がされたが、それをするにはまだ早いという理由で採用されなかったそうだ。あるクラスの担任だった教師は、何度誘われても同窓会への出席をしない。
東京教育大付属駒場高校でバリ封をした四方田犬彦は著書『ハイスクール1968』の中で、次のように語っている。
「高校でバリケード封鎖に係わった者たちは、処分のあるなしにかかわらず、もっとも感受性が敏感でしかも社会的に無力な時期に、深く傷ついてしまったといえる。各人各様であるが、いずれもその傷から回復するのに、長い試行錯誤を重ねなければならなかった。-中略― わたしもまた、敗北の興奮が過ぎ去った後に到来する圧倒的なニヒリズムを克服するために、多くの試行錯誤を重ねてきたことを、ここに告白しておくべきだろう。-中略― おそらくわたしの属していた十九期の同級生のなかでも、いわゆる一般の生徒にあっては、この事件の記憶はとうに曖昧で希薄なものと化してしまっていることだろう。だが、ひとたび関わってしまった者がそれをめぐる倫理的決着を付けるには、時として予期しないほどの長い時間が必要であることも事実であり、わたしはここに書いている文章を通して、あまりにも長い間放置されてきたわが救済という問題に帰着をつけようとしているのである」
しかも、上野高校では、幸か不幸か教職員の理解があり、ある程度改革が成功してしまった。他校のように、教職員や体制、はたまた他のセクトの所為にすることはできなかった。そんなことを語ってくれた人もいた。
バリ封の後、メンバーたちは何を思ったのか。そして30年以上を経た現在においても、語りたがらないのはなにを思ってなのだろうか。
第7章 「自主協調」
1969年10月に起きたバリ封を中心に当時上野高校であったことを見てきた。バリ封当事者だった1969年の3年生と筆者の間にはちょうど30年の年月の差がある。筆者の同級生たちでこの問題について知っている人はほとんどいないだろう。自由な校風や規則の少ない学生生活を当たり前のものとしてとらえていた。そして多くの同級生たちは、自由な校風を好きだったと思う。
だが、そうした校風も変わろうとしている。2004年度から赴任した校長主導(城善範校長)で制服を導入しようという動きがおきている。2004年度は生徒に対する説明会、職員会議でも理解が得られなかった。しかし今年、2006年度からの標準服(着用の義務はないが、行事等の際に着用が推奨される)の導入が決定した。こうした一連の動きが「校風」という無形の資産に、どのような影響を与えるだろうか。卒業生からは多くの反対の声が上がっている。
2005年7月、筆者は母校を訪れ、この問題について副校長先生に話を聞いた。制服(標準服)導入の理由は、曰く「TPOにあった服装を教える必要が教師にはある」「自由には責任がともなう」「標準服なので、着たくない生徒は着なくてもよい」「制服(標準服)があるからといって、自由がなくなるわけではない」「在校生や受験生には制服へのニーズがある」「80年の歴史の中で、制服がないのは30年に過ぎない」「周囲の人の学校に対する目が厳しくなっている」などなど。どれもそれなりに正しく、否定するのは難しい。だが、やはりそうした主張の裏に管理への意思が感じられる。
副校長への取材の中で、何度も反論したい場面があった。議論をすることがこの場の目的ではないので控えなければという思いもあったが、それ以上に上手く言葉にすることができなかった。一年近い間、多くの人に話を伺い、資料にあたりながら、この問題を考えていながら、上手く言葉にすることが出来なかった自分自身の不甲斐なさを感じた取材だった。
そうした筆者個人の問題とは別に、「自由」というものを語ることには、固有の困難さがつきまとう(ちなみに、副校長は本校の教育目標の中には「自由」はないと言っている)。制服があったとしても、高校生活というのはそれほど変わらないのだろう。一見すると、現在の校長の言うとおり制服を導入することによって得られるメリットのほうが大きいのかもしれない。制服を着ないですむ、着ないことを選択できる自由から僕達はいったいなにを得てきたのだろうか。現在においてもそれを上手く言葉にすることが出来ない。だが、高校生として上野高校で感じることのできた自由のもつなにかは掛け替えのないものであるという確信はしている。
このルポルタージュを書き終えようとしている今、拙い手つきながら「自由」というものを真剣に考え、そして行動した1969年の高校生、それを誠実に受け止めようとした教師たちの凄さを感じている。当事者たちが意図したものがどの程度達成できたかは別としても、上野高校がもつかけがいのない校風の源泉は確かにここにあると思う。少なくとも30年後の筆者と、そして同級生たちに有形無形の影響を与える程度には息づいていた(おそらく現在の在校生にとっても)。そのことをインタビューの最中、バリ封メンバーだった人に話したら、「恨まれてなくて良かった」と言った。執筆を終えて、改めて69年の出来事に感謝したいと思う。
