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<copyright>Copyright (c) 2005, 高橋</copyright>
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<title>『１９６９年の上野高校学園闘争＿１』高橋直純</title>
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<summary type="text/plain">序章　都立上野高校 　台東区上野公園の一角にある都立上野高校では、かつて学園闘争があった。１９６９年のことである。「全日制闘争委員会」という名の有志学生が学校の一部をバリケード封鎖し、５項目の学校改善を要求した。その結果、自主ゼミナールの単...</summary>
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<name>高橋</name>


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<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong>序章　都立上野高校</strong><br />
　台東区上野公園の一角にある都立上野高校では、かつて学園闘争があった。１９６９年のことである。「全日制闘争委員会」という名の有志学生が学校の一部をバリケード封鎖し、５項目の学校改善を要求した。その結果、自主ゼミナールの単位認定、生徒会・生徒手帳の廃止などが達成された。上野高校だけではない。１９６９年は高校生にとって闘争の年だった。各地で高校紛争が起きたが、その多くは学生の要求が聞き入れられることなく一方的な処分や、時には警察の介入によって、問題の根本的解決には至らないままに終わっている。上野高校は数少ない学校側、生徒側にとっても比較的円満解決だったと言われている。多くのマスコミでも好意的な記事が出た。<br />
　<br />
　現在でも、上野高校は「自主協調」という校訓とともに、リベラルな校風が個性的な学生を多く惹きつけている。制服も校則も生徒手帳もない。生徒会もなく、体育祭や文化祭などの行事はその度ごとに有志が集まって企画した。このようなシステムになったのも１９６９年のバリ封がきっかけである。<br />
　<br />
上野高校の卒業生である筆者が、学園紛争があったことを知ったのは、偶然図書室で一冊の記録集を見つけたことによる。紛争から３年後に研究部(紛争後に進路指導部が改編された組織)の教師達によってまとめられた『資料上野高校の教育改革』という名の資料には、当時のビラや学校側の配布物などが詳細に記録されている。ほとんどの学生に見られることなくひっそりと所蔵されていた。</p>

<p>精読すると、編者の誠実な姿勢が伝わってくる。教職員側の作成した記録であり、そのまま鵜呑みにするべきではないのは分かっている。だが、少なくとも上野高校にとっては公式にも、学園紛争は恥ずべき過去として記録されていない。その資料からは、教職員と学生が一緒になって学校を良くしようとした運動の一環として、真摯に出来事を記録しようとする意思が感じられた。他にも当時の職員が紛争に関する本を何冊か残している。</p>

<p>本作品は、そうした記録とともに当時の学生や教職員へのインタビューなどによって１９６９年に上野高校であった学園闘争を改めてみていこうとするものである。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p><strong>第１章　「改革、革命」のリアリティ</strong><br />
現在において政治的な「運動」がもつ意味はどのようなものなのだろうか。多くの人にとっては、リアリティのある言葉ではないと思う。筆者の大学でも、構内で時折某セクトの演説やタテ看板を見かけるが、多くの人は素通りして行く。筆者もその一人だ。そのことに対して、さして後ろめたさも感じない。ましてや、高校生にとっては想像の埒外であるだろう。<br />
<strong><br />
１章－１　１９６９年の空気</strong><br />
　１９６９年ではまだそのような状況ではなかったという。多くの若者が政治や社会情勢を若者なりに真摯に考えていた。なにより世の中に変革の可能性を感じさせる空気が漂っていて、それが政治への希望を持つことを可能にさせていた。村上龍が自身が１９６９年に佐世保北高校でのバリ封を描いた小説『６９』の冒頭から当時の雰囲気を感じさせる部分を引用してみる。</p>

<p>「１９６９年、この年、東京大学は入試を中止した。ビートルズはホワイトアルバムとイエローサブマリンとアビーロードを発表し、ローリング・ストーンズは最高のシングル『ホンキー・トンク・ウイメン』をリリースし、髪の長い、ヒッピーと呼ばれる人々がいて、愛と平和を訴えていた。パリではドゴールが退陣した。ベトナムでは戦争が続いていた。女子高生はタンポンではなく生理綿を使用していた。　－中略―　この頃は、受験勉強をする奴は資本家の手先だという便利な風潮があったのも事実である。全共闘はすでに力を失いつつあったが、とにかく東京大学の入試を中止させてしまったのだ。何かが変わるかもしれない、という安易な期待があった。その変化に対応するためには、大学などを目指していてはだめで、マリファナを吸う方がいい、というようなムードがあった」</p>

<p>　当時教師だったある人は、僕に「６０年代末期の青年を内外から動かすロマンティシズムとリアリズムの問題」を読み解く必要性を指摘する。１９６９年には、世の中が大きく変わるかも知れないと感じることができた。そして、その可能性は政治への意識がリアリズムの範疇にあることを可能とさせた。実際にバリ封に参加したメンバーの一人も次のように語っている。</p>

<p>「ノンポリ(ノンポリシー)だったやつは未だに気分的に信じていない。右だろうが左だろう関係なかった。なんか世の中変わるんじゃないか。もしかしたら幕末のような時代に生きているんじゃないか。俺達はなんの力もないけど、この活動をしていくと世の中が変って、高校だとか大学とかの制度そのものが変わっていくんじゃないかという希望をもっていた」</p>

<p>　現在の政治運動とは格段の差が、１９６９年のそれとは格段の差があった。そのことを念頭に置かないと、１９６９年の出来事を正しく理解できない。<br />
<strong><br />
１章－２　高校生の政治活動</strong><br />
　高校紛争については、記録も少なく当時の正確なデータを把握するのは難しい。ここでは『高校紛争　STUDENT POWER』という本の記述を中心として、当時の状況を掴んでいきたい。以下、１章－２では特に記述のない場合はこの本を参考にした。<br />
　編者の一人の都立高教師永野恒雄は「高校紛争」の基点は６７年にあると分析しており、この年に関西の高校で起こった２つの紛争を紹介している。これらの事件に先立つ例としては、１９６７年の上野高校新聞部が発行する学内紙・東叡新聞３月１７日号が取り上げた、１９６４年に福岡県立修猷館高校定時制でおきた反戦活動をした生徒への退学処分への抗議事件があげられる。見開き２面全部を使った特集記事は、見出しの横には次のようなリード文が載せられている。</p>

<p>「平和を願って署名活動をしたことが事の原因で、学校と生徒の対立が始まり、ついには原告の奴留田(ヌルユ)文子さんは退学処分ということになってしました。そこで奴留田さんは不当に思い、学校側を相手取って福岡地方裁判所へ訴えました。現在も裁判は進行中です」</p>

<p>記事の最後には「実行力と忍耐力を」と小見出しがあり、</p>

<p>「なぜもっと動こうとしないのだ。なぜもっと真剣に平和を考えようとしない。なんだってそうだ、この学校には勝手なやつばかりいる。大事には総会には耳を傾けようともせず、ただ一部のものに流される。まるっきり衆愚政治だ。　―中略―　みんなは卑怯だ。あまりにも勝手すぎる。利己的だ、ここに自分の正しさを主張して裁判までしている人がいるではないか。もっと視野を広くもて、世界は動いているのだ。その動きを見極められずにいると取り残されてしまう。平和のためにも、正しい事を行うためにも、強い忍耐と実行力が必要だ。これは必ず真の幸福を導くだろう」</p>

<p>と締めくくられている。</p>

<p>　１９６８年３月には福島県立福島高校で卒業式の送辞が当初予定されていたものから、ベトナム反戦を訴えるものにすり替えられるという事件がおきた。１９６８年８月２７日には東大安田講堂で大阪府立市岡高校と都立戸山高校の生徒が中心になった高校生による反戦集会が開かれた。翌２８日の朝日新聞を引用する。</p>

<p>「全国高校生１０・２１闘争実行委員結成大会が二十七日午後、東京・本郷の社学同、革マル派など反代々木系学生が占拠している東京大学安田講堂で開かれた。高校反戦など高校生の反戦組織から百五十人(東京、大阪を中心に約百校)が参加し、十月二十一日に予定されている国際反戦デーに高校生独自の闘争を展開することを申し合わせたほか、委員長に小川敏雄君(大阪・市岡二年)を選んだ」</p>

<p>　１９６８年９月には大阪府立市岡高でPTA会費問題に端を発する校長室占拠事件が発生する。発生から約１２時間後に占拠はとかれ、立てこもった生徒は校外に退散した。これが初めての高校での「占拠」事件となる。１９６９年１月都立新宿高校定時制でバリケード封鎖(未遂)騒動が、東京で初めて発生した。３月には各地で「荒れる卒業式」となり、都内でも３８校の高校中学で騒ぎが起きた。上野高校でも分裂卒業式となった。<br />
　１９６９年は高校闘争の最盛期となる。元東京都教育長指導部長の北沢弥吉郎『東京の高校紛争』によれば、１９６９年９月から１２月までの間に「紛争」が発生した都立高校は３１校、封鎖が行われたのは２４校である。しかしこの２４校には上野高校の封鎖が含まれておらず、２５校というのが正確な数字だろう。ちなみに当時の都立高校は全部で１４９校である。もっとも深刻だったといわれる都立青山高校では６１日にわたって授業が行われなかった。<br />
　１９６９年１２月以降、高校紛争は急速に沈静化していった。沈静化が進んだ要因の一つとしては行政側による取締りの強化があげられる。１０月２５日の朝日新聞には「指示従わぬ生徒は　退学を含む強い処分を　高校紛争授業正当化ねらう」という見出しのあと、</p>

<p>「高校の封鎖や授業中止が続出している都立高校の紛争に対処するため、東京都教育委員会は二十四日『紛争を早期に解決し、授業を正常に戻すためには学校長の異動や都教委独自に機動隊導入の要請も考える』との『授業正常化についての基本方針』をはじめて発表した。この基本方針にもとづき、野尻高教都教育長は同日、全都立高校長に対し『一部生徒の不法な行為は断じて許すな。学校の指示に従わない生徒は退学、停学の処分を』との強い通達を出した。生徒の処分を指示したのは今回がはじめて」</p>

<p>とある。１０月３１日には「高等学校における政治的教養と政治活動について」という名の「文部省見解」がでる。</p>

<p>「学校の教育活動の場で生徒が政治的活動を行うことを黙認することは、学校の政治的中立性について規定する教育基本法第八条第二項の趣旨に反することになる〈第四の１〉」「国家・社会の法や秩序に違反するような活動や暴力的行動については、常に厳然たる態度で適正な処分を行うべきである〈第四の３(４)〉」</p>

<p>　生徒の政治活動に理解を示すこと自体が、教育基本法に反するというわけである。青山高校では９月１４日、日比谷高校では１０月２８日に警官隊が導入された。<br />
７０年に入ってからは４校でのみ紛争に突入した。『高校紛争』の中で永野は次のように記す。</p>

<p>「高校紛争は、教育行政の強硬姿勢によって、具体的には警察力の導入と関係生徒の処分によって収束した」</p>

<p>こうして７０年以降、急速に高校生の政治活動は減少していき、それ以上に政治に対する関心も失われていく。<br />
<strong><br />
第２章　１９６９年の上野高校</strong><br />
　次に、上野高校の当時の状況についてみていきたい。６０年代は都立高全盛の時代であった。日比谷高校、西高校、戸山高校などの名門高校が東大合格者出身高校ランキングで上位を占めていた。下町の進学校として上野高校もその例に漏れず、東大に何人合格するかが毎年年度末の話題になり、６４年度には東大合格者４０人となり全国ベスト１０にランクされた。上野高校の前身は旧制市立二中であり、ナンバースクールと呼ばれた日比谷高校や西高校などの旧制府立中学校が前身の高校への対抗意識も伝統的にあった。<br />
　当時の受験体制を知るために、『上野高校創立７０周年記念誌うえの』の中から６９年２年生だった生徒の発言を引用してみる。</p>

<p>「入学時に、志望校はどこだと言われて東大と書かないと、非国民扱いされる(笑)」「上野高校の場合は、だいたい三年間のことを二年弱で終わらせるということ」「駿台予備校の模擬試験と上野高校の普通の定期テストの平均点で駿台の方が高いようであれば問題が悪いと豪語していた」</p>

<p>１９６１年度に校内で発行された歌集には次のような遊び歌が掲載されている。</p>

<p>「上高ブルース<br />
１　　常磐京成に乗せられて<br />
　　　ゆられゆられて行く先は<br />
　　　その名も名高き受験校<br />
　　　東京都立上野高校<br />
２　　上野の森のヘイの中<br />
　　　そこに地獄があろうとは<br />
　　　夢にも知らぬシャバの人<br />
　　　受験地獄の一丁目」</p>

<p>　こうして加熱する一方の受験体制は、しだいのその弊害が社会問題化していった。当時、新入生の間では毎年上級生の中で受験を苦に屋上から投身自殺を図った人がいるという噂がまことしやかに流れていた。６８年の卒業式間近に出された『声明』と題されたビラより、当時の学生生活を学生自身がどのようにとらえていたかを見てみたい。</p>

