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<copyright>Copyright (c) 2005, 高橋</copyright>
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<title>『１９６９年の上野高校学園闘争＿１』高橋直純</title>
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<summary type="text/plain">序章　都立上野高校 　台東区上野公園の一角にある都立上野高校では、かつて学園闘争があった。１９６９年のことである。「全日制闘争委員会」という名の有志学生が学校の一部をバリケード封鎖し、５項目の学校改善を要求した。その結果、自主ゼミナールの単...</summary>
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<name>高橋</name>


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<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong>序章　都立上野高校</strong><br />
　台東区上野公園の一角にある都立上野高校では、かつて学園闘争があった。１９６９年のことである。「全日制闘争委員会」という名の有志学生が学校の一部をバリケード封鎖し、５項目の学校改善を要求した。その結果、自主ゼミナールの単位認定、生徒会・生徒手帳の廃止などが達成された。上野高校だけではない。１９６９年は高校生にとって闘争の年だった。各地で高校紛争が起きたが、その多くは学生の要求が聞き入れられることなく一方的な処分や、時には警察の介入によって、問題の根本的解決には至らないままに終わっている。上野高校は数少ない学校側、生徒側にとっても比較的円満解決だったと言われている。多くのマスコミでも好意的な記事が出た。<br />
　<br />
　現在でも、上野高校は「自主協調」という校訓とともに、リベラルな校風が個性的な学生を多く惹きつけている。制服も校則も生徒手帳もない。生徒会もなく、体育祭や文化祭などの行事はその度ごとに有志が集まって企画した。このようなシステムになったのも１９６９年のバリ封がきっかけである。<br />
　<br />
上野高校の卒業生である筆者が、学園紛争があったことを知ったのは、偶然図書室で一冊の記録集を見つけたことによる。紛争から３年後に研究部(紛争後に進路指導部が改編された組織)の教師達によってまとめられた『資料上野高校の教育改革』という名の資料には、当時のビラや学校側の配布物などが詳細に記録されている。ほとんどの学生に見られることなくひっそりと所蔵されていた。</p>

<p>精読すると、編者の誠実な姿勢が伝わってくる。教職員側の作成した記録であり、そのまま鵜呑みにするべきではないのは分かっている。だが、少なくとも上野高校にとっては公式にも、学園紛争は恥ずべき過去として記録されていない。その資料からは、教職員と学生が一緒になって学校を良くしようとした運動の一環として、真摯に出来事を記録しようとする意思が感じられた。他にも当時の職員が紛争に関する本を何冊か残している。</p>

<p>本作品は、そうした記録とともに当時の学生や教職員へのインタビューなどによって１９６９年に上野高校であった学園闘争を改めてみていこうとするものである。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p><strong>第１章　「改革、革命」のリアリティ</strong><br />
現在において政治的な「運動」がもつ意味はどのようなものなのだろうか。多くの人にとっては、リアリティのある言葉ではないと思う。筆者の大学でも、構内で時折某セクトの演説やタテ看板を見かけるが、多くの人は素通りして行く。筆者もその一人だ。そのことに対して、さして後ろめたさも感じない。ましてや、高校生にとっては想像の埒外であるだろう。<br />
<strong><br />
１章－１　１９６９年の空気</strong><br />
　１９６９年ではまだそのような状況ではなかったという。多くの若者が政治や社会情勢を若者なりに真摯に考えていた。なにより世の中に変革の可能性を感じさせる空気が漂っていて、それが政治への希望を持つことを可能にさせていた。村上龍が自身が１９６９年に佐世保北高校でのバリ封を描いた小説『６９』の冒頭から当時の雰囲気を感じさせる部分を引用してみる。</p>

<p>「１９６９年、この年、東京大学は入試を中止した。ビートルズはホワイトアルバムとイエローサブマリンとアビーロードを発表し、ローリング・ストーンズは最高のシングル『ホンキー・トンク・ウイメン』をリリースし、髪の長い、ヒッピーと呼ばれる人々がいて、愛と平和を訴えていた。パリではドゴールが退陣した。ベトナムでは戦争が続いていた。女子高生はタンポンではなく生理綿を使用していた。　－中略―　この頃は、受験勉強をする奴は資本家の手先だという便利な風潮があったのも事実である。全共闘はすでに力を失いつつあったが、とにかく東京大学の入試を中止させてしまったのだ。何かが変わるかもしれない、という安易な期待があった。その変化に対応するためには、大学などを目指していてはだめで、マリファナを吸う方がいい、というようなムードがあった」</p>

<p>　当時教師だったある人は、僕に「６０年代末期の青年を内外から動かすロマンティシズムとリアリズムの問題」を読み解く必要性を指摘する。１９６９年には、世の中が大きく変わるかも知れないと感じることができた。そして、その可能性は政治への意識がリアリズムの範疇にあることを可能とさせた。実際にバリ封に参加したメンバーの一人も次のように語っている。</p>

<p>「ノンポリ(ノンポリシー)だったやつは未だに気分的に信じていない。右だろうが左だろう関係なかった。なんか世の中変わるんじゃないか。もしかしたら幕末のような時代に生きているんじゃないか。俺達はなんの力もないけど、この活動をしていくと世の中が変って、高校だとか大学とかの制度そのものが変わっていくんじゃないかという希望をもっていた」</p>

<p>　現在の政治運動とは格段の差が、１９６９年のそれとは格段の差があった。そのことを念頭に置かないと、１９６９年の出来事を正しく理解できない。<br />
<strong><br />
１章－２　高校生の政治活動</strong><br />
　高校紛争については、記録も少なく当時の正確なデータを把握するのは難しい。ここでは『高校紛争　STUDENT POWER』という本の記述を中心として、当時の状況を掴んでいきたい。以下、１章－２では特に記述のない場合はこの本を参考にした。<br />
　編者の一人の都立高教師永野恒雄は「高校紛争」の基点は６７年にあると分析しており、この年に関西の高校で起こった２つの紛争を紹介している。これらの事件に先立つ例としては、１９６７年の上野高校新聞部が発行する学内紙・東叡新聞３月１７日号が取り上げた、１９６４年に福岡県立修猷館高校定時制でおきた反戦活動をした生徒への退学処分への抗議事件があげられる。見開き２面全部を使った特集記事は、見出しの横には次のようなリード文が載せられている。</p>

<p>「平和を願って署名活動をしたことが事の原因で、学校と生徒の対立が始まり、ついには原告の奴留田(ヌルユ)文子さんは退学処分ということになってしました。そこで奴留田さんは不当に思い、学校側を相手取って福岡地方裁判所へ訴えました。現在も裁判は進行中です」</p>

<p>記事の最後には「実行力と忍耐力を」と小見出しがあり、</p>

<p>「なぜもっと動こうとしないのだ。なぜもっと真剣に平和を考えようとしない。なんだってそうだ、この学校には勝手なやつばかりいる。大事には総会には耳を傾けようともせず、ただ一部のものに流される。まるっきり衆愚政治だ。　―中略―　みんなは卑怯だ。あまりにも勝手すぎる。利己的だ、ここに自分の正しさを主張して裁判までしている人がいるではないか。もっと視野を広くもて、世界は動いているのだ。その動きを見極められずにいると取り残されてしまう。平和のためにも、正しい事を行うためにも、強い忍耐と実行力が必要だ。これは必ず真の幸福を導くだろう」</p>

<p>と締めくくられている。</p>

<p>　１９６８年３月には福島県立福島高校で卒業式の送辞が当初予定されていたものから、ベトナム反戦を訴えるものにすり替えられるという事件がおきた。１９６８年８月２７日には東大安田講堂で大阪府立市岡高校と都立戸山高校の生徒が中心になった高校生による反戦集会が開かれた。翌２８日の朝日新聞を引用する。</p>

<p>「全国高校生１０・２１闘争実行委員結成大会が二十七日午後、東京・本郷の社学同、革マル派など反代々木系学生が占拠している東京大学安田講堂で開かれた。高校反戦など高校生の反戦組織から百五十人(東京、大阪を中心に約百校)が参加し、十月二十一日に予定されている国際反戦デーに高校生独自の闘争を展開することを申し合わせたほか、委員長に小川敏雄君(大阪・市岡二年)を選んだ」</p>

<p>　１９６８年９月には大阪府立市岡高でPTA会費問題に端を発する校長室占拠事件が発生する。発生から約１２時間後に占拠はとかれ、立てこもった生徒は校外に退散した。これが初めての高校での「占拠」事件となる。１９６９年１月都立新宿高校定時制でバリケード封鎖(未遂)騒動が、東京で初めて発生した。３月には各地で「荒れる卒業式」となり、都内でも３８校の高校中学で騒ぎが起きた。上野高校でも分裂卒業式となった。<br />
　１９６９年は高校闘争の最盛期となる。元東京都教育長指導部長の北沢弥吉郎『東京の高校紛争』によれば、１９６９年９月から１２月までの間に「紛争」が発生した都立高校は３１校、封鎖が行われたのは２４校である。しかしこの２４校には上野高校の封鎖が含まれておらず、２５校というのが正確な数字だろう。ちなみに当時の都立高校は全部で１４９校である。もっとも深刻だったといわれる都立青山高校では６１日にわたって授業が行われなかった。<br />
　１９６９年１２月以降、高校紛争は急速に沈静化していった。沈静化が進んだ要因の一つとしては行政側による取締りの強化があげられる。１０月２５日の朝日新聞には「指示従わぬ生徒は　退学を含む強い処分を　高校紛争授業正当化ねらう」という見出しのあと、</p>

<p>「高校の封鎖や授業中止が続出している都立高校の紛争に対処するため、東京都教育委員会は二十四日『紛争を早期に解決し、授業を正常に戻すためには学校長の異動や都教委独自に機動隊導入の要請も考える』との『授業正常化についての基本方針』をはじめて発表した。この基本方針にもとづき、野尻高教都教育長は同日、全都立高校長に対し『一部生徒の不法な行為は断じて許すな。学校の指示に従わない生徒は退学、停学の処分を』との強い通達を出した。生徒の処分を指示したのは今回がはじめて」</p>

<p>とある。１０月３１日には「高等学校における政治的教養と政治活動について」という名の「文部省見解」がでる。</p>

<p>「学校の教育活動の場で生徒が政治的活動を行うことを黙認することは、学校の政治的中立性について規定する教育基本法第八条第二項の趣旨に反することになる〈第四の１〉」「国家・社会の法や秩序に違反するような活動や暴力的行動については、常に厳然たる態度で適正な処分を行うべきである〈第四の３(４)〉」</p>

<p>　生徒の政治活動に理解を示すこと自体が、教育基本法に反するというわけである。青山高校では９月１４日、日比谷高校では１０月２８日に警官隊が導入された。<br />
７０年に入ってからは４校でのみ紛争に突入した。『高校紛争』の中で永野は次のように記す。</p>

<p>「高校紛争は、教育行政の強硬姿勢によって、具体的には警察力の導入と関係生徒の処分によって収束した」</p>

<p>こうして７０年以降、急速に高校生の政治活動は減少していき、それ以上に政治に対する関心も失われていく。<br />
<strong><br />
第２章　１９６９年の上野高校</strong><br />
　次に、上野高校の当時の状況についてみていきたい。６０年代は都立高全盛の時代であった。日比谷高校、西高校、戸山高校などの名門高校が東大合格者出身高校ランキングで上位を占めていた。下町の進学校として上野高校もその例に漏れず、東大に何人合格するかが毎年年度末の話題になり、６４年度には東大合格者４０人となり全国ベスト１０にランクされた。上野高校の前身は旧制市立二中であり、ナンバースクールと呼ばれた日比谷高校や西高校などの旧制府立中学校が前身の高校への対抗意識も伝統的にあった。<br />
　当時の受験体制を知るために、『上野高校創立７０周年記念誌うえの』の中から６９年２年生だった生徒の発言を引用してみる。</p>

<p>「入学時に、志望校はどこだと言われて東大と書かないと、非国民扱いされる(笑)」「上野高校の場合は、だいたい三年間のことを二年弱で終わらせるということ」「駿台予備校の模擬試験と上野高校の普通の定期テストの平均点で駿台の方が高いようであれば問題が悪いと豪語していた」</p>

<p>１９６１年度に校内で発行された歌集には次のような遊び歌が掲載されている。</p>

<p>「上高ブルース<br />
１　　常磐京成に乗せられて<br />
　　　ゆられゆられて行く先は<br />
　　　その名も名高き受験校<br />
　　　東京都立上野高校<br />
２　　上野の森のヘイの中<br />
　　　そこに地獄があろうとは<br />
　　　夢にも知らぬシャバの人<br />
　　　受験地獄の一丁目」</p>

<p>　こうして加熱する一方の受験体制は、しだいのその弊害が社会問題化していった。当時、新入生の間では毎年上級生の中で受験を苦に屋上から投身自殺を図った人がいるという噂がまことしやかに流れていた。６８年の卒業式間近に出された『声明』と題されたビラより、当時の学生生活を学生自身がどのようにとらえていたかを見てみたい。</p>

<p>「この３年間――即ち１９６５年から１９６８年、私達にとっては１５歳から１８歳――は一体何だったのだろうか？　私達はその問いを繰り返す。それは充実した日々だったろうか？　不毛の歳月だったろうか？　総体として見るならば、上野高等学校の生徒にとっての最大関心事は「大学」であり、それ以外の何ものでもなかった。３年間、ひたすらこの「大学」のみを唯一の現実と認識し、その他一切に参与することを拒絶し続けるのである。きわめて狭量な現実認識の上に立って、無関心の、無感動の、無責任の日々を送った者がいないと誰が断言できる？」</p>

<p>　こうした加熱を極めた受験体制を緩和する目的で６７年から導入されたのが、都立高校入試における「学校群制度」である。簡単に説明すると、都立高校を地区ごとに二～四校のグループに分け、地区の生徒には特定の高校ではなく、その「群」を受験させる。合格圏内に入れば、機械的にそれら二～四校に配分するというものだ。上野高校は白鴎高校と第５２郡学校群を組むことになった。ちなみに１９４９年まで上野高校は男子校、白鴎高校は女子校であった。<br />
　学校群制度により「・学校の格差がなくなる。・高校受験の過当競争の緩和。・過激な校風の是正。(東叡新聞６６年９月２４日号より)」が成果として達成させられると言われていた。学校群制度の影響はすぐに現れることになる。学校群制度導入後は各都立高の進学実績、端的にいうと東大合格者数が目に見えて減少していった。都立高校が進学において遅れをとるようになるにつれ、私立高校受験の厳しさが増していった。学校群制度導入の経緯について取材した元毎日新聞記者で法政大学教授の奥武則は著書『むかし〈都立高校〉があった』の中で「都立高校の自由で個性的な学校文化は失われ、逆に受験戦争は過熱化した」と指摘している。学校群制度は８２年まで続いた。ちなみに現在では都立校入試での学区制限は全てなくなっている。</p>

<p>　学校群制度で入学してきた学生は多くの困難を抱えることとなる。郡で選抜されるため、上野高校を第一志望としなかったのに入学してきた生徒もいた。学校群のペアとなった白鴎高校は旧制府立一女であり、特に女子には白鴎を希望しながらも上野高校に来ざるを得なかった者が多かった。<br />
　また、総じて学校群制度で入学してきた生徒はそれ以前の生徒に比べると学力が劣る傾向にあった。６８年には学力低下が顕在化し「上野高校の曲り角」だとの認識が広まっていく。教師はそれまでの名門校としてのプライドもあって、以前と比べるような形で叱咤激励することも多かった。教師だけでなく上級生も全校集会の席などで、上野高校の伝統を守らねばならないとアジテーションのような演説をすることもあった。学校群制度ではじめて入った学生の一人は、暖かく歓迎されて入学したという印象はないと述べている。当時の教師の一人は、そのことが生徒に鬱屈とした感情を抱かせてしまったと語った。<br />
　学校群以前に都立新宿高校の生徒だった筆者が書いた『むかし〈都立高校〉があった』という本のタイトルも、学校群以前の都立高校が本当の都立であり、それ以降は都立高校ではないという意味でつけられている。学校群以前を知る者たちの、そのような意識が学校群制度で入ってきた学生へのプレッシャーになったのは間違いないだろう。</p>

<p>　新聞部発行の『東叡新聞１９６８年９月２２日号』にはアンケート特集「教師と生徒の関係は？」が組まれている。特集は次のようなリード文で始まっている。</p>

<p>「現在、全国で約五十校の大学が「学園紛争」の状態にある。その原因は複雑で一言では言えないが、教授と学生間の相互信頼の欠如がその一つであることは疑うことのできない事実であろう。そしてまたこの相互信頼の欠如は高校においても例外ではない」</p>

<p>「現在の先生・生徒間の関係に満足か？」という問いに対しては</p>

<p>満足している　一年５２％　二年１９％　三年３８％　教師２０％<br />
満足していない　一年４２％　二年７８％　三年５９％　教師８０％</p>

<p>となっている。<br />
　２年生が際立って満足をしていないと答える割合が高い。この学年が学校群制度入学者第一期生であり、３年生となる翌１９６９年に闘争当事学年となった。<br />
　また「学園紛争の原因は？」という問いに対しては、数字の記載はないが「相互理解の不足、対話の不足」が原因として最も多くあげられている。<br />
　６９年に都立の各校でバリ封の主体となる３年生は学校群制度で入学してきた最初の生徒たちだった。</p>

<p><br />
<strong><br />
第３章　上野高校学園紛争<br />
３章―１　バリ封にいたるまで　</strong><br />
　学園紛争のピークは多くの高校で１９６９年９月から１２月の間にくることが多かった。しかし、当然のことだが、突然校舎がバリケードで封鎖されるわけではない。まずはバリ封の前年度に当たる１９６８年３月までを見ていきたい。<br />
　<br />
◎１９６７年度<br />
　この年、バリ封時３年生となるが学校群制度一期生として学生が入学してくる。最初の教師と生徒の目立った対立としてあげられるのが１９６７年のサンダル問題である。６月に生徒の規律向上のため、学校側が上下履きとしてサンダルを禁止することに端を発するこの問題は、３年生の有志が抗議行動を起こしホームルーム決議による白紙撤回要求が出されるにいたった。しかし学校側は決定事項を撤回しないことを全校生徒に伝える。３年有志は全校集会への発展を望んだが、禁止の決定は覆らなかった。<br />
　また、１９６８年は２月１１日に建国記念日が制定されたはじめての年だった。この問題を話し合うために全校集会が開かれた。２月１１日を祝日とすることは国家による反動的行為であるとし、抗議のための同盟登校(休日だが抗議の為に登校すること)が提案されるも、結果的に否決された。<br />
　サンダル問題で抗議行動をした３年生有志は、卒業式で反戦バッチをつけ、「君が代」斉唱時に起立しないという行動をとる。式後、校長・学年主任・学級担任および卒業生一同に『声明』文章を手渡した。一部を引用する。</p>

<p>「生徒の己に対する信頼を要求するのみで、生徒の言動には一遍の信頼すらもかけようとしない教師を私たちは許すことはできない。私達には、教師はわれわれとともに在るという意識を持ち得ないことに対する焦燥感がある。教師と生徒との間に亀裂が存在することは不幸なことだと私たちは考える。私達の志向が教師によって繁く阻害される事実の中に、その不幸は集中的に表れている。－中略―　学友諸君！　教師のみなさん！　私達は根無し草だ。だが私達は雑草だ。右声明する」</p>

<p>　この「根無し草」という表現は当時の上高生を表現する比ゆとしてしばしば使われていた。当時社会科教師だった秋葉安茂は後に『学校の草』という題で、学園闘争を題材とした小説を発表している。<br />
生徒会活動の沈静化が進んでいた中、この事件は下級生たちに強烈な印象を与えた。</p>

<p>◎１９６８年度<br />
　学校群制度になって２回目の生徒が入学。学力低下が顕在化し、現状は「上高の曲がり角」だとの認識が教師の間で出だす。この年、闘争の解決に大きな影響を与える校長森杉多が新たに赴任してきた。森校長は「根無し草」の高校生を内面から知りたいとして３年日本史を週４回担当し、昼食時には生徒を数名ずつ読んで雑談をした。<br />
　１１月３０日は全都反戦闘争実行委員会主催の高校生による反戦集会が開かれた。上野高校からも約２０人の生徒が参加。上高教師も様子を見に行ったそうだ。<br />
　翌年１月１９日には全共闘が立てこもっていた東大安田講堂が「落城」。その様子が校舎の窓から見えた。上野高校から東大本郷キャンパスは歩いても１５分ほどの距離である。多くの卒業生もいたため、東大の情勢は上野高校生に大きな影響を与えていた。この年、東京大学は入学試験を中止している。<br />
　そうした中、卒業式が近づいていった。卒業式の４ヶ月前から「卒業式準備委員会」が結成される。これは各クラス２人の生徒委員と教師によって構成されている。興味深いことに、職員会議で「君が代」の代わりに「校歌」「蛍の光」を歌うことが決まっている。卒業式についての３年生へのアンケートで、「君が代」を歌ったほうがいいという生徒が過半数をぎりぎり超えたにすぎなかったため、問題が発生するかもしれないとの配慮の結果だという。</p>

<p>◎１９６９年３月１８日　分裂卒業式<br />
　だが、受験もあらかた終了した３月の中旬になると、卒業式とは高校生活の総括であり、討論会を主たる内容とする卒業生、在校生、教師の自主集会とするべきだという声があがりだした。この声をあげたのが、３年３組を中心とした「三年三組卒業式研究会(通称ミミ研)」と呼ばれる有志集団である。彼らは教育基本法、学校教育法、学習指導要領などを調べ、ガリ版刷りのパンフレットを一週間ほどで作成した。その内容を要約してみる。</p>

<p>「高校とは主体的に教育を受けるべき場であり、本来の教育は対話であり教育の主体は生徒であるべきだ。卒業式とは高校生活の総括の場であるべきである。しかし、この定義を採用すると、上野高校では真の教育はありえず、現状のままだと今後もありえないだろう。現行の卒業式は対話の場ではない。対話・自由発言の場としての卒業式こそが今後の教育の発展の場になるはずだ」</p>

<p>　多くの大学や他の高校で見られたような「帝国主義的儀礼を拒否する」というような、教条的、左翼的な言説に彩られることはなかった。「教育」に闘争の主眼を置くことは、これ以後も上野高校では一貫していた。<br />
３月１１日ごろから校内は騒然とした雰囲気に包まれだす。ミミ研の他にも、卒業式そのものの粉砕をもくろむ「粉砕派」と呼ばれる学生も数名現れ、校内でアジテーションをおこなった。学生は、実行委員会、ミミ研、粉砕派のいずれを支持し、どのように行動するかを選ばなくてはならなかった。卒業式前日、学年集会が開催された。夕方４時過ぎに始まった集会は、はやばやと粉砕派の主張は退けられ、８時近くまで実行委員会による通常の形式の卒業式と、ミミ研による自主集会のどちらを行うかが話し合われた。最終的には卒業式に賛成する生徒百数十名、自主卒業式が九十余名となり、卒業式が行われることが決まった。<br />
　翌日、卒業式に出席するものが四分の三程度、残りは校庭に集まった。卒業式自体は大きな問題もなく終了した。ここで卒業生のアンケートによって書かれた答辞の一部を引用しておく。</p>

<p>「私達は空虚感に陥りました。久しく心の底から笑うことも、感動することもなくなり、私達を"受験生"として見る周囲の眼によって自由に外出することや本を読むことさえつつしまなければならないほどでした。－中略―それが益々、自己嫌悪を生み出し言いようのない絶望、孤独、無気力にさいなまれた記憶があります」</p>

<p>このように答辞らしからぬ高校生活にたいする煩悶が延べられた。しかし、最後のほうでは</p>

<p>「このような問題に対して私達高校生の中に、何とか解決していこうとする努力の兆しが芽ばえ始めています。生徒のみならず先生との対話を積極的に復活させようとする研究会の試み、討論会、自由サークルの活動などはその表れといえないでしょうか」</p>

<p>とあり、後輩に対して</p>

<p>「あなた方を取りまく身近な問題に真摯な態度で取り組み、自ら考え、満足できる行動を取ってください」</p>

<p>と述べ、閉められている。</p>

<p>　卒業式の最中も校庭では自主討論会が行われていた。粉砕派のリーダーは他校の生徒を応援に呼ぶも、警備係りの説得で退去していった。<br />
　卒業式終了後には、討論会に校長も出席。校長へのつるし上げは執拗なものとなった。初めてこのような情景を見た、保護者の中にはショックを受けたものもいたという。討論会はますます熱を帯びていく中、PTA会長が発言をも求めて壇上に上っていった。この会長は、戦時中は陸軍大尉であり、現在は家具製造会社の社長という人物だという。彼の話は次のようなものだった。非常に印象的なので、『自主ゼミ創出』の中で紹介されている言葉をここでもすべて引用してみたい。</p>

<p>「私にも一言言わせてもらいたい。このように先生方と生徒諸君がともに満足できるような教育を求めて話し合うことは立派なことだと私は信ずる。大いにやるがいい。しかしここにいる２００名くらいの生徒諸君の中で、現実にある大学入試に合格しなくてもいいと、しっかり腹に決めているものは何人くらいいるだろう。あまりいない、と私は思う。現実に目の前にあるものは、完全とは言えないが、なければならない理由と、それだけの価値があってのことだと私は思う。この堀の向こうに道路があることは、われわれ上野高校にとってはじゃまだ。第二グラウンドに行くのに大変じゃまだ。だからといってあの道路を直ちになくすわけに行かない。大学入試、受験教育を改善するための討論会をいくら続けても、結局はどうにもならないところがどうしても残る。さきほどの卒業式の立派な答辞の中にもあったように、先生と生徒が静かに話し合って、学校内で改善できることを改善するのはまことに結構なことだと思う。しかし今日は卒業式である。諸君誰しもがほんとうは心の中で感じている学校や先生方や家族や社会に対する感謝の気持ちを表すべき日だ。感謝の気持ちは口に出さなくてもいい。けれども、人間として大切なその気持ちがあったら、この集会はここら辺で、校歌でも皆で歌って、めでたく整然と散会にしたらどうだろう。私のいいたいことはそれだけです」</p>

<p>　この言葉により集会は感動的に終わったと『自主ゼミ創出』は記している。主義主張や論理ではなく、このような情を前面に押し出した意見によって、解決に向かうところが高校生による運動の特徴といえるかもしれない。</p>

<p>　３月下旬に行われた最後の職員会議では卒業式問題についての総括が職員間で行われている。各自の意見を表明するにとどまったと記録されているが、問題の根底には、生徒は教育とは何かをという真摯な問いかけをしていると解釈する者と、単なる家庭環境と性格において特殊な生徒が先導したにすぎないとする者に分かれた。『上野高校の教育改革闘争』という教員研究部が出したレポートには</p>

<p>「すでに４３年以来、教育改革について討議がなされていながら、実はこの二つの見解について対立を徹底的に掘り起こし討議を深めておかなかったことが、４４年度の教育方針をめぐっての教師集団の現状分析、具体的改革立案能力を鈍化させたように思われる」</p>

<p>と記されている。<br />
<strong><br />
３章―２　バリ封</strong><br />
◎１９６９年　前期<br />
　４月４日の始業式以降、学生の間では生徒会、ホームルーム、学校行事などについての討議が行われるようになった。分裂卒業式の影響は明らかである。４月２３日の職員会議で生徒の掲示・伝達・集会の自由が長時間の議論を経て可決された。教育庁通達では高校生の政治的活動はきびしく制限されていたが、これは実質的に認めるものであった。これにより立てカンなどが校門などで目に付くようになった。<br />
　５月に出された立てカンの中には「番付」と呼ばれたテスト毎に生徒上位者の氏名を公開する制度の廃止を訴えるものがあった。この立てカンは生徒、教師の注目を集め１ヵ月後には番付は中止された。<br />
　その一方で生徒会は徐々に崩壊していった。４月２３日には２年生の新生徒会長と副会長が選出された。しかし５月２１日の生徒総会は、新生徒会長による改革案や予算案などの重要な議題があるにもかかわらず不参加者が多く流会となった。生徒会は入りたくて入った組織ではなく、入会させられたにすぎず、自主を装う非自主的集団に入ることを拒否する、という趣旨の立てカンが出された。<br />
　当時から前期後期の二期制だった上野高校では毎年前期の最後には交友会大会と呼ばれる文化祭が行われる。ここで後にしこりを残す２つの事件がおきた。一つは「交友会大会の歌」を募集し、当選作を決めるにあたって生徒と担当教師の間で意見が一致しなかったこと。もう一つは、討論会委員会が、顧問教師に内容を知らせず反戦映画を上映しようとし、それを校長が調査しようとしたことを交友会大会弾圧と討論会委員長が言い出したことだった。この委員長は後にバリ封行動隊長になる。交友会大会の講演者はべ平連事務局長の吉川勇一氏だったいうところに時代を感じる。展示や討論会では教育課程答申、指導手引書への批判なども行われた。</p>

<p>◎１９６９年　バリ封前夜<br />
　９月２７日後期始業式。生徒会長が突然発言を求め、交友会大会が失敗したのは学校側の不当な干渉によるものだと発言した。ひどく興奮した状態での発言だったという。１０月８日は後期生徒会会長の選挙が行われる予定であったが、立候補者がなく中止になった。それに先立ち２年５組では生徒会役員の選出を拒否。１０月３日に「生徒会についてみんなで考えていこう」というビラが刷られ、２年５組の生徒会役員拒否は、全校に広がっていった。</p>

<p>　１０月９日木曜日、３年４組で１８時過ぎまで討論会が開かれた。議題はホームルーム制や成績についてであった。翌週１３日月曜日にも再度討論会が開かれ、そして１４日には授業ボイコット、自主討論会へとつながっていった。１５日には定例の全校集会が昼休みに行われた。通常の全校集会では全生徒教師が校庭に集まり、校長訓話や教師の注意、生徒会の連絡などが行われるのが慣わしであった。この場で、３年４組有志は「授業とはなにか？」という問いを投げかけ、そして授業ボイコットが呼びかけられた。『自主ゼミ創出』では</p>

<p>「集会そのものが、活動家の生徒にのっとられようとして、ただならぬ雰囲気に包まれていた」</p>

<p>とある。集会は教師の判断により解散、提案に関してはクラス毎に話し合い、話し合いが終わり次第授業に入るということになった。<br />
　翌年２月に発行された校内の文芸誌『創』には、「上高の改革」という特集が５Pほど組まれている。これは、おそらくもっとも早い学園闘争に関するまとまった文章だろう。編集委員はみな学生である。一部を引用する。</p>

<p>「この(全校集会)盛り上がりは、四十三年度の分裂卒業式、校友会大会での問題提起、後期役員拒否＝生徒会の空洞化を経て、各個人が一人の人間として生きようとするものだった」</p>

<p>　１０月１８日土曜日にも３年、２年生の有志が携帯スピーカーで自主的集会の要求、学校側はこれを認め２限３限はすべて集会となる。討論内容は試験制度、単位制、カリキュラムの３点だった。討論会の最後に試験制度の廃止が要求として出され、学校側は２日後に回答すると約束し散会した。学校側は連日長時間の職員会議を行い最終的には１０月２１日からの中間考査を中止し、教育過程、評価の問題を再検討することを決定した。２０日月曜日にも全校集会が開かれ、校長より発表された。この決定は多くの生徒に驚きと安堵を与えた。これにより１，２年生のほとんどのクラスで平常授業が再開された。しかし３年生の各クラスでは授業のほとんどが討論となる。<br />
　時を同じくして３年闘争委員会、２年教育改革委員会が結成された。革マル派、民青はいずれにも合流しなかった。職員研究部による資料では</p>

<p>「全闘委(全日制闘争委員会)に結集していくグループは、いわばノンセクトラジカルズであり、上高生徒大衆の多数をつかむという問題が煮詰まりだしたのが、１０月２０日以降の一週間であったといえよう」</p>

<p>と記されている。<br />
　学校側は２２日には現行の試験制度の廃止、通知表の廃止、評価・単位については教科ごとに基本方針を打ち出すことを決定する。<br />
　２，３年生の有志集団は、この一週間の間に現行指導要領を購入し検討、カリキュラム編成の思案等を進めていった。２年生有志より単位制・生徒心得・顧問制、部室管理について、３年生有志より単位制・自主ゼミについて問題提起され、立てカンやビラなどの形で一般生徒へのアピールがされた。<br />
　２週間近く続いた討論は、しだいに内容が煮詰まってくると同時に行き詰まりを感じさせ、答えの出にくい問題を扱っていたため泥沼の様相を見せてきた。<br />
　そんな中１０月２７日月曜日、全闘委を結成することになる生徒とその同調者が全学生に対し五項目の要求を学校全体の問題とするべく全校集会を呼びかける。五項目の要求とは次のとおり。</p>

<p>１　クラス別時間割を廃止し、自主ゼミナール８５単位の中に認めよ。<br />
２　生徒会各機関の顧問制を廃止せよ。<br />
３　生徒心得を全面撤廃せよ。<br />
４　職員会議を公開し、傍聴を許可せよ。<br />
５　「文部省指導要領」を拒否し、文部省に対して拒否声明を公示せよ。</p>

<p>　しかし雨が振っていたこともあり３０人程度のメンバーだけの参加であった。学校側に対しては校長のみを呼び出し、回答を要求。森校長の著作『戦争と教育』の中に、この時のことが記録されているので引用してみる。</p>

<p>「昼前、校庭に全闘委とその同調者が集まり、五項目要求貫徹集会が始まった。職員室では鈴木教頭・大江生徒部部長・田中教務部長らと話し合っているところに、全闘委の行動隊長がやってきて、校長一人が集会に出るよう求められた。私は五項目については教頭・教務長・生徒部長らと相談しながら全闘委との話し合いを進めようと思い、三人に同行を促したが、行動隊長は冷たく「校長ひとり」ときびしく言った。私は、これが大学・高校闘争での各セクトの慣例かと諦めて雨のそぼ降る校庭の指揮台に近づいた。三十名くらいが水たまりの出来かけたコンクリートの上に腰を降ろして私を迎えた。二、三階の窓からは、強い関心や「野次馬」顔の生徒たちが集会を見下ろしていた。全闘委の一人が開いた傘を私に差しかけようとした。私は、「ゆっくり話そう。皆体育館に移ろう」と傘をしりぞけたが行動隊長は叫んだ。「雨が何ですか。全校生徒のためにわれわれは雨にぬれてやっている。」そんな言い廻しは、軍隊では小心な下士官の自己顕示の常套句であったな、とちらと思い出しながら私は指揮台に立った」</p>

<p>校長がこの場での回答は出せないと答えると、全闘委側はこれを要求への全面拒否と確認し、集会を散会した。このとき、３年闘争委、２年教育改革委中心として全日制闘争委員会が結成された。</p>

<p>　そして翌日よりバリ封が始まる。全闘委のメンバーはこの夜、メンバー宅に泊まり、翌日に備えた。</p>

<p>◎バリ封　<br />
　１０月２８日火曜日、早朝５時、全闘委約１０名は本館一階のうち職員室、応接室、校長室、用務員室をバリケード封鎖した。都立各校でバリ封がおこっていたため、校長は警戒して校長室に泊り込んでいた。そのため学生５人で強制的に引きずりだし、退去させることになった。ちなみに職員研究部の資料ではその際、「その振る舞いは無作法な振る舞いではなかった。」と記されている。同じように、バリ封を予想していた教師数名も校内に宿泊していた。<br />
　一般の学生が登校してくる時刻になると、バリ封の学生たちは校庭デモを開始した。『自主ゼミ創出』より引用する。</p>