終わりに代えて
本ルポルタージュは、1969年に都立上野高校で起きたバリケード封鎖とそれに付随する出来事を、残された資料・証言を元に、同校の卒業生で取材・執筆時23歳であった筆者がまとめたものである。2004年に開講された東京大学先端科学技術研究センタージャーナリスト養成コースの課題として書かれた。2004年10月に「1969年の上野高校学園闘争(前半部)として未完のまま、同コースのウェブサイトに掲載されたものに、加筆・修正されたものである。前半、後半という区切りはなくし、本作をもって完成とする。多くの人にご協力を頂いた。改めて深く感謝したい。また、完成がここまで遅れてしまったのはひとえに、筆者の怠惰による。関係者には謝罪する。
コースの課題として、ルポルタージュの執筆が与えられた時、母校の学生闘争をテーマにしようと思った直接のきっかけは、OBとして顔を出した部活の練習の際に聞いた制服導入問題である。どのような高校生活をおくるかは在校生自身が決めればよいと思う。だが、彼らが上高の自由な雰囲気を残していこうとするのならば、本作がわずかばかりのエールになればよいと思いながら執筆した。
本作の最後の取材は母校での副校長へのインタビューだった。繰り返しになるが、在学中に母校で感じた「自由」の価値を上手く喋れず、己の不甲斐なさを実感させられるものだった。語りづらいものを語り続けようとする意思と能力。それらがなければ、「自由」のようなものは守れないだろうと実感した。
参考文献
村上龍1987年 「69」 集英社
秋葉安茂1987年「学校の草 近代文芸社
四方田犬彦2004年「ハイスクール1968」 新潮社
東京都上野高等学校研究部1972年「資料 上野高校の教育改革」
東京都立上野高等学校1969年「自主ゼミ実施集録」
図書サークル1976年「自主ゼミ再考察 -昭和51年度 東叡祭参加作品―」
東京都立上野高等学校1994年「創立70周年記念誌 うえの」
森杉多1976年「自主ゼミ創出 -希望の教育-」 学事出版株式会社
校友会誌「創」委員会 1969年「校友会誌「創」昭和43年度」
校友会誌「創」委員会 1970年 「校友会誌「創」昭和44年度」
森杉多1994年「戦争と教育-ノモンハン・沖縄敗残兵の戦後―」 近代文芸社
柿沼昌芳・永野恒雄・田久保清志 1996年 「高校紛争」 批評社
大内文一・小川吉造・武石文人・山領健二1983年 「学校新聞からの証言」 新評社
杉本一1988年「高校生「第九」を唄う アア高校紛争」
中沢道明1971年「高校紛争の記録」 学生社
1969年「世界は業火につつまれねばならない」 しいら書房
投稿者 高橋 : 2005年07月11日 09:01
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トラックバック時刻: 2007年05月09日 04:12
コメント
24期生の者です。NET上でたまたま拝見しました。
昔の出来事を丹念に良く調べたと感心しています。
ここに書き込むと高橋様に連絡が出来るのでしょうか?よく仕組みがわかりませんが・・・
投稿者 小野 : 2005年08月09日 08:53
コメント誠にありがとう御座います。
小野さんがコメントを書いていただくときに記していただいたメールアドレスに私からメールいたしました。
宜しくお願いいたします。
投稿者 奥@管理人 : 2005年08月12日 22:13
こんにちは。テキスト読ませていただきました。
僕は、その世代なんですが、単なるナツメロや過剰な思い入れではなくて、事実を丁寧に追ってる方法を嬉しく思いました。
最近、若い世代に、当時の事を聞かれるのですが、68年以後に生まれた子たちばかりなので、僕らが戦争中の「アッツ島玉砕」みたいな話を聞かされたのと同じ感じになると思い(笑)ほとんどまともには話しません。ただ、68年から69年以後の出来事は、その後の日本社会の方向を、はっきり決めた時代なんだと思います。そこで否定されたものは社会から排除され、そこで勝利したものがバブルへと突入していきます。
もういちど「何が否定されたのか?」という問いかけは、現在、意味があるのかも知れません。
僕自身は昨年「風のアジテーション」という69年小説を書きました。(角川書店です)。執筆は、ナツメロをするつもりはなく、その時代に否定されたものを思い出すための行為でした。
んで、僕は今「オンブック」という出版ソリューションを開発運営しているので、高橋さんのテキスト、書籍化しませんか?