<p>「この３年間――即ち１９６５年から１９６８年、私達にとっては１５歳から１８歳――は一体何だったのだろうか？　私達はその問いを繰り返す。それは充実した日々だったろうか？　不毛の歳月だったろうか？　総体として見るならば、上野高等学校の生徒にとっての最大関心事は「大学」であり、それ以外の何ものでもなかった。３年間、ひたすらこの「大学」のみを唯一の現実と認識し、その他一切に参与することを拒絶し続けるのである。きわめて狭量な現実認識の上に立って、無関心の、無感動の、無責任の日々を送った者がいないと誰が断言できる？」</p>

<p>　こうした加熱を極めた受験体制を緩和する目的で６７年から導入されたのが、都立高校入試における「学校群制度」である。簡単に説明すると、都立高校を地区ごとに二～四校のグループに分け、地区の生徒には特定の高校ではなく、その「群」を受験させる。合格圏内に入れば、機械的にそれら二～四校に配分するというものだ。上野高校は白鴎高校と第５２郡学校群を組むことになった。ちなみに１９４９年まで上野高校は男子校、白鴎高校は女子校であった。<br />
　学校群制度により「・学校の格差がなくなる。・高校受験の過当競争の緩和。・過激な校風の是正。(東叡新聞６６年９月２４日号より)」が成果として達成させられると言われていた。学校群制度の影響はすぐに現れることになる。学校群制度導入後は各都立高の進学実績、端的にいうと東大合格者数が目に見えて減少していった。都立高校が進学において遅れをとるようになるにつれ、私立高校受験の厳しさが増していった。学校群制度導入の経緯について取材した元毎日新聞記者で法政大学教授の奥武則は著書『むかし〈都立高校〉があった』の中で「都立高校の自由で個性的な学校文化は失われ、逆に受験戦争は過熱化した」と指摘している。学校群制度は８２年まで続いた。ちなみに現在では都立校入試での学区制限は全てなくなっている。</p>

<p>　学校群制度で入学してきた学生は多くの困難を抱えることとなる。郡で選抜されるため、上野高校を第一志望としなかったのに入学してきた生徒もいた。学校群のペアとなった白鴎高校は旧制府立一女であり、特に女子には白鴎を希望しながらも上野高校に来ざるを得なかった者が多かった。<br />
　また、総じて学校群制度で入学してきた生徒はそれ以前の生徒に比べると学力が劣る傾向にあった。６８年には学力低下が顕在化し「上野高校の曲り角」だとの認識が広まっていく。教師はそれまでの名門校としてのプライドもあって、以前と比べるような形で叱咤激励することも多かった。教師だけでなく上級生も全校集会の席などで、上野高校の伝統を守らねばならないとアジテーションのような演説をすることもあった。学校群制度ではじめて入った学生の一人は、暖かく歓迎されて入学したという印象はないと述べている。当時の教師の一人は、そのことが生徒に鬱屈とした感情を抱かせてしまったと語った。<br />
　学校群以前に都立新宿高校の生徒だった筆者が書いた『むかし〈都立高校〉があった』という本のタイトルも、学校群以前の都立高校が本当の都立であり、それ以降は都立高校ではないという意味でつけられている。学校群以前を知る者たちの、そのような意識が学校群制度で入ってきた学生へのプレッシャーになったのは間違いないだろう。</p>

<p>　新聞部発行の『東叡新聞１９６８年９月２２日号』にはアンケート特集「教師と生徒の関係は？」が組まれている。特集は次のようなリード文で始まっている。</p>

<p>「現在、全国で約五十校の大学が「学園紛争」の状態にある。その原因は複雑で一言では言えないが、教授と学生間の相互信頼の欠如がその一つであることは疑うことのできない事実であろう。そしてまたこの相互信頼の欠如は高校においても例外ではない」</p>

<p>「現在の先生・生徒間の関係に満足か？」という問いに対しては</p>

<p>満足している　一年５２％　二年１９％　三年３８％　教師２０％<br />
満足していない　一年４２％　二年７８％　三年５９％　教師８０％</p>

<p>となっている。<br />
　２年生が際立って満足をしていないと答える割合が高い。この学年が学校群制度入学者第一期生であり、３年生となる翌１９６９年に闘争当事学年となった。<br />
　また「学園紛争の原因は？」という問いに対しては、数字の記載はないが「相互理解の不足、対話の不足」が原因として最も多くあげられている。<br />
　６９年に都立の各校でバリ封の主体となる３年生は学校群制度で入学してきた最初の生徒たちだった。</p>

<p><br />
<strong><br />
第３章　上野高校学園紛争<br />
３章―１　バリ封にいたるまで　</strong><br />
　学園紛争のピークは多くの高校で１９６９年９月から１２月の間にくることが多かった。しかし、当然のことだが、突然校舎がバリケードで封鎖されるわけではない。まずはバリ封の前年度に当たる１９６８年３月までを見ていきたい。<br />
　<br />
◎１９６７年度<br />
　この年、バリ封時３年生となるが学校群制度一期生として学生が入学してくる。最初の教師と生徒の目立った対立としてあげられるのが１９６７年のサンダル問題である。６月に生徒の規律向上のため、学校側が上下履きとしてサンダルを禁止することに端を発するこの問題は、３年生の有志が抗議行動を起こしホームルーム決議による白紙撤回要求が出されるにいたった。しかし学校側は決定事項を撤回しないことを全校生徒に伝える。３年有志は全校集会への発展を望んだが、禁止の決定は覆らなかった。<br />
　また、１９６８年は２月１１日に建国記念日が制定されたはじめての年だった。この問題を話し合うために全校集会が開かれた。２月１１日を祝日とすることは国家による反動的行為であるとし、抗議のための同盟登校(休日だが抗議の為に登校すること)が提案されるも、結果的に否決された。<br />
　サンダル問題で抗議行動をした３年生有志は、卒業式で反戦バッチをつけ、「君が代」斉唱時に起立しないという行動をとる。式後、校長・学年主任・学級担任および卒業生一同に『声明』文章を手渡した。一部を引用する。</p>

<p>「生徒の己に対する信頼を要求するのみで、生徒の言動には一遍の信頼すらもかけようとしない教師を私たちは許すことはできない。私達には、教師はわれわれとともに在るという意識を持ち得ないことに対する焦燥感がある。教師と生徒との間に亀裂が存在することは不幸なことだと私たちは考える。私達の志向が教師によって繁く阻害される事実の中に、その不幸は集中的に表れている。－中略―　学友諸君！　教師のみなさん！　私達は根無し草だ。だが私達は雑草だ。右声明する」</p>

<p>　この「根無し草」という表現は当時の上高生を表現する比ゆとしてしばしば使われていた。当時社会科教師だった秋葉安茂は後に『学校の草』という題で、学園闘争を題材とした小説を発表している。<br />
生徒会活動の沈静化が進んでいた中、この事件は下級生たちに強烈な印象を与えた。</p>

<p>◎１９６８年度<br />
　学校群制度になって２回目の生徒が入学。学力低下が顕在化し、現状は「上高の曲がり角」だとの認識が教師の間で出だす。この年、闘争の解決に大きな影響を与える校長森杉多が新たに赴任してきた。森校長は「根無し草」の高校生を内面から知りたいとして３年日本史を週４回担当し、昼食時には生徒を数名ずつ読んで雑談をした。<br />
　１１月３０日は全都反戦闘争実行委員会主催の高校生による反戦集会が開かれた。上野高校からも約２０人の生徒が参加。上高教師も様子を見に行ったそうだ。<br />
　翌年１月１９日には全共闘が立てこもっていた東大安田講堂が「落城」。その様子が校舎の窓から見えた。上野高校から東大本郷キャンパスは歩いても１５分ほどの距離である。多くの卒業生もいたため、東大の情勢は上野高校生に大きな影響を与えていた。この年、東京大学は入学試験を中止している。<br />
　そうした中、卒業式が近づいていった。卒業式の４ヶ月前から「卒業式準備委員会」が結成される。これは各クラス２人の生徒委員と教師によって構成されている。興味深いことに、職員会議で「君が代」の代わりに「校歌」「蛍の光」を歌うことが決まっている。卒業式についての３年生へのアンケートで、「君が代」を歌ったほうがいいという生徒が過半数をぎりぎり超えたにすぎなかったため、問題が発生するかもしれないとの配慮の結果だという。</p>

<p>◎１９６９年３月１８日　分裂卒業式<br />
　だが、受験もあらかた終了した３月の中旬になると、卒業式とは高校生活の総括であり、討論会を主たる内容とする卒業生、在校生、教師の自主集会とするべきだという声があがりだした。この声をあげたのが、３年３組を中心とした「三年三組卒業式研究会(通称ミミ研)」と呼ばれる有志集団である。彼らは教育基本法、学校教育法、学習指導要領などを調べ、ガリ版刷りのパンフレットを一週間ほどで作成した。その内容を要約してみる。</p>

<p>「高校とは主体的に教育を受けるべき場であり、本来の教育は対話であり教育の主体は生徒であるべきだ。卒業式とは高校生活の総括の場であるべきである。しかし、この定義を採用すると、上野高校では真の教育はありえず、現状のままだと今後もありえないだろう。現行の卒業式は対話の場ではない。対話・自由発言の場としての卒業式こそが今後の教育の発展の場になるはずだ」</p>

<p>　多くの大学や他の高校で見られたような「帝国主義的儀礼を拒否する」というような、教条的、左翼的な言説に彩られることはなかった。「教育」に闘争の主眼を置くことは、これ以後も上野高校では一貫していた。<br />
３月１１日ごろから校内は騒然とした雰囲気に包まれだす。ミミ研の他にも、卒業式そのものの粉砕をもくろむ「粉砕派」と呼ばれる学生も数名現れ、校内でアジテーションをおこなった。学生は、実行委員会、ミミ研、粉砕派のいずれを支持し、どのように行動するかを選ばなくてはならなかった。卒業式前日、学年集会が開催された。夕方４時過ぎに始まった集会は、はやばやと粉砕派の主張は退けられ、８時近くまで実行委員会による通常の形式の卒業式と、ミミ研による自主集会のどちらを行うかが話し合われた。最終的には卒業式に賛成する生徒百数十名、自主卒業式が九十余名となり、卒業式が行われることが決まった。<br />
　翌日、卒業式に出席するものが四分の三程度、残りは校庭に集まった。卒業式自体は大きな問題もなく終了した。ここで卒業生のアンケートによって書かれた答辞の一部を引用しておく。</p>

<p>「私達は空虚感に陥りました。久しく心の底から笑うことも、感動することもなくなり、私達を"受験生"として見る周囲の眼によって自由に外出することや本を読むことさえつつしまなければならないほどでした。－中略―それが益々、自己嫌悪を生み出し言いようのない絶望、孤独、無気力にさいなまれた記憶があります」</p>

<p>このように答辞らしからぬ高校生活にたいする煩悶が延べられた。しかし、最後のほうでは</p>

<p>「このような問題に対して私達高校生の中に、何とか解決していこうとする努力の兆しが芽ばえ始めています。生徒のみならず先生との対話を積極的に復活させようとする研究会の試み、討論会、自由サークルの活動などはその表れといえないでしょうか」</p>

<p>とあり、後輩に対して</p>

<p>「あなた方を取りまく身近な問題に真摯な態度で取り組み、自ら考え、満足できる行動を取ってください」</p>

<p>と述べ、閉められている。</p>

<p>　卒業式の最中も校庭では自主討論会が行われていた。粉砕派のリーダーは他校の生徒を応援に呼ぶも、警備係りの説得で退去していった。<br />
　卒業式終了後には、討論会に校長も出席。校長へのつるし上げは執拗なものとなった。初めてこのような情景を見た、保護者の中にはショックを受けたものもいたという。討論会はますます熱を帯びていく中、PTA会長が発言をも求めて壇上に上っていった。この会長は、戦時中は陸軍大尉であり、現在は家具製造会社の社長という人物だという。彼の話は次のようなものだった。非常に印象的なので、『自主ゼミ創出』の中で紹介されている言葉をここでもすべて引用してみたい。</p>

<p>「私にも一言言わせてもらいたい。このように先生方と生徒諸君がともに満足できるような教育を求めて話し合うことは立派なことだと私は信ずる。大いにやるがいい。しかしここにいる２００名くらいの生徒諸君の中で、現実にある大学入試に合格しなくてもいいと、しっかり腹に決めているものは何人くらいいるだろう。あまりいない、と私は思う。現実に目の前にあるものは、完全とは言えないが、なければならない理由と、それだけの価値があってのことだと私は思う。この堀の向こうに道路があることは、われわれ上野高校にとってはじゃまだ。第二グラウンドに行くのに大変じゃまだ。だからといってあの道路を直ちになくすわけに行かない。大学入試、受験教育を改善するための討論会をいくら続けても、結局はどうにもならないところがどうしても残る。さきほどの卒業式の立派な答辞の中にもあったように、先生と生徒が静かに話し合って、学校内で改善できることを改善するのはまことに結構なことだと思う。しかし今日は卒業式である。諸君誰しもがほんとうは心の中で感じている学校や先生方や家族や社会に対する感謝の気持ちを表すべき日だ。感謝の気持ちは口に出さなくてもいい。けれども、人間として大切なその気持ちがあったら、この集会はここら辺で、校歌でも皆で歌って、めでたく整然と散会にしたらどうだろう。私のいいたいことはそれだけです」</p>