<p>「ピッピィ、ピッピィとなる笛の音に合わせて、『闘争―、勝利』『闘争―、勝利』の掛け声高く、狭い校庭をじぐざぐ前進する花々しい武装隊列は、学校を一種のお祭り気分に湧き立たせた。登校してきた生徒の反応はさまざまであった。ついにやったか、と胸を躍らせる興奮の顔、バカなやつらだと舌打ちしただけで教室へ急ぐ三年生、げらげら笑いさざめきながら「仮装行列」に拍手をおくる女性徒たち。中には、腕組みをして見物している沈黙の教師に、あの無法を許しておくのか、と喰ってかかる生徒、われ関せず、と今日の午後の球技大会にそなえてバレーボールの練習を始めるグループもあった」</p>

<p>１０月２８日(火)　　　　　　　　(※以下の時間表は『戦争と教育』より引用)<br />
８：１０～8：１５　職員打ち合わせ<br />
９：００～９：３０　　校庭全校集会(校長より全校生徒に現状報告)<br />
９：３０～１０：００　ホームルーム<br />
１０：２５～１１：１０　職員会議<br />
１１：３０～１２：３０　講堂で全生徒に五項目要求説明(校長他)<br />
１４：４０～２２：１５　職員会議(五項目要求中心に審議白熱)</p>

<p>　午前中は全校生徒を講堂に集めて全校集会が行われた。ヘルメットをかぶったバリ封学生も参加している。<br />
校長から事件の経緯と要求に対する回答が述べられた。 <br />
１　８５単位以上をもって卒業認定の単位とし自主ゼミは当該教科の指導によって条件をみたすものは単位として認める。(なお、クラス別時間割の全面的廃止は不可能だが、同時開講制、選択講座制の実施等により希望にはこたえていく。)<br />
２　生徒心得は廃止する。<br />
３　顧問制は活動の支障のないよう運営されることを前提として廃止の方向で検討する。<br />
４　職員会議は公開できない。ただし、生徒の諸活動に関して必要なことがあれば共同討議の場所を作る。<br />
５　学習指導要領問題については、本校教育課程を編成するにあたって、人間教育の原点に立って検討を深め、教師それぞれ組合活動や研究会組織等をもってとりくむ。学校としては拒否声明は出さない。</p>

<p>　回答の内容はこれ以後もほとんど変更はなかった。<br />
当初全闘委はこれを欺瞞的回答だとして拒絶。第一項と第五項は同じ内容の対内的、対外的声明であるということ。自主ゼミとは教師は誰でもよくテーマも生徒の自由とするべきだと反論した。</p>

<p>１０月２９日(水)<br />
９：３０～１１：３０　全校集会(五項目中心に学校の考えを説明、全闘委２０名前列にあって、ナンセンスという言葉を連発した)<br />
１１：３０～１２：３０　ホームルーム<br />
１３：４５～２２：１５　職員会議(五項目要求に対する学校の回答の結論と封鎖解除説得方針決まる)</p>

<p>　昨日に引き続き、午前中は全校集会での質疑応答と各クラスでの討議が行われた。２年生の学生が全闘委にたいして、五項目について我々は何も聞いてこなかったし、バリ封も寝耳に水だった。このようなことは学校全体に対して相談してやるべきではないかと指摘すると、</p>

<p>「今の質問は取るに足らない質問である。われわれは昨日の午前中、雨の中の校庭集会で全校生徒に集まるように呼びかけた。しかし諸君はその呼びかけに対して沈黙を守った。沈黙を守ったことは、承認したのだとわれわれは判断したのだ。」「それに、生徒全体の意思を結集する生徒会は、交友会大会終了後存在しないことは諸君も知っているはずだ。生徒会は学校の御用機関でしかありえなかったし、生徒一人一人の自由意志によって入会したのではなく、学校側によって入会させられた組織であるわけだ。したがって全校生徒の意思をまとめてその意思を行動まで高めるやり方は、文化祭のとき、べ平連事務局長の吉川勇一氏が講演したように、誰かが問題を提起して皆に呼びかけ、皆の賛成を得て同士を拡大する方法以外にはない。これでわれわれのやり方の正当性がわかると思う」</p>

<p>と答えた。<br />
　集会後、全闘委が資金カンパをはじめるとたちまち８０００円の大金が集まり、女子生徒を中心におにぎり等の差し入れも活発におこなわれた。ちなみに当時と現在の物価水準の違いを示すために再び村上龍の『６９』を引用してみる。</p>

<p>「一九六九年当時、百五十円は大金だったのだ。真に極貧の家庭の息子、娘達は、五十円という金額で二十円の牛乳と十円のあんパンと二十円のカレーパンで飢えをしのいでいた。百五十円といえば、ラーメンを食べて、牛乳を飲んで、カレーパンとメロンパンとジャムパンが買えた」</p>

<p>　おおよそ現在の６～７万円ちかい金額がカンパされたことになるだろか。彼らの人気ぶりを表していると言えるだろうか。一般生徒の大多数は、積極的に賛同はしないまでも、好意的な心情を持っていたという。両日とも午後は当初から計画されていたように球技大会が行われた。都教育庁指導部の指導主任や雑誌記者などが監視を続けていたが、拍子抜けするほど、教師や学生は明るい雰囲気の中で過ごしていたという。連日夜の十時近くまで職員会議は続けられている。<br />
　２９日の各クラスでの討議は、受験勉強のため帰宅する生徒も多く、３年生では成立しなかった。<br />
　<br />
１０月３０日(木)<br />
９：３０～１１：００　全校集会・講堂(五項目中とくに自主ゼミのA・B・Cにつき教務部長説明)<br />
１１：３０～１２：００　ホームルーム<br />
１５：５０～２０：１０　職員会議(教師一同が今までの教育反省として出す「声明」中心に論議)<br />
　<br />
　３０日にも全校集会とクラス毎の討議。生徒の間でも自主ゼミに対する理解が深まっていった。この日の夜、学校側と全闘委の話し合いで教師の自己批判の証拠として学校側が声明を出すことになる。五時間近い職員会議のすえ、教師による『声明』を出すことが賛成された。五項目要求に対する回答は了承された。<br />
　３１日、講堂の全校集会において、校長が上野高校全日制職員一同として声明を読み上げた。全闘委からは「異議なし」と賛意表明があり、一般生徒からも読み終わった後に熱烈な拍手が与えられた。全闘委代表は自主解除を宣言。革マル派と民青の代表が闘争に対する批判を述べ、教員３人も個人的見解を述べた。一人は、「この声明で人間が信じられるか、この声明が明日から実行されると思うのは幻想だ」と叫んだという。<br />
　集会終了後、全闘委は封鎖解除を始めた。一方教師は職員会議を行い、父母への通知と今後の日程について話し合いを行った。その最中、作業を終えた全闘委が「闘争、勝利」「自主ゼミ貫徹」と叫びながら校内デモを繰り広げ、会議場にもやってきて教員も解除式に参加し、声明どおりに一人ずつ決意表明をすることを要求した。『自主ゼミ創出』には</p>

<p>「多くの教員は顔が蒼ざめ、膝に置いた手がぶるぶると小刻みにふるえているものもあった。私もそうであったが、「声明」でかれらのいう「自己批判」は終わったと安心していたのに、「声明」は今日から始まる自主ゼミ体制において教師一人一人に絶えざる「自己批判」を迫る性格のものであることに気づかされた驚愕で蒼ざめたのだ」</p>

<p>とある。<br />
　結局２人の教員が解除式に出席した。午後４時に厳粛な決意表明もって、解除式は執り行われた。行動隊長はバリケード封鎖の成果や今後の闘争のあり方について、「自主ゼミ体制を進展させ、学習指導要領を乗り越える可能性をもって内なるバリケード封鎖を構築するべきだ」と述べた。涙を流すメンバーもいた。</p>

<p>　３日ぶりに校長が校長室に戻ると、部屋は荒らされた形跡は一切なく清潔に保たれていた。全闘委のメンバーは「封鎖生活規律」を作り、第一条に「室を清潔に保ち教師の私物に触れてはならない」と定めたことがきちんと守られていた。夕方、全闘委のメンバーが校長に会いたいと言って呼び出した。処分の減免をお願いされるのではという校長の予想に反して、「校長先生のくびは大丈夫でしょうか。もしそういうことになりそうでしたら、わたしたちは全力で運動します」というものだった。この日に出された「高等学校における政治的教養と政治活動について」という「文部省見解」で政治活動に理解を示すこと自体が教育基本法に反するという文部省の姿勢を受けてのことだと思う。こうして警官隊の導入もなく一応の平和的解決をもってバリケード封鎖は終了した。</p>

<p><strong><br />
第４章　バリ封以後、自主ゼミ体制<br />
４章―１　バリ封の後</strong><br />
　１１月１日から９日までは新教育活動を開始するための時間割改革準備のための自宅学習期間となった。１１月１０日から新体制での授業が始まった。バリ封に参加した生徒に対する処分は「退学」「停学」等の懲戒処分は一切なされず、代わりに多数教師による自主ゼミ・普通授業の徹底した教科指導を中心とした「特別指導」を受けるということになった。<br />
　バリ封の後の全闘委はどのように行動したのだろうか。自主ゼミ新体制の当初から全闘委は「学校当局の居直りを許すな！」「内なるバリケードの中より変革主体としての自己を創立し、"外なる闘争"を戦い抜こう！」等のビラを配り、教師の態度をギマン的なものだと糾弾を続けた。ただ、その後の活動はメンバーそれぞれであった。ある者は学外の闘争の手助けをしたり、ある者は映画祭やバンド大会を企画したり、またある者は学校に行かなくなったという。全闘委はノンセクトの学生の集まりであり、その結びつきはイデオロギーなどより友人関係が基調にあったため、バリ封の最中に意見が二分することがあっても、内ゲバや組織崩壊に至るということはなかった。翌年に３年有志(１９６９年時２年生)が卒業間近に編集した『自主ゼミ再確立へ向けて－総括パンフレット－』の中にも、</p>

<p>「(全闘委は)あくまで「個」の形で存在し、各々の欲求というものの充足に究極的なメルクマールを設定していた。　－中略－　ある意味では、そうした形の組織の最も原初的な形であったと言えよう。全闘委によって、いわゆる「組織からの疎外」を被った人は決していないはずである」</p>

<p>と記されている。</p>

<p>　バリ封の後、下級生を中心に全闘委に憧れる学生も多く出てきた。そうした学生とともに近隣の白鴎高校、江北高校、東葛飾高校などと連携して「東部高共闘」を組織し、翌年１月には白鴎高校でのバリ封の手助けに向かった者もいた。もっとも白鴎高校では警察が導入され未遂に終わり、校長が上野高校生のヘルメットを取りに行った。<br />
　また上野高校のすぐ裏手に東京藝術大学があるが、芸大全共闘の応援のためデモを企画したりもした。１００人近く動員することができ、上野高校から芸大までジグザグデモを行った。１００人近い学生が参加したということは、やはり全校的にそれなりの人気を獲得できたと見ても良いと思う。<br />
　全闘委に占拠された生徒会室からは赤い旗が立てられた。約二ヵ月後には旗も降ろされ、厳冬の校庭で、全闘委解散式が行われた。参加したのはバリ封参加人数よりはるかに少数だったが、今回インタビューした人はみな解散式の存在を知らなかった。<br />
　この年卒業式は行われず、代わって卒業集会が開かれた。「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」と言って去っていくものもいた。</p>

<p><strong><br />
４章－２　自主ゼミ体制</strong><br />
自主ゼミの仕組みは次のとおり。</p>

<p>教科担当教授の指導のもとに、生徒との話し合いで、自主ゼミをおくことができる。<br />
自主ゼミはA,B,Cの３種のゼミを置く。<br />
①　ゼミAは履修科目の標準単位内におかれるもので必ず担当教師の指導を受け、評価されるもの。<br />
②　ゼミBは、学校で置かれた教育課程の単位内には含まれていないが、生徒の希望により評価をし、増加単位としてとくに認めることができるもの。ただし各学年でとることのできるゼミBの単位数については別に定める。<br />
③　ゼミCは生徒の希望によっておかれるもので、単位として認定しないもの。<br />
④　なおすべてのゼミは、生徒の希望と教師の指導相談の上、テーマと時間を設定し、原則としてグループ活動による。<br />
　　　――以下略――</p>

<p>　１９６９年の１１月から７０年の３月までに開講された自主ゼミの数は実に３１３にも上る。その中からいくつかをタイトルだけピックアップして見る。「丸山真男「日本の思想」」「小林秀雄研究」「サルトル研究」「ヘーゲル現象学」「フッサール現象学」「パリ・コミューン」「実数と微積の基礎概念およびテーラー展開」「行列と行列式」「コハク酸脱水素酸素の研究」「清酒の分析」「マルクス・エンゲルスを英語で読む」など。<br />
　生徒の８８％が自主ゼミをやってよかったと述べている。実際に僕がインタビューした人のすべてもやって良かったと語っている。多くのマスコミからも取り上げられることになった。１９６９年１２月の「週刊朝日」に掲載された「灰スクールよ、さようなら　＝“バリ封”を授業革命で解決した都立上野高＝」という記事のリード文を引用する。</p>

<p>「紛争は「処分」で収拾という“タカ派高校”が多いなかで、東京の都立上野高校では、試験廃止、自主ゼミをもりこんだ大胆な授業改革にふみきって、世間をアッといわせた。先生、PTAから教育庁、生徒にまで評判のいい、この'新教育'の教室をのぞいて見ると――」</p>

<p>　その他にも、基礎科目においては同一科目を最大限同時間帯に開講し学生が自由に教師を選択出来るようにする教師の自由競争制の採用、男子クラスの廃止、男女混合名簿の採用などのジェンダーの否定などが行われた。これらの取り組みは今日においても非常に先進的な取り組みだったと思う。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>『１９６９年の上野高校学園闘争＿２』高橋直純</title>
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<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-07-11T00:01:28Z</issued>
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<author>
<name>高橋</name>


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<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong><br />
第５章　闘争を成功させもの</strong><br />
　ここまで駆け足で１９６９年のバリ封を頂点とする上野高校で起きた一連の改革を見てきた。そして改めて最初の問いについて考える。上野高校における闘争は比較的成功裏に終結することが出来たと言われている。教育評論家の丸山邦夫氏は１９７０年２月号の「蛍雪時代」の中で、上野高校の改革を「(学生の処分がなかったことと　※筆者)高校紛争における、これも（３つの要求が通ったこと　※筆者）はじめての「無血革命」といえるのかもしれない」と述べている。多くの高校で、関係学生の停学、退学、警官隊の導入という処分が行われた中で、なぜ上野高校は他校と違う形で紛争を解決できたのか。それは、多くの人が述べているように、教員の大きな理解と、セクトから離れ一般学生のシンパシーを集めることが出来た全闘委の組織としての性格によるものだと思う。<br />
　<strong><br />
５章－１　森杉多校長と教員たち</strong><br />
　話を聞いたすべての人が当時校長だった森杉多の人柄と教育理念によって紛争が穏便のうちに終了できたと言っていた。話を聞いたある全闘委のメンバーは「森校長はわかっていたよ。この人にはかなわない。たぬき校長の手のひらで踊らされた」と笑いながら語った。<br />
　大正４年に生まれ、教員生活の最中に「ノモンハン事件」「沖縄戦」に参加。その体験を「空白の沖縄戦記」「ノモンハン事件従軍記」として本にしている。「空白の沖縄戦記」はテレビドキュメンタリーにもなっている。山形国際ドキュメンタリー映画祭2003公式カタログより引用する。</p>

<p>「―空白の沖縄戦記　沖縄住民虐殺３５年―　放映日：１９８０年１１月２日 　沖縄戦の最中、沖縄本島北部で起こった日本軍による地元住民の虐殺のあり方に迫る。元日本軍の通信兵として沖縄戦で戦った森杉多が、沖縄に単身赴き、被害者の遺族に会って「日本軍の犯罪」を詫びる内容。ディレクターの森口は本作の制作を振り返る中で、虐殺に立ち会った元日本兵のひとり（森）が東京で生存している事実を探し当て「何としてもこの人と会い、真相に迫らなければならない」と決意。カメラの前で取材に応じる森の口からは、戦時中の凄惨な経験が明らかになる」</p>

<p>　戦争体験が彼のその後の教育理念に強い影響を与えたのは間違いないだろう。１９９４年に出された『戦争と教育』という本の中で、自身の戦争体験と教師経験が記されている。森校長は上野高校の受験勉強体制をかなり批判的に捉えており、生徒の要求を理解する姿勢を持っていた。『戦争と教育』より引用する。</p>

<p>「街頭の政治デモで警官隊の規制を無視したため警察に留置された者の釈放には校長がよく呼び出された。私は警察に、申し訳ないと低く頭を下げて、少しも感謝の表情などを表さず私を無言のまま睨みつける活動家を学校へ連れて帰り、保護者に引き渡すのだが、どう考えてみても活動家生徒の主張のほうが正しいと思うのだった。　－中略－　安保反対、沖縄無条件返還には私は沖縄戦を戦った一人として賛成であった。もちろん高校生が街頭に出て、ジクザグデモを繰り広げ、「安保反対」「沖縄返還」「全面返還」と叫び廻るより、学校で近現代史と政治を学び、正しい知識を父母や近隣に伝え、選挙も民主的にしてもらうほうがはるかに力になるとかんがえたけれども」</p>

<p>　森校長の下、平均年齢が３８，９歳という若い教師達が９月のうちから改革案を作成していた。紛争後、わずかな期間で校内体制を改革できたのは、そうした準備があったからであろう。<br />
　また教師の中には学生への心情的理解を示す者も多かったが、革マル、中核、民青の三派に所属する者がいなかったことも教師の統一行動をとる上で大きな助けになったとある教師は述べている。教師の中でも大きく意見が割れたそうだが、そうした教師の努力や生徒への理解なしでは、改革は上手くいかなかっただろう。筆者がインタビューをお願いした、ある紛争の解決に最も尽力した教師の手紙を引用してみたい。</p>

<p>「紛争のとき、教員のこわばった心がゆるみ、生徒の言うことをも聞いてみよう、分かってみようと思うように皆で動きだせたのは、職員会議の議論のなかで、私か誰かが、ボクらが高校生だったころあの戦争直後のなかで、（いわゆる「民主化」流行の時代）どんな気分で、どんな形で勉強（授業）をしたか思い出してみては？とめいめいの１０代後半の頃のことを振り返り話合ったことがきっかけでした。教室・クラスの壁をとりはらうことや、自主ゼミも結構じゃないの、という考え、生徒心得などなくてもよいという発想は、こうして生まれたものだったのです。もちろん服装も自由でよいと」</p>

<p>　バリ封から２年後７２年３月に森杉多校長は都立練馬高校校長へと転任することになる。上野高校を最後に勇退する校長が多いことを考えると、これは校長人事としては異例のことだという。転任の翌年度、７２年６月２日号の東叡新聞に掲載された森校長へのインタビューを引用する。</p>

<p>校長　そうねえ。上高を追放されたみたいでねえ。<br />
―知らされたのはいつですか？<br />
校長　３月２７日に電話がかかってきてね。意外だったよ。校長でない教師として居残ることをたずねてみたけれど、ダメなんだね。「前例がないから」だそうだ。<br />
―そうなったことの心あたりがありますか。<br />
校長　全然ない<br />
　　　　－中略―<br />
―大変失礼になりますが、私達は先生が左遷されたのではないかと思いたくなるのですが。<br />
校長　(真面目顔になり)そう思ってはいけないね。栄転というのも変だがね(笑い)もし君らがそう思っていて練馬の人がそれを知ったらどう思うだろう。そういうわけで俗世間ではそう思ってほしくない。でも僕自身そうなった格好に不満はない。なぜなら僕は上野を踏み台にして出世したくなかったからね。</p>

<p>―先生はこの間の卒業集会の時、「自由のこわさを君たちに教えてやれなかった」と、卒業生に話されましたが、そのことばから、最後に在校生に何か言ってください。<br />
校長　上高生の中には、あらゆる束縛、統制から解放されて何でもできる状態を自由だと思っている人がいる。それは間違いじゃない。が、自由の第一段階なんだ。何でもできるということは、言い換えると何もしなくてもよい、ということになる。この第一段階のみの態度を取った人が闘争後には多いんだ。その自由は積極的な意味を持たず、高校生としてこれだけでは成長せず、無気力な状態に陥って、やがてヒットラーを望むようになる。実際、今の上高生は権力を求めているんじゃないかな。－後略―</p>

<p>　転任の理由は、闘争後の生徒に対しての対応が甘かったためとも言われているが、真相はわからない。</p>

<p><strong>５章－２　全闘委のキャラクター</strong><br />
　当時、社会問題研究会(通称社研)と呼ばれるサークルがあった。中核派・革マル派・民青の学生が在籍しており、後に全闘委になるメンバーの多くはここにいた。<br />
　全闘委のメンバーの何人かは前年の１２月ごろ中核派からオルグ活動を受けている。ある者はそのまま中核派に入り、またある者はその教条主義的な、そして学外の活動に重きを置く姿勢に違和感を覚え、入ることはなかった。中核派のリーダーも１９６９年春先の街頭デモの際、麹町署に拘留されてから政治的街頭活動に上高生を動員することに無理を感じ、それ以来上部機関に逆らうようになり、行動を「教育」にしぼるようになっていた。<br />
　後に全闘委のリーダーとなるこの学生が剣道部に在籍していたため、全闘委には多くの剣道部にも在籍していた。メンバー全員の段位を足すと２０段を超えた。体育会系的なつながりを持っていたのは上野高校紛争の特徴だとある教師は言う。基本的には仲良しグループからスタートした。<br />
　当初は中核派だったメンバーもしだいにセクトの思想や行動様式に違和感を覚えだした。</p>

<p>「運動には興味はあるんだけど、彼らが戦っているものは少し違うんじゃないか。」</p>

<p>とあるメンバーは語った。<br />
　こうしてセクトから離れていった学生たちが、授業をサボって部室でだべったり、勉強会をしていく中で全闘委を結成するメンバーが集まっていった。コアなメンバーは夏ごろには固まっていたという。</p>

<p>　社研に属するセクト中心の学生が運動の主導だったころには、一般の学生からは遊離しがちだったが、運動部を中心としてノンセクトの学生が加わったことによって、校内の人気を集めることができたという。当時、上野高校内には中核派と革マル派、民青の三派が存在していたが、脱中核派とノンセクト学生による「全闘委」に対してもっとも一般生徒のシンパシーが集まっていた。<br />
　ちなみにセクトの学生とノンセクトの学生の組み合わせがバリ封を起すというのは他校でもみられた。県立佐世保北高校では社青同解放派の学生と村上龍などのノンセクト学生、東京教育大付属駒場高校ではブントの学生と四方田犬彦などのノンセクト学生によってバリ封がなされている。<br />
　インタビューの最中、僕が村上龍は女子生徒に持てたくてバリ封をしたそうですよと言うと、メンバーだったある人は「その必要はなかった。僕らはもてていたから」と答えた。「どこかで、俺たちにならみんなもついてきてくれるんじゃないかという計算もあった」とも述べている。バリ封時、あるメンバーのヘルメットは、「アナーキー」を表す黒に「IS」という文字が書かれていた。「IS」とは「いいじゃないの、幸せならば」というその時期に流行った相良直美という歌手のヒット曲から取られた。セクトの大仰な漢字熟語中心の言葉より、ミーイズムから出発する率直な言葉のほうが多くの学生の共感を集めたと思う。<br />
　バリ封後も彼らは分散していったかもしれないが、けして内ゲバのような争いに陥ることもなかった。先にも記したように、バリ封後全闘委は憧れを持って入ってくる新たなメンバーを得ている。</p>

<p><strong>第６章　闘争後の荒廃</strong><br />
　上野高校におけるバリ封を含む紛争が成功したと言われているのは、以上の２点によって説明できると思う。これは、改めて僕が分析したことではなく、多くの人によって言われていることである。<br />
　バリ封は成功裏に解決し、その後校内体制は大きく改革された。多くのマスコミが注目し、そして賞賛した。では、その現実の姿はどうだったのだろうか。<br />
　まず、改革の直後から、全闘委のメンバーはこの改革は欺瞞的なものとする批判的なビラや立てカンを出している。一連の改革も最大の攻撃目標としていた文部省指導要領の枠を超えることが出来ていなかった。東京都教育指導部長の北沢弥吉郎が１９６９年１２月の『週刊朝日』によるインタビューの中で</p>

<p>「結構なことだと私は思いますよ。今まで大学受験を目指す考え方が強すぎた。今の指導要領のワクからはみ出しているわけではないし、しかも従来の高校教育のワクを一歩踏み出したことを、私は高く評価しています」</p>

<p>と述べているように体制側も十分に認める範囲のものでしかなかった。</p>

<p>　さらに、一般学生においてはどうだったのだろうか。卒業単位が８５単位に削減されたため、３年生においては実質的に単位取得の必要性が大幅に減少した。クラスがなくなり、クラスメイト同士で顔を合わせることもなくなってしまった。登校時間もばらばらになり、ゼミ形式なので顔を合わせるのも限られたメンバーだけである。この状況は卒業するまで変わらなかった。ある人はバリ封後の学校の印象は「暗かった」と語った。<br />
　翌年から自主ゼミは徐々に衰退していく。バリ封から２年後、バリ封時２年生だった学生が卒業間近に書いた『日和見者の小唄』というレポートの中を引用する。</p>

<p>「現在、上野高校に〈自主ゼミ〉があるのか、ないのか、わからない。しかし、どんな形の〈自主ゼミ〉にしても、あまり歓迎を受けてないように思われる。教師にとってお荷物であり、生徒にとって重荷である。受験というような直接的利益に結びつくなら、まだやる気もするかもしれないが、それは、「学校」で〈ゼミ〉などやらなくてもことはすむ」</p>

<p>　一般生徒がどのように闘争をとらえていたのかを知るために、１９７０年の交友会大会(文化祭)時に、３年生有志と新聞部が共同で行った展示のためのアンケート結果の一部を見ていきたい。全文を引用することにする。３年生とあるのは、６９年には２年生だった生徒たちである。回答数は１５１人。</p>

<p>「(問)　昨年の上高闘争についてどう感じていますか<br />
<肯定的意見><br />
１　いろいろなことを考えさせた点において有意義だった(６人)<br />
２　自覚を促した、自己を意識、政治・人生観などにめざめた、あるべき高校生活、受験体制について意義があった(１０人)　やってよかった、すばらしい<br />
３　意義はあったがみのりなし、運動が継続しなかった、受験という壁で思うことができない、その精神は急速に消滅せんとしている。これから維持する困難、全生徒に伝えていくことが大切、自分の意志が弱いので試験・通知表の廃止で勉強するかいがなくなった。(７人)<br />
４　その他<br />
・　あの闘争は絶対的に必要、必然なものであった。その後の混乱は、以前の教育から僕らが受けた「受け身」｢自主的でない｣ことによるもので、この混乱は当然のものだ。しかし、それをのりこえないかぎり、よく真に近代的な学校はできあがらないだろう。そして何度でも昨年の闘争のようなことがくりかえされるだろう。<br />
・　解放区バンザイ！　解放区の中で時間は止まる。物は存在物であることをやめ、物自体に回帰する。そしてその中でオレは支配者になる。すべての王、われこそは神ぞ。<br />
・　学校生活において一つのよい経験。<br />
・　今になるとそんな気持もわかるように思う(２人)<br />
・　個性を出したことは確か。バラバラの中に淘汰された人々のつながりがある。１組などはそのよい例。体制ベッタリの人に大きな転換をもたらした。私にとってもプラスだった。<br />
・　各人が現在行動しているならそれでよい。<br />
・　もし闘争がなかったら、順調に受験勉強にはげんで、番付が目の前にチラついて青白くなっていただろう。ゾッとする。</p>

<p><否定的意見><br />
１　なんの意味もなし(１３人)　むだ、ばかばかしい、心情三派、つまらない、一時的動揺、<br />
しない方がよかった、今年と去年の入試状況を比較すればアキラカ。</p>

<p>２　一部の生徒によってなされた感じ(１４人)　排他的過ぎた全闘委、傍観者多し、無関心、<br />
無発言全校集会が多く、すみずみまでいきわたらなかった。</p>

<p>３　その他<br />
・　特に指導的立場の中のほとんどは冷静を欠き、単に一時的興奮の結果、旧体制を破壊した感がある。もし自己や皆の能力をもっと考慮に入れていたらそう簡単には起こらなかったと思う。もちろん現状の状態が悪いというのではない。もはやこうなった以上、建設的な心構えでいかなくてはなるまい。<br />
・　個人主義徹底のはずが、実際は全体主義復活と、利己主義の横行に終わっている。<br />
・　ゼミは改革しなくてもできたはずで、改革以来の学力低下はひどいものだ。<br />
・　背伸びしすぎ、受験体制には勝てなかった。<br />
・　真剣に考えたものがどれくらいいるか。<br />
・　破壊されたものが多すぎた。<br />
・　自己改革なしえず。<br />
・　学校がバラバラになってしまった。(２人)<br />
・　真の改革はなしえなかった。(生徒自身が下降ぎみ)</p>

<p><中間的意見><br />
１　闘争以来各人がバラバラになった。この状態は正常な高校生活とはいえないと思う。なぜなら高校生はまだ大人ではなく、大人の監視下にあると思うからで、正常な高校生活というものは、自由と義務がある割合で含まれている状態だと思う。<br />
２　本質を知っているのは今３年のわずか。過去の出来事として葬り去られようとしている。五年後位には受験校上野が再スタートしようとしている。<br />
３　今は何とも言えない。(４人)<br />
４　今から考えると夢のように矛盾だらけだが、あのころの一つのことを真剣に考える態度はまさに若者、青年だと思う。<br />
５　あの闘争は一部の生徒の行動が目立ったが、生徒の中にも多数の同調者がいたことは事実。本当は勉強につかれた苦痛が自分の生き方に迷った、そんなエモーションによってできあがったのではないか。<br />
６　現在は最低の状態であるが、新しい芽が吹くときも間近か。<br />
７　昨年ほど短時間にものを考えたことはなかった。<br />
８　外部から熱病のように言われているが反論はできない。<br />
９　起こるべくして起きた。「政治は力によってなされる」ということを実感した。<br />
10　昨年のことより現状を見よ。<br />
11　当然の結果に終わった。<br />
12　現実ばなれしていた、日常生活に根をおろしていなかった。<br />
13　理想と現実の差に。<br />
14　私にはついていけなかった。<br />
15　良悪両面あり。<br />
16　その他。わすれた、無関心、授業がさぼれてよかった、大変楽しかった、はしかのようなもの」</p>

<p><br />
　この他にも、紛争の一年後、二年後に出された多くのビラやパンフレットが改革後の荒廃を指摘している。ある全闘委のメンバーは、学校郡が都立高のレベルの目的を下げるのが目的だったなら、俺たちもその貢献者として表彰してほしいよ、と自嘲気味に語ってくれた。<br />
　<br />
　たしかに、前年、前々年から見られた学生の学校やそれを取り巻く社会への不満や憤り、１９６９年の１０月にあった２週間以上に及ぶ話し合いの中で顕在化していった改革への思いがそこにはあった。だが、それらは、インタビューに答えてくれた人がいうように「徹底的な話し合いをしたからといって見えてくるわけじゃない」問題であった。</p>

<p>　その一つとして否定できないのが、バリ封自体への憧れであろう。インビューに応じてくれたメンバーの一人は、バリ封のための要求だった面もあると語った。要求の４と５、職員会議の公開と文部省指導要領の拒否というのは、学校側も絶対に飲めないと分かっていて、だからこそ要求に入れられたという。２７日の雨中の集会はバリ封の理論的根拠を得るためのものだった。９月から各地の都立高ではバリ封が頻発し、上野高校でもバリ封をしなくちゃ面子がたたないという思いもあったという。バリ封後に出された『全闘委の質的内部変革へ向けて』というビラには、</p>

<p>「ついでに、……〈カッコよく〉バリをはってみたかった意識が全闘委にあったことは否定できないし、野次馬めいて、まわりで見ていたのも否定できないだろう。それがバリを成功させた要因の一つを形づくっていたなら、それゆえに全闘委はまたくずれていったとも言える」</p>

<p>とある。「バリ封」への憧れは強かったのだろう。<br />
　そして、なにより勝ち得たものの重さであった。<br />
「自由を与えられて、ためされた。だけどそれをみな生かしきれなかった。その後ろめたさがあるんじゃないかな」</p>

<p>自由を生かしきれなかったからこそ、バリ封の直後から「改革は欺瞞的だ」というビラを出し、卒業集会から「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」といいながら去っていく者がいたのだと思う。</p>

<p>バリ封から３０年を経た現在においても、この問題は複雑な思いが交錯しあい、いまだ当時の関係者の多くは語りたがらない。同窓会でもきちんと話し合うのが憚られる雰囲気だという。紛争時３年生だった２２期生が数年前の同窓会を開く際、幹事の集まり席でバリ封について話合いをしてみないかという提案がされたが、それをするにはまだ早いという理由で採用されなかったそうだ。あるクラスの担任だった教師は、何度誘われても同窓会への出席をしない。</p>

<p>　東京教育大付属駒場高校でバリ封をした四方田犬彦は著書『ハイスクール１９６８』の中で、次のように語っている。</p>

<p>「高校でバリケード封鎖に係わった者たちは、処分のあるなしにかかわらず、もっとも感受性が敏感でしかも社会的に無力な時期に、深く傷ついてしまったといえる。各人各様であるが、いずれもその傷から回復するのに、長い試行錯誤を重ねなければならなかった。－中略―　わたしもまた、敗北の興奮が過ぎ去った後に到来する圧倒的なニヒリズムを克服するために、多くの試行錯誤を重ねてきたことを、ここに告白しておくべきだろう。－中略―　おそらくわたしの属していた十九期の同級生のなかでも、いわゆる一般の生徒にあっては、この事件の記憶はとうに曖昧で希薄なものと化してしまっていることだろう。だが、ひとたび関わってしまった者がそれをめぐる倫理的決着を付けるには、時として予期しないほどの長い時間が必要であることも事実であり、わたしはここに書いている文章を通して、あまりにも長い間放置されてきたわが救済という問題に帰着をつけようとしているのである」</p>

<p>　しかも、上野高校では、幸か不幸か教職員の理解があり、ある程度改革が成功してしまった。他校のように、教職員や体制、はたまた他のセクトの所為にすることはできなかった。そんなことを語ってくれた人もいた。</p>

<p>バリ封の後、メンバーたちは何を思ったのか。そして３０年以上を経た現在においても、語りたがらないのはなにを思ってなのだろうか。<br />
<strong><br />
第７章　「自主協調」</strong><br />
　１９６９年１０月に起きたバリ封を中心に当時上野高校であったことを見てきた。バリ封当事者だった１９６９年の３年生と筆者の間にはちょうど３０年の年月の差がある。筆者の同級生たちでこの問題について知っている人はほとんどいないだろう。自由な校風や規則の少ない学生生活を当たり前のものとしてとらえていた。そして多くの同級生たちは、自由な校風を好きだったと思う。<br />
　だが、そうした校風も変わろうとしている。２００４年度から赴任した校長主導(城善範校長)で制服を導入しようという動きがおきている。２００４年度は生徒に対する説明会、職員会議でも理解が得られなかった。しかし今年、２００６年度からの標準服(着用の義務はないが、行事等の際に着用が推奨される)の導入が決定した。こうした一連の動きが「校風」という無形の資産に、どのような影響を与えるだろうか。卒業生からは多くの反対の声が上がっている。<br />
　２００５年7月、筆者は母校を訪れ、この問題について副校長先生に話を聞いた。制服(標準服)導入の理由は、曰く「TPOにあった服装を教える必要が教師にはある」「自由には責任がともなう」「標準服なので、着たくない生徒は着なくてもよい」「制服(標準服)があるからといって、自由がなくなるわけではない」「在校生や受験生には制服へのニーズがある」「８０年の歴史の中で、制服がないのは３０年に過ぎない」「周囲の人の学校に対する目が厳しくなっている」などなど。どれもそれなりに正しく、否定するのは難しい。だが、やはりそうした主張の裏に管理への意思が感じられる。</p>