投稿者 橘川幸夫 : 2005年09月27日 06:42
秋葉安茂著「学校の草」を検索していたところ、たまたま興味深いこの資料に出会いました。早速コピーして「学校の草」と平行して拝読しましたが、読み物として小説の方よりずっと面白かったです。お陰で当時のことがありありと蘇ってきました。というのも私は22期生で紛争時には3年4組に在籍しており、この紛争の火付け役となった人物と同じクラスでした。確か西洋史の授業中でしたが、いきなり勉強机を並べ替えて、その人物がお前はなんのために教師をやっているのか?」と厳しい質問を投げかけ、顔面蒼白になった先生が「それは食べていくためだ、、、」と小声でぼそぼそと答えたのを今でもはっきりと覚えております。当時の私はノンポリでしたから傍観者に過ぎず、学園紛争については複雑な思いがありました。30年経った今振り返って考えますと、紛争もさることながら、高校でゼミ方式の授業などの貴重な体験ができたのは良かったと思っています。そもそも紛争前から上校はかなり自由な校紀で蛮カラな学校と言われていましたけれど。制服だって、元は男子校だからですが、私たちが最初の学校群制で入るまで女子にはなかったのです。つまり私たちの学年から女子生徒のために制服(これがとてもスマートで格好良かった)が創られたのでしたが、紛争後はなくなったので、この素敵な制服は私たちのためにわずか3年間だけ存在したわけです。
とにかく良くお調べ下さって感謝しています。今でも付き合いのある同級生にこのテキストのことを話したら、皆是非読みたいと手を挙げているので、コピーをあげることにします。
ところで、紛争問題とは別のことですが、私が卒業時から抱えている疑問が一つあります。高橋さんがご存じかどうか分かりませんが、もしやと思いお尋ねします。高橋さんも書かれているように卒業式は分裂卒業式となり、個人的にはけじめも付かず、あまりいい思い出ではありませんが、疑問はその卒業式で配られた卒業生リストのことです。上野高校にはかなりの在日朝鮮人(恐らく2世か3世)がいたようで、ようでというのは彼らのほとんどが在学中は日本名を名乗っていましたからその実態は知りませんでした。もちろん在学当時から本名を名乗っていた人もいましたし、数年前に話題になった映画「GO」( 金城紀原作)と同じような恋愛問題を抱えていた友人もいましたので、それ自体は個人的にどうということではありません。問題は、その卒業生名簿がなんと実名(朝鮮名)で記されていたのことです。それを見たときは正直言ってびっくりしました。誰が誰なのかさえわからないのです。ですから知っている筈の名前が見当たらないと、彼女も彼も、と内心で勝手に判断した訳ですが、その後このリストについては友人たちの間でも今日までまるで暗黙の了解のように触れられることはありませんでした。そこで私が疑問に思うのは、卒業後35年の間に何度が同期会があっても名簿は在学中に使われていた日本名で書かれているし、一体あの名簿はなんだったのかということです。聞くところによれば、当時在日朝鮮人社会には実名を出す運動のようなものがあったらしいのですが、それにしても、実名を載せても誰が誰かもわからないのでは意味がないのに、何故、誰の意志であのリストが作られたのか? ずっと気になっております。紛争とは直接関係ありませんし、これは大変微妙ですが、当時を知る上で重要な問題です。もし何かご存じのことがあれば是非教えてください。
因みに四方田犬彦が「ハイスクール1968」で、彼が当時関心を持った上野高校出身で韓国籍の宮田まり子(故人)という女性に触れていますが、彼女は私と同じクラスでした。そもそも私が今頃になって同時のことに関心を持っているのも四方田犬彦氏の「ハイスクール1968」がきっかけです。
投稿者 スズキマツコ : 2006年03月07日 16:26