<p>　この言葉により集会は感動的に終わったと『自主ゼミ創出』は記している。主義主張や論理ではなく、このような情を前面に押し出した意見によって、解決に向かうところが高校生による運動の特徴といえるかもしれない。</p>

<p>　３月下旬に行われた最後の職員会議では卒業式問題についての総括が職員間で行われている。各自の意見を表明するにとどまったと記録されているが、問題の根底には、生徒は教育とは何かをという真摯な問いかけをしていると解釈する者と、単なる家庭環境と性格において特殊な生徒が先導したにすぎないとする者に分かれた。『上野高校の教育改革闘争』という教員研究部が出したレポートには</p>

<p>「すでに４３年以来、教育改革について討議がなされていながら、実はこの二つの見解について対立を徹底的に掘り起こし討議を深めておかなかったことが、４４年度の教育方針をめぐっての教師集団の現状分析、具体的改革立案能力を鈍化させたように思われる」</p>

<p>と記されている。<br />
<strong><br />
３章―２　バリ封</strong><br />
◎１９６９年　前期<br />
　４月４日の始業式以降、学生の間では生徒会、ホームルーム、学校行事などについての討議が行われるようになった。分裂卒業式の影響は明らかである。４月２３日の職員会議で生徒の掲示・伝達・集会の自由が長時間の議論を経て可決された。教育庁通達では高校生の政治的活動はきびしく制限されていたが、これは実質的に認めるものであった。これにより立てカンなどが校門などで目に付くようになった。<br />
　５月に出された立てカンの中には「番付」と呼ばれたテスト毎に生徒上位者の氏名を公開する制度の廃止を訴えるものがあった。この立てカンは生徒、教師の注目を集め１ヵ月後には番付は中止された。<br />
　その一方で生徒会は徐々に崩壊していった。４月２３日には２年生の新生徒会長と副会長が選出された。しかし５月２１日の生徒総会は、新生徒会長による改革案や予算案などの重要な議題があるにもかかわらず不参加者が多く流会となった。生徒会は入りたくて入った組織ではなく、入会させられたにすぎず、自主を装う非自主的集団に入ることを拒否する、という趣旨の立てカンが出された。<br />
　当時から前期後期の二期制だった上野高校では毎年前期の最後には交友会大会と呼ばれる文化祭が行われる。ここで後にしこりを残す２つの事件がおきた。一つは「交友会大会の歌」を募集し、当選作を決めるにあたって生徒と担当教師の間で意見が一致しなかったこと。もう一つは、討論会委員会が、顧問教師に内容を知らせず反戦映画を上映しようとし、それを校長が調査しようとしたことを交友会大会弾圧と討論会委員長が言い出したことだった。この委員長は後にバリ封行動隊長になる。交友会大会の講演者はべ平連事務局長の吉川勇一氏だったいうところに時代を感じる。展示や討論会では教育課程答申、指導手引書への批判なども行われた。</p>

<p>◎１９６９年　バリ封前夜<br />
　９月２７日後期始業式。生徒会長が突然発言を求め、交友会大会が失敗したのは学校側の不当な干渉によるものだと発言した。ひどく興奮した状態での発言だったという。１０月８日は後期生徒会会長の選挙が行われる予定であったが、立候補者がなく中止になった。それに先立ち２年５組では生徒会役員の選出を拒否。１０月３日に「生徒会についてみんなで考えていこう」というビラが刷られ、２年５組の生徒会役員拒否は、全校に広がっていった。</p>

<p>　１０月９日木曜日、３年４組で１８時過ぎまで討論会が開かれた。議題はホームルーム制や成績についてであった。翌週１３日月曜日にも再度討論会が開かれ、そして１４日には授業ボイコット、自主討論会へとつながっていった。１５日には定例の全校集会が昼休みに行われた。通常の全校集会では全生徒教師が校庭に集まり、校長訓話や教師の注意、生徒会の連絡などが行われるのが慣わしであった。この場で、３年４組有志は「授業とはなにか？」という問いを投げかけ、そして授業ボイコットが呼びかけられた。『自主ゼミ創出』では</p>

<p>「集会そのものが、活動家の生徒にのっとられようとして、ただならぬ雰囲気に包まれていた」</p>

<p>とある。集会は教師の判断により解散、提案に関してはクラス毎に話し合い、話し合いが終わり次第授業に入るということになった。<br />
　翌年２月に発行された校内の文芸誌『創』には、「上高の改革」という特集が５Pほど組まれている。これは、おそらくもっとも早い学園闘争に関するまとまった文章だろう。編集委員はみな学生である。一部を引用する。</p>

<p>「この(全校集会)盛り上がりは、四十三年度の分裂卒業式、校友会大会での問題提起、後期役員拒否＝生徒会の空洞化を経て、各個人が一人の人間として生きようとするものだった」</p>

<p>　１０月１８日土曜日にも３年、２年生の有志が携帯スピーカーで自主的集会の要求、学校側はこれを認め２限３限はすべて集会となる。討論内容は試験制度、単位制、カリキュラムの３点だった。討論会の最後に試験制度の廃止が要求として出され、学校側は２日後に回答すると約束し散会した。学校側は連日長時間の職員会議を行い最終的には１０月２１日からの中間考査を中止し、教育過程、評価の問題を再検討することを決定した。２０日月曜日にも全校集会が開かれ、校長より発表された。この決定は多くの生徒に驚きと安堵を与えた。これにより１，２年生のほとんどのクラスで平常授業が再開された。しかし３年生の各クラスでは授業のほとんどが討論となる。<br />
　時を同じくして３年闘争委員会、２年教育改革委員会が結成された。革マル派、民青はいずれにも合流しなかった。職員研究部による資料では</p>

<p>「全闘委(全日制闘争委員会)に結集していくグループは、いわばノンセクトラジカルズであり、上高生徒大衆の多数をつかむという問題が煮詰まりだしたのが、１０月２０日以降の一週間であったといえよう」</p>

<p>と記されている。<br />
　学校側は２２日には現行の試験制度の廃止、通知表の廃止、評価・単位については教科ごとに基本方針を打ち出すことを決定する。<br />
　２，３年生の有志集団は、この一週間の間に現行指導要領を購入し検討、カリキュラム編成の思案等を進めていった。２年生有志より単位制・生徒心得・顧問制、部室管理について、３年生有志より単位制・自主ゼミについて問題提起され、立てカンやビラなどの形で一般生徒へのアピールがされた。<br />
　２週間近く続いた討論は、しだいに内容が煮詰まってくると同時に行き詰まりを感じさせ、答えの出にくい問題を扱っていたため泥沼の様相を見せてきた。<br />
　そんな中１０月２７日月曜日、全闘委を結成することになる生徒とその同調者が全学生に対し五項目の要求を学校全体の問題とするべく全校集会を呼びかける。五項目の要求とは次のとおり。</p>

<p>１　クラス別時間割を廃止し、自主ゼミナール８５単位の中に認めよ。<br />
２　生徒会各機関の顧問制を廃止せよ。<br />
３　生徒心得を全面撤廃せよ。<br />
４　職員会議を公開し、傍聴を許可せよ。<br />
５　「文部省指導要領」を拒否し、文部省に対して拒否声明を公示せよ。</p>

<p>　しかし雨が振っていたこともあり３０人程度のメンバーだけの参加であった。学校側に対しては校長のみを呼び出し、回答を要求。森校長の著作『戦争と教育』の中に、この時のことが記録されているので引用してみる。</p>

<p>「昼前、校庭に全闘委とその同調者が集まり、五項目要求貫徹集会が始まった。職員室では鈴木教頭・大江生徒部部長・田中教務部長らと話し合っているところに、全闘委の行動隊長がやってきて、校長一人が集会に出るよう求められた。私は五項目については教頭・教務長・生徒部長らと相談しながら全闘委との話し合いを進めようと思い、三人に同行を促したが、行動隊長は冷たく「校長ひとり」ときびしく言った。私は、これが大学・高校闘争での各セクトの慣例かと諦めて雨のそぼ降る校庭の指揮台に近づいた。三十名くらいが水たまりの出来かけたコンクリートの上に腰を降ろして私を迎えた。二、三階の窓からは、強い関心や「野次馬」顔の生徒たちが集会を見下ろしていた。全闘委の一人が開いた傘を私に差しかけようとした。私は、「ゆっくり話そう。皆体育館に移ろう」と傘をしりぞけたが行動隊長は叫んだ。「雨が何ですか。全校生徒のためにわれわれは雨にぬれてやっている。」そんな言い廻しは、軍隊では小心な下士官の自己顕示の常套句であったな、とちらと思い出しながら私は指揮台に立った」</p>

<p>校長がこの場での回答は出せないと答えると、全闘委側はこれを要求への全面拒否と確認し、集会を散会した。このとき、３年闘争委、２年教育改革委中心として全日制闘争委員会が結成された。</p>

<p>　そして翌日よりバリ封が始まる。全闘委のメンバーはこの夜、メンバー宅に泊まり、翌日に備えた。</p>

<p>◎バリ封　<br />
　１０月２８日火曜日、早朝５時、全闘委約１０名は本館一階のうち職員室、応接室、校長室、用務員室をバリケード封鎖した。都立各校でバリ封がおこっていたため、校長は警戒して校長室に泊り込んでいた。そのため学生５人で強制的に引きずりだし、退去させることになった。ちなみに職員研究部の資料ではその際、「その振る舞いは無作法な振る舞いではなかった。」と記されている。同じように、バリ封を予想していた教師数名も校内に宿泊していた。<br />
　一般の学生が登校してくる時刻になると、バリ封の学生たちは校庭デモを開始した。『自主ゼミ創出』より引用する。</p>

<p>「ピッピィ、ピッピィとなる笛の音に合わせて、『闘争―、勝利』『闘争―、勝利』の掛け声高く、狭い校庭をじぐざぐ前進する花々しい武装隊列は、学校を一種のお祭り気分に湧き立たせた。登校してきた生徒の反応はさまざまであった。ついにやったか、と胸を躍らせる興奮の顔、バカなやつらだと舌打ちしただけで教室へ急ぐ三年生、げらげら笑いさざめきながら「仮装行列」に拍手をおくる女性徒たち。中には、腕組みをして見物している沈黙の教師に、あの無法を許しておくのか、と喰ってかかる生徒、われ関せず、と今日の午後の球技大会にそなえてバレーボールの練習を始めるグループもあった」</p>

<p>１０月２８日(火)　　　　　　　　(※以下の時間表は『戦争と教育』より引用)<br />
８：１０～8：１５　職員打ち合わせ<br />
９：００～９：３０　　校庭全校集会(校長より全校生徒に現状報告)<br />
９：３０～１０：００　ホームルーム<br />
１０：２５～１１：１０　職員会議<br />
１１：３０～１２：３０　講堂で全生徒に五項目要求説明(校長他)<br />
１４：４０～２２：１５　職員会議(五項目要求中心に審議白熱)</p>

<p>　午前中は全校生徒を講堂に集めて全校集会が行われた。ヘルメットをかぶったバリ封学生も参加している。<br />
校長から事件の経緯と要求に対する回答が述べられた。 <br />
１　８５単位以上をもって卒業認定の単位とし自主ゼミは当該教科の指導によって条件をみたすものは単位として認める。(なお、クラス別時間割の全面的廃止は不可能だが、同時開講制、選択講座制の実施等により希望にはこたえていく。)<br />
２　生徒心得は廃止する。<br />
３　顧問制は活動の支障のないよう運営されることを前提として廃止の方向で検討する。<br />
４　職員会議は公開できない。ただし、生徒の諸活動に関して必要なことがあれば共同討議の場所を作る。<br />
５　学習指導要領問題については、本校教育課程を編成するにあたって、人間教育の原点に立って検討を深め、教師それぞれ組合活動や研究会組織等をもってとりくむ。学校としては拒否声明は出さない。</p>

<p>　回答の内容はこれ以後もほとんど変更はなかった。<br />
当初全闘委はこれを欺瞞的回答だとして拒絶。第一項と第五項は同じ内容の対内的、対外的声明であるということ。自主ゼミとは教師は誰でもよくテーマも生徒の自由とするべきだと反論した。</p>

<p>１０月２９日(水)<br />
９：３０～１１：３０　全校集会(五項目中心に学校の考えを説明、全闘委２０名前列にあって、ナンセンスという言葉を連発した)<br />
１１：３０～１２：３０　ホームルーム<br />
１３：４５～２２：１５　職員会議(五項目要求に対する学校の回答の結論と封鎖解除説得方針決まる)</p>