<p>　副校長への取材の中で、何度も反論したい場面があった。議論をすることがこの場の目的ではないので控えなければという思いもあったが、それ以上に上手く言葉にすることができなかった。一年近い間、多くの人に話を伺い、資料にあたりながら、この問題を考えていながら、上手く言葉にすることが出来なかった自分自身の不甲斐なさを感じた取材だった。</p>

<p>　そうした筆者個人の問題とは別に、「自由」というものを語ることには、固有の困難さがつきまとう(ちなみに、副校長は本校の教育目標の中には「自由」はないと言っている)。制服があったとしても、高校生活というのはそれほど変わらないのだろう。一見すると、現在の校長の言うとおり制服を導入することによって得られるメリットのほうが大きいのかもしれない。制服を着ないですむ、着ないことを選択できる自由から僕達はいったいなにを得てきたのだろうか。現在においてもそれを上手く言葉にすることが出来ない。だが、高校生として上野高校で感じることのできた自由のもつなにかは掛け替えのないものであるという確信はしている。<br />
　<br />
　このルポルタージュを書き終えようとしている今、拙い手つきながら「自由」というものを真剣に考え、そして行動した１９６９年の高校生、それを誠実に受け止めようとした教師たちの凄さを感じている。当事者たちが意図したものがどの程度達成できたかは別としても、上野高校がもつかけがいのない校風の源泉は確かにここにあると思う。少なくとも30年後の筆者と、そして同級生たちに有形無形の影響を与える程度には息づいていた(おそらく現在の在校生にとっても)。そのことをインタビューの最中、バリ封メンバーだった人に話したら、「恨まれてなくて良かった」と言った。執筆を終えて、改めて６９年の出来事に感謝したいと思う。<br />
<strong><br />
終わりに代えて</strong><br />
　本ルポルタージュは、１９６９年に都立上野高校で起きたバリケード封鎖とそれに付随する出来事を、残された資料・証言を元に、同校の卒業生で取材・執筆時23歳であった筆者がまとめたものである。２００４年に開講された東京大学先端科学技術研究センタージャーナリスト養成コースの課題として書かれた。２００４年１０月に「１９６９年の上野高校学園闘争(前半部)として未完のまま、同コースのウェブサイトに掲載されたものに、加筆・修正されたものである。前半、後半という区切りはなくし、本作をもって完成とする。多くの人にご協力を頂いた。改めて深く感謝したい。また、完成がここまで遅れてしまったのはひとえに、筆者の怠惰による。関係者には謝罪する。<br />
　コースの課題として、ルポルタージュの執筆が与えられた時、母校の学生闘争をテーマにしようと思った直接のきっかけは、OBとして顔を出した部活の練習の際に聞いた制服導入問題である。どのような高校生活をおくるかは在校生自身が決めればよいと思う。だが、彼らが上高の自由な雰囲気を残していこうとするのならば、本作がわずかばかりのエールになればよいと思いながら執筆した。<br />
　本作の最後の取材は母校での副校長へのインタビューだった。繰り返しになるが、在学中に母校で感じた「自由」の価値を上手く喋れず、己の不甲斐なさを実感させられるものだった。語りづらいものを語り続けようとする意思と能力。それらがなければ、「自由」のようなものは守れないだろうと実感した。</p>

<p><strong><br />
参考文献</strong><br />
村上龍1987年　「６９」　　集英社<br />
秋葉安茂1987年「学校の草　　近代文芸社<br />
四方田犬彦2004年「ハイスクール１９６８」　新潮社<br />
東京都上野高等学校研究部1972年「資料　上野高校の教育改革」<br />
東京都立上野高等学校1969年「自主ゼミ実施集録」　<br />
図書サークル1976年「自主ゼミ再考察　－昭和５１年度　東叡祭参加作品―」<br />
東京都立上野高等学校1994年「創立７０周年記念誌　うえの」<br />
森杉多1976年「自主ゼミ創出　－希望の教育－」　学事出版株式会社<br />
校友会誌「創」委員会　1969年「校友会誌「創」昭和43年度」　　　<br />
校友会誌「創」委員会　1970年　「校友会誌「創」昭和44年度」　<br />
森杉多1994年「戦争と教育－ノモンハン・沖縄敗残兵の戦後―」　　　近代文芸社<br />
柿沼昌芳・永野恒雄・田久保清志　1996年　「高校紛争」　批評社<br />
大内文一・小川吉造・武石文人・山領健二1983年　「学校新聞からの証言」　　新評社<br />
杉本一1988年「高校生「第九」を唄う　アア高校紛争」　　　　<br />
中沢道明1971年「高校紛争の記録」　学生社　<br />
1969年「世界は業火につつまれねばならない」　　しいら書房　</p>]]>
</content>
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<entry>
<title>『透明な英雄』大隅亮</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/2005/06/post_23.html" />
<modified>2006-07-30T08:24:29Z</modified>
<issued>2005-06-26T18:32:11Z</issued>
<id>tag:www.journalistcourse.net,2005:/blog/1.492</id>
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<summary type="text/plain">　日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守...</summary>
<author>
<name>大隅</name>


</author>
<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守ったのだ。そう、たしかにかれらの活躍は市街地で暴れるロボットや異星人と超人的な格闘を繰り広げる鉄腕アトムにくらべれば呆れるほど地味ではある。しかしフォワードの劇的で華美なゴールだけがファイン・プレーなのではない、玄人好みの堅実なディフェンスもまた称賛に値するのだ。むしろ高度経済成長期に特有の、未来にたいする盲目的な信仰という逆風のなかで、貴重な白星をあげたかれらこそ真の英雄ではないだろうか。（本文より）</p>]]>
<![CDATA[<p>東京大学先端科学技術研究センター<br />
ジャーナリスト養成コース第一期<br />
大隅亮</p>

<p><b>「透明な英雄」</b></p>

<p>　序　文<br />
　第一部「鉄の腕」<br />
　第二部「巨大な光」<br />
　第三部「工場の体臭」<br />
　第四部「水の調書」<br />
　第五部「鎌と鍬」<br />
　第六部「水の都」</p>

<p>　<b>序　文</b></p>

<p>　口にたまったハミガキ粉をゆすごうと東京の水をふくんだ瞬間のことをぼくは忘れない。耐えがたい苦みと悪寒が身体いっぱいにひろがって二の腕まで鳥肌がたった。生まれそだった町から上京してむかえた最初の夜のできごとだ。それから数えて三回目の春をむかえた現在ではさすがに都会の水にもなれて、毎朝そいつで顔を洗い、歯をみがき、寝ぐせを整えるようになった。しかし今度はおかしな習慣が染みついてしまった。三島に帰るとぼくは飽きもせず水ばかり飲んでいるのだ。だからこれは愛する水への感謝状なのだろう。<br />
　透きとおる水へ。<br />
　二○○五年五月、東京<br />
 <br />
　<b>第一部「鉄の腕」</b></p>

<p>　宿はづれを滑らかな川が流れ、其処の橋から富士がよくみえた。沼津の自分の家からだとその前山の愛鷹山が富士の半ばを隠してゐるが、三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。克明に晴れた朝空に、まったく眩いほどに、その山の雪が輝いてゐた。<br />
　若山牧水「箱根と富士」（大正九年）</p>

<p>　どんな国にも明るい未来を夢想してしまう幸福とも不幸ともつかない時代があるものだが、日本でのそれは昭和三十八年頃だったと推測する。その年の元日に放送を開始した国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」がまさに明るい未来の象徴に思われるからだ。東京オリンピックを翌年にひかえ普及がすすんだテレビのブラウン管に映しだされた鉄腕アトムの軽やかなステップは、そのまま二十一世紀の青写真となり子どもたちだけでなく大人たちの心も躍らせたに違いない。ところでサーカスに売られていたアトムをひろったお茶の水博士は当時、科学省長官に就任したばかりだった。この新米の長官はしかしまだ環境庁なるものの存在を知らない。当たり前だ。これから科学の力によって未来を歓迎しようというときに、どうして環境問題といううしろを向いた存在に目をくばる必要があっただろう。もし博士が科学省の定例記者会見で環境破壊に関する質問を受けていたとしたら、マイクに向かってこういったに違いない。なにを邪魔しやがる、前だけを見ろ！<br />
　日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守ったのだ。そう、たしかにかれらの活躍は市街地で暴れるロボットや異星人と超人的な格闘を繰り広げる鉄腕アトムにくらべれば呆れるほど地味ではある。しかしフォワードの劇的で華美なゴールだけがファイン・プレーなのではない、玄人好みの堅実なディフェンスもまた称賛に値するのだ。むしろ高度経済成長期に特有の、未来にたいする盲目的な信仰という逆風のなかで、貴重な白星をあげたかれらこそ真の英雄ではないだろうか。<br />
　さあ、見えない英雄を讃えよ。</p>

<p>「一緒に死んじまいたいくらいだ」<br />
　その言葉に篠田豊治は絶望した。枯れ葉のような老婆が感情をじわじわと昂揚させていき、しまいにはこういったのだった。昭和三十九年二月九日から翌十日にかけて四日市を訪れたときのことである。この老婆はまだ四十歳の篠田と心中をするつもりなのだろうか、またそれを聞いて篠田は絶望のふちに立たされたのだろうか。いやそうではない。老婆の吐く言葉がさまざまな汚染物質が染みこみ、堪えきらない悲しみをたたえた言葉だったから絶望したのだ。帰りのバスの中で篠田は自らの幸運なめぐり合わせを喜んでいた数ヶ月前のことを思いだした。</p>

<p>　篠田は舞いあがっていた。<br />
　期末試験をおえた中学生のように晴ればれとした気分だった。なぜかというと自分は百姓という職業から解放されそうだからで、なぜ百姓が嫌かというと彼はそれほど農業に長けていないからだ。農家になったのはまだ最近のことだった。早生まれの幸運で危険な兵役をまぬがれることができた篠田は、戦争が終わってからの十年間を九州のセメント工場で送った。しかし労働組合を作りストライキを決行したことが仇となって会社を追いだされてしまった。故郷である静岡県三島市中郷に戻ってきた篠田はまもなくして父親の土地を継ぎ農家になった。そしてはじまった苦労の日々。生涯を百姓として送った父親と違って、まったく畑違いのキャリアを持つ篠田にとって農業は未知の領域であり、暗闇を手探りで進むようなものだった。<br />
　それはまた淳子夫人にとっても同じことだった。農家ではない家に生まれ、薬剤師になった淳子夫人にはぶ厚い百姓の手はまったく異質のものに思えたし、それまで数グラムの粉末を天秤で量ってきた細い手にどうして水を吸って重たくなったワラが運べるだろう、と不安に陥った。百姓はただでさえ体にこたえる職業だ。稲作の重労働に汗だくになって悶える夏。苺づくりのため凍るような冷たさに耐えしのぶ冬。そして夏と冬のあいだも麦の裏作のため労働は途切れることがない。それらすべての季節の重荷を考えればサラリーマンというのは、なんと軽いバーベルを持ち上げる仕事だろう。それに加えて時代の向かい風もあった。池田内閣の「所得倍増計画」にしたがって国民の所得は順風満帆に増加していったのにもかかわらず農作物の価格は据え置きだったので、成長盛りの日本のなかで農家だけがひとり貧乏くじを引いているような気分になった。実際、兼業農家が全農家の四割を超えたのはこの年だった。<br />
　そんな篠田夫妻のもとに未来からの手紙ともいうべき知らせが届いた。<br />
「淳子さん、ちょっと」<br />
「どうなさったの？」<br />
「ついに石油コンビナートが建設されるようだよ」<br />
「それじゃあ、もしかして」<br />
「そうなんだ、ぼくたちはこの土地を売ることができるってわけさ」<br />
　それは天使の羽をつけた鉄腕アトムによってもたらされた柔らかな救済のようにも、鉄の小指との固い約束のようにも思えたので淳子夫人はこころの中でこう叫んだ。これが明るい未来なのね、と。<br />
　天上には秋の空が能天気に広がっていた。</p>

<p>　この石油コンビナート計画は突然の訪問客というわけではなかった。来るべき二十一世紀に向けて各都道府県は自らの手も「鉄腕」にしたいと願い、新産業都市の指定をかけて激しい争奪戦を繰りひろげた。静岡県もその例にもれず政府にたいして熱心な陳情をおこなった。とりわけ斉藤知事は家柄からして資本側の人間であったし、知事選挙のときに新産業都市の指定を受けることを公約したこともあって、県の工業化にはつよい思い入れがあった。水に映った自分を好きになってしまった古代ギリシア神ナルキッソスと同じかそれ以上に、昭和三十八年の政治家は工業化に惚れこんでいたのである。結果的に静岡県は争奪戦に敗れ新産業都市の指定を逃すことになるが、それに準ずる工業整備特別地域に滑り込むことはできた。そのようにして工業に有利なように城壁を築いた上で、闘争の舞台となる三島市をはじめ、隣接する沼津市、清水町といった東駿河湾地区への石油コンビナート計画は着々とすすみ、その旅支度が整ったところで県は発表に踏み切ったのである。<br />
「豊治さん、ぜひ売りましょうよ」<br />
「そうだな、坪あたり三千円というのは好条件だ。このまえ繊維会社に土地を売った人は確か千五百円から二千円だったようだし、間違いない」<br />
「なんて素敵な話なのかしら」<br />
　浮かれた時代の浮かれた人たちは、まだそのすきま風に気づいていない。篠田はあたまのなかで皮算用をはじめているし、淳子夫人はすでに百姓を引退したあとの薔薇に囲まれた夢の生活を思い描いている。また居間でテレビに夢中になっている息子たちも主人公のアトムに絶対の信頼をよせているようだ。しかし夫妻の息子たちよ、アトムばかりに気を取られていてはいけない。もっと注意してブラウン管をのぞきなさい。そうすれば鉄腕アトムにふりかかる「災難」の多くは同じく人間の科学技術から生まれていることに気づくはずだから。</p>

<p>　<b>第二部「巨大な光」</b></p>

<p>　町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり、清冽の流れの底には水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は、台所に座ったままで、清潔なお洗濯が出来るのでした。<br />
　太宰治「老ハイデルベルヒ」（昭和十三年）</p>

<p>「まったくもって銀ピカだ」<br />
　長谷川泰三市長は感嘆の声を上げた。<br />
　昭和三十八年十月の終わり、三島市議会と連れだって視察のために水島製油所を訪れていた長谷川市長がそこでみたものはまさしく明るい未来だった。石油化学工場は訪れたものの目の前に現れるのではなく、その巨大すぎる体ゆえに訪問者をぐるりと取り囲んでしまうのだった。長谷川を包囲する鉄の塊はそして白く輝いていた。それまでの油にまみれたうす汚い工場の群像とは一線を画す、美しいとさえ形容できるこの圧倒的な輝きをまえに、言葉という言葉を奪われてしまった。大きさはそれだけで権力になる。もしも戦国時代の武将・織田信長が「城」という象徴的な住居をかまえず３ＬＤＫの部屋に暮らしていたら天下の統一などは不可能だったはずだし、エジプトの王族にしても日本古代の豪族にしても自らの墓の大きさによって人びとの心を縮めることに成功していたに違いない。<br />
　大きさにくわえて光の要素も工場の好印象に肩入れした。人類が光にめっぽう弱いことを示す記述が旧約聖書に見られる。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」ヨーロッパや中東にはこの光が満ちていたし、アジアには釈迦の後光が感動的に射しこんでいた。そして日本にも古くから独自の光信仰があった。史上まれにみるプレイボーイの光源氏がその象徴だ。彼をつつむ光は女たちを魅了した。昭和三十八年の使節団を光源氏に惚れた女たちと同列に扱うのには多少ためらいを感じるが、市長をはじめとする訪問者たちはこのようなことを考えていたに違いないのである。農業という闇に科学技術の光あれ！<br />
　存在の巨大さと輝きによって惑わされた職員のひとりは、なにを思ったか工場の排水を手ですくってぐいと飲み干した。そして胸を叩いてなんともないことを主張した。たしかにそこには海水よりも排水のほうがきれいだと言わんばかりの小魚の群れがそよいでいた。それをみた長谷川は視察団に帯同していた地域新聞「三島ニュース」の堀江記者に、公害はないねともらした。毒素は体内に堆積することで有害なことが多いのに、飲んだからといってすぐに症状が現れることはないのに、巨大な光に混乱したあたまには職員の行動を大げさなパフォーマンスだと判断できなかったのだ。<br />
　ところでこの巨大な光の種明かしをすると、長谷川市長がまばゆいばかりの工場を後にした数日後、天皇陛下が水島製油所を訪れることになっていたのだった。そのために製油所の職員は工場をきれいにしていたのだ。煙と排水にさらされた石油コンビナート工場がそもそも美しいはずがないのだが、陛下の通る道とあっては仕方ない、せっせとブラシをかけ、ペンキを塗った。その結果、あくまでその結果として、三島から来た使節団は少女マンガのように瞳を星でいっぱいにして工場に恋い焦がれることになってしまった。</p>

<p>　東海道五十三次の宿場町として栄えた三島市は古くから「水の都」としての誇りを持っていた。庭を一メートルも掘れば、富士の雪解け水が湧き出てくるとも言われたほど、市内のいたるところから名水が芽をだした。市の中心部にある楽寿園の小浜ヶ池にはなみなみと水が満たされ、ゆらゆらとなびく水面には園の木々や建築物の虚像が気持ちよさそうに映し出されていた。<br />
　土田寿山もまた物心ついたころから市内の川で泳いで育った市民のひとりだ。地面から溢れかえる水は永久の赴きをたたえていたので、冷たい湧き水に泳ぐ若き日の土田少年に、それから数十年後に三島の水が枯れることを想像しろといっても不思議な顔をされるだけだっただろうが、成人をむかえ市役所の水道課についた土田青年がみたものは枯渇しゆく井戸と水位の低くなった小浜ヶ池だったのである。それもこれも前年に隣町の長泉町に建設された東レ株式会社が繊維の製造のために柿田川の水を大量に汲み上げているからに違いなかった。明るい未来はどうやら都の水をがぶ飲みするらしいぞと市民が気づいたころには、すでに篠田夫妻の暮らす中郷地区の田植えの水にも影響が出ていた。</p>

<p>「この機会を逃したら三島の開発は二十年は遅れるぞ！」<br />
　革新派の反対に苛立った静岡県庁の永江企画調整部長は声を荒げた。昭和三十八年十二月十四日に県が正式な「石油計画」を発表してからというもの市議会からは靴に入りこんだ小石のように微小ではあるが腹立たしい反対の声が上がっていた。永江部長は睨みをきかせながらこう思った。三島市ごときに県の計画をつぶされてはたまらない。<br />
　その気持ちは斉藤知事もまた同じだった。明るい未来を公約した男として、なんとしても静岡県に石油コンビナートを建設しなければならなかった。斉藤知事は永江部長ほど声を張るタイプの人間ではなかったため、市議会からの質問にはしたがって静かにこう答えるに留まった。<br />
「風呂屋の煙突からも亜硫酸ガスは出ているじゃないか」<br />
　昭和三十九年一月九日のことである。</p>

<p>　日本全土で保守派の自民党が絶大な影響力を誇っていた時代、三島市も大勢は保守系であったが、なかには酒井県議を中核とする革新系の勢力が存在した。市民の健康を良識的に配慮すると石油コンビナートの建設は防がねばならないと考えたかれらは、石油計画の発表後すぐさま仲間の経営する料理屋に集まって対策を練った。酒井県議はかつて東レ株式会社が建設されるとき、市内の水源に問題はないのかと尋ねたことがあった。県の回答は問題ないとのことだったが、現実に市内の水位は日増しに低くなっている。今度もまた同じではないか。県は財政的な潤いを求めているにすぎない。<br />
　しかしこの時点では運命の天秤は賛成派に傾いていた。というより完全に県に掌握されているといってもいい。工業立国の時代へと吹く大風のなかで大資本の政治的権力はそれはもう大きかったので、それまで工業化を拒んだ住民運動が成功した例はなかったし、これからもないだろうと思われていた。そんなわけで斉藤知事は抵抗勢力を鼻で笑った。なにを虫けらどもが。<br />
　会議室の窓からは雪化粧した富士山がでんと座っているのがみえた。<br />
　そういえば、と斉藤知事は思いだした。三島市長は嫌なやつだっけ。<br />
　ちょうどそのころ、横浜に革新系の飛鳥田市政が誕生して話題になっていた。そして三島市の長谷川市長も革新系だった。市議会のほとんどが保守系だから心配はいらないものの、斉藤知事は長谷川市長にやりにくさを常々感じていた。嫌いな理由はもうひとつあった。三十代と若くして三島市長に当選した長谷川はアメリカ合衆国のケネディ大統領と重なって人びとの目に映った。細身で爽やかなケネディに比べて、どっしりした体格に禿げ上がった長谷川市長は外見でこそ見劣りはしたが（もちろんケネディと比べられたら誰だって白旗を上げるだろう）その政治家としてのリーダーシップは目を見張るものがあった。市民からの人気を背景に長谷川市長は保守の時代のさなか、ひとり奮闘していたのだ。ある日、長谷川市長が県庁まで知事を訪ねたことがあった。知事室のドアを開けて入ってきた嫌なやつに対して知事はわざと聞こえるようにこういった。「ああ、嫌なやつが来た」<br />
　長谷川市長は机に足をのせるという言語道断なポーズで自分を嫌なやつだと罵った斉藤知事のことを本当に嫌なやつだと思った。なんだか服もシャレているし、もともと企業の社長であるし、とにかく嫌なやつだ。<br />
　そのような具合にふたりは仲が悪かったのである。</p>

<p>　<b>第三部「工場の体臭」</b></p>

<p>　三島の町に入れば<br />
　小川に菜を洗う女のさまも、<br />
　やや、なまめきて、面白や、<br />
　どの橋からも、秋の不二<br />
　正岡子規「旅の旅の旅」（明治二五年）</p>

<p>　明るい未来からの手紙を受けとったはずの篠田は迷っていた。小西記者の発行する地域新聞「三島民報」には毎週のように石油コンビナートへの批判記事が掲載されていた。もし石油コンビナートが建設されれば亜硫酸ガスが町を襲うのだという。篠田は「未来」と「公害」という文字を交互に見比べてみた。工業化によって富をもたらそうとする県側の攻撃と、公害を危惧する革新系の守備と、どちらに加担するべきかはしかし判断がつかなかった。まだ公害という言葉が一般的でない時代である。近所の奥さんはつい最近まで公害のことを工場の害だから「工害」だと思っていたくらいだ。そんな折、四日市の視察の話が舞いこんだ。<br />
「実際に行ってみたらわかるんじゃないだろうか」と酒井県議は中郷の農家を四日市へと誘った。「県や企業から難しい言葉で百聞するより、両眼で石油コンビナート工場を見にいったほうがはるかに納得できる、もし被害がなければ工場の建設を歓迎しよう」<br />
　そうして二月九日の深夜、市民百人を乗せた二台のバスはまだ舗装されていない道を進んでいった。<br />
「まったくもって銀ピカだ」<br />
　数ヶ月前の長谷川市長とおなじ印象を持ったのは篠田豊治であった。まだ夜明けまえの暗がりに工場が煌煌と浮きあがってみえた。雨のなかぼんやり輝く夜景を素直に美しいと思った。こんなにきれいなものが毒ガスをまき散らすはずがない。でこぼこした道を夜通し来たから尻が痛んだ、肩が凝った、などと軽口を叩きながら午前中は石油工場を見学した。現場の職員は三島からはるばる来たＰＰＭも知らない市民視察団に対して嘲笑的な態度をとりつつ、このような説明をおこなった。人間にも体臭があるように工場にも臭いがあるんです。それは自然なことです。ちょっとくらい臭かったり煙があるからって騒ぎ立てる必要はありません。<br />
　それもそうだなと篠田は思った。おそらく公害はおそれるほど深刻ではないだろう。第一に工場の職員だってそこで暮らしている以上、危険物質をやたらとまき散らすわけにはいかないはずだ。毒ガスが放出されれば職員も被害を受ける。第二に三島に来るのはこれより新しい設備だ。日進月歩の科学技術をもってすれば亜硫酸ガスだってなんだって徐々に減っていくだろう。これらの証拠として富士石油のパンフレットにはこのように書いてある。「工場公園、それは製油所です。敷地が芝生やみどりと花に囲まれ（…）音もなく煙も見えず、深閑と静まり返っている」ほら、やっぱり大丈夫だ。<br />
　午後は手分けをして四日市の住民からじかに話を聞こうということになった。篠田たちはまず四日市保健所の森田所長のもとへ行き、公害について説明を受けた。<br />
「とんでもない！」<br />
　森田所長がいった。<br />
「風呂屋の煙突からもガスは出ているじゃないかですって？　普通の浴槽が六十年かかってたく重油を、工場は一日でたくんです」<br />
「はあ。そんなですか」<br />
「ええ、ええ。風呂屋と工場を一緒にしちゃいけない。それにね、聞いてください。最近では保健所に毎日四回くらい『赤ちゃんが死にそうです』っていう電話がかかってくるんですよ。騙されてはいけません、石油コンビナートの建設には十分注意したほうがいいです」<br />
　篠田は驚いた。午前中に聞いた石油工場の職員の話とは正反対だったからだ。これは念入りに状況を把握する必要があると感じた篠田たちは８ミリカメラやテープレコーダーを用意して住民への取材を開始した。道行く人に話を聞こうと市内を歩いていると向こうから枯れ葉のような老婆が洗濯ものを籠に入れてやってくるのがみえた。ちょっとすいません、と声をかけて工場から出る煙と汚水の被害を聞こうとした。公害という言葉を聞いた刹那、老婆は表情を変えた。<br />
「被害なんてものじゃありません」<br />
　ほらこれを見てくださいと言って老婆は洗濯物を突き出した。いまじゃ工場の煙のせいで洗濯物を家で干すこともままなりません。だからこうして工場に持っていって乾かしてもらうことになりました。自分はいま帰ってきたところです。わたしたちはそんな空気のなかでいっしょう暮らさなければならないのでしょうか。さいきんじゃ魚も臭くて食べられません、老婆はそう捲し立てた。<br />
「でも工場のひとたちもここに住んでるんでしょう」<br />
「あいつらは山の向こうにマンションつくってのうのうと暮らしています。わたしらだけがどす黒い空気を吸って暮らしています。引っ越す余裕なんてあるわけもなく。そんなこと、そんなことがつづいています。高校は県立だから移転できましたが、小学校は市立のためお金がなくて移転できません。小さい子どもがこんななかで暮らすと思うと悲しくて。工場のせいで病気になって死んだ人もいます。これから先も苦しんで暮らすくらいならいっそ」<br />
　枯れ葉のような老婆が感情をじわじわと昂揚させていき、しまいにはこういったのだった。<br />
「一緒に死んじまいたいくらいだ」<br />
　篠田は絶望した。老婆の吐く言葉がさまざまな汚染物質が染み込んだ、耐えがたい悲しみをたたえた言葉だったから。篠田のあたまにはその言葉が古くからあった汚れのようにこびりついて落ちなくなった。いっしょにしんじまいたいくらいだ。息子たちの顔が浮かんだ。黒い煙のなかで走り回る子どもたち。悪臭。いっしょに。汚染。煙。しんじまいたい。魚。黒い。どす黒い。絶望。<br />
　これはなにか、説明はつかないけれど、ものすごいことになってしまったと思った。なにかはわからない、なにかはわからないけれどこれは止めなくてはならない。そうでないと、子どもたちが死んでしまう。そのように興奮しながら混乱しながらバスは四日市から三島へと戻っていった。<br />
　窓の外には昨日と同じ銀ピカの夜が広がっていたけれど。</p>

<p>　その二日間のことを三島民報の小西記者はさっそく二月十五日と二十日に市民に向けて発行した。四日市を体験した市民百人もそれぞれに公害の実態を伝えあった。石油計画への反対の気運は水の都のなかを波紋のごとく広がっていった。二月二十二日、中郷地区に反抗の芽吹きを感知した県は説明会を開いた。永江部長と篠田は互いに向きあった。三島に建設される工場は最新のもので公害はないと永江が説明すると、それだけの技術があるなら四日市の悩みを解決してからバスで案内でもなんでもしてくれ、と篠田が切り返した。拍手が巻き起こった。永江は興奮してこういった。<br />
「この計画が流れたら、これに見合うものはないぞ」<br />
「しかし、まだ自信がない」<br />
　今度は長谷川市長がいった。<br />
「いましかチャンスはないのだぞ」<br />
「もし子孫に影響が出たらわたしの汚名は一生消えない」<br />
「あんたらはずっと牛をひいてればいいんだ！」<br />
　永江の顔は軍人のそれになっていた。大戦中に敵国とたたかった大きな体と冷たく光る義眼は、いまや市民に向けられていたのだ。</p>

<p>　中郷地区の反対同盟の中心になっていた篠田は毎晩のように勉強会に呼び出された。篠田さん、篠田さん、と苺の手入れをしているさいちゅうにも声がかかる。呼ばれちゃ仕方ないと着の身着のまま、四日市で収集したテープを持って出掛けていった。このまま朝を迎えたら霜が降りて苺がだめになってしまうわ、と敦子夫人は開けっ放しになったビニールハウスのドアを見て思った。豊治さんたらいつもこうなんだから。<br />
　一晩に二度も勉強会を開いた日もあった。呼ばれていくとお婆さんがひとりで座っているという日もあった。東京から学者先生を招いて公害についての教えを請うたし、工業高校の先生にも空のしくみを教えてもらった。戦後、庶民大学という地域密着型の教育システムを培ってきた三島の風土はこのようなとき絶大な力を発揮し、すぐにＰＰＭや逆天層などという化学用語が田舎の畦道で聞かれるようになった。誰が教える側というわけではなく、知っている者が知らない者に教え、それを聞いた者が別の誰かに伝播した。ご立派に会場を借りることもなく、たとえば篠田家の居間でも掘りごたつを囲んでたびたび勉強会は開かれた。敦子夫人はそのたびにお茶やおにぎり、ふかし芋などを出した。勉強会という名前でなくとも、女性特有の何時間でも身上話で花を咲かせる井戸端会議によって情報はずぶずぶと水田を伝わっていった。</p>

<p>　<b>第四部「水の調書」</b></p>

<p>　水底にしづく圓葉の青き藻を<br />
　差し射る光のさやかに照らす<br />
　窪田空穗 歌集「卓上の灯」（昭和二八年）</p>

<p>　長谷川市長はバイクで市内を走っていた。市長に当選してから、長谷川は生きた三島を観察するためにひとりバイクで通勤することにしていた。長谷川の政治の基盤になっているのはそれくらい市民が中心だったのだ。まだ四十にして立候補した長谷川がまさか市長になるとは誰も思っていなかった。市役所の職員のなかにはそんな青二才に対して、お前が当選したら課長を辞めるとまで馬鹿にしたものもいた。だからこそ自分に市政を任せてくれた市民は長谷川の生命だった。しかしここ数日は眠れない日が続いていた。昨晩も市役所の職員である大隅たちと麻雀を打ったとき、石油コンビナートのことが話題になった。<br />
　はてどうしたものか。<br />
　自分の支持基盤は市民である、がしかし三島市としては財源となる石油コンビナートはぜひとも誘致したいし、それが自分の使命であるような気もする。それに糸をひいているのは絶対の力をもった自民党であり資本家たちだ。三島市が万が一、石油コンビナートに反対を表明したときどのような制裁をされるかわからない。しかし中郷を中心に市民は日に日に反対の色を強めている。それは昨日も麻雀を打ちながら聞いたし、石油計画に反対しているという水道課の土田も呼び出して事情を話させた。というか怒鳴った。これはすごいことだ。三島市役所つまり体制側にも土田のように石油コンビナートに反対する人間がいるということは、言葉は悪いが支配される市民のなかにはもっと強い反対の風が吹いているはずだ。板挟み。そう支持基盤である市民と絶対的権力をもつ県からの両圧がのしかかる。<br />
　ふと長谷川のあたまには反対派の市民と警官隊が闘争しているイメージがよぎった、三島の水に市民の血か流れていく！<br />
　無事に市長室につくと長谷川は県側も手をこまねいているわけではないことを思いだした。市民が草の根的に情報を伝播しているのに対して県側は企業からの豊富な献金をつかってマス・コミュニケーションの手法で攻撃を仕掛けていた。まずは二月二十二日と三月三日に配布された「県民だより」がそれだ。それぞれ「公害の心配は全くない」「公害は全く考えられない」という見出しで市民への説得を試みた。また市民がなけなしの私費でバスを出していたのに対して県側はデラックス・バスを用意して四日市・水島への無料ツアーを企画した。そして酒宴では商品券や菓子折りを懐に接待をした。きわめつけには新聞がひと月三十五円、三島市の建材会社の初任給が一万六千円という時代に、百六十万という破格の予算を使って石油コンビナートを題材にした映画『未来を開く』を制作した。<br />
　しかしそのほとんどが市民の反抗にあって骨抜きにされた。「県民だより」は町内会長の激昂により配布を許されない地域があった。商品券や菓子折りのことは草の根を伝って市民に暴露された。切り札だった映画も映画館の反対にあって上映されなかった。そう、県の攻撃は水にじわじわと沈んでいったのだ。</p>

<p>　三月二十六日。<br />
　長谷川市長は市長室のブラインドを指で少しねじ上げると深いため息をついた。反対派の市民七百人がそこにはいた。ついに反対運動が沸点にたっし、市民は市役所前に大がかりなデモ行進をおこなったのだ。耕耘機に乗ってけたたましく音を立てながら集まった農家、白い前掛けをした数多くの主婦たち、「殺人鬼石油工業」という立て看板を持つ若者、「絶対反対」と書かれたムシロ旗を担ぐ老人、軽トラックの荷台に乗った無数の市民。熱狂。群舞。市役所前に押し寄せる人の波に長谷川は飲み込まれそうになった。これらすべての人びとをこれから説得することを考えると気が重くなった。九九パーセントの反対率を誇る中郷の農家の名簿、およそ四万の人口のうち三万二千人もの書名、全世帯で八割を越える反対の声。これらの数字を前に自分は何をどう言えばいいのか。群衆の前に立ちマイクを握った長谷川は、市民の期待に溺れそうになりながら懸命に弁解を試みた。それは二つの強大な圧力に切迫されたひとりの政治家の決死の綱渡りだった。というのも一歩間違えば市民が暴動することも考えられたからだ。もしかれらの血が流れればその姿がテレビに映し出され、全国の紙面を飾るだろう。住民運動で血が流れたときマスコミは一気に反対勢力を叩きに来る。そして自分は更迭だ。にたにた笑う斉藤知事の顔が浮かんだ。なあ長谷川くん、暴力はいけないよ。長谷川はマイクを握る手に力をこめた。<br />
　その日はなんとか市民を刺激することなく集会を解散させることができた。が、三月二十六日の洛陽はさいごの審判が近づいていることを長谷川に嫌というほど知らせていた。</p>