秋葉安茂著「学校の草」を検索していたところ、たまたま興味深いこの資料に出会いました。早速コピーして「学校の草」と平行して拝読しましたが、読み物として小説の方よりずっと面白かったです。お陰で当時のことがありありと蘇ってきました。というのも私は22期生で紛争時には3年4組に在籍しており、この紛争の火付け役となった人物と同じクラスでした。確か西洋史の授業中でしたが、いきなり勉強机を並べ替えて、その人物がお前はなんのために教師をやっているのか?」と厳しい質問を投げかけ、顔面蒼白になった先生が「それは食べていくためだ、、、」と小声でぼそぼそと答えたのを今でもはっきりと覚えております。当時の私はノンポリでしたから傍観者に過ぎず、学園紛争については複雑な思いがありました。30年経った今振り返って考えますと、紛争もさることながら、高校でゼミ方式の授業などの貴重な体験ができたのは良かったと思っています。そもそも紛争前から上校はかなり自由な校紀で蛮カラな学校と言われていましたけれど。制服だって、元は男子校だからですが、私たちが最初の学校群制で入るまで女子にはなかったのです。つまり私たちの学年から女子生徒のために制服(これがとてもスマートで格好良かった)が創られたのでしたが、紛争後はなくなったので、この素敵な制服は私たちのためにわずか3年間だけ存在したわけです。
とにかく良くお調べ下さって感謝しています。今でも付き合いのある同級生にこのテキストのことを話したら、皆是非読みたいと手を挙げているので、コピーをあげることにします。
ところで、紛争問題とは別のことですが、私が卒業時から抱えている疑問が一つあります。高橋さんがご存じかどうか分かりませんが、もしやと思いお尋ねします。高橋さんも書かれているように卒業式は分裂卒業式となり、個人的にはけじめも付かず、あまりいい思い出ではありませんが、疑問はその卒業式で配られた卒業生リストのことです。上野高校にはかなりの在日朝鮮人(恐らく2世か3世)がいたようで、ようでというのは彼らのほとんどが在学中は日本名を名乗っていましたからその実態は知りませんでした。もちろん在学当時から本名を名乗っていた人もいましたし、数年前に話題になった映画「GO」( 金城紀原作)と同じような恋愛問題を抱えていた友人もいましたので、それ自体は個人的にどうということではありません。問題は、その卒業生名簿がなんと実名(朝鮮名)で記されていたのことです。それを見たときは正直言ってびっくりしました。誰が誰なのかさえわからないのです。ですから知っている筈の名前が見当たらないと、彼女も彼も、と内心で勝手に判断した訳ですが、その後このリストについては友人たちの間でも今日までまるで暗黙の了解のように触れられることはありませんでした。そこで私が疑問に思うのは、卒業後35年の間に何度が同期会があっても名簿は在学中に使われていた日本名で書かれているし、一体あの名簿はなんだったのかということです。聞くところによれば、当時在日朝鮮人社会には実名を出す運動のようなものがあったらしいのですが、それにしても、実名を載せても誰が誰かもわからないのでは意味がないのに、何故、誰の意志であのリストが作られたのか? ずっと気になっております。紛争とは直接関係ありませんし、これは大変微妙ですが、当時を知る上で重要な問題です。もし何かご存じのことがあれば是非教えてください。
因みに四方田犬彦が「ハイスクール1968」で、彼が当時関心を持った上野高校出身で韓国籍の宮田まり子(故人)という女性に触れていますが、彼女は私と同じクラスでした。そもそも私が今頃になって同時のことに関心を持っているのも四方田犬彦氏の「ハイスクール1968」がきっかけです。
投稿者 スズキマツコ : 2006年03月07日 16:26