<p>　昨日に引き続き、午前中は全校集会での質疑応答と各クラスでの討議が行われた。２年生の学生が全闘委にたいして、五項目について我々は何も聞いてこなかったし、バリ封も寝耳に水だった。このようなことは学校全体に対して相談してやるべきではないかと指摘すると、</p>

<p>「今の質問は取るに足らない質問である。われわれは昨日の午前中、雨の中の校庭集会で全校生徒に集まるように呼びかけた。しかし諸君はその呼びかけに対して沈黙を守った。沈黙を守ったことは、承認したのだとわれわれは判断したのだ。」「それに、生徒全体の意思を結集する生徒会は、交友会大会終了後存在しないことは諸君も知っているはずだ。生徒会は学校の御用機関でしかありえなかったし、生徒一人一人の自由意志によって入会したのではなく、学校側によって入会させられた組織であるわけだ。したがって全校生徒の意思をまとめてその意思を行動まで高めるやり方は、文化祭のとき、べ平連事務局長の吉川勇一氏が講演したように、誰かが問題を提起して皆に呼びかけ、皆の賛成を得て同士を拡大する方法以外にはない。これでわれわれのやり方の正当性がわかると思う」</p>

<p>と答えた。<br />
　集会後、全闘委が資金カンパをはじめるとたちまち８０００円の大金が集まり、女子生徒を中心におにぎり等の差し入れも活発におこなわれた。ちなみに当時と現在の物価水準の違いを示すために再び村上龍の『６９』を引用してみる。</p>

<p>「一九六九年当時、百五十円は大金だったのだ。真に極貧の家庭の息子、娘達は、五十円という金額で二十円の牛乳と十円のあんパンと二十円のカレーパンで飢えをしのいでいた。百五十円といえば、ラーメンを食べて、牛乳を飲んで、カレーパンとメロンパンとジャムパンが買えた」</p>

<p>　おおよそ現在の６～７万円ちかい金額がカンパされたことになるだろか。彼らの人気ぶりを表していると言えるだろうか。一般生徒の大多数は、積極的に賛同はしないまでも、好意的な心情を持っていたという。両日とも午後は当初から計画されていたように球技大会が行われた。都教育庁指導部の指導主任や雑誌記者などが監視を続けていたが、拍子抜けするほど、教師や学生は明るい雰囲気の中で過ごしていたという。連日夜の十時近くまで職員会議は続けられている。<br />
　２９日の各クラスでの討議は、受験勉強のため帰宅する生徒も多く、３年生では成立しなかった。<br />
　<br />
１０月３０日(木)<br />
９：３０～１１：００　全校集会・講堂(五項目中とくに自主ゼミのA・B・Cにつき教務部長説明)<br />
１１：３０～１２：００　ホームルーム<br />
１５：５０～２０：１０　職員会議(教師一同が今までの教育反省として出す「声明」中心に論議)<br />
　<br />
　３０日にも全校集会とクラス毎の討議。生徒の間でも自主ゼミに対する理解が深まっていった。この日の夜、学校側と全闘委の話し合いで教師の自己批判の証拠として学校側が声明を出すことになる。五時間近い職員会議のすえ、教師による『声明』を出すことが賛成された。五項目要求に対する回答は了承された。<br />
　３１日、講堂の全校集会において、校長が上野高校全日制職員一同として声明を読み上げた。全闘委からは「異議なし」と賛意表明があり、一般生徒からも読み終わった後に熱烈な拍手が与えられた。全闘委代表は自主解除を宣言。革マル派と民青の代表が闘争に対する批判を述べ、教員３人も個人的見解を述べた。一人は、「この声明で人間が信じられるか、この声明が明日から実行されると思うのは幻想だ」と叫んだという。<br />
　集会終了後、全闘委は封鎖解除を始めた。一方教師は職員会議を行い、父母への通知と今後の日程について話し合いを行った。その最中、作業を終えた全闘委が「闘争、勝利」「自主ゼミ貫徹」と叫びながら校内デモを繰り広げ、会議場にもやってきて教員も解除式に参加し、声明どおりに一人ずつ決意表明をすることを要求した。『自主ゼミ創出』には</p>

<p>「多くの教員は顔が蒼ざめ、膝に置いた手がぶるぶると小刻みにふるえているものもあった。私もそうであったが、「声明」でかれらのいう「自己批判」は終わったと安心していたのに、「声明」は今日から始まる自主ゼミ体制において教師一人一人に絶えざる「自己批判」を迫る性格のものであることに気づかされた驚愕で蒼ざめたのだ」</p>

<p>とある。<br />
　結局２人の教員が解除式に出席した。午後４時に厳粛な決意表明もって、解除式は執り行われた。行動隊長はバリケード封鎖の成果や今後の闘争のあり方について、「自主ゼミ体制を進展させ、学習指導要領を乗り越える可能性をもって内なるバリケード封鎖を構築するべきだ」と述べた。涙を流すメンバーもいた。</p>

<p>　３日ぶりに校長が校長室に戻ると、部屋は荒らされた形跡は一切なく清潔に保たれていた。全闘委のメンバーは「封鎖生活規律」を作り、第一条に「室を清潔に保ち教師の私物に触れてはならない」と定めたことがきちんと守られていた。夕方、全闘委のメンバーが校長に会いたいと言って呼び出した。処分の減免をお願いされるのではという校長の予想に反して、「校長先生のくびは大丈夫でしょうか。もしそういうことになりそうでしたら、わたしたちは全力で運動します」というものだった。この日に出された「高等学校における政治的教養と政治活動について」という「文部省見解」で政治活動に理解を示すこと自体が教育基本法に反するという文部省の姿勢を受けてのことだと思う。こうして警官隊の導入もなく一応の平和的解決をもってバリケード封鎖は終了した。</p>

<p><strong><br />
第４章　バリ封以後、自主ゼミ体制<br />
４章―１　バリ封の後</strong><br />
　１１月１日から９日までは新教育活動を開始するための時間割改革準備のための自宅学習期間となった。１１月１０日から新体制での授業が始まった。バリ封に参加した生徒に対する処分は「退学」「停学」等の懲戒処分は一切なされず、代わりに多数教師による自主ゼミ・普通授業の徹底した教科指導を中心とした「特別指導」を受けるということになった。<br />
　バリ封の後の全闘委はどのように行動したのだろうか。自主ゼミ新体制の当初から全闘委は「学校当局の居直りを許すな！」「内なるバリケードの中より変革主体としての自己を創立し、"外なる闘争"を戦い抜こう！」等のビラを配り、教師の態度をギマン的なものだと糾弾を続けた。ただ、その後の活動はメンバーそれぞれであった。ある者は学外の闘争の手助けをしたり、ある者は映画祭やバンド大会を企画したり、またある者は学校に行かなくなったという。全闘委はノンセクトの学生の集まりであり、その結びつきはイデオロギーなどより友人関係が基調にあったため、バリ封の最中に意見が二分することがあっても、内ゲバや組織崩壊に至るということはなかった。翌年に３年有志(１９６９年時２年生)が卒業間近に編集した『自主ゼミ再確立へ向けて－総括パンフレット－』の中にも、</p>

<p>「(全闘委は)あくまで「個」の形で存在し、各々の欲求というものの充足に究極的なメルクマールを設定していた。　－中略－　ある意味では、そうした形の組織の最も原初的な形であったと言えよう。全闘委によって、いわゆる「組織からの疎外」を被った人は決していないはずである」</p>

<p>と記されている。</p>

<p>　バリ封の後、下級生を中心に全闘委に憧れる学生も多く出てきた。そうした学生とともに近隣の白鴎高校、江北高校、東葛飾高校などと連携して「東部高共闘」を組織し、翌年１月には白鴎高校でのバリ封の手助けに向かった者もいた。もっとも白鴎高校では警察が導入され未遂に終わり、校長が上野高校生のヘルメットを取りに行った。<br />
　また上野高校のすぐ裏手に東京藝術大学があるが、芸大全共闘の応援のためデモを企画したりもした。１００人近く動員することができ、上野高校から芸大までジグザグデモを行った。１００人近い学生が参加したということは、やはり全校的にそれなりの人気を獲得できたと見ても良いと思う。<br />
　全闘委に占拠された生徒会室からは赤い旗が立てられた。約二ヵ月後には旗も降ろされ、厳冬の校庭で、全闘委解散式が行われた。参加したのはバリ封参加人数よりはるかに少数だったが、今回インタビューした人はみな解散式の存在を知らなかった。<br />
　この年卒業式は行われず、代わって卒業集会が開かれた。「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」と言って去っていくものもいた。</p>

<p><strong><br />
４章－２　自主ゼミ体制</strong><br />
自主ゼミの仕組みは次のとおり。</p>

<p>教科担当教授の指導のもとに、生徒との話し合いで、自主ゼミをおくことができる。<br />
自主ゼミはA,B,Cの３種のゼミを置く。<br />
①　ゼミAは履修科目の標準単位内におかれるもので必ず担当教師の指導を受け、評価されるもの。<br />
②　ゼミBは、学校で置かれた教育課程の単位内には含まれていないが、生徒の希望により評価をし、増加単位としてとくに認めることができるもの。ただし各学年でとることのできるゼミBの単位数については別に定める。<br />
③　ゼミCは生徒の希望によっておかれるもので、単位として認定しないもの。<br />
④　なおすべてのゼミは、生徒の希望と教師の指導相談の上、テーマと時間を設定し、原則としてグループ活動による。<br />
　　　――以下略――</p>

<p>　１９６９年の１１月から７０年の３月までに開講された自主ゼミの数は実に３１３にも上る。その中からいくつかをタイトルだけピックアップして見る。「丸山真男「日本の思想」」「小林秀雄研究」「サルトル研究」「ヘーゲル現象学」「フッサール現象学」「パリ・コミューン」「実数と微積の基礎概念およびテーラー展開」「行列と行列式」「コハク酸脱水素酸素の研究」「清酒の分析」「マルクス・エンゲルスを英語で読む」など。<br />
　生徒の８８％が自主ゼミをやってよかったと述べている。実際に僕がインタビューした人のすべてもやって良かったと語っている。多くのマスコミからも取り上げられることになった。１９６９年１２月の「週刊朝日」に掲載された「灰スクールよ、さようなら　＝“バリ封”を授業革命で解決した都立上野高＝」という記事のリード文を引用する。</p>

<p>「紛争は「処分」で収拾という“タカ派高校”が多いなかで、東京の都立上野高校では、試験廃止、自主ゼミをもりこんだ大胆な授業改革にふみきって、世間をアッといわせた。先生、PTAから教育庁、生徒にまで評判のいい、この'新教育'の教室をのぞいて見ると――」</p>

<p>　その他にも、基礎科目においては同一科目を最大限同時間帯に開講し学生が自由に教師を選択出来るようにする教師の自由競争制の採用、男子クラスの廃止、男女混合名簿の採用などのジェンダーの否定などが行われた。これらの取り組みは今日においても非常に先進的な取り組みだったと思う。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>『１９６９年の上野高校学園闘争＿２』高橋直純</title>
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<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-07-11T00:01:28Z</issued>
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<author>
<name>高橋</name>


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<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong><br />
第５章　闘争を成功させもの</strong><br />
　ここまで駆け足で１９６９年のバリ封を頂点とする上野高校で起きた一連の改革を見てきた。そして改めて最初の問いについて考える。上野高校における闘争は比較的成功裏に終結することが出来たと言われている。教育評論家の丸山邦夫氏は１９７０年２月号の「蛍雪時代」の中で、上野高校の改革を「(学生の処分がなかったことと　※筆者)高校紛争における、これも（３つの要求が通ったこと　※筆者）はじめての「無血革命」といえるのかもしれない」と述べている。多くの高校で、関係学生の停学、退学、警官隊の導入という処分が行われた中で、なぜ上野高校は他校と違う形で紛争を解決できたのか。それは、多くの人が述べているように、教員の大きな理解と、セクトから離れ一般学生のシンパシーを集めることが出来た全闘委の組織としての性格によるものだと思う。<br />
　<strong><br />
５章－１　森杉多校長と教員たち</strong><br />
　話を聞いたすべての人が当時校長だった森杉多の人柄と教育理念によって紛争が穏便のうちに終了できたと言っていた。話を聞いたある全闘委のメンバーは「森校長はわかっていたよ。この人にはかなわない。たぬき校長の手のひらで踊らされた」と笑いながら語った。<br />
　大正４年に生まれ、教員生活の最中に「ノモンハン事件」「沖縄戦」に参加。その体験を「空白の沖縄戦記」「ノモンハン事件従軍記」として本にしている。「空白の沖縄戦記」はテレビドキュメンタリーにもなっている。山形国際ドキュメンタリー映画祭2003公式カタログより引用する。</p>

<p>「―空白の沖縄戦記　沖縄住民虐殺３５年―　放映日：１９８０年１１月２日 　沖縄戦の最中、沖縄本島北部で起こった日本軍による地元住民の虐殺のあり方に迫る。元日本軍の通信兵として沖縄戦で戦った森杉多が、沖縄に単身赴き、被害者の遺族に会って「日本軍の犯罪」を詫びる内容。ディレクターの森口は本作の制作を振り返る中で、虐殺に立ち会った元日本兵のひとり（森）が東京で生存している事実を探し当て「何としてもこの人と会い、真相に迫らなければならない」と決意。カメラの前で取材に応じる森の口からは、戦時中の凄惨な経験が明らかになる」</p>