<p>　四月一日、黒川調査団が発足した。これは県の説得をまったく聞かない三島市民に対して築かれたさいごの砦で、厚生大臣と通産大臣の指令で東京大学の黒川真武教授を中心とした公害調査団が結成された。国家と学会の権力をもって市民を黙らせようとしたのだ。ところでその相手が農家のあのおしゃべりな女たちであることを大臣たちは知らなかったのだろうか。国家権力による恣意的な調査結果を突きつけられたとき、市長としては公害を盾に石油計画を断ることができなくなる、そう考えた長谷川は黒川調査団に対抗するべく四月六日、市民調査団を発足させた。松村調査団という。国と県が調査団を結成するのにいったいいくつの判子を押し、厚生省と通産省と静岡県庁のあいだを何往復したかを想像して苦笑すれば、このわずか五日間での公害調査団の結成は鮮やかなタクトさばきだと評していいだろう、そしてそれを受けた松村清二博士ら国立遺伝学研究所の研究員と、沼津工業高校の四人の教員たちの調査も驚異の素早さで市内を駆け巡った。研究者特有の反骨精神をもった国立遺伝学研究所は以前から市民に対して警告を発していた。石油コンビナートは危険だということを幾度となく学習会で強調してきたし、市長にも勧告を行ってきた。松村団長はよくこんな言葉で講演を締めくくった。われわれ研究所は移転すれば良いが、みなさんはずっとそこに暮らさなくてはならない。<br />
　西岡教諭は協力を申し出た沼津工業高校の教え子たち三百名を集めて、五月上旬の連休中に鯉のぼりを観察するようにいった。集まった資料をもとに朝六時から夜八時までの鯉のぼりの向きを地図の上に書き込んだ。こうして三島地区広域の気流地図が完成した。予算はなくとも機材はなくとも、このようなアナログな手法で工場ができた場合の亜硫酸ガスの行方を弾きだした。また鯉のぼりという煙突にきわめてちかい空気層の流れを明らかにすることで、煙突は高いところにあるから公害問題はないとする企業側の主張をくつがえす結果を得ることに成功した。無数に立てられた鯉のぼりたちは水の都を泳ぐ魚は水中に限らないことを主張していたのかもしれない。<br />
　また別の班は牛乳ビンを狩野川に放流して水流を調査した。この結果は工場の汚水がいかに漁に影響を与えるかを明らかにした。五月の鯉のぼりの下を悠々と泳ぐ百本の牛乳ビンもまた、ほかのどの牛乳ビンとはちがって水の都のそれだった。鯉のぼりと牛乳ビンを陽気な女房たちが話題にしないはずがない。その研究の結果は悠々と市内を泳ぎ回った。<br />
　虚像と思われていた水の都は実在した。</p>

<p>　脅迫電話や脅迫状に屈せず科学者の良心を貫いた松村調査団はのちに、公害の恐れは充分にあるという研究結果を発表し「高校生のレポートの採点ならともかく、これだけの広い専門分野にまたがる問題の採点がどうして工業高校の理科の先生程度で正しく行ない得るでありましょうか」という県会議員のせせら笑いを受けながらも市民の信頼を得ることに成功した。逆に二千万円という巨額の研究資金と高名な学者を投じた黒川調査団の研究結果は読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の紙面への進出には成功したものの市民の信頼は得られることができず松村調査団との討論会での屈辱を受けることになる。高校生の採点をしている教員からの質問に東大の教授が満足に答えられなかったのだ。このエピソードも三島の井戸端会議にさんざん出汁にされることとなるのだがそれはまだ先の話、八月一日以降のことである。</p>

<p>　<b>第五部「鎌と鍬」</b></p>

<p>　三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、町の中央に映画の常設館があって、その前には幟旗が何本かはためいていた。私たち山村の少年たちは、ひとかたまりになり、身を擦り合わせるようにくっつき合って、賑やかな通りを歩いた。<br />
　井上靖「少年」（昭和二九年）</p>

<p>「ピーピーエンム！」<br />
　近所の空き地で缶蹴りをしている子どもたちを見て篠田は驚いた。どこから聞いたのかＰＰＭという化学用語をかけ声に遊んでいるではないか。ここまで石油闘争は身近になったのか。そういえばこのまえ聞いた話では近所の女の子が、お母さんは石油コンビナートだからおとなしく寝んねしなさいねとお人形さんを寝かしつけていたという。もう四月も終わり、今年は桜を楽しむ余裕もなかった。まったく長期化してしまった。しかし、と篠田はぼさぼさの髪の毛をかきながら思った、この子どもたちのためにも負けるわけにはいかない。<br />
　四月十日にはＮＨＫがドキュメンタリー「時の表情」で四日市公害の特集を放送した。もはや公害は無視できないものになっていたのだ。四日市では昭和二十八年頃から犬やニワトリが見向きもしないような魚がとれはじめ、三十四年頃からは亜硫酸ガスを原因としたぜんそく患者が増えるようになった。そして白い霧が町を包んだ。これをみた三島市民は決意の上塗りといった様相で、石油計画反対への結びつきを強めた。商店街には石油コンビナートへの反対を示すポスターが貼られた。水は淡白なようで思いもよらない粘り気を見せつけることがある。ポスターは踏み絵の役割を果たし、貼られていない店の売り上げは落ちた。</p>

<p>　四月二十八日、篠田たち地元代表三十八名は富士石油の創立総会に押しかけ、直接株主たちに反対意見を伝えようとした。それを阻止しようとする会社側との険悪な押し問答のあと、代表者同士の話し合いが持たれることになった。東京パレスホテルの一室にとおされた篠田たちは八名の前には豪華なメニューがずらりと並び、銀縁の食器がきらりと輝いた。しかし反対運動として訪ねてきた手前どうしても食べるわけにはいかない、そう思った篠田は、ジュースだけ飲んで我慢することにした。ささやかな、ささやかな抵抗。思えば地方の一農家である自分たちにできることは、いつだってこのような小さな抵抗だった。そのころ土地の不買同盟の会長になっていた篠田は、会社の重役五名を前に名簿を叩きつけ、こういった。石油会社に売る土地はない。<br />
　名簿の一部を会社に渡すつもりで来たのだが一部貰えないかと聞かれたとき惜しくなって自分たちで取りにこいと言ってしまった。富士石油には特に住民に油を注ごうという気はなかったし、その日はなんといっても創立総会だったので穏便にことを運ばせた。帰りがけ篠田はジュース代の百円をテーブルに置いてホテルを後にした。<br />
「おい、ラーメン食べにいこう！」</p>

<p>　ところでこの東京訪問にはひとつの悲劇が起こってしまった。帰りのエレベーターのなかで富士石油の社員四名と三島から来た山木保子ひとりになってしまったのだ。あの個室の中ではささやき声も鮮明に聞こえるものである。それにも関わらず大声で怒鳴った人がいるとは。<br />
「一歩でも私たちの土地に足を踏み入れてごらんなさい。みんな鎌も鍬も用意してありますよ」<br />
　その言葉を聞いた富士石油の社員は見事な後ずさりを見せた。まさかこの三十過ぎの女性が、自分の生命を脅かそうとは。エレベーターから降りてきた山木にそのことを聞くと、彼女は以前にも住友化学に対して「肥だめに叩きこむぞ！」と凄んだことがあったから、またやってしまったかと篠田は笑った。いつでもつよいのは女たちである、男たちが「会社がある畑がある」と前に出るのを恐れているときに、彼女たちは鎌を片手に敵を恐怖に追いやっている。篠田はこの石油闘争のほとんどは女性たちに支えられていると思った。<br />
　つよいだけでなく、やさしさもあった。風の冷たい夜、反対運動をしたときのことだ。寒がる自分に対して、カーディガンをかけてくれた主婦がいた。<br />
「わたしはいいから、篠田さんが風邪をひいてしまったら困るもの」<br />
　その言葉に篠田は泣きそうだった。</p>

<p>　石油計画を溺死させるために、人びとはねばり強い闘いをつづけた。初めの視察から何度も四日市へバスを走らせ公害についての見識を増やしたし、沼津市や清水町といった隣の町へもでかけてゆき反対運動を行った。富士石油に限らず毎週のように東京へ出向き、企業や省庁に計画の撤退を求めた。<br />
　三島の住民運動は成熟に達した。ひと言かければ口伝えで町中から数百名が集まった。特定の誰かが運動の首長になり命令を下すのではなく、各組織に多くの頭を持つことで自発的な活動を可能にした。このおそるべき結びつきと流動性に企業と県は苦戦した。何かをしようとすればすぐに数百名が座りこみをしてしまうし、ひとりやふたり賛成側に引き込んだとしても無駄だったからだ。　安保闘争などによって日本人が本格的に闘争を学ぶ五年も前に、三島で頑強な市民軍が誕生したのには三島という土地柄が肩入れしているように思われる。江戸時代に活躍した韮山の名藩主、江川太郎左衛門が日本ではじめて農民を軍隊にした。それが三島にも波及した。</p>

<p>　嘉永三年の正月、柏木総蔵は、酔っていたのかは知らないが、長崎から持ち帰ったノーエ節を歌ってみた。するとそれを耳にした藩主の江川太郎左衛門がぎろりとこちらを見ているではないか。質素節約を旨とする厳しい藩主なので、ああ、また怒られるなと柏木は新年早々気落ちしてしまった。しかし江川太郎左衛門はその音頭をいたく気に入って、これを農兵節とすることを決めていたのだ。江川は前々から諸外国との戦いに備え、農民を常備軍に鍛え上げようとしていた。そこに柏木がうたう珍しい音律が聞こえた。これは農民を鼓舞する軍歌になる、江川は閃いた。<br />
　富士の白雪ノーエ、富士の白雪ノーエ、富士のサイサイ、白雪朝日でとける。<br />
　これが隣町の三島に伝わり、有名な三島農兵節になった。ペリーが来航する十六年も前にその日が来ることを予言し、お台場計画を幕府に助言していた男は、ここでも素晴らしいタクトさばきだったと言える。全国から藩主がこぞって見学に訪れたという、農兵の伝統が伊豆のこの地方には眠っていたのだ。その証拠に現在でも三島の夏祭りでは農兵節が踊られている。</p>

<p>　<b>第六部「水の都」</b></p>

<p>　町中に富士の地下水湧きわきて<br />
　冬あたたかにこむる水靄<br />
　穂積忠「叢」（昭和三〇年）    </p>

<p>　のちに「日本の公害史、いや資本主義発達史の転機をつげるような事件」とまで称されることになるこの闘争も、ついに集大成を迎えようとしていた。長谷川市長はいつものように市長室に入ると、あらためて市民集会のビラを手に取った。三島市の発展、市民の幸せのために石油化学コンビナートの進出を一挙に粉砕しようと書かれている。きょうの夕方、公会堂に各団体が集結して大規模な大会を開くことになっていた。長谷川はひとつひとつの言葉を噛み締めた。石油コンビナートの進出を拒むことが本当に三島市の発展になるだろうか。否、経済的な数字だけを考えれば、おそらくそれは後退なのだろう。しかし市民の幸せのために、というところが重要だ。<br />
　こんにちは、赤ちゃん。わたしがママよ。<br />
　当時の流行歌をもしかしたら長谷川は、こんなふうに解釈していたかもしれない。わたしは未来の子どもたちのママである、と。そうだったら産みの苦しみは避けられない。</p>

<p>　その後、石油コンビナートを拒んだことが県の逆鱗にふれ、三島市役所はさまざまな嫌がらせを受けることになるのだが、おそらく長谷川はそうなることを知っていたに違いない。それよりも重要なことは、まだ公害対策基本法ができる三年も前に地元住民が経済成長よりも環境を選択し、第二の四日市になるリスクを回避していたことであり、その戦術や精神はのちの住民運動に受け継がれていくことになる。おもしろいことに工業立国を叫んでいた人たちは、それから四十年もすると今度は環境立国を謳うようになる。かつて工業を掲げればなにをしても許されたように、いまでは環境という言葉は最強の兵器になってしまったきらいがある。政治は常に強いものの味方だ。<br />
　また科学者と市民との対話という点でも、すぐれて先験的な場所だった。難解な言葉で一般人を巻くのではなく地域と生命に根ざしたやり方で科学者と市民が対話した。研究に鯉のぼりや牛乳ビンをつかった経験も、それまでの高価な機材を使った調査という常識を覆し、十円玉やムラサキツユクサなどを利用した方法へと受け継がれた。とはいえ、このような評価は歴史が下すもので、今朝の長谷川市長は依然として不安な思いで市長室を歩き回るのだった。</p>

<p>　篠田は一睡もしないまま市民大会の朝を迎えた。ついに今宵、ひとつの大きな節目を越えるだろう。それにしても、と篠田は思った、さいごまでどうなるかわからない。五月二十二日、市民集会を翌日にひかえた夜、賛成派も黙ってはいなかった。どうにかして反対派を懐柔しようと密会を開いていたのだ。偶然そのことを知った反対派と密会の帰り道の賛成派でひと悶着起こった。暴力事件にまで発展しそうな気配さえあった。それで昨晩は寝ることができなかった。</p>

<p>　五月二十三日を境に、三島での石油闘争は一応の終着をみる。六月には市議会も全会一致でコンビナート反対の決議を出し、三島への進出は不可能になった。しかし県は沼津での建設をあきらめることはなく、闘いは続いた。九月には二万五千人が参加する大集会が開催され、賛成派には腐った魚が突きつけられ、議員の服は脱がされた。そしてやっと静岡県東部の工業化は封印された。<br />
　もっとも闘いはおわったのではなく、はじまったのだった。四日市で、水俣で、新潟で、川崎で、死ぬよりも苦しいという病をめぐっての果てしない闘争が。いったん空に放たれた有毒ガスには名前が書かれておらず、誰に責任があるのかがはっきりしなかったので企業は知らないふりをしたし、責任が誰にあるのかはっきりしないことについての責任を政府も取ろうとしなかった。環境に関する闘いはいつも見えない敵との闘いである。</p>

<p>　六時。公会堂には千五百人の市民が詰めかけていた。いつも無償でパンを提供してくれたあのご主人や、あんまり熱心に公害の怖さを語るものだから近所に気が触れているとまで噂された主婦や、四日市に派遣され喘息を患ったＮＨＫ職員（闘争のはじめから多くの助言を市民に与えていた）も勢揃いしていた。<br />
　六時十五分、市民大会がはじまった。それまで各団体のリーダーとして反対運動を牽引してきたものたち二十六名が、つぎつぎと声明を発表した。ひとり、ふたり、さんにん、と決意を語るたびに大きな拍手がまきおこり、その場は異様な熱気につつまれた。<br />
　そして市民の煮えたつ熱湯をおもわせる熱い視線は壇上のひとりの男に注がれた。男はいつものようにきっちりとスーツを着こなして、確かな足取りですすんでいった。二十七人目としてマイクをとったのは長谷川市長だった。<br />
「すでに、知事には伝えたが」<br />
　群衆は息をのんだ。<br />
「三島市は石油コンビナート建設に反対する」<br />
　滝のような轟々とした拍手が起こり、鳴り止まなかった。<br />
　その情景は人びとの目に焼きついて離れなかった。それまでずいぶんと長い間、必死に闘ってきた勇敢な市民たちは、ついに市長がその言葉を口にしてくれた、これで子どもを守ることができた、市民の健康を売り渡さずにすんだ、などとさまざまな想いを交錯させながら、この涙こそが戦利品だというように、湧水のように清らかな涙を流した。<br />
　その涙はひとすじの流れをつくり清流に寄りそって海へと放たれる。やがて日は昇り、蒸発した涙の海は富士の白雪へと姿をかえるだろう。そして数百年後にふたたび湧き出る日まで永いながい眠りへとつく。</p>

<p>（了）</p>

<p>注：プライバシー保護のため一部、登場人物の名前は架空のものになっています。</p>

<p>　<b>参考文献</b></p>

<p>　「三島ニュース」各号（1963年-）<br />
　「自治研集会における三島・沼津石油コンビナート闘争報告」（1965年）<br />
　静岡県東部開発事務所「東部開発の歩み」（1965年）<br />
　酒井郁造『見えない公害との闘い』（1984年・「見えない公害との闘い」編集委員会）　<br />
　三島民報社『三島沼津　石油コンビナート進出阻止の住民運動』（1993年・三島民報社）<br />
　星野重雄・西岡昭夫・中嶋勇『石油コンビナート阻止』（1993年・技術と人間）<br />
　中須正「三島・沼津・清水二市一町の環境運動再考」（2000年）<br />
　小池政臣『できることはすぐやる！』（2002年・海象社）<br />
　船橋晴俊「社会制御システム論にもとづく環境政策の総合的研究」（2004年）<br />
　みしま女性史サークル・女性制作室「聞き書き　みしまの女性たちの歩み-昭和生まれ編-」（2004年）<br />
　三島市立向山小学校５年４組「コンビナート反対運動を学んでの感想」（2004年）</p>]]>
</content>
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<entry>
<title>『犯罪者の仮面を被らされた者たち　Vol．1』遊佐春奈</title>
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<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-03-22T01:37:36Z</issued>
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<summary type="text/plain"> はじめに 　女の人たちが近所のアパートにやってきたのは10年くらい前のことだった。 　当時中学生だった私は毎日その前を通って通学していた。彼女たちは、夕方になるといつもミニスカートにサンダルを履いてアパートの前にたむろしていた。6～10人...</summary>
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<name>遊佐</name>


</author>
<dc:subject>前期課題</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.journalistcourse.net/blog/">
<![CDATA[<p><br />
<strong>はじめに</strong></p>

<p>　女の人たちが近所のアパートにやってきたのは10年くらい前のことだった。<br />
　当時中学生だった私は毎日その前を通って通学していた。彼女たちは、夕方になるといつもミニスカートにサンダルを履いてアパートの前にたむろしていた。6～10人はいるだろうか。暗くなると車が迎えにきて、中から2～3人の黒服の男たちが出てきた。私は、足早にその前を通り過ぎるのだった。目を合わせてはいけないような気がして。彼女たちは、一部屋4～5人くらいで住んでいるようだった。時折、部屋から罵り合いのような声が聞こえた。そのアパートのゴミ集積所はいつも分別されていないゴミでいっぱいだった。<br />
　「外国人はゴミを分別しないからねぇ」とか、彼女たちは「フィリピンから来て水商売をやってる」んだとか「臭い」とか、近所で不満を言う人もいた。彼女たちに何をされた訳でもないが、私は何だか不安を感じていた。たぶん、テレビで外国人犯罪が増加したとか不法滞在者の摘発だとかが取り上げられていたのが影響したのだろう。その時は、なぜ不法滞在者が増加しているのか、疑問に思う余裕もなかった。とにかく帰ってほしかった。それだけ強烈に不法滞在者と凶悪犯罪のイコール関係が脳みそにこびり付いていたのだ。特に外国人ホステスが入管に連れて行かれるシーンを見ると不安でたまらなかった。うちの近くにいるフィリピン人女性もこの人たちと関係あるのだろうかと。</p>

<p>　それから10年、不安は変わらない。しかし、それは彼女たちに対してではない。彼女らの背後にある、俄には信じたい現実を知ったからだ。そして、それを問題視してこなかった自分も社会ももっと恐ろしい。</p>]]>
<![CDATA[<p>　内閣府が外国人労働者の受け入れに関する世論調査（平成16年5月13日～5月23日、全国20歳以上の者3000人を対象に実施）を行っている。観光客として入国した外国人、外国人留学生などがホステスや作業員として働き、収入を得ることは「よくないことだ」と答えた者（1468人）にその理由を聞いたところ、図<a href="http://http://www8.cao.go.jp/survey/h16/h16-foreignerworker/images/zu16.gif">（http://www8.cao.go.jp/survey/h16/h16-foreignerworker/images/zu16.gif）</a>のように「治安、風紀が悪くなるから」を挙げた者が72.5％と最も高かった。一方、「よくないがやむを得ない」と答えた者（509人）に、その理由を聞いたところ、図<a href="http://http://www8.cao.go.jp/survey/h16/h16-foreignerworker/images/zu17.gif">（http://www8.cao.go.jp/survey/h16/h16-foreignerworker/images/zu17.gif）</a>のように「その人が得た金で家族が暮らしていけるから（47.5%）」「その人が納得して働いているのだから（36.3%）」が上位を占めている。<br />
　この日本社会全体の意識の縮図が、フィリピン人女性が住んでいるアパートの周辺住民が彼女らに向ける視線と意識であるような気がする。「ゴミは分別しないし、水商売なんて『治安、風紀が悪くなる』」「でもまぁ『その人が得た金で家族が暮らしていける』わけだし」と。<br />
　メディアでこの不法就労者に対する意識について取り上げられたのは、「外国人の不法就労を『よくないことだ』と答えた人は70.7％と00年の前回調査の49.2%から大幅に増加。『よくないがやむを得ない』という消極的容認派も、前回の40.4％から24.5%に減った」（『朝日新聞』2004年7月25日）ということに関してだった。世論調査の目的が外国人労働者受け入れに関する国民の意識を知ることだったのだから、関心の中心もそこにあるのは当然であろう。しかし、意図していないところに国民の深層心理が顕著に現れている。「よくない」と思っていようが、「やむを得ない」と思っていようが、その意識にさほどの差はない。「よくないことだ」と答えた者で、「買春などで外国人自身の人権が侵害されるから（49.2%）」を挙げた者もいるが、過半数の人が性産業に従事している外国人女性の背景に何があるかなど気にも止めていないのだろう。<br />
　では、彼女らの背後にある、信じがたい現実とは何か。そこには、納得して働いているとはとても言えないような世界が広がっている。</p>

<p><br />
<strong>１．耳を疑うような事実</strong></p>

<p><strong>あるフィリピン人女性の証言</strong></p>

<p>　笑顔で露店の店番をする女性がいた。川崎にJFC（Japanese Filipino Children）の劇を見に行った時のことだ。よく見ると見覚えのある顔だった。彼女には日本で経験したつらい過去がある。今のいきいきした姿からは想像もつかないような。露店の近くでは先ほど劇を公演していた子どもたちが走り回っていた。その中で1番ちっこくてかわいらしい少女がいた。「母親と顔がそっくりでしょ」。露店の日本人スタッフが言う。彼女の母親も日本で移住労働者としてつらい経験をしていた。その少女は、その時、日本人客との間に生まれた子どもだ。彼女は未だに父親の顔を知らない。<br />
　これは、国際シンポジウム「ケーススタディーからみる人身売買の被害の現状」でのフィリピン人女性2人の証言である。どちらも外国で働くことに希望を持って遥々日本にやってきた若者だった。</p>

<p>＜アグネスさん（仮名）のケース＞<br />
　学校に行けないため、勉強するお金を稼ぐために日本のエンターテイナーになった。いとこがそれを紹介してくれた。<br />
　若かったのでエージェンシーの言うことを信用した。その時、21歳だったが、姉（23歳）の書類を使って渡航資格を得た（1991年、日本へ出稼ぎに行ける最低年齢が18歳から23歳に引き上げられた。2001年から再び18歳に引き下げられた）。そして、マニラでダンスのレッスンを受けた。<br />
　日本では帰るのが嫌になるほどの屈辱を受けた。成田に着いて、クラブへ連れて行かれた。そこは言われていたホテルではなかった。（プロモーターに）パスポートを取り上げられた。すけすけの服を着せられ、陰部を触られたり恥ずかしい仕打ちを受けた。毎日、もしくは一週間に一度同伴をしなければならなかった。同伴は女性から誘うからセックスOKと思われて、強要される。（来る前に）アーティストレコードブック（芸能人登録手帳）に書かれていること以外やらなくて良いと言われていたが、何も文句は言えなかった。<br />
　エンターティナーはますます危険になっている。ホステスとしての需要がある限り、エンターテイナーのスキルは意味をなさない。<br />
　DAWN（＊１）で活動して自信を取り戻せた。</p>

<p>　現在、彼女はフィリピンでDAWNのコーディネーターの仕事に就いている。</p>

<p>＜マリアさん（仮名）のケース＞<br />
　フィリピンでは夫からひどい仕打ちを受けた。20歳のとき、子供を育てるため日本でエンターテイナーの仕事をする決意をした。<br />
　7人でダンスのレッスンを受けた。オーディションに受かって日本人のプロモーターに付いて行くことになった。あとの6人は他のプロモーターになったので、とても不安になった。<br />
　日本に着いたら、パスポートを取り上げられた。そのこと（パスポートを取り上げられること）が法律で禁止されているとは知らなかった。<br />
　京都福知山にあるクラブで働かされることになった。店の光景を見て驚いた。キスされたり愛撫されたり抱きつかれたりする店だということを初めて知った。セクシーな洋服を着るように要求された。客の横に座って酒を注ぎ、ボトルを多く空けると店が儲かるしくみになっていた。酔っ払うと客が恥ずかしい注文をした。センターステージで裸で踊らされたこともあった。ある風邪薬を飲むと酔いが回るのが遅くなると勧められて飲んだら、中毒になってしまった。<br />
　同伴は危険な目に遭うことがある。それを知らないで、一回目は店の人に連れて行かれ、同伴させられた。モーテルに連れて行かれたこともあった。言い寄ってきたから拒否した。<br />
別のクラブへも連れて行かれた。これはフライングブッキング（飛ばし。本来働く予定だった店とは違う店で働かせる）という。<br />
　6ヶ月の契約だったが、3ヶ月で帰る決意をした。プロモーターからもらった給料は最初に約束した額より遥かに少なかった。<br />
　2回目に日本に来るときは別のプロモーションエージェンシーを選んだが、同じような待遇だった。クラブの二階に別のエンターティナーと一緒に押し込まれて暮らしていた。日本人客と恋に落ちて2人の子供を儲けた。その人は、ある時から連絡がつかなくなってしまった。もう1人の客とも酔っ払って（セックスを）拒否できず1人儲けたが、認知してくれなかった。</p>

<p>　現在、34歳の彼女はDAWNのSIKHAY（＊２）プログラムで職業訓練を受けている。</p>

<p>　1回目に来た時にそんなひどい仕打ちを受けたのにも関わらず、なぜまた日本に来ようと思ったのかと疑問に思うかもしれない。彼女たちは2回目は１回目よりもマシな待遇になると信じている。</p>

<p>＜小さな犠牲者たち＞<br />
　DAWNは227人の女性とその子どもたち277人を支援している。その内90人の子どもたちは日本人の父親からの連絡を取ることができるようになったり、なんらかのサポートを受けられるようになった。つまり、3分の2の子供たちは父親と連絡がつかない。理由は様々だが、多くは日本人男性が妻子持ちであるにも関わらず、フィリピン女性との間に子どもをつくったことに拠るという。<br />
　劇の公演のために来日した子供たちの中には、父親と再会できた子どももいた。最年少7歳の男の子は、スタッフが「昨日お父さんと会えたんだよねぇ」とタガログ語で言うと満面の笑みを浮かべた。公演の前日に写真でしか知らなかった父親と会えたのだという。しかし、来日しても会えないことも多い。日本人男性、フィリピン女性、どちらが悪いとは一概には言えないかもしれないが、犠牲になるのは子どもたちだ。</p>

<p><strong>フィリピン女性エンターティナーの実態</strong></p>

<p>　彼女たちが日本に働きに行くことを気軽にさせているものに興行ビザがある。興行ビザの該当例は、俳優、歌手、ダンサー、プロスポーツ選手等だ。しかし、この興行ビザで入国したフィリピン女性エンターティナーは、合法的に入国していながら、契約やビザの名目とは異なる仕事をさせられているというのが実態だ。現に彼女らはダンスのレッスンを受けて、日本でダンサーとして働けることを夢見て来ている。だが、日本に到着したらパスポートを取り上げられ、待っていたのはホステスの仕事。当然、ダンサーになるために受けてきたレッスンはすべて無駄になり、そのスキルを一度も使うことはない。<br />
　フィリピン側の統計によると、日本へ向かったフィリピン人労働者（9割はエンターティナー）は、2002年には7万7870人おり、その内、興行ビザで入国したフィリピン人女性は6万9986人である。この数が「合法的な」人身売買システムの被害者であるとすると……。もちろん全員被害者であるという証明はできない。興行ビザで入国してダンサーなど名目通りの仕事のみをしている人は被害者とは言わないだろう。興行ビザがバンドなどの芸能活動のみを行う人の入国に厳しく限定されていた1980年には、フィリピン人興行ビザ入国者数は1万3407人であったというから、ビザの名目通りの活動をしている人の数はこれくらいかもしれない（男性も含む数。女性だけならもっと少ないだろう）。残りの風俗産業で働く女性の中でも、全員が被害者ではないと入管側は強く主張する。外国人ホステスは承知して働いていると思っている日本人は多い。具体的な数で示さないと。初め私は人身売買の被害者は日本にどのくらいいるのか証明するのに躍起になっていた。しかし、ふと思った。被害者と被害者ではない人の違いって何だろうか。その無意識な選別こそが解決を遅らせてきたのではないかと私は思う。</p>

<p><strong>すべては公認の下</strong></p>

<p>　そもそも、このような事実があるにも関わらず、なぜ、入管は興行ビザを放置しておいているのだろう。実際、入管職員に聞いてみた。法務省入国管理局の人身取引防止の仕事に携わっている職員が電話取材に応じてくれた。本当は直接会って顔色を窺いつつ質問したいところだが、忙しいとのこと。それでも、2時間もの間、かなり無礼な質問もあったが嫌な声1つ出さず、真摯に答えてくれた。と、わざわざ断っているのは、度々出てくる彼の発言が、特別人柄が悪くて発せられたものではないということを言いたいのだ。入管職員であるがための発言、あるいは、日本人の一般的考え方はこうなのかもしれないとさえ思う部分もある。</p>

<p>　「えっ、放置って言われると耳が痛いんですが……」電話の向こうで職員の声は明らかにとまどっていた。私は慌てて丁寧な言葉に言い直す。「分かっている上でやっている、黙認している訳ではないということは分かっていただきたいのですが」。いや、分からない。実際、フィリピン人エンターティナーが合法で入って来ていながら、違法なホステスの仕事をさせられているという事実があるにも関わらず、フィリピン女性の興行ビザでの入国は増える一方だ。黙認しているのでなければ、この状態は何なのかということが知りたかった。もしかしたら、日本ではホステスの需要があるから違法な労働となっても仕方ないと考えているのでは？ 「そんなことはありません。誤解しないでいただきたいです」。すごく丁寧に言ってくれているのだが、これは説明ではない。</p>

<p>　ならば、誰かにきちんと説明してもらおう。<br />
　2004年9月に人身売買の実態に関する日本政府調査団はフィリピンを訪れ、DAWN事務所を訪問した。「日本政府と協議した際にも、政府が人身売買に関わっている訳ではないと言っていたが、では、なぜ合法的に来ているのに違法に働かされているのか」とシンポジウムのために来日したDAWNの代表も疑問を抱いていた。DAWNの日本事務所のスタッフにもメールで同じような質問をしてみた。<br />
――女性エンターティナーはほぼ人身売買の被害者と考えてよろしいのでしょうか。もしそうだとしたら、日本の政策にかなり問題があると思いますが、そういったことを訴えるなどといったこともしていらっしゃるのでしょうか。また、人身売買の要因の一つに興行ビザがあるのならなぜ日本政府はそれを放置したままにしているのだとお考えになりますか。<br />
「日本での就労実態を隠して女性たちを『芸能人』として日本に送り込む」という現状が、日比両政府の公認の下で行われていることや、ほとんどの関係者（場合によっては当事者も）が日本で彼女たちのする仕事が「ホステス業」であるにもかかわらず、それを公には認めていないこと、などの実態を、政府も関与する制度的な「人身売買」の一形態である、という風に理解しています。（少し複雑な理解かと思いますが）そうなると当然日本政府の興行ビザの発給や、あるいはむしろ、そうした接客業の外国人労働者が必要であるのならば、なぜそれに適したビザを発給しないのか（ご存知のように、日本政府は「単純労働」分野での外国人労働者には門戸を閉ざしています）、という問題が出てきます。<br />
DAWNではもちろん、日本政府に対するはたらきかけを日比双方で行っていますが、日本政府はごく最近になって（実質的にはアメリカによる人身売買報告書で名指しされて以降）、ようやくこのビザの問題に「関心を示したふりをしている」といった感じです。</p>

<p>　実際、彼女に会いに行くと、いかに制度的な人身売買であるか、さらに説明を加えてくれた。</p>

<p>　エンターティナーたちが日本に渡航する前に、エンターティナーたちをリクルートし、ダンスのレッスンを受けさせ、日本への渡航手配をする民間斡旋・訓練業者（いわゆるリクルーターやプロモーター）は、政府や大使館などが承認している。エンターティナーたちは月収20万ほどの中から訓練代と斡旋料として没収され、実際もらえるのは10万くらいだという（3万4～5000円というケースも）。つまり政府が人身売買のブローカーを公認しているということになる。これについて日本政府側は「フィリピンが送り出しているから」と言い、フィリピン政府側は「日本が受け入れるからだ。嫌ならやめればいい」という具合になすりつけ合っている状態だという。</p>

<p>　ここで、「合法的な人身売買」という言い方に違和感を持つ人がいるかもしれない。私がこれを調べてから随分経ってから「人身売買扱いしないでほしい」というエンターティナーたちの訴えが記事になっていた（「『私たちは売春婦じゃない』『訓練されたアーティスト』。フィリピン女性ら約1500人が16日、プラカードを手に、マニラの日本大使館を取り囲み、興行ビザ発給削減の方針を撤回するよう求め、気勢を上げた」朝日新聞12月25日夕刊）。私自身、この後フィリピンパブを訪問し、彼女たちが誇りを持って働いていることを知る（Vol．2参照）。しかし、人身売買と呼ぼうが何と呼ぼうが、彼女たちを取り巻いている問題は変わらない。</p>

<p><strong>承知しているか否かは問題ではないはずでは？</strong></p>

<p>　入管側の言い分としては「黙認しているわけではない」。しかし、合法で入国したエンターティナーが違法なホステス業をしている事実は入管も知っている。事実を知った時点で、エンターティナーとしての本来の仕事に就いているかチェックすることもできたはずだ。その上で何も措置をとってこなかったということは、黙認しているのと何ら変わりない。ただ、エンターティナーとしての本来の仕事に就いているかチェックするという作業は言うが易しで、実際はコストも手間もかかる大仕事だろう。しかし、政府に少しでも問題意識があったならば、率先して動いていても良いのではないか。それだけの手間をかける必要がないという判断が働いたのだと推測する。そう推測したのには理由がある。先ほどの興行ビザに関する質問の最中にこんなやりとりがあった。</p>

<p>「こう言うのも何なんですが、フィリピンの女性が承知して来ていることも考えられますし」<br />
――レストランで働くなどと言われて来たら、スナックだったという人もいるそうです。<br />
「空港での入国審査はどうやって通ったんですかね。質問された時何て答えたんですか」<br />
――日本語ができないからその人は何もしゃべってないのだと思います。誰か付き添いがいたんじゃないでしょうか。<br />
「それはないんじゃないですか」</p>