<p>　戦争体験が彼のその後の教育理念に強い影響を与えたのは間違いないだろう。１９９４年に出された『戦争と教育』という本の中で、自身の戦争体験と教師経験が記されている。森校長は上野高校の受験勉強体制をかなり批判的に捉えており、生徒の要求を理解する姿勢を持っていた。『戦争と教育』より引用する。</p>

<p>「街頭の政治デモで警官隊の規制を無視したため警察に留置された者の釈放には校長がよく呼び出された。私は警察に、申し訳ないと低く頭を下げて、少しも感謝の表情などを表さず私を無言のまま睨みつける活動家を学校へ連れて帰り、保護者に引き渡すのだが、どう考えてみても活動家生徒の主張のほうが正しいと思うのだった。　－中略－　安保反対、沖縄無条件返還には私は沖縄戦を戦った一人として賛成であった。もちろん高校生が街頭に出て、ジクザグデモを繰り広げ、「安保反対」「沖縄返還」「全面返還」と叫び廻るより、学校で近現代史と政治を学び、正しい知識を父母や近隣に伝え、選挙も民主的にしてもらうほうがはるかに力になるとかんがえたけれども」</p>

<p>　森校長の下、平均年齢が３８，９歳という若い教師達が９月のうちから改革案を作成していた。紛争後、わずかな期間で校内体制を改革できたのは、そうした準備があったからであろう。<br />
　また教師の中には学生への心情的理解を示す者も多かったが、革マル、中核、民青の三派に所属する者がいなかったことも教師の統一行動をとる上で大きな助けになったとある教師は述べている。教師の中でも大きく意見が割れたそうだが、そうした教師の努力や生徒への理解なしでは、改革は上手くいかなかっただろう。筆者がインタビューをお願いした、ある紛争の解決に最も尽力した教師の手紙を引用してみたい。</p>

<p>「紛争のとき、教員のこわばった心がゆるみ、生徒の言うことをも聞いてみよう、分かってみようと思うように皆で動きだせたのは、職員会議の議論のなかで、私か誰かが、ボクらが高校生だったころあの戦争直後のなかで、（いわゆる「民主化」流行の時代）どんな気分で、どんな形で勉強（授業）をしたか思い出してみては？とめいめいの１０代後半の頃のことを振り返り話合ったことがきっかけでした。教室・クラスの壁をとりはらうことや、自主ゼミも結構じゃないの、という考え、生徒心得などなくてもよいという発想は、こうして生まれたものだったのです。もちろん服装も自由でよいと」</p>

<p>　バリ封から２年後７２年３月に森杉多校長は都立練馬高校校長へと転任することになる。上野高校を最後に勇退する校長が多いことを考えると、これは校長人事としては異例のことだという。転任の翌年度、７２年６月２日号の東叡新聞に掲載された森校長へのインタビューを引用する。</p>

<p>校長　そうねえ。上高を追放されたみたいでねえ。<br />
―知らされたのはいつですか？<br />
校長　３月２７日に電話がかかってきてね。意外だったよ。校長でない教師として居残ることをたずねてみたけれど、ダメなんだね。「前例がないから」だそうだ。<br />
―そうなったことの心あたりがありますか。<br />
校長　全然ない<br />
　　　　－中略―<br />
―大変失礼になりますが、私達は先生が左遷されたのではないかと思いたくなるのですが。<br />
校長　(真面目顔になり)そう思ってはいけないね。栄転というのも変だがね(笑い)もし君らがそう思っていて練馬の人がそれを知ったらどう思うだろう。そういうわけで俗世間ではそう思ってほしくない。でも僕自身そうなった格好に不満はない。なぜなら僕は上野を踏み台にして出世したくなかったからね。</p>

<p>―先生はこの間の卒業集会の時、「自由のこわさを君たちに教えてやれなかった」と、卒業生に話されましたが、そのことばから、最後に在校生に何か言ってください。<br />
校長　上高生の中には、あらゆる束縛、統制から解放されて何でもできる状態を自由だと思っている人がいる。それは間違いじゃない。が、自由の第一段階なんだ。何でもできるということは、言い換えると何もしなくてもよい、ということになる。この第一段階のみの態度を取った人が闘争後には多いんだ。その自由は積極的な意味を持たず、高校生としてこれだけでは成長せず、無気力な状態に陥って、やがてヒットラーを望むようになる。実際、今の上高生は権力を求めているんじゃないかな。－後略―</p>

<p>　転任の理由は、闘争後の生徒に対しての対応が甘かったためとも言われているが、真相はわからない。</p>

<p><strong>５章－２　全闘委のキャラクター</strong><br />
　当時、社会問題研究会(通称社研)と呼ばれるサークルがあった。中核派・革マル派・民青の学生が在籍しており、後に全闘委になるメンバーの多くはここにいた。<br />
　全闘委のメンバーの何人かは前年の１２月ごろ中核派からオルグ活動を受けている。ある者はそのまま中核派に入り、またある者はその教条主義的な、そして学外の活動に重きを置く姿勢に違和感を覚え、入ることはなかった。中核派のリーダーも１９６９年春先の街頭デモの際、麹町署に拘留されてから政治的街頭活動に上高生を動員することに無理を感じ、それ以来上部機関に逆らうようになり、行動を「教育」にしぼるようになっていた。<br />
　後に全闘委のリーダーとなるこの学生が剣道部に在籍していたため、全闘委には多くの剣道部にも在籍していた。メンバー全員の段位を足すと２０段を超えた。体育会系的なつながりを持っていたのは上野高校紛争の特徴だとある教師は言う。基本的には仲良しグループからスタートした。<br />
　当初は中核派だったメンバーもしだいにセクトの思想や行動様式に違和感を覚えだした。</p>

<p>「運動には興味はあるんだけど、彼らが戦っているものは少し違うんじゃないか。」</p>

<p>とあるメンバーは語った。<br />
　こうしてセクトから離れていった学生たちが、授業をサボって部室でだべったり、勉強会をしていく中で全闘委を結成するメンバーが集まっていった。コアなメンバーは夏ごろには固まっていたという。</p>

<p>　社研に属するセクト中心の学生が運動の主導だったころには、一般の学生からは遊離しがちだったが、運動部を中心としてノンセクトの学生が加わったことによって、校内の人気を集めることができたという。当時、上野高校内には中核派と革マル派、民青の三派が存在していたが、脱中核派とノンセクト学生による「全闘委」に対してもっとも一般生徒のシンパシーが集まっていた。<br />
　ちなみにセクトの学生とノンセクトの学生の組み合わせがバリ封を起すというのは他校でもみられた。県立佐世保北高校では社青同解放派の学生と村上龍などのノンセクト学生、東京教育大付属駒場高校ではブントの学生と四方田犬彦などのノンセクト学生によってバリ封がなされている。<br />
　インタビューの最中、僕が村上龍は女子生徒に持てたくてバリ封をしたそうですよと言うと、メンバーだったある人は「その必要はなかった。僕らはもてていたから」と答えた。「どこかで、俺たちにならみんなもついてきてくれるんじゃないかという計算もあった」とも述べている。バリ封時、あるメンバーのヘルメットは、「アナーキー」を表す黒に「IS」という文字が書かれていた。「IS」とは「いいじゃないの、幸せならば」というその時期に流行った相良直美という歌手のヒット曲から取られた。セクトの大仰な漢字熟語中心の言葉より、ミーイズムから出発する率直な言葉のほうが多くの学生の共感を集めたと思う。<br />
　バリ封後も彼らは分散していったかもしれないが、けして内ゲバのような争いに陥ることもなかった。先にも記したように、バリ封後全闘委は憧れを持って入ってくる新たなメンバーを得ている。</p>

<p><strong>第６章　闘争後の荒廃</strong><br />
　上野高校におけるバリ封を含む紛争が成功したと言われているのは、以上の２点によって説明できると思う。これは、改めて僕が分析したことではなく、多くの人によって言われていることである。<br />
　バリ封は成功裏に解決し、その後校内体制は大きく改革された。多くのマスコミが注目し、そして賞賛した。では、その現実の姿はどうだったのだろうか。<br />
　まず、改革の直後から、全闘委のメンバーはこの改革は欺瞞的なものとする批判的なビラや立てカンを出している。一連の改革も最大の攻撃目標としていた文部省指導要領の枠を超えることが出来ていなかった。東京都教育指導部長の北沢弥吉郎が１９６９年１２月の『週刊朝日』によるインタビューの中で</p>

<p>「結構なことだと私は思いますよ。今まで大学受験を目指す考え方が強すぎた。今の指導要領のワクからはみ出しているわけではないし、しかも従来の高校教育のワクを一歩踏み出したことを、私は高く評価しています」</p>

<p>と述べているように体制側も十分に認める範囲のものでしかなかった。</p>

<p>　さらに、一般学生においてはどうだったのだろうか。卒業単位が８５単位に削減されたため、３年生においては実質的に単位取得の必要性が大幅に減少した。クラスがなくなり、クラスメイト同士で顔を合わせることもなくなってしまった。登校時間もばらばらになり、ゼミ形式なので顔を合わせるのも限られたメンバーだけである。この状況は卒業するまで変わらなかった。ある人はバリ封後の学校の印象は「暗かった」と語った。<br />
　翌年から自主ゼミは徐々に衰退していく。バリ封から２年後、バリ封時２年生だった学生が卒業間近に書いた『日和見者の小唄』というレポートの中を引用する。</p>

<p>「現在、上野高校に〈自主ゼミ〉があるのか、ないのか、わからない。しかし、どんな形の〈自主ゼミ〉にしても、あまり歓迎を受けてないように思われる。教師にとってお荷物であり、生徒にとって重荷である。受験というような直接的利益に結びつくなら、まだやる気もするかもしれないが、それは、「学校」で〈ゼミ〉などやらなくてもことはすむ」</p>

<p>　一般生徒がどのように闘争をとらえていたのかを知るために、１９７０年の交友会大会(文化祭)時に、３年生有志と新聞部が共同で行った展示のためのアンケート結果の一部を見ていきたい。全文を引用することにする。３年生とあるのは、６９年には２年生だった生徒たちである。回答数は１５１人。</p>

<p>「(問)　昨年の上高闘争についてどう感じていますか<br />
<肯定的意見><br />
１　いろいろなことを考えさせた点において有意義だった(６人)<br />
２　自覚を促した、自己を意識、政治・人生観などにめざめた、あるべき高校生活、受験体制について意義があった(１０人)　やってよかった、すばらしい<br />
３　意義はあったがみのりなし、運動が継続しなかった、受験という壁で思うことができない、その精神は急速に消滅せんとしている。これから維持する困難、全生徒に伝えていくことが大切、自分の意志が弱いので試験・通知表の廃止で勉強するかいがなくなった。(７人)<br />
４　その他<br />
・　あの闘争は絶対的に必要、必然なものであった。その後の混乱は、以前の教育から僕らが受けた「受け身」｢自主的でない｣ことによるもので、この混乱は当然のものだ。しかし、それをのりこえないかぎり、よく真に近代的な学校はできあがらないだろう。そして何度でも昨年の闘争のようなことがくりかえされるだろう。<br />
・　解放区バンザイ！　解放区の中で時間は止まる。物は存在物であることをやめ、物自体に回帰する。そしてその中でオレは支配者になる。すべての王、われこそは神ぞ。<br />
・　学校生活において一つのよい経験。<br />
・　今になるとそんな気持もわかるように思う(２人)<br />
・　個性を出したことは確か。バラバラの中に淘汰された人々のつながりがある。１組などはそのよい例。体制ベッタリの人に大きな転換をもたらした。私にとってもプラスだった。<br />
・　各人が現在行動しているならそれでよい。<br />
・　もし闘争がなかったら、順調に受験勉強にはげんで、番付が目の前にチラついて青白くなっていただろう。ゾッとする。</p>

<p><否定的意見><br />
１　なんの意味もなし(１３人)　むだ、ばかばかしい、心情三派、つまらない、一時的動揺、<br />
しない方がよかった、今年と去年の入試状況を比較すればアキラカ。</p>

<p>２　一部の生徒によってなされた感じ(１４人)　排他的過ぎた全闘委、傍観者多し、無関心、<br />
無発言全校集会が多く、すみずみまでいきわたらなかった。</p>

<p>３　その他<br />
・　特に指導的立場の中のほとんどは冷静を欠き、単に一時的興奮の結果、旧体制を破壊した感がある。もし自己や皆の能力をもっと考慮に入れていたらそう簡単には起こらなかったと思う。もちろん現状の状態が悪いというのではない。もはやこうなった以上、建設的な心構えでいかなくてはなるまい。<br />
・　個人主義徹底のはずが、実際は全体主義復活と、利己主義の横行に終わっている。<br />
・　ゼミは改革しなくてもできたはずで、改革以来の学力低下はひどいものだ。<br />
・　背伸びしすぎ、受験体制には勝てなかった。<br />
・　真剣に考えたものがどれくらいいるか。<br />
・　破壊されたものが多すぎた。<br />
・　自己改革なしえず。<br />
・　学校がバラバラになってしまった。(２人)<br />
・　真の改革はなしえなかった。(生徒自身が下降ぎみ)</p>

<p><中間的意見><br />
１　闘争以来各人がバラバラになった。この状態は正常な高校生活とはいえないと思う。なぜなら高校生はまだ大人ではなく、大人の監視下にあると思うからで、正常な高校生活というものは、自由と義務がある割合で含まれている状態だと思う。<br />
２　本質を知っているのは今３年のわずか。過去の出来事として葬り去られようとしている。五年後位には受験校上野が再スタートしようとしている。<br />
３　今は何とも言えない。(４人)<br />
４　今から考えると夢のように矛盾だらけだが、あのころの一つのことを真剣に考える態度はまさに若者、青年だと思う。<br />
５　あの闘争は一部の生徒の行動が目立ったが、生徒の中にも多数の同調者がいたことは事実。本当は勉強につかれた苦痛が自分の生き方に迷った、そんなエモーションによってできあがったのではないか。<br />
６　現在は最低の状態であるが、新しい芽が吹くときも間近か。<br />
７　昨年ほど短時間にものを考えたことはなかった。<br />
８　外部から熱病のように言われているが反論はできない。<br />
９　起こるべくして起きた。「政治は力によってなされる」ということを実感した。<br />
10　昨年のことより現状を見よ。<br />
11　当然の結果に終わった。<br />
12　現実ばなれしていた、日常生活に根をおろしていなかった。<br />
13　理想と現実の差に。<br />
14　私にはついていけなかった。<br />
15　良悪両面あり。<br />
16　その他。わすれた、無関心、授業がさぼれてよかった、大変楽しかった、はしかのようなもの」</p>

<p><br />
　この他にも、紛争の一年後、二年後に出された多くのビラやパンフレットが改革後の荒廃を指摘している。ある全闘委のメンバーは、学校郡が都立高のレベルの目的を下げるのが目的だったなら、俺たちもその貢献者として表彰してほしいよ、と自嘲気味に語ってくれた。<br />
　<br />
　たしかに、前年、前々年から見られた学生の学校やそれを取り巻く社会への不満や憤り、１９６９年の１０月にあった２週間以上に及ぶ話し合いの中で顕在化していった改革への思いがそこにはあった。だが、それらは、インタビューに答えてくれた人がいうように「徹底的な話し合いをしたからといって見えてくるわけじゃない」問題であった。</p>

<p>　その一つとして否定できないのが、バリ封自体への憧れであろう。インビューに応じてくれたメンバーの一人は、バリ封のための要求だった面もあると語った。要求の４と５、職員会議の公開と文部省指導要領の拒否というのは、学校側も絶対に飲めないと分かっていて、だからこそ要求に入れられたという。２７日の雨中の集会はバリ封の理論的根拠を得るためのものだった。９月から各地の都立高ではバリ封が頻発し、上野高校でもバリ封をしなくちゃ面子がたたないという思いもあったという。バリ封後に出された『全闘委の質的内部変革へ向けて』というビラには、</p>

<p>「ついでに、……〈カッコよく〉バリをはってみたかった意識が全闘委にあったことは否定できないし、野次馬めいて、まわりで見ていたのも否定できないだろう。それがバリを成功させた要因の一つを形づくっていたなら、それゆえに全闘委はまたくずれていったとも言える」</p>

<p>とある。「バリ封」への憧れは強かったのだろう。<br />
　そして、なにより勝ち得たものの重さであった。<br />
「自由を与えられて、ためされた。だけどそれをみな生かしきれなかった。その後ろめたさがあるんじゃないかな」</p>

<p>自由を生かしきれなかったからこそ、バリ封の直後から「改革は欺瞞的だ」というビラを出し、卒業集会から「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」といいながら去っていく者がいたのだと思う。</p>

<p>バリ封から３０年を経た現在においても、この問題は複雑な思いが交錯しあい、いまだ当時の関係者の多くは語りたがらない。同窓会でもきちんと話し合うのが憚られる雰囲気だという。紛争時３年生だった２２期生が数年前の同窓会を開く際、幹事の集まり席でバリ封について話合いをしてみないかという提案がされたが、それをするにはまだ早いという理由で採用されなかったそうだ。あるクラスの担任だった教師は、何度誘われても同窓会への出席をしない。</p>

<p>　東京教育大付属駒場高校でバリ封をした四方田犬彦は著書『ハイスクール１９６８』の中で、次のように語っている。</p>

<p>「高校でバリケード封鎖に係わった者たちは、処分のあるなしにかかわらず、もっとも感受性が敏感でしかも社会的に無力な時期に、深く傷ついてしまったといえる。各人各様であるが、いずれもその傷から回復するのに、長い試行錯誤を重ねなければならなかった。－中略―　わたしもまた、敗北の興奮が過ぎ去った後に到来する圧倒的なニヒリズムを克服するために、多くの試行錯誤を重ねてきたことを、ここに告白しておくべきだろう。－中略―　おそらくわたしの属していた十九期の同級生のなかでも、いわゆる一般の生徒にあっては、この事件の記憶はとうに曖昧で希薄なものと化してしまっていることだろう。だが、ひとたび関わってしまった者がそれをめぐる倫理的決着を付けるには、時として予期しないほどの長い時間が必要であることも事実であり、わたしはここに書いている文章を通して、あまりにも長い間放置されてきたわが救済という問題に帰着をつけようとしているのである」</p>

<p>　しかも、上野高校では、幸か不幸か教職員の理解があり、ある程度改革が成功してしまった。他校のように、教職員や体制、はたまた他のセクトの所為にすることはできなかった。そんなことを語ってくれた人もいた。</p>

<p>バリ封の後、メンバーたちは何を思ったのか。そして３０年以上を経た現在においても、語りたがらないのはなにを思ってなのだろうか。<br />
<strong><br />
第７章　「自主協調」</strong><br />
　１９６９年１０月に起きたバリ封を中心に当時上野高校であったことを見てきた。バリ封当事者だった１９６９年の３年生と筆者の間にはちょうど３０年の年月の差がある。筆者の同級生たちでこの問題について知っている人はほとんどいないだろう。自由な校風や規則の少ない学生生活を当たり前のものとしてとらえていた。そして多くの同級生たちは、自由な校風を好きだったと思う。<br />
　だが、そうした校風も変わろうとしている。２００４年度から赴任した校長主導(城善範校長)で制服を導入しようという動きがおきている。２００４年度は生徒に対する説明会、職員会議でも理解が得られなかった。しかし今年、２００６年度からの標準服(着用の義務はないが、行事等の際に着用が推奨される)の導入が決定した。こうした一連の動きが「校風」という無形の資産に、どのような影響を与えるだろうか。卒業生からは多くの反対の声が上がっている。<br />
　２００５年7月、筆者は母校を訪れ、この問題について副校長先生に話を聞いた。制服(標準服)導入の理由は、曰く「TPOにあった服装を教える必要が教師にはある」「自由には責任がともなう」「標準服なので、着たくない生徒は着なくてもよい」「制服(標準服)があるからといって、自由がなくなるわけではない」「在校生や受験生には制服へのニーズがある」「８０年の歴史の中で、制服がないのは３０年に過ぎない」「周囲の人の学校に対する目が厳しくなっている」などなど。どれもそれなりに正しく、否定するのは難しい。だが、やはりそうした主張の裏に管理への意思が感じられる。</p>

<p>　副校長への取材の中で、何度も反論したい場面があった。議論をすることがこの場の目的ではないので控えなければという思いもあったが、それ以上に上手く言葉にすることができなかった。一年近い間、多くの人に話を伺い、資料にあたりながら、この問題を考えていながら、上手く言葉にすることが出来なかった自分自身の不甲斐なさを感じた取材だった。</p>

<p>　そうした筆者個人の問題とは別に、「自由」というものを語ることには、固有の困難さがつきまとう(ちなみに、副校長は本校の教育目標の中には「自由」はないと言っている)。制服があったとしても、高校生活というのはそれほど変わらないのだろう。一見すると、現在の校長の言うとおり制服を導入することによって得られるメリットのほうが大きいのかもしれない。制服を着ないですむ、着ないことを選択できる自由から僕達はいったいなにを得てきたのだろうか。現在においてもそれを上手く言葉にすることが出来ない。だが、高校生として上野高校で感じることのできた自由のもつなにかは掛け替えのないものであるという確信はしている。<br />
　<br />
　このルポルタージュを書き終えようとしている今、拙い手つきながら「自由」というものを真剣に考え、そして行動した１９６９年の高校生、それを誠実に受け止めようとした教師たちの凄さを感じている。当事者たちが意図したものがどの程度達成できたかは別としても、上野高校がもつかけがいのない校風の源泉は確かにここにあると思う。少なくとも30年後の筆者と、そして同級生たちに有形無形の影響を与える程度には息づいていた(おそらく現在の在校生にとっても)。そのことをインタビューの最中、バリ封メンバーだった人に話したら、「恨まれてなくて良かった」と言った。執筆を終えて、改めて６９年の出来事に感謝したいと思う。<br />
<strong><br />
終わりに代えて</strong><br />
　本ルポルタージュは、１９６９年に都立上野高校で起きたバリケード封鎖とそれに付随する出来事を、残された資料・証言を元に、同校の卒業生で取材・執筆時23歳であった筆者がまとめたものである。２００４年に開講された東京大学先端科学技術研究センタージャーナリスト養成コースの課題として書かれた。２００４年１０月に「１９６９年の上野高校学園闘争(前半部)として未完のまま、同コースのウェブサイトに掲載されたものに、加筆・修正されたものである。前半、後半という区切りはなくし、本作をもって完成とする。多くの人にご協力を頂いた。改めて深く感謝したい。また、完成がここまで遅れてしまったのはひとえに、筆者の怠惰による。関係者には謝罪する。<br />
　コースの課題として、ルポルタージュの執筆が与えられた時、母校の学生闘争をテーマにしようと思った直接のきっかけは、OBとして顔を出した部活の練習の際に聞いた制服導入問題である。どのような高校生活をおくるかは在校生自身が決めればよいと思う。だが、彼らが上高の自由な雰囲気を残していこうとするのならば、本作がわずかばかりのエールになればよいと思いながら執筆した。<br />
　本作の最後の取材は母校での副校長へのインタビューだった。繰り返しになるが、在学中に母校で感じた「自由」の価値を上手く喋れず、己の不甲斐なさを実感させられるものだった。語りづらいものを語り続けようとする意思と能力。それらがなければ、「自由」のようなものは守れないだろうと実感した。</p>

<p><strong><br />
参考文献</strong><br />
村上龍1987年　「６９」　　集英社<br />
秋葉安茂1987年「学校の草　　近代文芸社<br />
四方田犬彦2004年「ハイスクール１９６８」　新潮社<br />
東京都上野高等学校研究部1972年「資料　上野高校の教育改革」<br />
東京都立上野高等学校1969年「自主ゼミ実施集録」　<br />
図書サークル1976年「自主ゼミ再考察　－昭和５１年度　東叡祭参加作品―」<br />
東京都立上野高等学校1994年「創立７０周年記念誌　うえの」<br />
森杉多1976年「自主ゼミ創出　－希望の教育－」　学事出版株式会社<br />
校友会誌「創」委員会　1969年「校友会誌「創」昭和43年度」　　　<br />
校友会誌「創」委員会　1970年　「校友会誌「創」昭和44年度」　<br />
森杉多1994年「戦争と教育－ノモンハン・沖縄敗残兵の戦後―」　　　近代文芸社<br />
柿沼昌芳・永野恒雄・田久保清志　1996年　「高校紛争」　批評社<br />
大内文一・小川吉造・武石文人・山領健二1983年　「学校新聞からの証言」　　新評社<br />
杉本一1988年「高校生「第九」を唄う　アア高校紛争」　　　　<br />
中沢道明1971年「高校紛争の記録」　学生社　<br />
1969年「世界は業火につつまれねばならない」　　しいら書房　</p>]]>
</content>
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<entry>
<title>『透明な英雄』大隅亮</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/2005/06/post_23.html" />
<modified>2006-07-30T08:24:29Z</modified>
<issued>2005-06-26T18:32:11Z</issued>
<id>tag:www.journalistcourse.net,2005:/blog/1.492</id>
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<summary type="text/plain">　日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守...</summary>
<author>
<name>大隅</name>


</author>
<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守ったのだ。そう、たしかにかれらの活躍は市街地で暴れるロボットや異星人と超人的な格闘を繰り広げる鉄腕アトムにくらべれば呆れるほど地味ではある。しかしフォワードの劇的で華美なゴールだけがファイン・プレーなのではない、玄人好みの堅実なディフェンスもまた称賛に値するのだ。むしろ高度経済成長期に特有の、未来にたいする盲目的な信仰という逆風のなかで、貴重な白星をあげたかれらこそ真の英雄ではないだろうか。（本文より）</p>]]>
<![CDATA[<p>東京大学先端科学技術研究センター<br />
ジャーナリスト養成コース第一期<br />
大隅亮</p>