<p>　その時、私の頭にあったのはこのケースだ。その人は興行ビザではなかった。しかし、ホステスをさせられることを知らなかったのは確かだ。「成田空港で入国の際、入管職員に入国してどこに行くのかと聞かれ、『東京』のどこかを詳しくいえなかったため怪しまれ、空港で待っていた夫の姉とその連れ合いが呼び出されて説明してやっと入国できた。渡航費はこの義理の姉が立て替えた。フィリピンで聞いていた喫茶店のウェイトレスという仕事はまったくうそで、最初の仕事は、歌舞伎町のスナックでホステスの仕事であった。（中略）喫茶店のウェイトレスだといわれたのに夜の仕事で客相手に酒を飲むようにいわれて拒否したが、選択の余地はなかった。酒は飲めないのでいやだった」（京都YWCA・APT編『人身売買と受入大国ニッポン』ｐ92～93）。また、後からタイのNGOの方に聞いた話だと、入国審査は日本人の知り合いだと何も怪しまれることなく結構スムーズに通過できるらしい。他にも偽装夫婦、偽装金持ち親子（よく世界中を旅行している＝危険人物でない）など。怪しまれずに済む巧妙なやり方はいくらでもある。しかし、そんなことは入管職員の方が知っているはず。わざわざ私にそれを聞いた意図は、被害女性が嘘をつくから入国を防げない？ いや……。</p>

<p>――ダンサーの仕事だと言われ、ダンスのレッスンまで受けて日本に来ても、ホステスの仕事をさせられたと被害者の方はおっしゃってました。<br />
「そうですか。本当に知らなかったんですかねぇ」（腑におちない感じだ）</p>

<p>何だか取り調べを受けているみたいだった。<br />
この時、電話取材が始まってすぐのやりとりを思い出した。</p>

<p>「国連国際組織犯罪防止条約人身取引補足議定書3条b項に、搾取（性的搾取、強制労働、臓器摘出等）の目的を持って、暴行、脅迫、欺もう、対象者を支配する者などに対する金銭の授受等を手段とした採用、運搬、移送、蔵匿、収受といった行為であれば、同意しているか否かは問わないと書いてあるから、承知して来ていた場合でも被害者となる」</p>

<p>そう、承知していた場合でも被害者と認定されるのかどうかは確認してあったのだ。なのに、なぜ、執拗に承知している可能性を強調しているのだろう。</p>

<p>　「先ほど承知しているか否かは問題ではないとおっしゃっていませんでしたか」と言いかけてやめた。その時の私はまるで自分が人身売買の被害者であると訴えているような気分だった。「知らなかったんです。騙されてきたんです」と言っても、「本当に知らなかったんですか。じゃあ入国審査の時何て答えたんですか」と聞かれ、うんざりしているような、そんな気分だった。日本人の私ですらこんな質問には閉口する。ましてや片言の日本語の外国人女性だったらどうだろう。今までそうやって訴えても被害者と証明できずに入管法違反者として扱われてきた人は結構いるのではないかと思う。<br />
　同意しているか否かは問わないと条約に書いてあると頭では分かっていても、承知して来ているのなら……という意識がまだ残っているというのが実態なのではないか。これが興行ビザに関する熱心な取り組みの手間を省いてきたと推測する所以である。人身取引防止に関わる仕事をしている入管職員でもこうなのだから、関心のない人であればもっと意識を変えるのは難しいのではないかと感じた。<br />
　「承知して来ているのだから……」という考え方に、人身売買が犯罪であるという認識が本当にあるのかも疑問だ。承知していようとなかろうと女性たちは搾取され、加害者側のブローカーや雇用主などはその金で利益を得て、それが犯罪組織の資金源になっていること自体が問題であり、さらに政府が制度的に関与していることが問題である。人身取引防止に取り組んでいるのであれば、それくらいの認識を持って取り組んでほしいと思った。</p>

<p><strong>さすがは人身売買受入大国と言われるだけのことはある</strong></p>

<p>　「それまでも全く何もしていなかったわけではないのですが、活発になったのは今年（2004年）から」。「人身取引防止に対し、法務省入国管理局ではいつ頃からどのような取り組みをしているのでしょうか」という質問に対し、そう答えたから驚いた。人身取引防止に取り組んでいると言っても今年（2004年）から活発になったというのだから、職員の意識も一朝一夕に変わるものでもないだろうと思った。さらに、驚いたのは次のやりとりだ。</p>

<p>――では、2000年に国連で議定書が採択されてから4年間何をされていたのでしょうか。<br />
「厳しい指摘ですね。議定書を実現するための日本国内の法律を整備していました」<br />
――４年間それだけをされていたわけではないですよね。4年前から刑法を改正することなどを検討されていたのでしょうか。<br />
「それだけで4年間かかったのかと言われると厳しいですが、全く検討していなかった訳ではないです」<br />
――今まで積極的に取り締まろうとしなかった、男性買春容認の意識。保護が足りないと言われても保護するということがどういうことか分かっていなかったなどといった指摘をNGOなどがしていますが。<br />
「厳しい指摘ですね。4年前の時点では意識が低かったかもしれませんね」</p>

<p>　いくら海外などから日本は人身売買への取り組みが足りないと言われていても、「いや、前から取り組んでいたんだ」と言うかと思っていたし、実際もう少し取り組んでいるかと思っていた。こんなにあっさり取り組みの足りなさや意識の低さを認めるとは思いもしなかったので拍子抜けした。80年代から問題になっているのに4年前までほとんど何もしてこなかったというのだ。</p>

<p><strong>政府の規制が首を締める</strong></p>

<p>　しかし、興行ビザが問題あるからただ審査を厳しくすれば良いかというと、そうではない。興行ビザでの入国が厳しくなると、それでも経済的理由からどうしても働かざるを得ない女性たちは、偽造パスポートなどを使って非合法に入国したり、違法なブローカーに近づく危険を冒す。「非合法な立場であることが、日本での仕事の初めから、フィリピン人エンターティナーたちの弱みとなった。さらに重要なことは、非合法な立場であることによって、女性たちの移動、身分証明、勤務地に関して、リクルーターやシンジケート側が絶対的支配権をもつことになった」（京都YWCA・APT編『人身売買と受入大国ニッポン』ｐ78～80）。さらに、その厳しい入国審査をくぐり抜けるためにかかるコストを借金として女性に背負わせるというもっと悲惨なことになりかねない。フィリピンにもそういうケースがあるが、タイの人身売買被害女性はほとんどが借金を背負わされている。<br />
　その借金制のしくみを、タイ人女性の電話相談などをしているNGOの代表の方（Tさん）に聞いた。<br />
タイは他の国よりもブローカーの存在が強い。例えば、タイ側のブローカーが偽造パスポートやビザの申請など日本への渡航に関わる手続きを女性に代わってすべてやったとする。その手数料が100万くらいだとしても、利益を得たいブローカーは日本側のブローカー（ボス）に200万で女性を売る。ボスもまた利益を得たいため、女性に400万要求する（これは分かりやすくするために単純化して説明してくれたもので、実際はタイ側にも日本側にももっと多くの人たちが関わっている）。こうしてタイの女性は500万前後の借金を背負わされることになる。この金はブローカーなどが利益を得るために加算されていったもので、女性やその家族は一切もらっていない。貪欲なボスであったり条件によってはもっと高額な場合もある。それを返すのに1年以上はかかる。また、大抵、アパート代、電車代、仕送り代、服代など生活費全般が借金に加算される。全部で950万かかった人もいる。以前は300万くらいで済んだが、今は入国審査が厳しくなって偽造パスポートなどコストがかさむため、どんどん額が上がっており、また、不況で客が少ないのですぐに返せない。「（返済期間は）今後もっと長くなる」険しい表情でTさんが言った。<br />
20年くらい前は、タイの女性もいくらかもらったり、3ヶ月など期限付きでただ働きしていた。ただ働きでも期限が付いてる分借金を返済するまで帰れない今よりずっとましだった。<br />
　いったいいつから借金制に変わっていったのだろう。なぜそうなってしまったのだろうか。「85～86年くらいから変わっていった。分からない。なぜか私も知りたい。日本に古くからあった人身売買のやり方に似てきたんだと思う」。Tさんは言っていた。<br />
　出入国管理が厳しくなってきて、フィリピンのように興行ビザで合法的に入国する手段をとっていなかったタイのブローカーは、次第に増していった渡航にかかる経費を被害者に払わせるようになっていったのではないかと私は思う。</p>

<p><strong>来るもの拒んで去るもの追わず</strong></p>

<p>　では、具体的にブローカー対策はどのようにされているのか。入管職員は「入国審査を厳しくしたり、警察に通報している」と言っていた。しかし、規制を厳しくしたしわ寄せは女性ばかりにきている。1つは、前述の借金、もう1つに入管法や売春防止法などの違反者としての摘発。また、「不法移民に対する警察の取り締まりにも関わらず、法務省の推計による不法残留者数は1992年から1999年まで増え続けている。日本に不法滞在しているのが見つかり、強制退去させられたフィリピン人女性の数も増加傾向にある。このことは、最初に罰せられるのは女性であるが、ヤクザや、日本とフィリピンのその他の加害者たちは相変わらず悪質な女性の人身売買を続けていることを示唆しているといえる」（京都YWCA・APT編『人身売買受入大国ニッポン』ｐ82）。さらに、フィリピン女性被害者が「風俗営業の店はもっと監視する必要がある。雇用主やブローカーなどのネットワークで入管の手入れが入る日は把握されている」と言っていた。実際、彼女のいた店でもそうやって摘発を免れていたようだ。これら入管の対策がブローカーの摘発につながっているとはあまり思えない。入管の主な仕事は入管法違反者を減らすことだからだ。<br />
　「そうですね。むしろ、それ（不法滞在者を摘発すること）が目的ですね。実際ブローカーの摘発がどれだけ進んでるかは分かりません」入管広報の職員がそう答えた。「メールでの不法滞在者の情報受付は単に不法滞在者の摘発数を増やすためのものではないでしょうか」「不法滞在者を摘発することが目的でブローカーや犯罪組織の摘発に有効ではないのではないでしょうか」という質問をした時だった。そもそもブローカーの摘発は入管の仕事ではないので、ブローカーの摘発につながっていようとなかろうと、入管側にとっては重大な問題ではないというスタンスでやっているように感じる。被害者保護についても同様で、つまり、外国人を入れるか、残すか、出すかの仕事の一部で「在留特別許可を与えるか、早く帰りたい人は帰国させる」。<br />
　これは、入管職員個々人にブローカーを摘発する意識がないとか被害者を保護する意識がないと言っているのではない。ブローカーの摘発や被害者保護の話になると、ことあるごとに「私ども公務員の仕事は縦割りでして……入管にできることは……」と説明される。入管にできることはあくまで出入国管理なのだ。それは分かった。ある意味仕方の無いことかもしれない。でも入管が人身取引防止のためにできることはまだある。それはまさに入国管理の仕事で、入管にしかできないこと。でもそれについて質問すると……。</p>

<p><strong>何を頑なに拒んでいるのか</strong></p>

<p>　「単純労働者を受け入れるつもりはありません」きっぱり言われた。入国審査をただ厳しくするというのではなく、認めるという発想の転換はないものか。興行ビザでの違法労働を放置しておくくらいなら単純労働のビザを認めた方が良いのではないだろうか。「フィリピンからの海外出稼ぎといっても、行き先によってその内容と形態はさまざまである。アメリカには医師や看護婦などの高度な専門職の人材を頭脳流出している。またサウジアラビアおよびその隣国には、男性エンジニアや女性の家事労働者を送り出している。シンガポール、香港のほか、ヨーロッパ、アメリカ、カナダなどでも多くの女性家事労働者が働いている。日本に向かうフィリピン人労働者のほとんどが、エンターティナーとして風俗産業で働く女性である」（京都YWCA・APT編『人身売買受入大国ニッポン』ｐ62）。女性たちは他の職業への需要と正規のビザがあれば、風俗産業で働く必要がなくなる。<br />
　なぜ？ 名案だと思ったのに。単純労働者の受入については、社会保障、教育、日本人の労働への影響などの観点から、各省庁が決めている。つまり、入管だけが拒否しているわけでなく私たち日本人の受け入れる体制がないってこと。<br />
　でも、まじめに働く人には単純労働のビザを与えて不法就労を減らした方が治安にとっても良いと思うのだけど。「それは鶏が先か卵が先かって話になりますよね」またきっぱり。返す言葉がなかった。</p>

<p><br />
<strong>２．「何でもない」1日</strong></p>

<p><strong>出会い</strong></p>

<p>　「私の名前はノイ（仮名）です」。彼女と初めて会ったのは上野駅の山の手線ホームだった。それが彼女の13年間の日本滞在、最後の一日だった。病気のためタイに帰国することになり、Tさんと一緒に入管手続きに付き添わせてもらうことになった。</p>

<p>　ホームの先頭車両で待っていると電話が鳴る。Tさんからだ。6両目ほどのところまで走っていくと2人が立っている。ノイさんは北関東にある病院から今日退院したそうで、色々慌しかったのだろう。待ち合わせの時間から既に30分くらいが経っていた。入管との約束の時間が迫っている。軽く自己紹介して既にホームに入ってきていた電車に慌しく乗り込む。電車に乗り込む際ノイさんが「いくつですか？」と聞いてきた。<br />
「23歳です。ノイさんはいくつですか？」<br />
「私おばさんよ」彼女はちょっと躊躇する。<br />
「全然そんな風には見えませんよ」<br />
「37歳」<br />
本当にそうは見えない。デニムにジャージのような上着、ヴィトンのリュックと格好も若いが、やせ細ったその体は中学生くらいにも見える。その歳にしてはあまりにも頼りなく、時折見せる無邪気な笑顔とその細い体を見ていると守ってあげたくなる。37歳と聞いて正直、困惑していた。彼女といると自分がたくましく思える。実際13年半もの間日本で１人で生きてきた彼女の方が何十倍もたくましいのだけれども。一方、そんな私のことが大分幼く見えるらしく、「タイに連れて帰りたい」としきりに言う。<br />
「タイに行ったことありますよ。どの辺に住んでいたんですか」<br />
「Sisaket（シーサケート）県」<br />
シーサケート県はタイの東北部の農村地帯でカンボジア国境付近にある。タイから飛行機でカンボジアに行ったことがある。上空から見ていると、建物の密集したバンコクからカンボジアに向かうにつれだんだんと建物がなくなってくる。農村地帯が広がり、終いには密林が見えてくる。その辺りにノイさんは住んでいた。14年前までは。<br />
　「14年も経ったからもう変わっちゃって私どこに家があるか分からないかもしれない」。彼女はジョークのつもりで言ったのかもしれないが、私は少し複雑な気持ちになった。私がタイに行ったのは3年前だ。彼女よりも最近のタイを知っていることになる。この13年半もの間彼女は一度もタイに帰ったことがない。私は今すぐにでもタイに行くことが困難でない状況にあるというのに。タイとカンボジア一度に両方行った話をすると、「タイの踊りはこうで、カンボジアの踊りはこう」と手で踊って見せてくれる。タイの話をする時の彼女はとても楽しそうだ。<br />
　Tさんは何やら忙しそうに書類整理をしている。電車に揺られながら何気なくその姿を眺めていると、その書類を覗き見てしまった。「アレルギー　205万3725円」と書かれた病院の明細書だ。手術なしの4週間ほどの入院で200万を超える医療費。非正規滞在者には保険が利かない。もちろんこんな大金ノイさんに払えるわけがない。<br />
　品川駅に到着。これからバスで東京入国管理局へ。彼女は歩くことも困難だ。病気のせいで足腰にきているらしい。何の病気だろう。とても重症な病気なような気がして聞き出せない。<br />
バスに乗ると、彼女が「今成田に向かってるんですか」と聞く。「いえ、これから入国管理局に行きます」。彼女の顔がとても心細そうになった。早く帰りたいんだろうな。<br />
　入管前に到着。「出頭申請→」と書いてある入り口に入っていく。彼女も「不法」滞在者だから出頭しなければいけない。不法と言えば不法だから仕方が無いのかもしれないが、出頭というと犯罪者みたいだ。被害者なんだけどな。<br />
　「帰国を希望する不法滞在者の手続きを行う入口です」と書かれたガラス張りの部屋に入る。Tさんが入管職員と何やら話し合っている。周りを見渡すと自分たちを除いて6人くらいの外国人がいる。中国人とバングラディッシュ人のようだ。いつもはもっと混んでいるらしい。以前は入管が水曜休みだったから今も休みだと思い込んでいて出頭する人が少ないそうだ。ノイさんに病気のことを少し聞いてみる。お腹の辺りを押さえて「痛い」と言う。尿を出すのも痛いらしい。<br />
　ノイさんがトイレに行くというので付き添う。トイレから出てきた彼女は、履いていたデニムがきついと言って着替え始めたので手伝う。彼女の足は子供のように細かった。「こっちは14年前に買ったけどもうブカブカ」と、履き替えたデニムのブカブカした部分をつまんで私に見せる。1サイズ以上は小さくなっている。14年前に買ったズボンをこんなにブカブカにして帰って来た娘を見て家族はどう思うだろう。日本に行かせるんじゃなかったと思うだろうか。<br />
　そうこうしている内にTさんに手招きされ、ノイさんが奥の部屋に入る。</p>

<p><strong>取り調べ室</strong></p>

<p>　関係者の話によると、取り調べ室の様子はこうだ。<br />
　2畳ほどのブースに関係者が座って取り調べが始まる。入管職員がブースの入口を背に座り、机を挟んで出頭者本人、その隣に通訳の方。まず、「日本滞在は長いのか」などといった通訳の取り調べ、身分証明書のコピーなどを済ます。ブースには扉はなく他の職員がしばらく出たり入ったりしている。<br />
職員の尋問が始まる。職員が質問すると通訳がそれを出頭者本人の母国語に訳し、出頭者が母国語で答えると、それをまた通訳が日本語に訳す。<br />
――日本に来たのはいつですか？<br />
――違う人のパスポートで来たんですか？<br />
――その時のパスポートの名前は覚えていますか？<br />
――日本に来た目的は何ですか？<br />
――違う国のパスポートはブローカーにお願いしたと思うのですが、どこの国の人ですか？いくら払いましたか？<br />
――給料はもらえるんですか？全部取られるんですか？<br />
――もう返し終わったんですか？<br />
　　（一連の質問が終わると帰国理由など書類に記入させられる。）<br />
――日本に来るのは何回目ですか？不法入国の回数を知りたいのですが……<br />
――日本に来て売春させられることは何も分からなかったんですか？<br />
――日本に来る時のパスポートはどうしましたか？<br />
　（一通り質問が終わり、職員が内容を確認し始める）。<br />
――住所が＊＊ですね。<br />
――生まれたところはどこですか？<br />
――誕生日は19＊＊年＊月＊日で間違いないですか？<br />
　書類確認が終わると、職員が成田空港到着後の説明を始める。「私は不法入国で……」出国審査の時こう言うようにという説明だ。その説明が終わると書類に出頭者本人の拇印を押させる。<br />
　こうして1時間もの取り調べが終わり、出頭者は写真と指紋をとりに行く。これは人身売買被害者者の取り調べの一例で、男性や人身売買被害者以外の人たちはもっと厳しくやられていることもあるようだ。関係者の話では、「見え透いたウソをついちゃいけないよ」「事実を言わないとダメ」などと何度も注意されている中国人男性もいたらしい。</p>

<p><strong>13年半もの日本での生活</strong></p>

<p>　ようやくTさんとノイさんが取り調べを終えて出てきた。入管側の手続きに1時間くらいかかるらしい。その間、入管の中のコンビニで弁当を買って出頭申請の待合室で食べることにする。この時間は出頭申請も受け付けないので待合室は警備員と私たちしかいない。しーんと静まり返ったその部屋に3人の声が響く。警備員の視線も突き刺さる。<br />
＜家族について＞<br />
　両親と（自分を入れて）6人兄弟。姉・兄・自分・弟・妹・弟と6人兄弟の3番目。日本に来る時働いていたのは私だけ。他の兄弟は皆学生だった。今は、姉は歯医者をしており、弟は畑仕事をしている。<br />
＜日本に来ることになったきっかけ＞<br />
　バンコクの飲食店で出稼ぎで働いていた。月給2500バーツ（約7500円）だった。タイ人のお客さんに「日本で働きませんか。知ってる人紹介してあげますよ」と誘われた。タイの給料低いから「行く」と返事した。日本に来る手続きや住むところなど全部手配してくれた。日本にいつ行けるか分からなかったから家族に知らせていなかった。日本に来て１ヵ月経ってから家族に知らせた。<br />
　ホステスの仕事で借金があることも知らされていた。「日本に来たら350万返さなきゃいけない」と言われた。借金は3～5ヶ月で返せると言われていた。売春させられることは知らなかった。<br />
＜どのように来日したか＞<br />
　短期滞在のビザで来た。夫婦に見せかけたタイ人女性と日本人男性（おそらく彼らもブローカー）と一緒に、2人の知り合いのふりをして入国した。手続きはほとんどこの日本人がやってくれたから特に何も聞かれないし、疑われなかった。空港から店へはまた別の人が連れて行った。パスポートは顔写真だけ自分のものだった（そう言いながら彼女はメモを見せる。偽りのパスポート名はKというらしい）。そのパスポートは取り上げられてしまった（「もしかしたら他の人に転売されて使われているかもしれない。本人は分からない」とTさんが説明する）。<br />
＜住居＞<br />
　ボスが手配したアパートに住んだ。１部屋に12人で暮らした。全員タイ人女性で同じ店で働いていた。<br />
＜借金＞<br />
　350万円に、アパート代月3万＋食事代3万＋服代など全ての経費が加算され、（最終的に）いくらかはっきり分からない。悪いボスは倍で返させたりするが、自分はそのまま返せば良かった。返すのに１年かかった。別のタイ人女性の知り合いで300万返したのにまた売られて借金という話を聞いたことはある。私のボスは割合良いボスだった。<br />
＜仕事＞<br />
――日本に来て何の仕事をしたのですか？<br />
　スナック。空港から店に連れて行かれた。東京から茨城に行った。そこは17人の従業員がいた。<br />
――強要されたことはありますか？その店で。外に出るなとか。<br />
ボスはそれほど厳しい人でなかったが、（日本に来て）どこも分からなかったので外に出なかった。借金もあったし。<br />
――お客さんから嫌なことをされたことは？<br />
　お客さんがする訳ではなく借金返してほしいからボスが無理矢理同伴に行かせたりした。給料はもらえなかった。売春させられて全部取られた。<br />
――ずっと同じ店にいたんですか？<br />
あちこち。茨城県の＊＊から別の店に移った。<br />
＜借金返済後の生活＞<br />
　10年前は人手が足りなくて仕事がすぐに見つかった。借金を返済したらその店をやめて、布団屋で7年働いた。500～600枚布団詰める仕事で時給700円だった。長く勤めたら時給750円になり、夕方からは1000円だった。その後、団子屋で3年働いたが、そこはつぶれてしまった。時給600円だった。自分でアパートを借りて、日本人の彼氏と住んでいた。それから、今年（2004年）入院した。</p>

<p>　ここでずっと気になっていた病気のことを聞いてみる。医師からの書類には「この病気は病状が激しいため、これ以上日本にいるとタイに帰れなくなります。今週中なら比較的安定しているから帰れます」と書いてある。去年（2003年）の7月か8月から体がだるく、今年（2004年）の8月頃に本格的に具合が悪くなったという。<br />
　「子宮ガンです」。その言葉と、今日目の当たりにしてきた、歩くのも困難な彼女の状態と、そのやせ細った体とが一気につながって頭を駆け巡る。あぁ、私は。彼女の様子が尋常でないと思いつつも、何と愚かな質問を用意していたのだろう。慌てて質問を呑みこむ。「タイに帰ったら何をしたいですか」「また日本に来たいと思いますか」。病気といっても治ればまたタイで働くことができるのだろうと軽く考えていた。しかし、今の彼女にこの質問をするのはあまりにも残酷のような気がする。それでも「次の質問は？」などと聞いてくれるのが余計につらい。病気について聞きたいことは沢山ある。手術もできなかったという。もしかしたら余命宣告されているかもしれない。そんな彼女に対して何て質問したら良いのだろう。何を言えば良いのだろうか私は。そんなことを考えている内に「バングラディッシュの～～さん。タイのノイさん」と呼び出される。気付けばもう1時間半近く経っていた。再び、ノイさんとTさんが奥の部屋に入っていく。</p>

<p><strong>買春と売春と</strong></p>

<p>　混乱した頭を整理したい。彼女は日本に来る前にホステスの仕事であることも借金があることも知らされていた。3～5ヶ月で返せるとも言われていた。「承知して来ている……」。電話取材に応じてくれた入管職員のコメントを思い出す。<br />
　勝手な計算だが、350万の借金に生活費全般が上乗せされて最終的には1年で500万くらいになったとする。彼女が働いていた店のホステスの日給は5000円だったという。日給5000円で、例え毎日働いたとしても年間182万5000円だ。単純にホステスとしての仕事だけをしていたら返すのに3年近くかかる。「借金返してほしいからボスが無理矢理同伴に行かせた」と彼女も言っていたように、どうしても売春しなければいけなかったのだと思う。「売春1回で3万円が相場」だと、Tさんが言っていた。3～5ヶ月で返すには毎日1～2回は売春しないといけない。こんな説明を彼女がされていたとは思えない。「毎晩お客さんの隣に座ってお酒を注ぐだけで良い。借金は3～5ヶ月で返せる。2日も働けばバンコクの飲食店で働いていた時の月給（約7500円）を優に越える」。そんな風に誘われたのではないだろうか。そういえば、駅前で配っているポケットティッシュにもそんなことが書いてある。「数時間で1～2万円」だとか。それを見て、「お金ない時本気でやろうと思った」と言っている友人もいた。現に働いている子もいる。説明を聞いた時のノイさんもそんな日本人の女の子と同じような気持ちだったのではないか。</p>

<p>　なぜか動悸がしていた。計算しながら自分で手が震えているのにも気付いた。その時は警備員に見張られて緊張しているせいだろうと思っていた。けれど、今考えると腹が立っていたのではないかと思う。自分で計算しておきながら毎日1～2回売春しなければいけないことを想像するとショックだった。（今計算してみると、1年で返済するなら週に2回売春させられたことになる。しかし、「前借金の返済中は女性たちに現金収入はなく、客からのチップを貯めて国の家族に送金する女性も少なくなかった。客が払う売春代金はショート（休憩）で2万～2万5000円、泊まりで3万～3万5000円が相場である。このうち5000円程度を経営者が取り、残りが『借金の返済』にあてられた」（京都YWCA・APT編『人身売買受入大国ニッポン』ｐ56）というように1回3万とは限らない。また、家族に仕送りするためにもっと稼ごうとしたかもしれない。そうするとやはり、毎日だった可能性もある）。<br />
　そんな説明もされずに日本に連れて来られたというのに多くの日本人からは承知で来ているのだろうと思われる。挙句の果てには病気になって帰ろうとすると何時間も取り調べを受けさせられる。それでも彼女は日本に来たことを後悔していない。家族に自分でもいくらか分からない程の仕送りをし、家を建て、車を買い、兄弟を学校に出してあげたことを、むしろ誇りに思っている。じゃあ、だからと言って彼女が納得していればそれで良いのか。そんな状況に私は苛立ちを覚える。でも入管の対応や日本人の認識不足に苛立っているのではない。それもあるけど、私の苛立ちのマグマとなっている部分は、買春という風俗産業の市場の大きさである。売買春の是非を議論すればそれだけで2万字を優に超えてしまうだろう。個人攻撃や不毛な論争にもなりかねない。ここで離れてしまう男性読者がいても困る。でも、何度考えてもどうしても行き着いてしまう。<br />
　日本の市場の中で買春がなくならない限り、外国人女性の人身売買もなくならないと思う。需要がなければ、利益の得られないような商売からはブローカーも手を引くだろう。私の出会ったNGO関係者も「性の売買に対し、犯罪としての意識ない」「日本に大きな市場があるから女性を供給していくシステムがある」「根本的解決は需要をなくすこと」「女性の売春に厳しい割に男性の買春は容認している」などと指摘をする人は多かった。いくら金を払えば何でもできる時代であっても、そんなことまで売買しなくても良いのではないかと私は思う。でも、果たして世界最古の職業とされる売春をなくすことができるのか。商売人にとってはこんなおいしい商売はないのだろう。売春権を主張する女性だって沢山いる。「彼女たちだって被害者かもしれない。買う人がいなければ……」とアジアの女性と子供ネットワーク事務局長の山本さんは言う。<br />
　私が考えていることは不可能なことなのだろうか。馬鹿げていることなのだろうか。どうかそんなの馬鹿げていると思わずに。一度真剣に考えてみる価値はあると思う。倫理の問題だから、よく考えてみれば売買春ておかしいよねと言える社会には変えられると思う。売春ツアーに行っても上司に「私はやりません」と言える社会に。例えパートナーがそういうことをしても文句を言わないのが美徳とされていることにおかしいと思える社会に。Tさんにこんなことを言われたことがある。「あなたの家族がもし会社で売春ツアーに行ったり、風俗店に行ったりして、上司に『私はやりません』と断れる社会だと思う？今の日本が。出世に影響するでしょう」。自信を持って「はい」とは答えられなかった。以前、山本さんがこんなことを言っていた。「旦那が東南アジアに行くので、コンドームを持たせる奥さんが日本では評価されている」。そんなことが美徳と考えられているのはおかしい。しかし、私も他人事ではない。事実、こんなこと書いたら「何なのこの女」と思われるんじゃないかという不安を拭い切れてはいない。こういうことを大きな声で言うとフェミニストか何かと思われるらしい。<br />
　人身売買について調べている時「女性の人権について主張してるんでしょ」と言われたことがある。何だそれは。売買春に疑問を感じたり、人身売買を問題視することは「女性の人権」を「主張」することになるのだろうか。それではまるでこの問題が男性には分からないことが前提とされているみたいではないか。そんなこと言っていたらいつまで経っても男性がとっつきにくい問題で終わってしまう。この問題が女性の人権を声高に叫ぶ女の戯言という程度の認識で終わってしまうのは怖い。男女に関わらず、思考がそこでストップしてしまうのは避けたい。これは女性VS男性という問題ではないと思うから。<br />
　私自身、この問題に関心を抱いている男性は少ないだろうし、女性の共感を得るのは簡単だろうけど、男性の共感を得るのは難しいかもしれないと思いながらこれを書いているのは確かだ。以前、「こないだタイで3人の少女とたった300バーツ（約900円）で……」という広告メールが携帯電話に入ってきて、送信主を突き止めてやろうと思ったくらい腹が立ったことがあった。「安い」、「癒し」などという謳い文句が書かれた児童買春広告メールを始めとして大人の買春広告や行き過ぎた出会い系サイト広告も含めると1日に何百通も来る。それらは全部男性が書いているとしか思えないと思ったのも確かだ。<br />
　でも男性だって買春に違和感を持っている人もいるはず。人身売買について勉強している男の子をシンポジウムでも見たし、NGOの男性スタッフとも話をしたことがある。彼は女性の人権を擁護している訳でも何でもない。男の立場から考えたり、ジェンダーを意識したことはないと言っていた。私の意見とはちょっと違うけど、こんなことも言っていた。「買春をなくすのは不可能だろうね。なくならないならそういった人たち（セックスワーカー）の地位がもっと認められても良いと思う。（男女）どちらが悪いとかではなく、日本人一般の（アジアに対する）考え方も問題。そうやって生まれてきた（人身売買被害女性、あるいは売春ツアーで現地女性との間に生まれた）子どもたちに責任を果たしてほしいからこの問題に取り組んでいる」。そういう普通の感覚の男性が問題に取り組んでいるのが良い。「外国人のいる病院やレストランには行きたくない」などと言いながら、外国人ホステスを同伴して歩いている中年男性に腹が立ったことがあるので、こういう男性意見を聞けて嬉しかった。この問題に関心を持つ普通の人が増えていけば、ジェンダーの敷居が低くなれば、良いなと思う。</p>

<p><strong>別れ</strong></p>

<p>　奥の部屋からノイさんとTさんが出てきた。30分しか経っていないけれど、もう随分と長い間そこで待ち続けていたような気がする。<br />
　タイ大使館の男性職員が迎えに来て、4人は重たい空気の流れる待合室を後にする。乾いた入管の対応とは相反して外はどしゃ降りの雨。容赦なく私たちに降りつける雨から逃げるようにして大使館の車に乗り込む。<br />
　これで良いのだろうか。窓に叩きつける雨を見ながら何度も考える。このままでは何も変わらない。今日入管の対応を目の前で見て強く感じた。あぁやっぱり入管の仕事はこれだなと。ただ人身売買を罰する法律を作ったからとて何が変わろうか。入管が被害者に対してできることは「在留特別許可を与えるか、強制退去させる」ことだ。新しい法律ができてもそれは変わらないと入管側も断言している。ならば何のために法律を作るのか。入管として、被害者が出てしまってからの対処ができないのであれば、出ないようにするところでもっと対策を練る必要があるのではないか。そうでなければ法律を作る意味がない。<br />
　その対策の1つに単純労働ビザを認めることがあると思う。単純労働の正規のビザが認められればブローカーを頼って不法に入国せずとも日本で働ける。借金を背負わされてホステスの仕事をさせられることもない。彼女たちは好き好んでホステスをしている訳ではないのだから。彼女だって借金返済後は布団屋と団子屋という仕事についている。今、東京に25万人いるとされている不法滞在者も単純労働ビザがあれば正規滞在になる可能性もある。入管側の不法滞在者を減らすという目的も達成する。不法が減れば、不法滞在者に不安を抱く人々も安心する。なぜ頑なに単純労働者を拒否するのだろう。それは入管が拒否しているのではない。私たちが受け入れる心の準備ができていなければ、単純労働ビザを認めてもまた新しい悲劇が生まれるだけかもしれない。もどかしい。<br />
　おそらくうつろな顔で考えていたんだと思う。彼女が「ごめんね」と私の顔をのぞきこむ。「何でですか」。「3人でタイ語で話しているからあなたを1人にしてしまった」。彼女は優しい。そんなことまで気遣ってくれる。朝から今まで何度も彼女に「ごめんね」と言われた。病気の彼女が1番つらいはずなのに、私が疲れていないかよく心配してくれた。<br />
　もやもやとした気持ちのまま目黒にあるタイ大使館に到着する。立派な建物。そこに入って行くのかと思ったら、横にある小さなプレハブの建物へ。中には机がぎっしり並べられ10数人の職員が働いている。どうやらここが事務所のようだ。奥の部屋でタイ人の精神科医と看護婦が出迎える。席につくと、いきなりタイ語でやりとりが始まる。タイ語なんて「サワディ カ（こんにちは）」と「カップン カ（ありがとう）」くらいしか知らない。面食らって間抜けな顔をしていたのだろう。途中、英語で自己紹介してくれたのでこちらもする。だが、再びタイ語でやりとり。そういう訳で何を言っているかはちっとも分からないが、病気について話しているのは確かだ。Tさんが「カウンセリングをしている」と教えてくれた。<br />
　1時間を越えるカウンセリングが終わると、ノイさんが私を見て言う。「今日はありがとう。私のために」。彼女の言葉は思いがけなかった。「私こそ話を聞かせてくれてありがとう（ございました）」最後まで声が出ない。彼女から得たものは沢山ある。自分は話を聞くばかりで彼女に対しては何もすることはできなかった。それでも申し訳なさそうにまっすぐこちらを見ている。彼女の手を握ったが、胸がいっぱいになって目を見ることができない。その手は握り締めたら折れてしまうのではないかと思うくらい細い。そして、冷たい。その冷え切った体とは裏腹に彼女の心の温かさは痛いほど伝わってくる。兄弟の学費のために少しでも多く稼ごうと日本に来た。借金を返すために売春もさせられた。その結果病気になったことも後悔していない。そしてこんな私にも感謝する。そんな優しさが。……なぜ彼女がこんな目に？ いや、思いやりのある彼女だからこそこんな目に遭ったのではないか。<br />
　彼女を大使館のすぐ近くのホテルに送り届ける。一晩ここに泊まって明日タイへ出国する。被害女性はシェルターに泊まるのが普通だが、彼女の場合重い病気だから</p>]]>
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<title>『犯罪者の仮面を被らされた者たち　Vol．2』遊佐春奈</title>
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<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-03-22T01:37:20Z</issued>
<id>tag:www.journalistcourse.net,2005:/blog/1.23</id>
<created>2005-03-22T01:37:20Z</created>
<summary type="text/plain"> はじめに 　ある日の夕方、近所のスーパーに向かう途中、前を歩く女性２人を追い越した。フィリピン人女性だった。近所のアパートにフィリピン人女性が数人で住んでいて、フィリピンパブで働いていることは知っていた。夕方、ミニスカートを履いた彼女たち...</summary>
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<name>遊佐</name>


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<dc:subject>修了課題</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.journalistcourse.net/blog/">
<![CDATA[<p><br />
<strong>はじめに</strong></p>

<p>　ある日の夕方、近所のスーパーに向かう途中、前を歩く女性２人を追い越した。フィリピン人女性だった。近所のアパートにフィリピン人女性が数人で住んでいて、フィリピンパブで働いていることは知っていた。夕方、ミニスカートを履いた彼女たちを黒塗りの車が迎えに来ることもしょっちゅうだった。<br />
　しかし、その日は様子が違っていた。スーパーから帰る途中、まずパトカーが目に入った。そして、数メートル先で、警察官に連行される先ほどの女性たちとすれ違った。警察官はタガログ語で何やら質問しているようだった。<br />
　近所にフィリピン人女性が住むようになって10年くらい経つが、こんな光景を見かけたのは初めてだった。フィリピンパブで働くエンターティナーたちの取り締まりは確実に強くなっている。それでも、興行ビザを厳格化し合法的な単純労働のビザを発給すればフィリピン女性のためになる、女性たちが合法的な職に就くことができるなら取り締まりもやむを得ないのかもしれない、と思っていた。ハニーとアキに会うまでは。</p>]]>
<![CDATA[<p><strong>１．立ちはだかるのは需要の壁</strong></p>

<p><strong>フィリピンパブ</strong></p>

<p>　偶然にもその２日後、私は彼女たちの働く現場を目の当たりにすることになった。<br />
　西葛西の駅を降りるとすぐにいくつかの店が見える。フィリピンパブは亀戸などの総武線沿い、浦安・葛西など千葉エリアに多いらしい。さらに数分歩くと、目的の店の前に到着する。しかし、その店は閉店になっていた。つい２週間前までは普通に経営されていたらしいのだが。その店は入管の審査もパスした「優良店」だった。</p>

<p>　入管と警察はフィリピンパブへの摘発行動を強化実施中だ。「優良店」とは自粛対応店のこと。つまり、次のような対応をしている店のことだ。フライングブッキング（タレントの不足などのため、契約と違う店に飛ばされること）のタレントを契約通りの店に戻す（あるいは強制送還）。ARB（アーティストレコードブック：芸能人登録手帳）、パスポートをタレント自身に携帯させる。招聘事業者全国連合会とフィリピン業界団体（CALEA）との間で「同伴をやめる。ショーの完全実施。守られない場合フィリピンからのOPA（海外パフォーミングアーティスト）を送らない」との合意を交わす。<br />
　その一方で開き直り店もある。このような無許可店はタレントのランナウェー（逃げ出した人）を受け入れている。つまり、より非合法な雇用が多く危険で、入管の手も届かない。「本来はこのような店の取り締まりに力を集中すべき」と、20年くらいフィリピンの移住労働者の支援に関わっているフィリップ佐々木先生は言う。そんな中、優良店ほど経営が悪化し、潰れていくそうだ。同伴禁止は店側にとってかなりの痛手なのだろう。同伴が禁止になって稼げなくなったから辞めていくエンターティナーたちも多いのだという。<br />
　そういえば、この日、フィリピンパブに来る前に行ったフィリピンレストランは、以前はペイバック（同伴の際、食事などに利用させてフィリピンパブ側から何割かもらう）対象の店だったそうだ。そのレストランのオーナーとその奥さんはいかにも元客とホステスだ。フィリピンパブの近くのホテル、カラオケ店、レストランなどは、ほとんど同伴で儲けていたのだそう。同伴禁止の痛手はこれらの店にも波及しているのだろうなと思う。</p>

<p>　仕方なしに予定していた店と同じビルの他店に向かう。DAWN－Japan（フィリピンの女性移住労働者支援団体）のスタッフ、大学院生、フィリップ先生、テレビ局のディレクター、フィリピンの歴史研究家、近々NGOを設立しようとしている方、私、と職種もバラバラな上、極めて女性比率の高い、フィリピンパブの客として似つかわしくない奇妙な集団が、男１女２の３グループに別れて、いざ入店。</p>

<p><strong>何のためのお墨付き？優良店の謎</strong></p>

<p>　店内に入るとチャゲ＆飛鳥の「YA－YA－YA」が大音響で歌われている。辺りを見渡すと、なるほど、これを歌いそうな世代が客層だ。おそらく30代。フィリピンパブ＝中高年のおじ様というイメージがあったので、これはちょっと意外だ。私たち以外の客はその30代と思われるサラリーマン風の２グループ（どちらも数人で仕事仲間と来ている様子）と、中年の恰幅の良いおじさんと、どう見ても大学生と思われるメガネの青年、の４グループだ。土曜の夜だというのに人が少ない気がするが、これでも多い方なのだそう。<br />
　席に着くと３人のフィリピン女性たちがやってきた。こちらも３人。１人ずつ隣に座って接客を始める。彼女たちは肩の開いた真っ赤なロングドレスを着ている。いや、ドレスというより、大きな布を湯上りにバスタオルを巻くような感じで巻いたらこうなりましたというような装いだ。それが制服なのだろう。どの女性も同じ格好をしている。<br />
　ドリンクを注文すると、３人が「お水が欲しい」と言う。どうやら彼女たちの分の酒が欲しいという意味らしい。あいにくこっちは貧乏取材でそんなに大枚叩く気がしない。景気の悪い客で申し訳ない。そう心の中で呟きながら断ると、仕方なしに立ち上がって、グラスに水を入れて戻ってくる。客が酒を注文してくれないと彼女たちは本当に水しか飲ませてもらえないのか。本当に申し訳ない。<br />
　私の隣に座った女性は色白で中華系の顔立ちをしている。彼女の名は「ハニー」。25歳。他の客は相変わらず懐かしい歌を熱唱しているか、英語の歌をフィリピン女性とデュエットしている。懐かしいと言っても、私がまだ生まれていない時代か幼少期に流行った歌、懐かしいという感覚すら私にとっては薄い歌。メガネの青年はさっきから英語の歌を熱唱しているのだが、隣に付き添っているフィリピン女性はとてもつまらなそうだ。マイクのコードを持って、退屈そうに客席を見ているから目がよく合う。青年は1人で酔いしれている感じ。そんな妙な空間で、隣に座っている女性と自己紹介し合っていると段々感覚が麻痺してくる。<br />
「日本に来てどれくらいになるんですか」<br />
「３ヵ月くらい」<br />
彼女との会話が吉田拓郎の「結婚しようよ」を大音響で歌う声にかき消される。<br />
　そうこうしている内にショーが始まる。スタイルの良いダンサーが、先ほどまでカラオケに使われていた舞台に勢いよく出てきて踊り出す。ラメの入った水着だか下着だか分からないものに黒い透け透けの半そでシャツを羽織っただけの格好で。これが例の入管の審査をパスするためのショーだ。<br />
ところで、この入管の審査の基準がよく分からない。「ハニーさんも踊ったりするんですか」と聞いてみる。「いいえ、私は踊れません」。「？？」。いくらショーを毎日やろうが、ダンサーや歌手など興行ビザに合った労働をしている人がいようが、ダンサーでも歌手でもない、接客業務だけをやっているホステスが事実こうやって私の隣で接客をしているのだから、審査に意味はないのではないだろうか。その審査が本当に「契約と違う仕事をしているエンターティナーたち」を雇っている店を摘発する目的で行われているならば。<br />
　確かにショーで歌っている女性は先ほどのカラオケとは違って上手い。厳しい倍率を通過した、興行ビザの本来業務に就ける一握りの人材なのだろう。フィリピンの民間エンターティナー養成・斡旋業者の1つ、Empire Internationalには、ほぼ毎日、日本から斡旋業者や出演店オーナーがやってきて50人ほどの女性を対象にオーディションを行い、その中から３人ほどが選ばれる。しかし、そのほとんどが「容姿」のチェックに過ぎないのだという。日本人プロモーターによるオーディションを受ける前に、TESDA（技術教育・技能開発庁）による資格試験を受け、合格者にはPOEA（海外雇用庁）よりARBが発行されることになっている。しかし、一連のプロセスの中で、偽造ARBの発行や試験での不正といった違反行為が、大量の金のやりとりを介して横行しているという（「人身取引対策行動計画」では、興行ビザ取得条件からこの政府発行の認定資格ARBを削除することになった）。また、受験料1人1300ペソ（日本円で約2600円）を払えば２回までチャレンジでき、２度落ちた人は再度１ヶ月トレーニングを受けて挑戦できる仕組みになっている。つまり、本来業務に就くための倍率は高いが、ある程度の容姿と訓練を受ける金があればエンターティナーにはなれるということ。<br />
　ハニーさんは歌を歌うのが苦手らしい。もともとプロのタレントだけを受け入れていた頃（1980年）は、フィリピンから日本へ来るエンターティナーの数は１万3407人だった。それが今の8万48人になってもタレントの需要は変わらないであろうから（実際、この店でもホステス20人くらいに対して、ショーの出演者は３人ほどしかいない）、ハニーさんのような歌も踊りも上手くないという女性は、タレント業務以外の仕事、つまり、接客業務中心のホステスの職に就くことになるというのは簡単に分かりそうなこと。<br />
　店に来る前にフィリピンの放送局ABS-CBNが制作したドキュメンタリー『Japayuki』を見た。エンターティナーの実態（資格取得のための訓練から働くまで）を追ったものだった。これはフィリピンで実際に放送されたもので、多くのフィリピン人が見ている。だが、エンターティナーとして日本で働くことを目指すフィリピン女性のほとんどが、ホステスの仕事をさせられることもあることを知っていても、自分はタレントだから自分には起こらないことと思っているという。</p>

<p><strong>ハニーとアキ</strong></p>

<p>　ハニーさんが日本に来たのは５回目。今回は３ヶ月ビザで来て今月（12月）フィリピンに帰るのだそう。「フィリピンでクリスマスやるからね、そうじゃなかったらもっといたいけど」と言いつつ、「2000年、200１年、2002年、2003年、クリスマスもお正月もフィリピンに帰ってない」、「クリスマス前に帰れる、うれしい」と、本当はとても嬉しいのだと思う。日本ではディズニーランド、チャイナタウン、上野に行ったことがあるそうだ。日本での仕事は別につらくないと言う。「フィリピンには仕事ないから、フィリピンの人はみんな心が良いから家族のために働く」と彼女は力強く言う。そこまで言い切られると返す言葉がない。<br />
　アキさんは「アナタ春ね、ワタシ秋ね」と陽気に話す気さくな人。初めて日本に来たのは１7歳。それから、10年の間に６回もエンターティナーとして日本にやってきた。その間、平塚や足立区でも働いたことがあるそうだ。エンターティナーたちは皆スタイルが良いが、比較的ふくよかな彼女は、「Ｄカップ」と自分の腹をつまんでおどけて見せる。そんな彼女も「初めて（日本に）来たとき日本語全然分からなくて毎日泣いた」、「お客さんが胸を触ってくるのでヌーブラをしている」と、時折哀しそうな顔をする。<br />
　フィリピンからのエンターティナーにはゲイの人もいる（女性エンターティナーと同じようなプロセスで日本に入ってくる）。この店と同じフロアにオカマバーがあり、オーナーが同じだという。２人も初めの２ヶ月はその店で働き、今の店に移ったのだそうだ。</p>

<p><strong>予想と現実</strong></p>

<p>　彼女たちは話をするより、カラオケをすることを要求してくる。「何か歌って～」。話の途中で何度もせがまれた。場を持たせるのが大変なのだろうか。聞きたいことの核心に迫る前に45分が過ぎてしまった。この店は45分で1人2000円。先ほどの30代サラリーマン風の人たちは既に帰っていた。22時くらいに帰ったから19時くらいから来ていたと勝手に想定して、３時間普通に飲んだだけだと１人6000円。フルーツの盛り合わせが3000円くらいだったから何か食べたとしても1人1万円を切る。バブル期だと一晩で1人3～4万円以上は使っていたという。今は１セット3000円が相場だが、バブル期は8000円から1万8000円くらい。レディスドリンクもおつまみも今は客次第だが、昔は客がコントロールできずタレントの言いなりだった。中には3～4人の女性を同伴して同伴料2万円、居酒屋で飲んで、食べて2万円、1回で10万円なんていう人もいたという。フィリピンパブにはまってしまうと、3～6ヶ月（お気に入りのタレントが働いている期間）に2～3百万円、店に落ちる金額だとして店長たちは皮算用をしていた。例えば人気のあるタレントは6ヶ月の間に常連さんを5人ゲットしたとすると1千万円くらいの売り上げになる(この場合、彼女の給料は30万円くらい。店は120万円は払っているが、仲介業者に取られる）。売り上げが３分の１以下に下がった挙句、同伴が禁止になれば、それは優良店が潰れていくのも無理ない。<br />
　フィリピン訛りの「どうもありがとうございました～」というにぎやかな声に見送られて外に出る。</p>

<p>　フィリピンパブからの帰り道、私は混乱していた。その晩泊まる予定の潮見教会に到着しても気持ちは晴れなかった。<br />
　以前、日本でホステスの仕事をしていたタイ人女性に会ったことがある。350万円もの借金を背負わされていた彼女は、いわゆる人身売買の被害者だった。タイの女性は単純労働のビザがあれば日本でホステスではなく、その仕事をしたいのだという。実際、彼女も借金返済後は布団屋や団子屋という仕事に就いていた。そんなことから、フィリピンの女性もタイの女性と同様、ホステスの仕事ではなく他の仕事がしたいのだと思っていた。<br />
　ところが、フィリピンパブで出会った彼女たちは、タイの女性とは明らかに様子が違っていた。現に５回も６回も来ているハニーとアキは仕事内容を知らないはずはない。仕事に必ずしも満足しているわけではないが、家族のためには仕方が無いと完全に割り切っている様子だった。フィリピンのエンターティナーは借金もなく、外国人ホステスの中では待遇が良い方だという。外国人ホステスの待遇は、欧米・中国・韓国出身者が良く、次のランクがフィリピンで、タイなどその他の東南アジア諸国出身者はその下の最低レベルの待遇を受けているのだそうだ。同じホステスの仕事を経験したタイの女性とフィリピンの女性で様子が違っていた所以はそこにある。単純労働が認められても仕事がきつくてホステスの仕事に戻るかもしれない。そうなった時、もし興行ビザでの入国が制限されていたら……。そうなればタイの女性のように借金を背負わされたりということにもなりかねない。</p>

<p><strong>現実味を帯びて行く……</strong></p>

<p>　そんな、単純労働者受け入れが必ずしも人身売買の解決に直結するとは限らない、全ての女性移住労働者のためになるとは限らない、と思い始めた頃のこと。おりしも、政府は「人身取引対策行動計画」を練っていた。その中には「人身取引を防止するための諸対策の推進」として、「興行」の在留資格・査証の見直しが挙げられている。３日後（2004年12月7日）には策定された。<br />
　2004年10月にはマニラで行われたフィリピンとの自由貿易協定（FTA）第５回交渉で日本政府が看護師・介護士受け入れに関して在留期間制限を事実上撤廃する方針を示した。11月にはラオスで行われた２国間協議（EPA）にて、とりあえず200名（介護士100名、看護師100名）の労働者受けいれを合意している。<br />
　フィリピンでは既に200以上の許可を受けた業者があり、約8万人が介護士・看護師を目指して勉強しているという。構造はエンターティナー派遣と同じで、エンターティナー派遣時のプロモーター、店、ブローカーが、それぞれ、訓練機関、介護センター、派遣業者になっただけだ。先ほど紹介した民間エンターティナー養成・斡旋業者Empireでも、エンターティナーに引き続いて現在、日本向けの介護労働者の養成にも力を入れ始めている。しかし、「エンターティナーの送り出しはやめない」。DAWN－JAPANのスタッフがEmpireを訪問した際、代表のNieva氏はそう断言していたという。</p>

<p><strong>そして振り出しに戻る</strong></p>

<p>　翌日、明け方５時まであれこれ考え、もやもやした気持ちのまま、目黒教会CTIC（カトリック東京国際センター）事務所のアグネス・ガットパタンさんに会いに行った。CTICはカトリック東京教区が運営している外国人のための相談支援センターだ。大使館に行くよりも身近な教会で相談を受けるために設立された。事務所はフィリピン人が多く住む目黒、亀戸、千葉にある。<br />
フィリピンの女性たちは合法的な単純労働のビザがあればその職に就きたいのか、聞いてみた。CTICに相談に来るエンターティナーたちも可能なら昼の仕事を希望しているそうだ。しかし、ある女性がホステスを辞めてベットメーキングの仕事をしていたが、大変だから知人に誘われて夜の仕事に戻っていったという話もあるという。<br />
　では、介護士・看護師として日本に来た場合も、ホステスの仕事に戻るのだろうか。年輩の人は戻らないだろうが、若い人は夜の仕事に戻るかもしれないという。例えば、札幌のフィリピンパブでは、興行ビザでの資格外労働が取り締まられたために、日本人と結婚・離婚した女性が働いているそうだ。このことは、興行ビザでの入国を制限しても日本にいる人（日本人の配偶者など）はフィリピンパブで働く可能性があることを示唆している。「不法で残る人も出るかもしれない」とアグネスさんは言った。<br />
　合法的な単純労働ビザの発給が人身売買の解決につながるという考えが覆されて、振り出しに戻った感じだ。何がフィリピン女性のためになるのか分からなくなってしまった。でも、そんな女性たちの境遇を利用して、金儲けする人たちがいるわけで、それを許容するわけにはいかないと私は思う。今回行ったフィリピンパブは、たまたま優良店だったから待遇も悪くなく、リピーターのエンターティナーも多かった。しかし、フィリピンでリクルートするプロモーターたちは初めての人を狙うという。入管の手の届かない開き直り店もどのくらいあるのか不明だ。<br />
　だからと言って興行ビザ発給の厳格化と介護士・看護師の受け入れをすべきでないと、ここで言いたいのではない。ただ、日本の買春市場の大きさが変わらない限り、新たな悲劇を作り出しかねない。興行ビザ厳格化と介護士・看護師受け入れで、新たにフィリピン人エンターティナーを2003年実績8万人から10分の1の8000人にするという。エンターティナーが数としては減って、早期に人身取引対策が成功したかに見せかけるにはちょうど良い政策かもしれない。日本政府が人身売買対策に本腰を入れるきっかけとなった、2004年6月に米国務省が出した人身売買に関する年次報告書での「監視対象国」からは、早期に抜け出せるかもしれない。しかし、その奥に潜む闇の買春ビジネスによって生み出される被害者のことまで考えないと成功したとは言えない。<br />
　警察庁生活安全局生活環境課で、人身取引対策に携わっている方に「日本の市場の中で売買春がなくならない限り人身売買もなくならないと思うのですが」と聞いてみた。「需要の問題がある限りなくならないでしょうね。あと教育の問題ですかね」。警察がどんなに摘発してもこればっかりは「需要の問題」としか言い様がない。<br />
　しかし、買春を無くすなんて口で言うのはたやすいけれど、実際やるとなると、それを望んでいない人の多いこと。男女問わず。「最終的には売買春がなくなることが理想だけど、それまでせめて性産業で働く女性たちの地位を向上させるべき」とDAWN－Japanのボランティアスタッフの方が話していた。待遇が改善されれば今の状況よりはマシになるだろう。それでも、2002年に海外出稼ぎをしたフィリピン人エンターティナーが7万3685人、そのうち日本以外の国へ向かったのはわずか439人（フィリピン海外雇用庁調べ）。この数から、日本における需要の大きさの異様さを認識してほしい。日本人の海外買春ツアーが批判され出した頃から、最初は台湾、香港などから日本人客を追って来たが、経済状況が良くなり、続いてフィリピン、タイ、インドネシアなどから来るようになったという。長年に渡って蓄積、拡大を続けてきた、この需要の大きさに少しでも変化があればと、一縷の望みを託してこの章を終わりにする。</p>

<p><br />
<strong>２．この国の基準</strong></p>

<p><strong>再び</strong></p>

<p>「（支援金）今はもらえてません」<br />
ひょんなことから数人の難民申請者に出会った。<br />
「えっ、何でですか？」<br />
「分かりません」<br />
彼らは「こっちこそそれが知りたいよ」と言わんばかりに首を横に振った。<br />
　合法的な単純労働のビザの発給が多くの女性移住労働者に望まれているとは限らないと知ってから、私の脳はしばらくフリーズしていた。もう不法就労や単純労働者受け入れについて考えるのはやめようと思った。しかし、彼らに会って、思考停止していた私の脳が再起動することになる。<br />
　<br />
　在留資格を持たない難民申請者には、就労は許されていない。その代わり、生活に困窮している申請者には、外務省から委託されている機関RHQ（難民事業本部）から限定的ではあるが補助金が支給されることになっている。４ヶ月毎更新で、12歳以上の大人は１人につき日額1500円、12歳未満の子ども１人につき日額750円の生活費支給に加え、必要に応じて住居支援が支給される。宿舎借料（限度額）は、単身者４万円、２人５万円、３人5万5000円、４人以上６万円。<br />
　200１年12ヶ月間の保護費受給者は433名（更新した申請者の数も含む。つまり、全員が更新し続けている申請者であれば、3分の1の人数ということになる。その可能性はないにしても、この数よりは少ないことが予想される）。1982年に難民受け入れを開始してから2001年までに難民認定不認定だった人が合計で1721人いる。その内、現在も日本にまだ滞在しており、難民不認定に対し異議申出をしている人の総数は、問い合わせたところ法務省入国管理局でも把握していなかった。それでも、①毎年、難民認定一次審査の難民不認定者の半数以上が一次難民不認定に係る意義申出をしている、②10年以上かけて５～６回の異議申出をしている申請者もいる、③難民認定手続き関係訴訟の係属中の件数が過去５年間で各年５～49件ある、などのことから考えると、かなりの数の申請者が現在も手続き中で日本に滞在していると考えられる。不認定者の中で、同じく2001年までの合計で、申請を取り下げた者が340名、異議申出で認定された者が７名いる。法務省入国管理局も外務省の手前、それほど多くの難民申請者を強制退去させてはいないであろう（入管側に問い合わせたがこれも把握していないとのこと）から、仮にそれらを引いた1374名が、現在も手続き中だと考えると、３割（全員が保護費支給申請を更新し続けている申請者だったら１割）ほどしか支給されていないことになる。<br />
　それでも在留資格のある人は就労できるから、もらわなくても何とか暮らせていける。同じく2001年までの合計で、人道配慮による在留が認められた者が219名いる。法務省入国管理局によると、ほとんどの難民申請者が申請時に在留資格を持っていないという。保護費受給者が在留資格のない申請者のみに支給されていたとしても、在留資格のない難民申請手続き中の1155人（200１年）の37％（全員が更新し続けている申請者だったら12％）ほどしか支給されていないことになる。支給されている人の中でも、保護費と住居費両方合わせてもらえていない人は、生活費か住居費どちらかを稼ぐために、就労せざるを得ない。つまり、在留資格のない者でも就労せざるを得ない状況にあるということだ。その上、理由なく補助金給付が打ち切られることがある。難民事業本部援護課の方は保護費打ち切りの理由を「法務省入国管理局の審査過程が終了すれば打ち切ります」と説明していたが、実際は異議申出で難民申請手続き継続中の人でも打ち切られている。<br />
　<br />
<strong>難民申請者の話</strong></p>

<p>　就労について触れているため、出身国などの情報は明かせない。<br />
＜Iさんのケース＞<br />
　支援金がもらえなくなって派遣会社で５年間働いたが、半年前にケガをして今は働いていない。派遣先の土木の仕事で３～４ヶ月働いた頃ケガをした。その時、労災は一切下りなかった。入管に収容された時、社長は面会にも来なかった。収容されている間に自殺も計ったが、40人くらいの職員が来てできなかった。今は友人から100万円くらい借金して生計を立てている。<br />
＜Mさんのケース＞<br />
　Iさんの従兄弟のMさんも、同じく保護費がもらえず派遣会社で働いていた。５年前にベルトコンベア－で右手を負傷した。最初は50万円くらい労災が下りた。しかし、それ以後は５回も手術をしたが、1回ももらえなかった。そう言って捲し上げた彼の右腕はズタズタの傷跡が痛々しかった。<br />
＜Mさんのケース＞<br />
　Mさんも保護費がもらえず、現在は工場での解体のアルバイト（月１週間から10日で８万～９万）と借金で生計を立てている。保護費がなぜもらえなくなったかは「分からない。家族もいるのに」。静かな人だけど、そう訴えている時の彼の目は真剣で必死だった。<br />
＜Jさんのケース＞<br />
　Jさんは、保護費に反対だ。少数の限られた人に出すくらいなら働くことを認めるべきだと考えて、保護費の申請をしなかった。工事現場で働いていたが、2003年10月から半年間入管に収容された。出てきてからも工事現場の人の厚意で寮に入れてもらっていたが、不況の煽りで仕事はなかった。その会社が吸収統合され、完全に職を失った。現在、彼は入管に収容されている。</p>

<p><strong>この国では「不法滞在者」</strong></p>

<p>　法務省入国管理局の難民認定に携わっている職員は、難民申請手続き中であろうが入管法違反であれば、強制退去の対象にもなるし、収容もする、と断言していた（UNHCR（国連難民高等弁務官事務所）は難民申請者の収容を原則的に認めていない）。「難民申請者が不法就労で入管に収容されることもあるのでしょうか」と聞くと、「あります」。「申請の結果が出るのを待たずに収容したりもするのでしょうか」と聞くと、「退去強制手続きと難民認定手続きは別物ですので」。また断言された。それなら、なぜ申請者の就労を認めていないのだろうか。外務省からの保護費を受け取れる人が限られているにも関わらず、就労が認められていなければ、申請をするために日本で生活をすることも困難になる。就労したらしたで不法就労で収容される。そのことについて聞くと、「外務省が保護していますので」。だから保護費を受け取れる人は限られているんだってば。そう思っていると、こう説明を加えた。難民認定していない人に保護の必要はない、と。<br />
　そこで、ふと思い出した。人身取引防止について入管に質問した時に感じたこと（Vol．1）を。入管の仕事は外国人を入れるか、残すか、出すか。人身売買被害者であってもそれは同じ。ましてや難民認定されていない「単なる不法滞在者」に保護や働く権利なんて必要ない。例えそれが「難民認定される可能性がある」難民認定申請者であっても。<br />
　中には難民申請するやいなや収容される申請者もいる。申請をすること自体が収容の原因になってしまうので、収容を恐れて申請しない人、申請したけど取り下げる人も多いのだという。例えば、トルコ国籍クルド人の場合、2004年現在で483人が難民申請し、認定率は未だに０％（同じく2003年G7各国のトルコ出身難民認定率、カナダ66％、フランス（第一次審査）5.1％、ドイツ（同左）12.0％、イギリス（同左）3.3％、アメリカ（異議審査局）37.8％、イタリアは数字記載なし。フランス、ドイツでは異議審査の認定率は第一次審査より高い）。その内、現在も収容に耐えながら申請手続きを継続している数は減っているという。そのような潜在的な難民も、この国では不法滞在者。<br />
　2001年以降、99年12月の難民申請や退去強制手続きの進行により、「仮放免」の取り消しが相次いでいるという。３年以上に及ぶ長期収容や、妻子を残しての家族分離収容、来日したばかりの妻を1人残しての夫の収容なども。また、2003年10月、警視庁・東京都・法務省・東京入管による「不法滞在外国人半減キャンペーン」以降、摘発や仮放免の取り消し、長期無期限収容が相次いでいるそうだ。現在仮放免中のある難民申請者が、「いつ収容されるか分からない」と話していたことがあった。「１～２年収容所。仮放免。その繰り返し」。祖国の迫害から逃れてきて日本でも迫害を受けているようなものだと話していた。仮放免者は毎月１回、仮放免手続きを更新しに入管に行かなくてはならない（居住地の県外に出る場合もいちいち申請が必要）。その際、入管は（入管法）違反調査を行い、違反者はそのまま収容する。難民認定に携わっている職員に「どういう理由で収容しているのですか」と聞くと、「入管法違反者と一般的に在留状況がよろしくない人」と答えた。「在留状況がよろしくない」と言われても、具体的にどういう人のことか分からない。例えば、「逃亡のおそれがある人とか」なんだそう。これはまた、曖昧な表現である。「逃亡のおそれ」なんかいくらでも捏造できるのではないか。実際、その難民申請者は日本に家族（妻と子）もいて逃亡のおそれがあるとは思えない。外務省からの保護費で生活しており、就労しているわけでもない。なのに、いつ収容されるか分からない毎日なのだそうだ。彼の家族や親戚は、18人がドイツ、８人がオーストラリアに逃亡して全員難民と認定されている。弟はオーストラリアで３年で国籍まで取れたのに、彼は10年経っても難民認定されていない。</p>

<p><br />
<strong>３．境界線は誰が作ったか</strong></p>

<p><strong>ある非正規滞在者の話</strong></p>

<p>　これまで、人身売買の被害者や難民申請者がどういう状況にあるかを書いてきた。しかし、人身売買の被害者であるかどうか、難民であるかどうか、が問題なのではない。人身売買も難民も非正規滞在者の問題も、抱えている問題はみんな一緒なのだと思う。基本的には受け入れたくないという意識が根底にあるから、国際的に避難を浴びても、お茶をにごしたような解決方法しかできないのではないだろうか。<br />
　ここでは詳しく触れないが、受け入れをしないと言いつつも、実際は人手不足の中小企業や産業界からの要望で研修生として単純労働者を受け入れている。月々10万円の安月給な上、ピンハネ、耐えかねた研修生の逃亡などが問題になっている。また、1990年から日系ブラジル人やペルー人（約23万人）を受け入れるなど、その時々の都合に合わせて条件付で受け入れてはいる。しかし、受け入れる体制を整えていなかったため、義務教育を受ける年齢の外国人の子どもの20～30％が学校に通っていないなどの問題がある。合法的には受け入れていないが、産業界の都合で、工場や建設などの分野で働いている非正規滞在の外国人も沢山いる（<a href="http://http://www.moj.go.jp/PRESS/040518-1/b10.html">http://www.moj.go.jp/PRESS/040518-1/b10.html</a>）。ここでは、実際受け入れないと言いながらも、需要があるがため非合法で受け入れている結果、彼らがどういう状況にあるか紹介したい。<br />
　バングラディッシュ出身のTさんは、日本に来て７年になる。観光ビザで韓国に入り、５年くらい働いた後、もっと稼げると言われていた日本へ船で不法入国した。なぜ不法入国したかは、「（日本は）ビザを取るのがめんどう」と言っていた。<br />
　最初は千葉の自動車部品会社で働き、ビザの件でクビになった。次に群馬の部品会社で働いていたとき、右手の中指切った。そう話しながら見せてくれた彼の指は、第一関節の辺りでざっくり切り落とされていた。２ヶ月病院に入院したが、会社からは一銭も金が出なかった。ある支援団体に相談に行って労災に入った。ケガをする前の２ヶ月分の給料（60万円）は、裁判しているが、未だに払われていない。現在は通院中で、その支援団体でボランティアをしている。<br />
　取材当時、「来年国に帰る」「日本、外国人に対して厳しいでしょ」「捕まると大変だから」と言っていた彼は、もう日本にいないかもしれない。</p>

<p><strong>非正規滞在者＝凶悪犯罪者というイメージ</strong></p>

<p>　非人道的なように感じられるが、入管は入管法に則って非正規滞在者を摘発しているにすぎない。では、なぜ入管法がそうなっているのか、つまり、なぜ非正規滞在者はどういう状況であろうと摘発すべき対象となっているのか。その理由の１つに、治安との関係があると思う。<br />
　警察庁生活安全局生活環境課の方に「合法的な就労方法があればブローカーを頼らずに済むし、不法滞在・就労も減ると思うのですが」と聞いた。返ってきた答えは「どのような就労を受け入れるのかは国の政策の問題」。そうなれば理想的だが、単純労働者受け入れについては国が決めたことだという。法務省入国管理局も社会保障、教育、日本人の労働への影響などの観点から、各省庁・政府が決めていることだという見解だった。つまり、すべては日本人の受け入れる体制にかかっている。<br />
　では、日本人の受け入れる意識はどうかというと……。内閣府が行っている「外国人労働者の受け入れに関する世論調査」（2004年５月）というものがある。専門的な技術、技能や知識を持っている外国人の入国は認め、単純労働に就労することを目的とした外国人の入国は認めていない制度についての考えを聞いたところ、「今後とも専門的な技術、技能や知識を持っている外国人は受け入れ、単純労働者の受け入れは認めない」と答えた者の割合が25.9％、「女性や高齢者など国内の労働力の活用を優先し、それでも労働力が不足する分野には単純労働者を受け入れる」と答えた者の割合が39.0％、「特に条件を付けずに単純労働者を幅広く受け入れる」と答えた者の割合が16.7％、「分からない」が17.7％となっている。「受け入れる」と答えた者が55.7％と過半数だったのに対して、「単純労働者を受け入れない」と答えた者の割合は25.9％だったが、「単純労働者の受け入れを認めるべきではないと考えるのはどうしてか聞いたところ、「治安が悪化するおそれがある」を挙げた者の割合が74.1％と最も高かった。<br />
その意識はどこから来ているかというと、同じく、内閣府が行っている「治安に関する世論調査」（2004年７月）というものがある。ここ10年間で日本の治安はよくなったと思うか聞いたところ、「よくなったと思う」とする者の割合が7.1％、「悪くなったと思う」とする者の割合が86.6％となっている。さらに、ここ10年間で日本の治安は「悪くなったと思う」とする者（1816人）に、治安が悪くなった原因は何だと思うか聞いたところ、「外国人の不法滞在者が増えたから」を挙げた者の割合が54.4％と最も高かった。また、自分や身近な人を犯罪に巻き込むかもしれないと不安になる組織や個人は何かと聞いたところ、「情緒不安定な人や怒りっぽい（すぐ切れる）人」を挙げた者の割合が49.9％と最も高く、その次が「外国人の犯罪グループや不法滞在者」（43.2％）だった。<br />
　では、この不安はどこから来ているかというと、警察庁が出している外国人犯罪率と入管や都及び警視庁の不法滞在者摘発キャンペーンとマスメディアでの取り上げ方にある。2003年10月、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京入国管理局、東京都及び警視庁で首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する協同宣言を出し、不法滞在者の摘発強化や効率的な退去強制などを推進することとした。また、同年12月犯罪対策閣僚会議において「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」が取りまとめられ、犯罪の温床となる不法滞在者を今後５年間で半減させるために「水際における監視、取り締まりの推進」、「不法入国・不法滞在対策の推進」、「外国関係機関との連携強化」等の施策を推進することとされた。2003年には、全国から入国警備官を東京入国管理局に応援派遣の上、東京都内を中心に入管法違反者の集中摘発が行われ、退去強制手続きを執った入管法違反者は、前年度比9.5％の増加となった。<br />
　この摘発の根拠となった外国人犯罪率統計を見てみると（<a href="http://http://www.npa.go.jp/sosikihanzai/index.htm">http://www.npa.go.jp/sosikihanzai/index.htm</a>）、検挙数は確かに増加している。しかし、この外国人犯罪率は日本人の犯罪率に比べて数％に過ぎない（外国人差別ウォッチネットワーク編『外国人包囲網』p11～12で「来日外国人の犯罪に占める率を見てみよう。すると、長期的に見ても安定して２％前後であることがわかる。逆にいえば、98％前後の犯罪は日本人によるものなのである。外国人犯罪が増加しているという点についてはたしかに短いスパンで見ると増加している。しかし、実数は日本人よりも圧倒的に少なく、また、来日外国人の犯罪以上に日本人の犯罪が増加していることがわかる」と図入りで説明されている）。<br />
　ところが、警察では外国人犯罪率の増加を広報し、入管では摘発キャンペーンを張り、メディアでも頻繁に取り上げられる。「日本人の犯罪も増加しているにも関わらず、日本人の犯罪の増加よりも外国人犯罪の増加を大々的に広報したり、摘発のキャンペーンを張っているのはなぜでしょうか」と、警察庁の方に聞いてみた。「一般的に言えば増加率が大きいことと凶悪犯罪が多いことではないでしょうか」という答えが返ってきた。しかし、外国人の犯罪の中で凶悪犯罪もこれまた数％である（『外国人包囲網』p13で、「凶悪犯罪とされる犯罪は、日本人でも来日外国人でも、ともに一般刑法犯の１％に過ぎない。きわめて微小であるだけでなく、日本人と来日外国人との間に顕著な違いも見受けられない。さらに図４で確認できるように、この間の凶悪犯の増加といわれるものは、日本人による凶悪犯の増加の影響がほとんどであることが、明らかである」と図入りで説明されている）。ある警察官から、「一時の情に惑わされるべきではない。事実外国人犯罪は増えているのだから」と言われたことがある。しかし、日本人の犯罪よりも外国人の犯罪を大きく取り上げることだって情に惑わされていることになる気がするのだが。</p>