<p><b>「透明な英雄」</b></p>

<p>　序　文<br />
　第一部「鉄の腕」<br />
　第二部「巨大な光」<br />
　第三部「工場の体臭」<br />
　第四部「水の調書」<br />
　第五部「鎌と鍬」<br />
　第六部「水の都」</p>

<p>　<b>序　文</b></p>

<p>　口にたまったハミガキ粉をゆすごうと東京の水をふくんだ瞬間のことをぼくは忘れない。耐えがたい苦みと悪寒が身体いっぱいにひろがって二の腕まで鳥肌がたった。生まれそだった町から上京してむかえた最初の夜のできごとだ。それから数えて三回目の春をむかえた現在ではさすがに都会の水にもなれて、毎朝そいつで顔を洗い、歯をみがき、寝ぐせを整えるようになった。しかし今度はおかしな習慣が染みついてしまった。三島に帰るとぼくは飽きもせず水ばかり飲んでいるのだ。だからこれは愛する水への感謝状なのだろう。<br />
　透きとおる水へ。<br />
　二○○五年五月、東京<br />
 <br />
　<b>第一部「鉄の腕」</b></p>

<p>　宿はづれを滑らかな川が流れ、其処の橋から富士がよくみえた。沼津の自分の家からだとその前山の愛鷹山が富士の半ばを隠してゐるが、三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。克明に晴れた朝空に、まったく眩いほどに、その山の雪が輝いてゐた。<br />
　若山牧水「箱根と富士」（大正九年）</p>

<p>　どんな国にも明るい未来を夢想してしまう幸福とも不幸ともつかない時代があるものだが、日本でのそれは昭和三十八年頃だったと推測する。その年の元日に放送を開始した国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」がまさに明るい未来の象徴に思われるからだ。東京オリンピックを翌年にひかえ普及がすすんだテレビのブラウン管に映しだされた鉄腕アトムの軽やかなステップは、そのまま二十一世紀の青写真となり子どもたちだけでなく大人たちの心も躍らせたに違いない。ところでサーカスに売られていたアトムをひろったお茶の水博士は当時、科学省長官に就任したばかりだった。この新米の長官はしかしまだ環境庁なるものの存在を知らない。当たり前だ。これから科学の力によって未来を歓迎しようというときに、どうして環境問題といううしろを向いた存在に目をくばる必要があっただろう。もし博士が科学省の定例記者会見で環境破壊に関する質問を受けていたとしたら、マイクに向かってこういったに違いない。なにを邪魔しやがる、前だけを見ろ！<br />
　日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守ったのだ。そう、たしかにかれらの活躍は市街地で暴れるロボットや異星人と超人的な格闘を繰り広げる鉄腕アトムにくらべれば呆れるほど地味ではある。しかしフォワードの劇的で華美なゴールだけがファイン・プレーなのではない、玄人好みの堅実なディフェンスもまた称賛に値するのだ。むしろ高度経済成長期に特有の、未来にたいする盲目的な信仰という逆風のなかで、貴重な白星をあげたかれらこそ真の英雄ではないだろうか。<br />
　さあ、見えない英雄を讃えよ。</p>

<p>「一緒に死んじまいたいくらいだ」<br />
　その言葉に篠田豊治は絶望した。枯れ葉のような老婆が感情をじわじわと昂揚させていき、しまいにはこういったのだった。昭和三十九年二月九日から翌十日にかけて四日市を訪れたときのことである。この老婆はまだ四十歳の篠田と心中をするつもりなのだろうか、またそれを聞いて篠田は絶望のふちに立たされたのだろうか。いやそうではない。老婆の吐く言葉がさまざまな汚染物質が染みこみ、堪えきらない悲しみをたたえた言葉だったから絶望したのだ。帰りのバスの中で篠田は自らの幸運なめぐり合わせを喜んでいた数ヶ月前のことを思いだした。</p>

<p>　篠田は舞いあがっていた。<br />
　期末試験をおえた中学生のように晴ればれとした気分だった。なぜかというと自分は百姓という職業から解放されそうだからで、なぜ百姓が嫌かというと彼はそれほど農業に長けていないからだ。農家になったのはまだ最近のことだった。早生まれの幸運で危険な兵役をまぬがれることができた篠田は、戦争が終わってからの十年間を九州のセメント工場で送った。しかし労働組合を作りストライキを決行したことが仇となって会社を追いだされてしまった。故郷である静岡県三島市中郷に戻ってきた篠田はまもなくして父親の土地を継ぎ農家になった。そしてはじまった苦労の日々。生涯を百姓として送った父親と違って、まったく畑違いのキャリアを持つ篠田にとって農業は未知の領域であり、暗闇を手探りで進むようなものだった。<br />
　それはまた淳子夫人にとっても同じことだった。農家ではない家に生まれ、薬剤師になった淳子夫人にはぶ厚い百姓の手はまったく異質のものに思えたし、それまで数グラムの粉末を天秤で量ってきた細い手にどうして水を吸って重たくなったワラが運べるだろう、と不安に陥った。百姓はただでさえ体にこたえる職業だ。稲作の重労働に汗だくになって悶える夏。苺づくりのため凍るような冷たさに耐えしのぶ冬。そして夏と冬のあいだも麦の裏作のため労働は途切れることがない。それらすべての季節の重荷を考えればサラリーマンというのは、なんと軽いバーベルを持ち上げる仕事だろう。それに加えて時代の向かい風もあった。池田内閣の「所得倍増計画」にしたがって国民の所得は順風満帆に増加していったのにもかかわらず農作物の価格は据え置きだったので、成長盛りの日本のなかで農家だけがひとり貧乏くじを引いているような気分になった。実際、兼業農家が全農家の四割を超えたのはこの年だった。<br />
　そんな篠田夫妻のもとに未来からの手紙ともいうべき知らせが届いた。<br />
「淳子さん、ちょっと」<br />
「どうなさったの？」<br />
「ついに石油コンビナートが建設されるようだよ」<br />
「それじゃあ、もしかして」<br />
「そうなんだ、ぼくたちはこの土地を売ることができるってわけさ」<br />
　それは天使の羽をつけた鉄腕アトムによってもたらされた柔らかな救済のようにも、鉄の小指との固い約束のようにも思えたので淳子夫人はこころの中でこう叫んだ。これが明るい未来なのね、と。<br />
　天上には秋の空が能天気に広がっていた。</p>

<p>　この石油コンビナート計画は突然の訪問客というわけではなかった。来るべき二十一世紀に向けて各都道府県は自らの手も「鉄腕」にしたいと願い、新産業都市の指定をかけて激しい争奪戦を繰りひろげた。静岡県もその例にもれず政府にたいして熱心な陳情をおこなった。とりわけ斉藤知事は家柄からして資本側の人間であったし、知事選挙のときに新産業都市の指定を受けることを公約したこともあって、県の工業化にはつよい思い入れがあった。水に映った自分を好きになってしまった古代ギリシア神ナルキッソスと同じかそれ以上に、昭和三十八年の政治家は工業化に惚れこんでいたのである。結果的に静岡県は争奪戦に敗れ新産業都市の指定を逃すことになるが、それに準ずる工業整備特別地域に滑り込むことはできた。そのようにして工業に有利なように城壁を築いた上で、闘争の舞台となる三島市をはじめ、隣接する沼津市、清水町といった東駿河湾地区への石油コンビナート計画は着々とすすみ、その旅支度が整ったところで県は発表に踏み切ったのである。<br />
「豊治さん、ぜひ売りましょうよ」<br />
「そうだな、坪あたり三千円というのは好条件だ。このまえ繊維会社に土地を売った人は確か千五百円から二千円だったようだし、間違いない」<br />
「なんて素敵な話なのかしら」<br />
　浮かれた時代の浮かれた人たちは、まだそのすきま風に気づいていない。篠田はあたまのなかで皮算用をはじめているし、淳子夫人はすでに百姓を引退したあとの薔薇に囲まれた夢の生活を思い描いている。また居間でテレビに夢中になっている息子たちも主人公のアトムに絶対の信頼をよせているようだ。しかし夫妻の息子たちよ、アトムばかりに気を取られていてはいけない。もっと注意してブラウン管をのぞきなさい。そうすれば鉄腕アトムにふりかかる「災難」の多くは同じく人間の科学技術から生まれていることに気づくはずだから。</p>

<p>　<b>第二部「巨大な光」</b></p>

<p>　町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり、清冽の流れの底には水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は、台所に座ったままで、清潔なお洗濯が出来るのでした。<br />
　太宰治「老ハイデルベルヒ」（昭和十三年）</p>

<p>「まったくもって銀ピカだ」<br />
　長谷川泰三市長は感嘆の声を上げた。<br />
　昭和三十八年十月の終わり、三島市議会と連れだって視察のために水島製油所を訪れていた長谷川市長がそこでみたものはまさしく明るい未来だった。石油化学工場は訪れたものの目の前に現れるのではなく、その巨大すぎる体ゆえに訪問者をぐるりと取り囲んでしまうのだった。長谷川を包囲する鉄の塊はそして白く輝いていた。それまでの油にまみれたうす汚い工場の群像とは一線を画す、美しいとさえ形容できるこの圧倒的な輝きをまえに、言葉という言葉を奪われてしまった。大きさはそれだけで権力になる。もしも戦国時代の武将・織田信長が「城」という象徴的な住居をかまえず３ＬＤＫの部屋に暮らしていたら天下の統一などは不可能だったはずだし、エジプトの王族にしても日本古代の豪族にしても自らの墓の大きさによって人びとの心を縮めることに成功していたに違いない。<br />
　大きさにくわえて光の要素も工場の好印象に肩入れした。人類が光にめっぽう弱いことを示す記述が旧約聖書に見られる。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」ヨーロッパや中東にはこの光が満ちていたし、アジアには釈迦の後光が感動的に射しこんでいた。そして日本にも古くから独自の光信仰があった。史上まれにみるプレイボーイの光源氏がその象徴だ。彼をつつむ光は女たちを魅了した。昭和三十八年の使節団を光源氏に惚れた女たちと同列に扱うのには多少ためらいを感じるが、市長をはじめとする訪問者たちはこのようなことを考えていたに違いないのである。農業という闇に科学技術の光あれ！<br />
　存在の巨大さと輝きによって惑わされた職員のひとりは、なにを思ったか工場の排水を手ですくってぐいと飲み干した。そして胸を叩いてなんともないことを主張した。たしかにそこには海水よりも排水のほうがきれいだと言わんばかりの小魚の群れがそよいでいた。それをみた長谷川は視察団に帯同していた地域新聞「三島ニュース」の堀江記者に、公害はないねともらした。毒素は体内に堆積することで有害なことが多いのに、飲んだからといってすぐに症状が現れることはないのに、巨大な光に混乱したあたまには職員の行動を大げさなパフォーマンスだと判断できなかったのだ。<br />
　ところでこの巨大な光の種明かしをすると、長谷川市長がまばゆいばかりの工場を後にした数日後、天皇陛下が水島製油所を訪れることになっていたのだった。そのために製油所の職員は工場をきれいにしていたのだ。煙と排水にさらされた石油コンビナート工場がそもそも美しいはずがないのだが、陛下の通る道とあっては仕方ない、せっせとブラシをかけ、ペンキを塗った。その結果、あくまでその結果として、三島から来た使節団は少女マンガのように瞳を星でいっぱいにして工場に恋い焦がれることになってしまった。</p>

<p>　東海道五十三次の宿場町として栄えた三島市は古くから「水の都」としての誇りを持っていた。庭を一メートルも掘れば、富士の雪解け水が湧き出てくるとも言われたほど、市内のいたるところから名水が芽をだした。市の中心部にある楽寿園の小浜ヶ池にはなみなみと水が満たされ、ゆらゆらとなびく水面には園の木々や建築物の虚像が気持ちよさそうに映し出されていた。<br />
　土田寿山もまた物心ついたころから市内の川で泳いで育った市民のひとりだ。地面から溢れかえる水は永久の赴きをたたえていたので、冷たい湧き水に泳ぐ若き日の土田少年に、それから数十年後に三島の水が枯れることを想像しろといっても不思議な顔をされるだけだっただろうが、成人をむかえ市役所の水道課についた土田青年がみたものは枯渇しゆく井戸と水位の低くなった小浜ヶ池だったのである。それもこれも前年に隣町の長泉町に建設された東レ株式会社が繊維の製造のために柿田川の水を大量に汲み上げているからに違いなかった。明るい未来はどうやら都の水をがぶ飲みするらしいぞと市民が気づいたころには、すでに篠田夫妻の暮らす中郷地区の田植えの水にも影響が出ていた。</p>