<p><strong>悪循環</strong></p>

<p>　一方、マスメディアの外国人犯罪報道については、アムネスティ・インターナショナル日本がWeb上でこんなデータを報告している。日本人の犯罪の客観件数31万4015（1998年度前半に朝日新聞上で報道された件数を2倍にした数値）に対し、報道件数4826で報道率1.54。一方、外国人の犯罪の客観件数10248に対し、報道件数390で報道率3.81、対日本人比率2.56（参考：奈良大学社会学部間淵領吾「外国人犯罪」2001年６月12日）。<br />
　「外国人による犯罪と比較した場合その１％を占めるに過ぎないにも関わらず、マスメディアが外国人犯罪を報道として取り上げる率が高いことが、明らかになっている。これは、『外国人ということ自体にニュース性がある』（旗手・箱石『来日外国人人権白書』明石書店、1997年、ｐ322）。『外国人労働者あるいは外国人にかんする最近の報道のもうひとつの特徴は、外国人犯罪の問題をあまりにも誇張しすぎることである。たとえば、一つ犯罪事件が起きると、マスコミは事件そのものの報道よりも、＜ドコドコ人が強盗＞＜ナニナニ人が密輸＞などの人目をひく見出しで飾り、外国人にたいする先入観を植えつけている』（百瀬宏・小倉充夫『現代国家と移民労働者』有信堂、1992年、ｐ31）」（アムネスティ・インターナショナル日本（<a href="http://http://www.amnesty.or.jp/multiculture/f_crime.pdf">http://www.amnesty.or.jp/multiculture/f_crime.pdf</a>））。<br />
　「治安に関する世論調査」でもこんな結果が出ている。日本の治安に関心があるとする者（1698人）に治安に関心を持ったきっかけを聞いたところ、「テレビや新聞でよく取り上げられるから」を挙げた者の割合が83.9％と最も高かった。治安に関する情報の入手方法でも、「テレビ・ラジオ」を挙げた者の割合が95.7％と最も高く、以下、「新聞」（80.1％）、「家族や友人との会話など」（32.3％）、「自治体や自治会の広報」（18.1％）などの順になっている。<br />
　この警察・入管とメディアの協同キャンペーンは日本人の外国人に対する意識に大きく影響してきた。国民の外国人に対する意識の変化がはっきりと見られる調査結果が出ている。内閣府の「人権擁護に関する世論調査」（2003年２月）で（<a href="http://http://www8.cao.go.jp/survey/h14/h14-jinken/images/zu21.gif">http://www8.cao.go.jp/survey/h14/h14-jinken/images/zu21.gif</a>）、外国人の人権擁護についての意見を聞いた。前回（1997年7月）の調査結果と比較すると、「日本国籍を持たない人でも、日本人と同じように人権を守るべきだ」（65.5％→54.0％）と答えた者の割合が低下し、「日本国籍を持たない人は日本人と同じような権利を持っていなくても仕方がない」（18.5％→21.8％）と答えた者の割合が上昇している。また、「外国人労働者受け入れに関する世論調査」（<a href="http://http://www8.cao.go.jp/survey/h16/h16-foreignerworker/images/zu15.gif">http://www8.cao.go.jp/survey/h16/h16-foreignerworker/images/zu15.gif</a>）で、観光客として入国した外国人、外国人留学生などがホステスや作業員などとして働き、収入を得る事例が生じているが、このことについてどう思うか聞いた。前回（2000年11月）の調査結果と比較して見ると、「よくないことだ」（49.2％→70.7％）と答えた者の割合が上昇し、「よくないがやむを得ない」（40.4％→24.5％）と答えた者の割合が低下している。この結果は、ちょうど警察が不法滞在者一掃キャンペーンを張り出して、メディアも盛んに取り上げ出したのと連動している。<br />
　そして、更に、これらの日本人の意識を参考にして政府は外国人労働者受け入れに関する政策を決定している。受け入れはしないという政府の方針、外国人犯罪増加のキャンペーン→メディアの反応→国民の意識調査の変化→政府の政策というような悪循環が出来上がっているようだ。<br />
　不安の原因は相手をよく知らないからだと思う。私も彼らの現状を知るまではイメージだけが膨らんでいた。外国人ホステスがどんな状況にあるか、難民申請者がどのような生活をしているか、その他の非正規滞在者がどのような状況にあるか、普通に暮らしていたら知る機会がない。どうしても政府やメディアが発表している情報に頼らざるを得ない。インターネットがあるから、自分で探そうと思えば、ある程度の情報は手に入るかもしれない。しかし、非正規滞在者に実際会って話を聞く機会はそうあるものではない。だから、イメージが先行して不安も増す。<br />
　それでも、人身売買被害者や難民申請者は被害や迫害など具体的な現状が見えやすいし、国際的に問題とされているから理解も得られやすいだろう。実際、支援団体が多く、メディアの露出度も高い。「悲劇のヒロイン」に仕立て上げられて登場することも多々ある。しかし、その度に何か変わっただろうか。取り上げられる度に入管批判が高まって、在留特別許可などが個別に出されたりする。ところが、非正規滞在者全体へのイメージが変わったわけではない。氷山の一角のヒロインには同情票が集まるけれど、それは一時的なもの。今回のケースは特別で、それ以外の「不法滞在者」は摘発すべきという意見は根強くある。それは、どちらも個別の事象であって全体を表しているわけではないにも関わらず、大げさに取り上げる報道にも原因があると思う。「悲劇のヒロイン」を取り上げる一方で、外国人の凶悪犯罪を大々的に取り上げる。時には同じ日の紙面を賑わしていることもある。すると、「あぁやっぱり外国人怖いよな」となってしまうのではないか。私自身もそれらの報道に触れていて混乱した。それがこのルポを書く大きな動機にもなった。</p>

<p><strong>おわりに</strong></p>

<p>　ある日、突然、自分がテロリストのアジトに電話をかけていて、それが傍受されていたら、どうするだろうか？ まさかと思うだろうが、案外、身近にそういうことが起きたりする。例えば、あなたが学生で、学校の課題で難民について調べていた。疑問に思ったことがあって、ある難民支援団体に電話で問い合わせてみた。実は、そこは彼らの出身国からテロ組織と名指しされていた団体だった。<br />
　唐突だが、誤解を恐れずに聞いてみた。ここで、やっぱり外国人は恐ろしい、日本でテロ活動をしようとしていたんだ、などと思わないでほしい。その「テロ組織」がテロ組織であると誰が決めたのか、落ち着いて考えてもらいたい。<br />
　国を持たない民族、クルド民族がいる。トルコ、イラク、シリア、イラン、アゼルバイジャンなど国境沿いの山岳地帯に居住している。1980年代後半からトルコ政府軍とPKK（クルド労働党）の闘争激化。村の集団移住や治安当局による迫害。90年代半ば、トルコ政府軍の「村の無人化計画」。迫害を逃れたクルド人たちが日本にもやって来て、埼玉県川口市や蕨市に住み始めた（蕨、川口だけで400人くらいいるという）。そして、2003年、その地に「クルディスタン＆日本友好協会」をつくり、クルドの文化紹介や地域住民との交流の拠点にした。ところが、トルコ政府から日本政府に「蕨にテロ組織がある」と協会の事務所の撤去要請がきた。日本はトルコと友好関係にある。だから要請に応じた。警察が事務所を強制捜査したこともあったという。そういえば、事務所には物があまりなかった。難民申請者の1人が麻薬を持っているとでっち上げられたことがあったという。それ以来、いつも片付けておくようにしているそうだ。事務所のあるビルはいつもシャッターで閉められていて、外部からの侵入者を恐れているようだった。協会の事務所は常に監視され、電話も傍受されているのだという。それを聞いた時、私は内心驚いた。電話で「爆弾」とか「麻薬」とか言っていたら警察が動いたのだろうか。自分がそういうことを言う必要もなく、あり得ないことだし馬鹿げているかもしれないが、一瞬本気で考えた。けど、彼らが危険だとは思わなかった。その代わり、こんなことを考えた。<br />
　<br />
　ある境界線があって、一線超えると自分の置かれている状況が一変する。それは当たり前のことなのだけど、当たり前すぎて結構見過ごされていることがある。私が出会った人は皆そういう状況にあった。<br />
ある日突然、テロリストになる。<br />
　　　　　　　　難民と認定される。<br />
　　　　　　　　犯罪者になる。<br />
　　　　　　　　被害者になる。<br />
　　　　　　　　日本人になる。<br />
その境界線は私たちが勝手に作っているものであって、見直されても良いと思う。もしそれが誤解とか思い込みで作られているのだとしたら。</p>

<p><br />
＜参考資料＞<br />
外国人差別ウォッチ・ネットワーク『外国人包囲網「治安悪化」のスケープゴート』現代人文社2004年<br />
特定非営利活動法人難民支援協会『難民申請者の住環境に関する状況調査』2004年<br />
DAWN－Japan『DAWN－Japan資料集』2004年<br />
DAWN－Japan第６回フィリピンスタディーツアー報告書『フィリピンと日本の人のつながりって何だろう』2004年<br />
法務省入国管理局編『出入国管理』2004年</p>]]>
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<title>『“横田” ～基地内の日常・住民の被害感～』石丸彰</title>
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<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-03-02T08:50:58Z</issued>
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<summary type="text/plain"> [Change of Command Ceremonyを取材して] 　2005年2月10日、Yokota Air Base(在日米軍横田基地)にてChange of Command Ceremony(指揮権交代式)が執り行われた。横田基地...</summary>
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<name>石丸</name>


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<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p><em><br />
[Change of Command Ceremonyを取材して]</em><br />
　2005年2月10日、Yokota Air Base(在日米軍横田基地)にてChange of Command Ceremony(指揮権交代式)が執り行われた。横田基地に駐在する軍人だけでなく、日本に駐在する、米軍がもつ陸軍・海軍・空軍・海兵隊すべてを統括する指揮官の交代であるため、4軍の軍人たちが集まり、盛大に式典がなされた。内容は、前指揮官Lt General Thomas C. Waskow(トーマス・C・ワスコー中将)から、現指揮官Lt General Bruce A. Wright(ブルース・A・ライト中将)への指揮権の交代である。普通の式典には出席しない<a href="http://www.geocities.jp/rhpqq324/index.htm">四ツ星の軍人</a>が出席しての式典であり、僕を案内してくれた基地の方は「たいへん珍しいことだ」と言ってそのスゴサをアピールしていた。</p>]]>
<![CDATA[<p>　式典自体は午前11時から約1時間半ほどであっただろうか。United States Forces, Japan, Joint Band(在日米軍統合軍楽隊)による演奏が数曲続いた後、部隊整列・副官合図・司令官入場・栄誉礼・祈祷・閲兵となる(当日配布された式次第に依る)。国歌斉唱はStaff Sergeant Jamie Gilley(三等軍曹ジェイミー・ギリー)。小野寺外務大臣政務官などの日本の政治的重役が来賓として参加しているためか、日本のことを配慮してかわからないが、まず『君が代』その後に『The Star Spangled Banner』(アメリカ合衆国国家)が歌われた。きれいな音色で、また、軍服を着た白人男性が歌っているということもあってか、僕には印象深い国歌斉唱であった。<br />
　一連の儀式の後、式典に招待されたPresiding Officers(執行監督官)である</p>

<p><a href="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/fargo3.html" onclick="window.open('http://www.journalistcourse.net/blog/archives/fargo3.html','popup','width=459,height=574,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">Admiral Thomas Fargo(トーマス・ファーゴ海軍大将、太平洋軍司令官)</a></p>

<p><a href="http://www.journalistcourse.net/blog/test/archives/hester.html" onclick="window.open('http://www.journalistcourse.net/blog/test/archives/hester.html','popup','width=272,height=340,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">General Paul Hester(ポール・へスター空軍大将、太平洋空軍司令官)</a></p>

<p>そして<br />
<a href="http://www.journalistcourse.net/blog/test/archives/waskow2.html" onclick="window.open('http://www.journalistcourse.net/blog/test/archives/waskow2.html','popup','width=272,height=340,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">前指揮官Lt General Thomas C. Waskow</a></p>

<p><br />
の挨拶があり、勲章授与・指揮権継承・</p>

<p><a href="http://www.journalistcourse.net/blog/test/archives/wright1.html" onclick="window.open('http://www.journalistcourse.net/blog/test/archives/wright1.html','popup','width=272,height=340,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">現指揮官Lt General Bruce A. Wright</a></p>

<p>の挨拶へと続く。</p>

<p>　僕には眼前で行われている式典の意味をよく理解していなかった。当日、僕はフリージャーナリストとして扱われ、フジテレビや日本テレビなどの民放各局の撮影班と同列に並ばされた。周囲のメディア関係者から奇異な目で見られながらも、大きなカメラを回す彼らの横で、小さなハンディーカムで撮影していた僕はその状況に圧倒されて小さくなってしまい、それどころではなかった。いわばこれは在日米軍トップの就任式だ。livedoorのニッポン放送株問題が大々的に放送されていたため、このニュースはあまり放送されていなかったが、イラク戦争・北朝鮮問題などを考える上では重要な出来事である。</p>

<p>　在日米軍は日本の安全保障と密接な関係にある。在日米軍というと、沖縄がメインとなるが、今回僕は東京都にある「横田基地」をメインに、在日米軍のことを捉えなおしていく。日本の安全保障と密接な関係にあるにもかかわらず、厳しい批判にさらされている在日米軍。中でも、空輸の中継地として大切な役割を果たしている横田基地。横田基地における日常は、また問題とされている周辺住民への公害とはいかなるものなのかを考えていこうと思う。</p>

<p><br />
<strong>〈横田の日常を探る〉</strong></p>

<p><em>[横田基地周辺の日常]</em><br />
　横田基地およびその周辺の日常生活は非常に穏やかなものであった。当然のことながら福生第２ゲート前は車が行きかうだけであり、周辺住民の監視やデモはなかった。新設マンションの建設中止を求める「○○は出て行け」というような垂れ幕がかかっているわけでもない。福生第2ゲート前を走る国道16号線沿いを少し歩いてみたが、横田基地を非難するような張り紙やビラは一切見られなかった。それどころかむしろ、英語で書かれた看板やショーウィンドウの値札が目に付き、基地関係者に対する配慮を店側が行う姿も見受けられた。だが、このような配慮がなされているものの、基地関係者が周辺経済を支えているというわけではなさそうだ。新横田基地公害訴訟団代表の大野氏は「1ドル360円の頃はアメリカ人が頻繁に利用し、福生の飲み屋なんかは多少儲かっていたようだが、円高が進んだ今は、そのようにして栄えた店も繁盛しなくなってしまった」という。他に、近隣マンションの壁には「福生・横田フレンドシップコンサート」というポスターが何枚も張ってあり、基地内楽団と福生市民との間の友好催が行われていることがわかった。人通りの多寡は住宅街のそれと同じであり、基地があるからといって人々が外出しないわけでもない。ただ、911を継起としてテロに対する危機感を募らせているためか、日本の警察のパトカーが国道16号線を巡回している。</p>

<p><em>[横田基地の日常]</em><br />
　実際の基地内はどうなっているか。残念ながら基地内のビデオ撮影は許可されなかった。おそらくは、基地内の立地状況が外部に漏れるのをできる限り防ぐためであろう。そのような推測の下、僕も回った順番に基地内描写を書き記すわけにはいかない。そこで、僕らの日常生活に当てはめて、在日米軍の方々の日常生活を考えていく。<br />
　僕らの普段の生活はどうのようになっているだろう。朝起きて通勤通学し、会社では働き学校では授業を受ける。授業には教室での学科もあればスポーツの時間もある。休み時間にもなれば校庭に出て遊び終われば教室に戻るだろう。クラブ活動をして帰宅し、テレビなどを見、食事などして寝る。休みの日には家でゆっくりしたり、家族で遊びにでかけることだろう。大雑把ではあるが、これが日本で僕らが行う日常だ。<br />
　基地での日常はどうか。滑走路を中心に東西に分かれた基地内の居住区には９階建てのマンションが乱立し、一軒家もいくつか存在する。一軒屋は位の高い軍人の家庭が居住するようで、下位兵はマンションのようだ。各マンションには、「Haneda Tower」「Tuiki Tower」など、日本にちなんだ名前がつけてある。通勤場所はもちろん軍隊であり、通学は基地内にある幼稚園から高等学校、分校ではあるが基地内大学もある（基地内大学では、空きがあれば日本人も授業を受けることができるようになっており、その仲介は基地以外の民間組織が行っている。<a href="http://www.geocities.jp/rhpqq324/index.htm">詳細</a>）。運動ができるように、野球グラウンド・陸上トラックなどがあり、アメフト用のスコアボードも立てられていた。生徒たちはここでスポーツをし、クラブ活動をするのだろう。時には大人たちが草野球を楽しむこともある。先日メジャーリーガーが日本に来日したときには、何人かの選手が横田を訪れ、野球を楽しんだ。家庭生活が十分に行えるように、雑貨や食品などの生活必需品を購入するショッピングセンターもあり、基地内住民の方々はそこで生活用品をそろえる。中にはファーストフードやら小物売り場やらがあり、日本のゲームセンターにあるようなゲームがいくつもおいてあるスペースもある。子どもたちこそ遊んでいなかったが、日本のデパートを想起させ、ついつい笑顔がこぼれてしまった。当日の昼食は広報部の方と一緒にファーストフード店でとった。商品の値段はドル表示されており、店員ははじめ英語で話しかけてきた。相手が日本人だとわかると日本語で対応してくれたので、助かった。金額表示はドルであるものの、ドルでしか買うことができないのではなく、その日の交換レートがレジの前に書いてあるので、それにしたがって日本円に換算し、日本円で商品を買うことができた。基地内のファーストフード店のシステムはアメリカのそれと同じ。セットの飲み物はセルフサービスで、自分で注ぎにいかねばならず、そのかわり何杯でもおかわりができる。やはり味は濃い目だったが、意外にも量は日本とたいして変わらなかった。店内には迷彩服を身にまとった軍人が何人もいたが高校生風の男女も何人もおり、軍服さえ目につかなければアメリカドラマの一風景を見ているのとたいして変わらなかった。話を戻すが、休日・日曜日ともなれば、クリスチャンの人々は各居住区にある教会に行ってミサにあづかり、それぞれが各人の休日を過ごす。基地内にはボーリング場などの娯楽施設があるので、そこで家族や友人と楽しく遊ぶこともある。<br />
　基地内には、生活に支障のないよう様々な施設が存在する。学校・郵便局・教会・消防署・レクレーションセンター・ガソリンスタンド・公園・運動場などなど。特に、消防署は周辺自治体と協定を結んでおり、基地近隣で大規模火災が発生した場合は協力して消火活動を行う。9月1日防災の日には、石原都知事も参加した、東京都主催の防災訓練の開催地となった。でも、気にかかることが一つある。<br />
「離発着の邪魔になりますから」<br />
　これは今回の取材の中で気になった言葉の一つだ。協力して消火活動を行うことの理由の一つとして、案内の方は確かにそういった。深い意味はなく自然と出た発言だろうが、消火の目的として「基地業務を正常に行うこと」を挙げたことに違和感を覚えた。</p>

<p>　当然のことではあるが、僕らがあまり深く認識していない事実として、僕たちの生活と大差ない生活が基地内でも営まれている。米軍基地という特殊性を除けば、そこに広がっている生活は僕らのそれと変わらない。日本の中の小さなアメリカがそこには広がっている。</p>

<p><em>[基地としての横田、その日常]</em><br />
　とはいえ、そこは在日米軍基地なのである。南北に走る全長約3300メートルもの滑走路とその周辺にある軍施設。僕らと同じ日常だけが広がっているわけではない。<br />
　横田基地は空輸基地として大変重要な位置を占めており、朝鮮戦争・ベトナム戦争をはじめ、物資の輸送を主とした作戦を担っている。輸送機の離発着も日に十余～数十機。成田などの民間航空施設でも問題になっているように、航空施設ではその騒音問題をめぐって周辺とのトラブルが絶えない。実際僕が訪れた時、僕は飛行機の騒音がそれほど気にならなかった。しかし横田基地は現在、騒音もめぐっての訴訟問題を抱えている。<br />
　軍基地であるから、当然訓練も行われる。ただ、何度も述べるように、横田基地は空輸が専門の米軍基地であるから、陸軍が行うような射撃訓練・砲弾訓練はほとんどない。横田で行われる訓練は、日米が共同で行うもの・在日米軍全軍で行うものの他に、基地内エクササイズが年に数回。その内容は何か起こったときにどう対処するかの訓練であり、演習用のシナリオが用意されていて、「どこかの国がアタックしてきたらどのように避難させるか」などという訓練であるという。</p>

<p><br />
<strong>〈周辺住民の被害感〉</strong><br />
　　映像資料：<a href="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/movie.wmv">『基地公害-被害者の視点-』</a><br />
　　　（約30MBのwmvファイル）</p>

<p></p>

<p>（参照一覧）<br />
・素顔の横田基地( http://www.geocities.jp/rhpqq324/index.htm )<br />
・東京都の米軍基地対策( http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/kiti/hyoushi.htm#label )<br />
・	横田基地撤去と基地被害をなくす共同行動連絡センター( http://www.ne.jp/asahi/santama/roren/yokota/ )<br />
・新横田基地公害訴訟団( http://www12.ocn.ne.jp/~syokota/ )<br />
・Yokota Air Base(official)( http://www.yokota.af.mil/ )<br />
・United States Forces Japan(http://usfj.mil/ )<br />
・『安全保障』（田中明彦著, 讀賣新聞社, 1997）<br />
・『情報公開法でとらえた在日米軍』（梅林宏道著, 高文研, 1992）</p>

<p>（取材協力）<br />
・新横田基地公害訴訟団<br />
・Yokota Air Base</p>]]>
</content>
</entry>
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<title>『それぞれのもうひとつ　――日系人という社会――』近谷純子</title>
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<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-03-02T07:30:36Z</issued>
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<created>2005-03-02T07:30:36Z</created>
<summary type="text/plain">　日本からブラジルへ渡った人がいる。ブラジルから日本へ渡った人がいる。これは別々の話ではない。日本からブラジルへ、そしてブラジルから日本へ、あるいはまた日本からブラジルへ、「移民」をめぐるひと続きの話だ。移民という日本語に対応する英語には、...</summary>
<author>
<name>近谷</name>


</author>
<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　日本からブラジルへ渡った人がいる。ブラジルから日本へ渡った人がいる。これは別々の話ではない。日本からブラジルへ、そしてブラジルから日本へ、あるいはまた日本からブラジルへ、「移民」をめぐるひと続きの話だ。移民という日本語に対応する英語には、「immigrant」と「emigrant」のふたつがある。前者はある国、たとえば日本に「入ってくる人」を言い、後者はある国から「出て行く人」を指す。いまの日本で「移民」の響きがどこか遠くに感じるとしたら、移民に関して、「入る」「出る」のふたつの概念を区別する言葉がないというのも、そのひとつの証拠だろうか。でも、移民は自分とは無関係な話だと思っていたらいつか取り残されるのは自分のほうだと、私は途中でそう気づかされることになった。</p>

<p><br />
<B>プロローグ</B></p>

<p>　「準々決勝　ブラジル２、ロシア２、日本４」<br />
　2003年11月３日。東京・代々木体育館で極真空手の世界大会、第８回オープントーナメント全世界空手道選手権大会が開催されていた。仕事でどうしても会場に行けなかった私の元へ、この極真空手の世界へ私をひきこんだ男から実況中継のメールが刻々と携帯電話に届く。</p>

<p>　日本人が４人も残った、これはいけるかもしれない――。<br />
　</p>]]>
<![CDATA[<p> 　「準決勝　グラウベ vs プレカノフ、木山 vs テイシェイラ」<br />
　一気にブラジル勢ふたり、ロシア、日本がひとりずつに状況が変わる。ブラジルの新星、テイシェイラの試合はその前日、私も会場で予選の試合を観戦していた。長い足から繰り出される上段への廻し蹴り（頭やあごの付近を狙った足技）が、蹴った瞬間にまたビュンとのびる。（木山さん……）と心では応援するものの、もうだめだ、決勝はグラウベ vs テイシェイラのブラジル人どうしの対戦になるかもしれないという思いが頭をよぎる。</p>

<p>　さかのぼることさらに４年前の世界大会で優勝したのはフランシスコ・フィリオだった。1972年、極真空手の祖・大山倍達が言った「君、いってきたまえ」の一言で単身ブラジルに渡った磯部清次が作り上げたブラジル支部からの、はじめての優勝者だった。そしてそれは、極真空手の歴史上はじめて日本勢が王座を失った瞬間となった。</p>

<p>　磯部師範の人生は極めて珍しいものかもしれない。1972年、大山総裁に一年の約束で行って来いといわれたブラジル滞在は結局切り上げられることなく、もはや、ブラジルで骨をうずめる覚悟になった。息子、リュウジ・イソベはブラジル代表として極真の試合に上がる。そんな磯部師範もまた、「移民」と言われる存在だ。2004年に発行された『ブラジル日本移民　戦後移住の50年』の本のなかに、写真とともに紹介された彼の話を見つけることができる。</p>

<p><br />
<B>神戸と横浜</B></p>

<p><img alt="kobe1.jpg" src="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/kobe1.jpg" width="250" height="187" Hspace=10 Vspace=10 Align="right"></p>

<p>　いま、日本は外国人労働者の受け入れをあれこれと言い、入国管理局（入管）の文字を新聞で目にする日も多い。でも、神戸で蔦のからんだ建物を見上げ、そこに「Japan Emigration Center」の看板を目にした時には、「日本人には日本からの『出国』を意識する時代があったんだ」と思うと胸がつまった。生活に余裕があって考える海外移住の話ではない。日本では食べていけないという理由で、国をあとにすることがあった――。</p>

<p>　Japan Emigration Center。昭和３年に設立された国立移民収容所は、のちに神戸移住斡旋所、神戸移住センターと名前を変えたが、そこは日本から海外への移住を決意した人々が神戸港からの出航前の1週間ほどを、検査や買い物や予防接種のために過ごした場所だった。移民。日本には現在のように受け入れうんぬんをいうのではなく、「送り出し国」だった時代があった。そして、それはそんなにも遠い遠い昔の話ではない。</p>

<p>　いまも横浜と神戸のイメージは、外国の空気をふくんだハイカラな街といったところだろうか。共に山手から海をのぞむことのできる、旧外国人居留地を残すふたつの街は、一方でその港から多くの日本人を送り出した。いま、神戸には海外移住資料室（旧神戸移住センター）があり、そして横浜には海外移住資料館が建つ。</p>

<p>　阪神大震災からは３、４年が過ぎていた大学時代、友達や彼と歩いたときには神戸・元町の坂道がこんなにけわしいと感じたことはなかった。トアロードから一本入った道には大好きでよく通ったカフェ、ブラッスリー・トゥース・トゥースやモダナーク・カフェがある。そこからさら数本の辻を入る。鯉川筋。移民坂と言われるこの道をずっとずっと上がっていったところに、海外移住資料室（旧神戸移住センター）があった。その名前からはちょっと想像がつかないほどに、こじんまりと、ひっそりと、冷たい廊下の壁に資料が展示してあった。</p>

<p>　震災後、この建物にはCAP HOUSE というアート系のNPO団体が入り、ワークショップを開いたり活動の場としたりしている。震災後、神戸の街はことごとく新しくきれいになったから、それから思うと珍しく「新旧」が完全に入り混じった、真冬のひんやりが壁から天井から伝わってくる５階建ての古い建物だった。街を見下ろす３階の窓の脇の壁に、「What do you want to be, if you would be able to reborn?」という新しいペインティングを見つけた。CAP HOUSE で活動する人が書いたものだろう。「もし生まれ変わったら何になりたい？」と、その青い文字が問う。</p>

<p>　当時この高台にある建物からは神戸港が見えたという。いま、３階の窓から海は見えなかった。でも、この旧神戸移住センター前の坂をまっすぐに下っていき、途中の家々や大丸百貨店、右手に神戸の中華街を見て通り過ぎると、そこはメリケン波止場、神戸港。神戸の海に出る。海につながるその道筋の真っ直ぐさは変わらない。</p>

<p>　昭和３年から昭和46年まで。約40万人と言われる、神戸から海外へ移住した人たちは、どんな気持ちで神戸の時間を過ごしたんだろう。広島、富山、秋田……。家族一家で、70代の祖父母から生後数ヶ月の子までが揃って旅立った。20歳前後の青年がひとりで、自らの夢を切り開くため船に乗った。移住先で待つまだ見知らぬ夫の元へ「花嫁」として嫁ぐ女性もいた。旅立つきっかけはそれぞれだった。神戸を出て40日あまりたったら、ブラジルに着く。異国の地で「生まれ変わる」覚悟だったのだろうか。</p>

<p>　40日あまり、一ヶ月半の船旅は、それだけで人生の１ページになりうるものだった。藤崎康夫は1973年、船としては最後の移民を運ぶことになった横浜出航のあふりか丸に乗船している。週刊誌へ記事を寄稿するためだった。現在はブラジル国内で発行されている邦字新聞であるニッケイ新聞（日本経済新聞とは別のもの）の東京支局長をつとめる。</p>

<p>　藤崎が長年移民を運んだ船のパーサーに聞くと、ほんとうにいろんな人がいたという。日本で船に乗りこんだ花嫁側と、ブラジルでそれを待つ男性側の双方がお互いに違う写真を手にしていたこともあった。かと思えば、むこうに将来の夫が待っているはずの女性が、船のなかで別の男性と恋におちていた……。</p>

<p>　見知らぬ地での生活が、生まれ変わった人生の生活だったと私は思わない。それぞれ、ひとりひとりにとって、やっぱり人生はひと続きのものだ。そう思う。</p>

<p>　そして横浜の海外移住資料館。ＪＩＣＡと併設して建つこの資料館は新しく、立派な建物だ。写真やビデオ映像などの展示史料も、地域別、年代別に追ってきれいに並べられている。それらを見て、海外に渡った日本人に思いを馳せながら、でも「ちょっと待って」という気持ちが止まない。</p>

<p>　ひとつの理由は、それがＪＩＣＡ、国際協力機構の建物だからだった。いまＪＩＣＡといえば、青年海外協力隊をはじめとした開発途上国への援助活動、大災害が起きたときの国際緊急援助隊といった日本から海外諸国への援助を主な業務としている。だが、ＪＩＣＡの前身は日本海外協会連合会、海外移住事業団だったのだ。つまり、日本から海外への日本人移民の支援を業務の柱としていた。現在は開発途上国の援助を考える日本に、ほんの少し前まで、政府が日本国民を食べさせて行けないという理由で国民を海外へ送り出す時代があった。いや、いまも国民が政府のもとでハッピーに暮らしているかどうかはわからないのだが……。</p>

<p>　そしてもうひとつ、この日本人移民の話はまだ、こうやって箱のなかに展示して歴史としてしまっておく話ではないと思ったのだ。ちょうど海外移住資料館をたずねたころ、私はあるメーリングリストに移民の話を聞きたいという書き込みをしていた。パソコンを立ち上げてメールをあけるたび、アメリカのカリフォルニアから、カナダのトロントやバンクーバーから、そしてブラジル各地からメールが届いた。「こんな資料がある」「何でも聞きなさい」「誰々をたずねてみてはいかがか」。日系１世や２世と呼ばれる人たちからメールが届く。これは「現在」の話、まだ資料館に閉じ込めちゃいけないと思った。</p>

<p><br />
<B>日系ブラジル人寮の管理人をつとめて</B></p>

<p>　「あんたの国もたいしたことないねえって私、言ってやっただよ」<br />
　そんなことを言うから、私はびっくりしたけど、でもこういうことが言える人っていいなあと思った。</p>

<p>　きっかけは日系ブラジル人だった。東京に住んでいて日系ブラジル人に気がつくことはこれまでなかった。でも、愛知や静岡や群馬の工業地帯に「日系ブラジル人」がいると知って、「日系人？　ブラジル人？　日本の血をひいているなら、日本人じゃないの？」と混乱しはじめた。一番わからないのは「日系人」という言葉だった。ブラジルに住んでいても、日本から移り住んだっていうなら、それは日本人だろうと私は思った。</p>

<p>　静岡に、ヴィラ・ヴェルディという日系ブラジル人の住む寮がある。現在は人材派遣会社が管理する、いわゆる貸しアパートになっているのだが、佐藤恵津子はここで1993年から2003年までの10年間、夫と共に住み込みで寮の管理人をしていた。多いときは一度に100人ほどが住んだ。朝・晩の食事の支度、寮の管理が仕事だった。とても広いキッチンの調理台に、ある日はたとえば冷麺の皿がずらっとならぶ。味噌汁だったら具材も公平に入るように、まずはひとつひとつのお椀に具を平等に入れてから、汁を注いだ。大きな鍋に大きな調味料のボトルに、とにかく大人数が相手だった。</p>

<p>　佐藤家は元々、羽振りがよかった。自営の仕事をしていたが、バブルの時代に銀行は頼めばいくらでもお金を貸してくれた。帳簿は恵津子が管理していた。夫は借金の額をまったく知らなかった。ある日、恵津子は「おとうさん、いまだったら間に合う。全部売ってしまえば、何も残らないけど、でもマイナスにはならない」と夫に話した。90年代はじめのことだった。</p>