<p>「この機会を逃したら三島の開発は二十年は遅れるぞ！」<br />
　革新派の反対に苛立った静岡県庁の永江企画調整部長は声を荒げた。昭和三十八年十二月十四日に県が正式な「石油計画」を発表してからというもの市議会からは靴に入りこんだ小石のように微小ではあるが腹立たしい反対の声が上がっていた。永江部長は睨みをきかせながらこう思った。三島市ごときに県の計画をつぶされてはたまらない。<br />
　その気持ちは斉藤知事もまた同じだった。明るい未来を公約した男として、なんとしても静岡県に石油コンビナートを建設しなければならなかった。斉藤知事は永江部長ほど声を張るタイプの人間ではなかったため、市議会からの質問にはしたがって静かにこう答えるに留まった。<br />
「風呂屋の煙突からも亜硫酸ガスは出ているじゃないか」<br />
　昭和三十九年一月九日のことである。</p>

<p>　日本全土で保守派の自民党が絶大な影響力を誇っていた時代、三島市も大勢は保守系であったが、なかには酒井県議を中核とする革新系の勢力が存在した。市民の健康を良識的に配慮すると石油コンビナートの建設は防がねばならないと考えたかれらは、石油計画の発表後すぐさま仲間の経営する料理屋に集まって対策を練った。酒井県議はかつて東レ株式会社が建設されるとき、市内の水源に問題はないのかと尋ねたことがあった。県の回答は問題ないとのことだったが、現実に市内の水位は日増しに低くなっている。今度もまた同じではないか。県は財政的な潤いを求めているにすぎない。<br />
　しかしこの時点では運命の天秤は賛成派に傾いていた。というより完全に県に掌握されているといってもいい。工業立国の時代へと吹く大風のなかで大資本の政治的権力はそれはもう大きかったので、それまで工業化を拒んだ住民運動が成功した例はなかったし、これからもないだろうと思われていた。そんなわけで斉藤知事は抵抗勢力を鼻で笑った。なにを虫けらどもが。<br />
　会議室の窓からは雪化粧した富士山がでんと座っているのがみえた。<br />
　そういえば、と斉藤知事は思いだした。三島市長は嫌なやつだっけ。<br />
　ちょうどそのころ、横浜に革新系の飛鳥田市政が誕生して話題になっていた。そして三島市の長谷川市長も革新系だった。市議会のほとんどが保守系だから心配はいらないものの、斉藤知事は長谷川市長にやりにくさを常々感じていた。嫌いな理由はもうひとつあった。三十代と若くして三島市長に当選した長谷川はアメリカ合衆国のケネディ大統領と重なって人びとの目に映った。細身で爽やかなケネディに比べて、どっしりした体格に禿げ上がった長谷川市長は外見でこそ見劣りはしたが（もちろんケネディと比べられたら誰だって白旗を上げるだろう）その政治家としてのリーダーシップは目を見張るものがあった。市民からの人気を背景に長谷川市長は保守の時代のさなか、ひとり奮闘していたのだ。ある日、長谷川市長が県庁まで知事を訪ねたことがあった。知事室のドアを開けて入ってきた嫌なやつに対して知事はわざと聞こえるようにこういった。「ああ、嫌なやつが来た」<br />
　長谷川市長は机に足をのせるという言語道断なポーズで自分を嫌なやつだと罵った斉藤知事のことを本当に嫌なやつだと思った。なんだか服もシャレているし、もともと企業の社長であるし、とにかく嫌なやつだ。<br />
　そのような具合にふたりは仲が悪かったのである。</p>

<p>　<b>第三部「工場の体臭」</b></p>

<p>　三島の町に入れば<br />
　小川に菜を洗う女のさまも、<br />
　やや、なまめきて、面白や、<br />
　どの橋からも、秋の不二<br />
　正岡子規「旅の旅の旅」（明治二五年）</p>

<p>　明るい未来からの手紙を受けとったはずの篠田は迷っていた。小西記者の発行する地域新聞「三島民報」には毎週のように石油コンビナートへの批判記事が掲載されていた。もし石油コンビナートが建設されれば亜硫酸ガスが町を襲うのだという。篠田は「未来」と「公害」という文字を交互に見比べてみた。工業化によって富をもたらそうとする県側の攻撃と、公害を危惧する革新系の守備と、どちらに加担するべきかはしかし判断がつかなかった。まだ公害という言葉が一般的でない時代である。近所の奥さんはつい最近まで公害のことを工場の害だから「工害」だと思っていたくらいだ。そんな折、四日市の視察の話が舞いこんだ。<br />
「実際に行ってみたらわかるんじゃないだろうか」と酒井県議は中郷の農家を四日市へと誘った。「県や企業から難しい言葉で百聞するより、両眼で石油コンビナート工場を見にいったほうがはるかに納得できる、もし被害がなければ工場の建設を歓迎しよう」<br />
　そうして二月九日の深夜、市民百人を乗せた二台のバスはまだ舗装されていない道を進んでいった。<br />
「まったくもって銀ピカだ」<br />
　数ヶ月前の長谷川市長とおなじ印象を持ったのは篠田豊治であった。まだ夜明けまえの暗がりに工場が煌煌と浮きあがってみえた。雨のなかぼんやり輝く夜景を素直に美しいと思った。こんなにきれいなものが毒ガスをまき散らすはずがない。でこぼこした道を夜通し来たから尻が痛んだ、肩が凝った、などと軽口を叩きながら午前中は石油工場を見学した。現場の職員は三島からはるばる来たＰＰＭも知らない市民視察団に対して嘲笑的な態度をとりつつ、このような説明をおこなった。人間にも体臭があるように工場にも臭いがあるんです。それは自然なことです。ちょっとくらい臭かったり煙があるからって騒ぎ立てる必要はありません。<br />
　それもそうだなと篠田は思った。おそらく公害はおそれるほど深刻ではないだろう。第一に工場の職員だってそこで暮らしている以上、危険物質をやたらとまき散らすわけにはいかないはずだ。毒ガスが放出されれば職員も被害を受ける。第二に三島に来るのはこれより新しい設備だ。日進月歩の科学技術をもってすれば亜硫酸ガスだってなんだって徐々に減っていくだろう。これらの証拠として富士石油のパンフレットにはこのように書いてある。「工場公園、それは製油所です。敷地が芝生やみどりと花に囲まれ（…）音もなく煙も見えず、深閑と静まり返っている」ほら、やっぱり大丈夫だ。<br />
　午後は手分けをして四日市の住民からじかに話を聞こうということになった。篠田たちはまず四日市保健所の森田所長のもとへ行き、公害について説明を受けた。<br />
「とんでもない！」<br />
　森田所長がいった。<br />
「風呂屋の煙突からもガスは出ているじゃないかですって？　普通の浴槽が六十年かかってたく重油を、工場は一日でたくんです」<br />
「はあ。そんなですか」<br />
「ええ、ええ。風呂屋と工場を一緒にしちゃいけない。それにね、聞いてください。最近では保健所に毎日四回くらい『赤ちゃんが死にそうです』っていう電話がかかってくるんですよ。騙されてはいけません、石油コンビナートの建設には十分注意したほうがいいです」<br />
　篠田は驚いた。午前中に聞いた石油工場の職員の話とは正反対だったからだ。これは念入りに状況を把握する必要があると感じた篠田たちは８ミリカメラやテープレコーダーを用意して住民への取材を開始した。道行く人に話を聞こうと市内を歩いていると向こうから枯れ葉のような老婆が洗濯ものを籠に入れてやってくるのがみえた。ちょっとすいません、と声をかけて工場から出る煙と汚水の被害を聞こうとした。公害という言葉を聞いた刹那、老婆は表情を変えた。<br />
「被害なんてものじゃありません」<br />
　ほらこれを見てくださいと言って老婆は洗濯物を突き出した。いまじゃ工場の煙のせいで洗濯物を家で干すこともままなりません。だからこうして工場に持っていって乾かしてもらうことになりました。自分はいま帰ってきたところです。わたしたちはそんな空気のなかでいっしょう暮らさなければならないのでしょうか。さいきんじゃ魚も臭くて食べられません、老婆はそう捲し立てた。<br />
「でも工場のひとたちもここに住んでるんでしょう」<br />
「あいつらは山の向こうにマンションつくってのうのうと暮らしています。わたしらだけがどす黒い空気を吸って暮らしています。引っ越す余裕なんてあるわけもなく。そんなこと、そんなことがつづいています。高校は県立だから移転できましたが、小学校は市立のためお金がなくて移転できません。小さい子どもがこんななかで暮らすと思うと悲しくて。工場のせいで病気になって死んだ人もいます。これから先も苦しんで暮らすくらいならいっそ」<br />
　枯れ葉のような老婆が感情をじわじわと昂揚させていき、しまいにはこういったのだった。<br />
「一緒に死んじまいたいくらいだ」<br />
　篠田は絶望した。老婆の吐く言葉がさまざまな汚染物質が染み込んだ、耐えがたい悲しみをたたえた言葉だったから。篠田のあたまにはその言葉が古くからあった汚れのようにこびりついて落ちなくなった。いっしょにしんじまいたいくらいだ。息子たちの顔が浮かんだ。黒い煙のなかで走り回る子どもたち。悪臭。いっしょに。汚染。煙。しんじまいたい。魚。黒い。どす黒い。絶望。<br />
　これはなにか、説明はつかないけれど、ものすごいことになってしまったと思った。なにかはわからない、なにかはわからないけれどこれは止めなくてはならない。そうでないと、子どもたちが死んでしまう。そのように興奮しながら混乱しながらバスは四日市から三島へと戻っていった。<br />
　窓の外には昨日と同じ銀ピカの夜が広がっていたけれど。</p>

<p>　その二日間のことを三島民報の小西記者はさっそく二月十五日と二十日に市民に向けて発行した。四日市を体験した市民百人もそれぞれに公害の実態を伝えあった。石油計画への反対の気運は水の都のなかを波紋のごとく広がっていった。二月二十二日、中郷地区に反抗の芽吹きを感知した県は説明会を開いた。永江部長と篠田は互いに向きあった。三島に建設される工場は最新のもので公害はないと永江が説明すると、それだけの技術があるなら四日市の悩みを解決してからバスで案内でもなんでもしてくれ、と篠田が切り返した。拍手が巻き起こった。永江は興奮してこういった。<br />
「この計画が流れたら、これに見合うものはないぞ」<br />
「しかし、まだ自信がない」<br />
　今度は長谷川市長がいった。<br />
「いましかチャンスはないのだぞ」<br />
「もし子孫に影響が出たらわたしの汚名は一生消えない」<br />
「あんたらはずっと牛をひいてればいいんだ！」<br />
　永江の顔は軍人のそれになっていた。大戦中に敵国とたたかった大きな体と冷たく光る義眼は、いまや市民に向けられていたのだ。</p>

<p>　中郷地区の反対同盟の中心になっていた篠田は毎晩のように勉強会に呼び出された。篠田さん、篠田さん、と苺の手入れをしているさいちゅうにも声がかかる。呼ばれちゃ仕方ないと着の身着のまま、四日市で収集したテープを持って出掛けていった。このまま朝を迎えたら霜が降りて苺がだめになってしまうわ、と敦子夫人は開けっ放しになったビニールハウスのドアを見て思った。豊治さんたらいつもこうなんだから。<br />
　一晩に二度も勉強会を開いた日もあった。呼ばれていくとお婆さんがひとりで座っているという日もあった。東京から学者先生を招いて公害についての教えを請うたし、工業高校の先生にも空のしくみを教えてもらった。戦後、庶民大学という地域密着型の教育システムを培ってきた三島の風土はこのようなとき絶大な力を発揮し、すぐにＰＰＭや逆天層などという化学用語が田舎の畦道で聞かれるようになった。誰が教える側というわけではなく、知っている者が知らない者に教え、それを聞いた者が別の誰かに伝播した。ご立派に会場を借りることもなく、たとえば篠田家の居間でも掘りごたつを囲んでたびたび勉強会は開かれた。敦子夫人はそのたびにお茶やおにぎり、ふかし芋などを出した。勉強会という名前でなくとも、女性特有の何時間でも身上話で花を咲かせる井戸端会議によって情報はずぶずぶと水田を伝わっていった。</p>

<p>　<b>第四部「水の調書」</b></p>

<p>　水底にしづく圓葉の青き藻を<br />
　差し射る光のさやかに照らす<br />
　窪田空穗 歌集「卓上の灯」（昭和二八年）</p>

<p>　長谷川市長はバイクで市内を走っていた。市長に当選してから、長谷川は生きた三島を観察するためにひとりバイクで通勤することにしていた。長谷川の政治の基盤になっているのはそれくらい市民が中心だったのだ。まだ四十にして立候補した長谷川がまさか市長になるとは誰も思っていなかった。市役所の職員のなかにはそんな青二才に対して、お前が当選したら課長を辞めるとまで馬鹿にしたものもいた。だからこそ自分に市政を任せてくれた市民は長谷川の生命だった。しかしここ数日は眠れない日が続いていた。昨晩も市役所の職員である大隅たちと麻雀を打ったとき、石油コンビナートのことが話題になった。<br 