<p>　そしてそれは現実の話となり、見事にほんとうに何も残ることはなかった。家も、残らなかった。泣いて泣いて泣いて暮らしたある日、新聞の求人欄に「夫婦で寮の管理人ができる方」を不動産会社が募集していた。場所は同じ静岡県内だった。「おとうさん、こんなのどう？」「おまえがそれでいいっていうなら、一からのやり直しもいいな」。電話を掛けて、ふたりはその言われた場所に向かった。</p>

<p>　そこがまさか日系ブラジル人の住む寮だとは、一行も書いてなかったし、電話口でも一言も聞いていなかった。不動産屋が建てた４棟の建物。大手電機メーカー関連子会社が、その４棟を15年の約束で借り上げていた。工場で働く、日系ブラジル人が住むための寮としてだった。Ａ・Ｂ棟が独身男性寮、Ｃ棟が独身女性寮。Ｄ棟が子供のいない、夫婦用。日系ブラジル人が相手だというのは予想外だったが、でも新築のきれいな建物が気に入って、佐藤夫妻は寮の管理人として住み込むことに決めた。</p>

<p>　恵津子が言う。「私がごはん担当だったんだけど、何作っていいかわからなくてねえ」。杏仁豆腐はあまり食べられずに、そのまま残されていた。ある日、どんなものを食べているかと思って仲良くなっていた寮生のところへ食事を見せてもらいにいった。夫婦用のＤ棟には各部屋にキッチン設備もついているのだ。一口食べて、これはだめだと思ったという。味気というものがない。強いて言うなら、塩気だけ。</p>

<p>　「日本の料理は砂糖を使うでしょ。ブラジルはそれがまったくないの。味付けは塩とにんにくだけ」。和食の味の繊細さは、だしやしょうゆもさることながら、砂糖に決め手があったのだ。「でもやっぱり人間の体は糖分を求めるのよね。食事で糖分を取らないかわりにどうするかといったら、コーヒーにどぱーっと砂糖を入れて飲むのよ」。食事ルームの机においておく砂糖のスティックが入った箱は、すぐに空になる。</p>

<p>　寮内においてあった自動販売機の補充にくるお兄さんは、はじめてヴィラ・ヴェルディを尋ねてきたときにブラジル人が住んでいると知って、これはコーヒーが売れますねえとホクホク顔だった。でも充実した缶コーヒーのラインナップ、「無糖ブラック」「甘さひかえめ」はちっとも売れない。唯一、「ＵＣＣの缶コーヒー」だけが売れた。赤とコーヒー牛乳色に塗り分けられた、あの細いコーヒー缶。それは、日本ではもう製造が少なめになってきている種類だった。</p>

<p><img alt="ts1.jpg" src="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/ts1.jpg" width="250" height="187" Hspace=10 Vspace=10 Align="left"></p>

<p>　日系ブラジル人。ときに日本人そのままの顔をした、日本人の血をひいた人たち。でも甘い食事は口にしない、日本語が満足に通じない……。「『大変だー、大変だー』って最初のころは毎日言ってね、でも会社の所長さんがいい人で、私たちのことも、日系ブラジル人のこともよく面倒みてくれてね、それでやってこれた」</p>

<p>　1991年に入国管理法が改定され、日系２世、３世とその配偶者は、単純労働者としての日本入国が認められることになった。合法的な外国人労働者。90年代初頭から、ある商品がヒットし、電機メーカー関連子会社として部品をつくるその工場は大忙しだった。だが、エアコンという季節商品を扱うだけに、仕事の忙しさに季節変動がある。冷夏の影響もある。と思えば、暑い夏が見込まれる前の冬はフル稼働でも納品が追いつかない。</p>

<p>　工場では、不定期な仕事でも働いてくれる労働者が必要だった。バブル期、それは黙っていても仕事のある時代、中小企業にとって工場で働く日本人労働者を揃えるのはほぼ不可能だった。日本人は仕事を選んだ。そこで目をつけられたのが日系人だった。日本人を祖父母や父母に持つ家庭で育った日系人は勤勉だった。工場で同じラインに立ったときに、外見の違和感がないというのもポイントだった。そして、彼らは時間外労働をむしろ喜んで引き受けた。25％増しの残業代は大きな収入で、逆に残業がない仕事は、日系ブラジル人からは見向きもされないくらいだった。そうして需要と供給は、電機メーカーの工場側と日系ブラジル人側の双方で一致した。</p>

<p>　ヴィラ・ヴェルディの寮生だけで100人を超えることもあった。どうやってそれだけの人を集められるのかと思っていると、横のつながり、日系人どうしのネットワークの強さから、条件や待遇がよければどんどん集まってくるのだという。「うっかり誰かの悪口なんていえないねえっておとうさんと話してね。誰かのともだちは誰かの奥さんだったり、もう絶対に何かの縁でお互いがつながってるから」と恵津子は言う。</p>

<p>　でも、誰かの誕生日だといってはパーティーがあって一緒に踊ったこと。七夕にはポルトガル語でいいからと言って短冊に願い事を書いてもらい、笹の葉にかざったこと。夏休み、近くの川の上流に突然キャンプを張ってそこで１ヶ月ほど生活し始めた寮生にびっくりしながらも陣中見舞いに言ったこと、そのときの差し入れはたくさんの刺身、でもとにかく日系ブラジル人はまぐろの赤身をおいしいおいしいって食べるけど、それ以外の刺身はだめなこと。そんないろんなことを楽しそうに語る様子に、それがいかに恵津子にとってのよい思い出だったかがじんわりと伝わってくる。</p>

<p>　ある日、伊勢志摩に旅行に行ったとき、仲のよかった元寮生につくりものだけどパールのネックレスを買って帰った。「エツコさんありがとう。すごくきれい。ブラジルに帰ったら外にはつけて出られないけどホームパーティーでつけるね」。聞くとブラジルでパールのネックレスなんかを身につけて外にでたら、それを目当てにネックレスもろともひっつかみ、ひきちぎられてしまって危険なのだという。それくらい治安が悪い。それを聞いた恵津子の言葉が、冒頭の「あんたの国もたいしたことないねえ」だった。</p>

<p>　日本に来て、特に子供が産まれた夫婦・家族は、ブラジルと比べた日本の治安のよさに、そのまま定住を決める人もいるという。彼らにとって、けっしてそれは予定していたことではなかった。よく家が建てられるなと思うこともあるが、それくらいによく働く。そして会社の面倒見のいい所長が、保証人にもなった。</p>

<p>　あるとき、日本語の分からない寮生がもらった給料明細を持ってきて、これは何の控除かと聞く。明細をのぞきこんで恵津子は腰を抜かした。そこにあったのは、管理人として働く夫婦ふたり分を合わせた額よりもまだ多い手取り額。その晩は夫婦でやけ酒を飲んで寝たという。3000万円近くも貯めて、ブラジルに帰った寮生もいた。「彼のところにだけは銀行から盆暮れの挨拶が届いていたものねえ」。でも、そんな彼らを見て「自分たちも負けていられない。もう一度家を建てる」と、夫妻は心を奮い立たせた。</p>

<p>　寮の近所の人たち全員がよき理解者だったわけではない。「ブラジル人は人前でもキスしたりべたべたしたりするでしょ。まわりの日本人のなかにはそれが子供の教育によくない、って言う人もいたしね」。でも、夜遅くまでパーティー騒ぎになることがわかっている日にはあらかじめ佐藤夫妻が近所に挨拶にゆき、時には「今日はこれまで」と電気を消し、そんなふうに寮生に対しては手綱をひいたりゆるめたりして、近所にも気を配った。大変なことも多かったけれど、でも日系ブラジル人の寮生はいい子たちだという思いがあるから、そうやっていろんなあれこれの世話を焼くことができた。</p>

<p>　夫はある日恵津子にこんなことを言ったという。「いやあ、そういえば俺もむかし、ブラジルに移住しよう、っていう話を聞いたことがあったなあ。もしあのとき、話に乗ってブラジルに移民に行ってたら、今頃は日系人として出稼ぎに日本に戻ってきてたかもしれないなあ」</p>

<p>　人生はわからない。たとえ同じ時代を生きたとしても、同じ国に生まれたとしても、誰一人としてまったく同じ道を寸分たがわず歩くことなんてないのだ。</p>

<p><br />
<B>1962年、ブラジル移住</B></p>

<p>　山野正雄は現在、ブラジル・サンパウロに住む。高校時代の成績からすると東大合格は間違いなかった。でも、そうはならなかった。1962年、ブラジルに渡った理由のひとつは失恋だった。その彼がこの２月の終わりに、ちょうど10日ほど日本に戻っているとのことで、横浜そごうで待ち合わせた。</p>

<p>　目の前で話をする72歳の山野は、どこをどう切り取っても日本人だ。国籍は日本。ブラジルについては永住権を持つ。そして彼を別の名称で呼ぶならば「日系１世」となる。妻は日系２世で、日本国籍とブラジル国籍の両方を持っている。ふたりの子供は、2.5世だろうか。ただ、実際上は0.5刻みの呼び方はないので、子供たちは日系３世ということになる。長男はブラジルで家業を継ぎ、次男は日本で仕事を（この７月に家族も日本に来る）、娘はアメリカで仕事をしている。娘はアメリカ人と結婚して、アメリカの永住権も持つ。</p>

<p>　「本を読んでてもやっぱり日本語が一番落ち着くね、ポルトガル語を読むときは気合を入れないとね」。そんな話を聞いていたら、昨年春の芥川賞、綿矢りさの『蹴りたい背中』と金原ひとみの『蛇にピアス』を両方読んだのだけど、あれはどこまでが実話なのかなあと尋ねられて、私はほんとうに粟食った。だいたい私は『蛇にピアス』を読んでいない。「日系人」だと思って、どこか日本人と切り離した感覚で話をしている場合ではない。ブラジルでＮＨＫの衛星放送を見ているので、『英語でしゃべらナイト』が話題にでてくるし、とにかく話にギャップがないのだ。</p>

<p>　日本とブラジルの地域差を感じさせないのはもちろんのこと、世代間の差さえ飛び越えてしまったかのような山野を前にして「この人は例外かもしれない……」とは思いつつ、でも彼もまた戦後のブラジル移住者であることは、間違いのない事実なのである。</p>

<p>　山野がこう言う。「移民の先行研究はたくさんあると思うけど、優れたものもいっぱいあるけど、でもそのほとんどは戦前移民のことを取り上げたもの。余力のなかった日本政府がいかに貧困の農村部の人たちをまるで捨てるかのように海外に送り出した、そういう話が多いね。それに、戦前に移住された方が苦労したっていうのは本当の話。でも、私は戦後ブラジルに移住して、苦労したことはひとつもない。苦労といえることはほんとうにまったくなかった」</p>

<p>　1970年代、ブラジルの景気はほんとうによかった。ブラジルに進出しない日本企業は探すほうが難しかった。山野はすでにブラジルに渡っていたが、ある日本企業に、現地採用ではなく本社採用扱いということで入社し働いた。「日本で日本人と話をしていてブラジルに移住したという話をすると、いまでも『苦労されたんですね』って言われるけどね。いちいちそれを否定するのもなんだし、『そんなことはないですよ』とあえて反論することもあまりしないけど……」</p>

<p>　ニッケイ新聞という、ブラジル国内で発行されている邦字新聞がある。そこで、「南米移住史を日本の教科書に！」という連載があった。日本の小・中・高の歴史教科書には、南米移住・移民の話がまったく掲載されていない。日系社会にそのことが伝わると、なぜだと驚きの声があがったという。</p>

<p>　それはもうひとつの歴史教科書問題とでもいえるだろうか。ここにも「自虐史観」という言葉がでてきた。石川達三の『蒼氓』、棄民のイメージ。農村から移住して、入植地で積み重ねた苦労。移民である自分たち自身がそんな自虐史観をもってしまったら、プライドをもった移民像、自ら道を選んだ、切り開いた移民のイメージがでてこない。そんな声が日系社会からあがってくる。確かに戦前、そして戦後すぐのころ、国民を食べさせていけなくなった日本政府側には、「海を渡ればよい生活が待っている」と国民をだまして移住させた側面があるかもしれない。でも、ひとりひとりにとっては、だまされたんじゃない、自分で行ったんだ、という思いがあるのだ。ブラジルで１万円稼いで戻ってきたら、日本ではその30倍、30万円の価値があると聞き、「ブラジルで成功する」「南米で稼ぐ」という意識を持って海を渡った。</p>

<p>　戦前の農業移住者の苦労ははっきりと知っているし、それが事実だというのも心底知っている。でも、ネガティブなイメージだけではない。移民には、前向きな気持ちもある。「南米で成功する」と思いをきめてブラジルにやってきた。教科書には歴史事実として南米に渡った日本人のことを紹介して欲しい。でも、日本の国策によって送り出された悲しい人たち、そういった書き方だけで片付けるのはやめてほしい。ニッケイ新聞の連載は、そんな交錯する日系人の思いを、あっちの声もこっちの声も、そしてまたあちらの思いもこちらの思いも伝えていて、だからこそ答えはないのだけど、読む側もまた、考えさせられる。</p>

<p>　山野も言う。「日本人はすぐに型にはめて考えるけどね。ひとつなわけないよね」と。山野の妻は日系２世。戦前にブラジルに渡った日本人の子供だ。妻は日本語を話す家庭環境で育ち、日本語に不自由はまったくない。でも、ほんとうに細かいニュアンスで伝わらないことが時々あると山野は感じている。「わたしはだから、日本からＪＩＣＡを通じてボランティアに来る若い子たちなんかと話しているほうが、日本語としての感覚がはっきりと伝わるからそのほうが楽しいときもあるんですね」</p>

<p>　そんな山野の妻の友達、日系２世の友達仲間には、ブラジル人（つまり非日系人）と結婚した人たちもいる。彼女たちは、「いまの結婚にはとても満足してる。でも、もう一度やり直せるなら、日本人と結婚したい」と言うのだという。</p>

<p>　自分の人生は、たぶん自分自身が受け入れるもの。誰も引き取ってはくれないから。そして他人の人生には、勝手にラベルをはるのではなくて、寛容になること。大げさだけど、そんなことをぼんやりと思う。</p>

<p><br />
<B>日本人歌手の南米公演</B></p>

<p>　そして、それでも私はまだ日系ブラジル人の「日系」の部分をわかりえず、もっと知りたくてさかのぼっていったら日付けは1908年までたどり着いた。1908年、笠戸丸が横浜を出航してブラジルのサントスに入港したのが６月18日。それが第一回ブラジル移民のはじまりだった。井上祐見は2003年、その第一回の移民船に乗っていた96歳になる中川トミに会っている。</p>

<p>　日本では買うことのできない歌がある。それは日本の事務所に所属する、日本人歌手の歌であるにもかかわらず。タイトルはポルトガル語で「En sou Japonesa」。訳すと、私は日本人女性です、となる。この曲は、南米でしか歌われない。</p>

<p>　29歳の演歌歌手、井上祐見は1999年から６年連続で南米公演を続けている。「わたし、南米で日本のおじいちゃんおばあちゃんに歌を聞いてもらいたい」と井上がつぶやくのを聞いたとき、マネージャーの中嶋年張は「それはいいねえ」と答えた。でも、それからしばらくたって、「ほんとうに行けますか」ともう一度聞かれたとき、これは本気だと中嶋は慌てたという。</p>

<p>　そこからは大変だった。でも早かった。考えつく限り、たとえば大使館だとか領事館だとかに話をして、1999年の年明けにはブラジルのサンパウロ・アサイ・スザノ・イビウーナで４都市４公演を行った。そこから途切れることなく年に一度南米公演を続け、ブラジルだけでなく、パラグアイ、アルゼンチン、ボリビアと踏み入れる場所はひろがっている。7年目となる今年は、南米のスイスといわれるウルグアイにも行く予定だという。</p>

<p>　その行く先々に、日系人社会がある。日本から演歌歌手が歌いにきてくれる。そう知って車で25時間かけて会場にくるひとがいれば、街灯のない道を懐中電灯で照らして足を運ぶひともいた。最初の年、井上祐見は日本では30分ほどのステージをこなしたことがあるくらいの歌手だった。でも、そんなことはもう言っていられない。マネージャーの中嶋も直前の直前まで進行表を書き、井上は２時間40分のステージをつとめあげた。この年の公演、最長時間は３時間20分にまで及んだ。</p>

<p>　いま、「南米日系人社会が育てた演歌歌手」といえばそれは井上祐見の枕詞だ。南米での公演実績は、いまや井上祐見が日本人で一番である。</p>

<p>　彼女が公演で語る言葉がある。「日本には四季があります。でも、わたしにはもうひとつの季節があります。それは、南米という季節です」。彼女には毎年めぐってくる、南米公演という５つめの季節。</p>

<p>　公演は２部構成の演出を行う。前半はみんなで楽しめるような、ノリのよいものを。はげ頭のかつらをかぶって、もんぺにエプロンをして、スケートボードで観客席をまわったこともある。そうやって、いかにもブラジル仕様の陽気な心を盛り上げたあと、後半はじっくりと歌い上げる。それは観客にとって、まさに「日本の心」をゆさぶられる時間になる。</p>

<p>　「En sou Japonesa」<br />
　　移住坂を登れば　神戸の街並み　海の向こうは　異国の空よ<br />
　　ドラが鳴る　別れの　メリケン波止場は<br />
　　涙たそがれ　いつか戻ると　心に誓う<br />
　　En sou Japonesa 　いつまでも<br />
　　En sou Japonesa 忘れない<br />
　　いつも心に　抱いている　白地に赤く燃える想い</p>

<p>　ブラジルに四季はない。夏と冬。そんなブラジルで苦労を重ねてきた、自分の祖父母にもあたる世代の１世の人たちに、日本の四季の心を思い出させてあげたい。春夏秋冬と喜怒哀楽はともに４つ、それらは重なるかもしれない、そんな日本の心を私も持っている、そして聞いてくれているみんなも、と井上が歌う。</p>

<p>　あるとき、いさかいがあった。大いに盛り上がった前半が終わり、ステージも後半にうつったときのこと。じっくりと歌を歌い始め、それにじっと前列で聞き入る1世のおじいさん、おばあさんがいた。だが、後方で騒ぎがおさまらない。一緒に会場に来ていた２世、３世が前半のノリのままに立って手拍子を続けて踊り、いっこうに静かにならない。マネージャーの中嶋は、会場内の進行を手伝ってくれている現地の日系人スタッフに、あの人たちを静かにさせてくれと頼んだ。</p>

<p>　「中嶋さん、それは違う。彼らは喜んで盛り上げようとしているんだ。止めることはない」「いや、止めてくれ。前の方で聞いてくれている人たちに迷惑だ」「どうして？　楽しんでるのに、どうして止める必要がある？」「わたしたちは、１世のおじいさんやおばあさんに日本の歌を聞かせたくてここに来てるんだ」</p>

<p>　「いや、これからは２世、３世の時代。せっかくこうやって彼らも会場に来てくれて日本のことを好きになろうとしている。彼らのそんな気持ちを大切にしてあげてほしい」</p>

<p>　中嶋にとっても、それは十分に分かる話だった。でも苦労した方々に、今日はせめてでも日本からの歌を聞いて、安らかな時間を過ごしてほしい、そう思ってやってきていることは絶対にゆずれない。これは、遠く日本から離れた地で望郷の念を持ち続けた人たちへ贈る時間……。若い日系人スタッフと中嶋、両者の思いは決して交わらず、平行線をたどるしかなかった。</p>

<p>　パンツスタイルの上から浴衣をはおったり、工夫して着物を上下に切り分けて着たり、「正統派」ではない井上祐見のスタイルに、「日本から歌いに来るなら、せめて振袖の３枚でも用意してきなさい」と言ってきた人もいた。でも、「あの人のことは放っておきなさい。日本からわざわざ南米まで私たちのために歌いにきてくれる。それだけで十分わたしたちには伝わる」と、そっと話しかけてくれた人もいる。</p>

<p>　そんな南米公演を続けているうち、マネージャーの中嶋の元に「あんただったら読んでくれるかと思って。もらってくれるか？」と言って、分厚い本を持ってきた人がいた。それは本とはいえないかもしれない。Ａ４のコピー用紙にタイプしたものに、二穴パンチで穴をあけ、プラスチックの板で表と裏をはさんで閉じたもの。厚さは３センチ以上はある。</p>

<p>　縦書きで「お母さんありがとう」と書かれた表紙をめくると、「随筆集　まだ出来上がっていませんが、お送り致します。日本には日本の心があり、ブラジルにもブラジルの心があるとともに、移民の心、日系人の心を書くつもりで頑張っています」。同じ言葉のポルトガル語訳、そして自筆の漢字のサイン。その横に、丸い判子が押してあった。ブラジルの地でつくった冊子の１ページ目に、朱肉につけた判子がまっすぐに押されていた。</p>

<p>　1928年に家族でブラジルに移住した。それ以前の一家の歴史。移民船のなかでのできごと。渡ってから起きた数々のエピソード。時に、自分たち家族だけのことではなく、関係の深かった家族のことも書いてある。移民の歴史一般の資料、たとえば移民船の航路を印した地図、折々の家族の写真、ポルトガル語で書かれた資料、日本語の新聞記事の切り抜き、そういったものが丹念にコピーされてある。</p>

<p>　それは、幼少のころに家族に連れられてブラジルに移民したあるひとりの人生が、自らの手で丁寧に丁寧にバックグラウンドも含んで書かれた、まさに史料的価値のあるものだ。でも、それがたとえば立身出世の成功体験を書いたものかといえばそんなおごりはただの一行だって見当たらないし、ただのひとつも行間ににじむことさえない。</p>

<p>　彼にそれを書かせたものはいったい何なのだろう。後世に残さんとするその思いはどこからでてくるのだろう。移民の人生に、背伸びしても背伸びしても私の手は届かない。</p>

<p><br />
<B>ハイブリッドな日系人社会</B></p>

<p>　戦前の移住者はブラジルの地を夢見て、日本よりもはるかに経済の進んだブラジルでお金を稼ぎ、日本の故郷に錦を飾るつもりだった。いま日本で働く外国人労働者を「出稼ぎ」と呼ぶなら、戦前に移住した日本人の気持ちもまた、「出稼ぎ」のつもりだった。</p>

<p>　しかし、与えられたのは荒地だった。どうやったって、食べていくのに精一杯だった。都市へ出た人もいる。別の地へ、別の地へと移っていった人もいる。日本に戻った人たちもいた。でも、大概の日本人はまず物理的、経済的に動くことができなかったし、そして精神的にも、あれだけの見送りをしてもらった故郷へおいそれとは帰れないと思った。そうやってそこに根を生やし、コミュニティをつくっていった。同じ時期に同じようにやってきたイタリア人移民には、だめだと思ったらイタリアに戻っていった人たちも多かったという。でも、日本人移民は簡単には動かなかった。動けなかった、と言えるかもしれない。</p>

<p>　そんななか、家族で移住したひとたちは子供たちが絶対に日本を忘れることのないよう教育したという。いまでも俳句や歌を詠む会がブラジルの日系人社会にはあり、見事な折り紙細工を折りあげる伝統も残っている。</p>

<p>　第二次世界大戦中、日本に戻っていた日系人は２世も含めて日本の軍隊に徴兵された。だが、戦争が終わった途端に、ブラジルと日本の二重国籍をもつことが問題にされた。そして、「日本の国籍を捨てて、ブラジルに戻れ」と言われた。</p>

<p>　戦争直後の荒廃した日本が、けっして住みよい国だったとは言えないだろう。夢を持てるような余裕も日本にはなかっただろう。もしかしたら、ブラジルで生きていくほうが為になるとすら思える時代だったのかもしれないではないか。そんな指摘を目にしたとき、私の心は止まった。ぐうの音もでなかった。でもやっぱり、どうして一介の日本人が、ブラジル国籍をもつという理由で日本人高官に「ブラジルに帰れ」と言われる必要があったのか、せめて本人自身が日本に残るかブラジルへ渡るかを選ぶことはできなかったのか、私にはどうしてもわからなくて、頭のなかがいっぱいになる。</p>

<p>　さらに、戦時中もブラジルにとどまった日系人にとって戦争が終わったこと、まして祖国日本が敗戦したことは、なかなか理解できるものではなかった。だんだんに情報が伝わって、そのことが頭の中でわかりはじめてからも、戦後の日本をいっぺんに覆いつくしたアメリカ民主主義の風は、遠くブラジルの日系人社会まで、そう簡単には届かなかった。</p>

<p>　戦後10年、20年がたち、戦後の移住者がブラジルに渡ったとき、同じ日本人どうし、日系人どうしで衝突が起きはじめた。ブラジルで、戦前と変わらない日本人教育を家庭で受けて育った日系人と、日本で戦後民主主義の風にあたってブラジルに渡ってきた戦後移民はかみ合わなかった。いったいどちらが日本人なのか……。いま、日本人以上に日本人らしいといわれる感覚が南米の日系人社会で聞かれるのは、そんな戦前からの移住者、その子供たちがまだいるからだ。</p>

<p>　話は確かに複雑だ。でも歴史は止まることなく次の世代へ次の世代へと、しかもその世代は重なり合いながら続いていく。</p>

<p>　群馬・大泉のブラジル人タウンの様子などを撮っているカメラマンの佐藤隆行が言う。「僕が日系人のことに興味を持ちはじめたのは、そして現在まで、飽きもせず撮影を続けているのはそれが『途切れてしまった歴史』ではなく『いま、現在まで続く歴史』そして『共存する未来』を彼らから感じたからだと思います」</p>

<p>　日本から海外に移住した人たちがいた。そして、その生活は過去形の話ではなくて現在形で続いている。そしてさらに本人やその子供たちが日本にやってきている。「出稼ぎね、またブラジルに戻るのね」という話ではない。海外における日系人社会を見て、日本の昔のムラ社会が続いていると言っては目をそらし、日本に来る日系ブラジル人を便宜上合法的な労働者、そして一方で外国人扱いしていては、いつか日本に住む日本人、自分たちの足元がすくわれると、だんだん感じてきている。だが決してここで日系人脅威論を語りたいわけではない。</p>

<p>　去年9月、小泉首相はブラジル訪問の際、グァパタラの日本人移住地に「歓迎」の文字が書かれているのを上空ヘリコプターから見て、急遽その場に降り立った。そして、彼は移民の話を聞いて、苦労されたんですねとブラジル国内で涙を見せた。そのときは、また一級のパフォーマンスだなあと思っていた。でも、ただ日本から小泉首相の動向を眺めるのではなく、移住地にいる日系人の気持ちになって考えると、心がないのは、小泉首相の涙をただのパフォーマンスだと鼻で笑ってしまう自分のほうだった。「これまで日本の首相の誰が私たちのために泣いてくれたか」とそういう捉え方をする人もいたのだ。「En sou Japonesa」の歌詞にある、「白地に赤く燃える想い」。今回のこの文脈で聞いていなければ、私は「また日の丸だ」と思って間違いなく拒否感をもったと思う。</p>

<p>　海外に移住した日本人のことを考えると、そんな自分の価値観がことごとくひっくり返されはじめた。さすがに私もそれには慌てた。混乱もした。</p>

<p><img alt="ts2.jpg" src="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/ts2.jpg" width="250" height="187" Hspace=10 Vspace=10 Align="left"></p>

<p>　なんでこんなに揺れるんだろう。そう考えたとき、大阪で生まれ育って現在は東京在住の、日本人であるところの自分の姿に行き着いた。日本に生まれ育った日本人こそ、なにも日本を知らない。よく言われることだ。一度は海外留学も経験し、「日本人」である自分を意識したこともあったはずなのに、結局またそこに戻ってしまった。</p>

<p>　外国人との対比で考えたことはあった｢私は日本人」の意識。今回は「日本人とは」の話を日系人、つまりは海外に移住した日本人に気づかされたみたいだ。２世、３世、４世と世代が変わってくるにつれて、彼らのなかに出てくる揺らぎや弱さは絶対にあるはず。ブラジル国内の日本人家庭で育った子がブラジルで教育を受けて、ブラジルで大学を出ている。もう何代も。そんな日系２世、３世である日系ブラジル人が日本にやってきて、その子供が今度は日本で育って日本の大学を出ている。</p>

<p>　「私は何者？」。ひとりひとりが、そのコミュニティが考えてしまう問題だろう。「日本人の顔をした」日本語を話せない日系ブラジル人は、日本に来てますますそのことを実感するのかもしれない。しかも、日本人は彼らを外国人扱いするのだから。</p>

<p>　でも、ハイブリッドな育ちや血のその複雑さは、難しさも当然生み出すだろう一方で、必ず強さも発揮すると私は思う。</p>

<p>　横浜移住資料館に寄った帰り道、横浜の街で聞くとはなしに前を歩く女子中学生の会話を聞いていたら、「わたし、外国人じゃなくてハーフがいい！　ハーフとつきあってみたい」としゃべっている。「ひゃあ、いろんな子がいるもんやなあ」とそのときはびっくりしながら思ったけど、あの女の子は意外にも本質をついていたのかもしれない。なにが格好いいか、どこに強さがあるか、本能的に無防備に見抜いているのかもしれない。</p>

<p><img alt="ts3.jpg" src="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/ts3.jpg" width="187" height="270" Hspace=10 Vspace=10 Align="right"></p>

<p>　ブラジルは日本人移民だけではなく、イタリアやドイツなどたくさんの国の移民からなる多民族国家である。ブラジルで学校や大学に進めば、ネットワークは移民どうしを通じて一気に世界にひろがる。日系２世、３世を都合のよい労働者として入国させ、「出稼ぎ者」、一時の滞在者ととらえているならば、もう一度ちゃんと鏡のなかをのぞいたほうがいい。逆に彼らは日本を単に「拠点」、あるいはステップアップとしている可能性がある。ビジネスは日本国内だけでするものじゃない、ブラジルにいようが、たとえ日本にいようが、相手はどっちみち世界。そう考えている。</p>

<p>　日本とブラジルなどの二重国籍を持つ人はどんどん増えている。日本は二重国籍を認めていない国なので、日系人社会では「大使館なんてめったに行くものじゃない」と思っている人もいるという。そんなところに顔を出したら、日本国籍を選ぶのか選ばないのかと迫られるから。</p>

<p>　日本国籍のパスポートを持っていたら、世界中をフリーパスで行けるようなものだ。それを「すごいことだなあ」って思えるならまだいいだろう。「当たり前だ」と思っているなら危ない。そんな情勢は、いつひっくり返るかわからない。日本で生まれ育って日本人であることをなにも意識しないまま過ごしていたら、いつか足元の板をはずされたとき、何につかまってよいかわからないまま真っ直ぐにストンと闇のなかに落ちてしまうことになると思う。</p>

<p>　そうはいっても、簡単に日本人「だけ」である自分の立場を変えられるわけではない。日本人であるしかない自分の状況は怖いなと思う。でも、せっかく日系人社会のネットワークが南米や北米を中心にひろがっているのだから、時には彼らに助けてもらったらいいじゃない。そう考えたら、少しほっとする。日系人のネットワークを活用するという「恩返し」の形が日本人のなかにあってもいいと思うのだが、どうだろう。</p>

<p><br />
<B>エピローグ</B></p>

<p>　ある日、大江健三郎の『沖縄ノート』を読んでいた。日系人の歴史や生活を見聞きするなかで、日本人であるしかない自分の姿を考えるなか、本土復帰前の沖縄に住む友人たちと会話し、沖縄人である友人たちと自分を照らし合わせることで本土に住む日本人であるところの自分を反問する大江の言葉の一行一行をなぞっては自分も深くうなずきながら、でもどうしても看過できない箇所があった。</p>

<p>　大阪万国博覧会の開会式が行われた日、大江はただひとつも沖縄のことが触れられずに進んでいくテレビのなかの万博式典の様子を観ている。そして結局何も沖縄が触れられなかったその日の夜、沖縄の植民地でランバート高等弁務官夫妻が見物するなか闘牛が行われている様子を放映するテレビを目にして、こう書く。</p>

<p>　「闘うな！　このようなカメラの前で闘うな！（中略）沖縄などどこふく風といった万国博の開会式典の中継のあと、一服した日本人に、風変わりな南風風物のスケッチをやってみせるようなテレヴィ番組のために、牛の豪傑たちよ、闘うな！」そして続ける。「僕は自分の書棚の前にひきあげて中野重治氏の文章の一節を読んだ。（略）≪……生きた牛をなぐりたおして、角をもぎ取って殺してしまうといった犯罪映画を、唐手の宣伝映画のようにして映倫が通してしまったのである。（略）あの実写映画は、唐手にたいする、沖縄にたいする、そもそも人間にたいするひどい侮蔑映画だったと私は信じる。≫」（大江 1970 pp.184－185）</p>

<p>　それは名前こそ出していないものの、極真空手を創設した大山倍達が牛と戦う様子を撮った記録映画をさしている。フルコンタクト、実際の殴り合いを認める実践空手である極真空手は見る人が見たら、野蛮なのかもしれない。</p>

<p>　だが、極真空手は一見した野蛮さのむこうで、確かに世界平和を目指した。極真空手の会員は現在、全世界で2000万人ともいわれる。</p>

<p>　大山倍達は、朝鮮人だった。彼はだが、日本国籍を取得し、日本人になった。そして「日本」の空手を世界にひろめた。大山総裁亡きあと極真会館の会長を引き継いだ松井章生は、在日朝鮮人である。彼は生前の大山がどんなに言っても、朝鮮国籍を捨てていない。そして彼は日本代表として戦った。極真の世界大会の、ずっと途切れなかった日本人王座。その第４回の王座は松井がとったものだ。そして、ブラジルに渡った磯部師範の息子はいまブラジル代表である。</p>

<p>　国籍や、ルーツのうんぬんをいうのは絶対にたやすいことではない。そして、他人のそういう出自を口にするのが一番はばかれるのは、なにも迷うことなく日本人であってしまう、自分自身だと思う。</p>

<p>　2003年。第８回の世界王者は木山仁がとった。ブラジルから日本に王座が戻ってきた。</p>

<p>　日本人選手は次の大会でも、「絶対に日本が負けてはならん」と言い続けた大山倍達の言葉を背負って戦うだろう。でも、今度はまたブラジル勢が勝つかもしれない。あるいははじめてロシアの選手が優勝するかもしれない。</p>

<p>　私は次の大会でも日本人選手を応援すると思うけれど、でも内心で「もうだめかもしれない、負けるかもしれない」って毎試合ごとによろめいてしまう気がする。いや、でもそのころまでには移民の「前向きさ」にもっともっと触発されて、心の持ちようがポジティブになっているだろうか。</p>

<p>　次の極真世界大会は2007年。そしてその次の年、2008年に日本人移民のブラジル移住は100周年をむかえる。</p>

<p>以上すべての写真<br />
Photo by Takayuki Sato</p>

<p>参考資料<br />
石川達三　『蒼氓』　新潮文庫　1951<br />
大江健三郎　『沖縄ノート』　岩波新書　1970<br />
桑原靖夫　『国境を越える労働者』　岩波新書　1991<br />
深沢正雪　『パラレル・ワールド』　潮出版社　1999<br />
藤崎康夫　『ブラジルの大地に生きて』　くもん出版　1998<br />
ブラジル・ニッポン移住者協会　『ブラジル日本移民　戦後移住の50年』　2004<br />
『大山倍達とは何か？』　ワニマガジン社　1995<br />
『海外移住』　2003年12月号<br />
『海外移住』　2004年9月号<br />
『季刊　海外日系人』　1977年5月号<br />
ＮＨＫスペシャル　移住31年目の乗船名簿　前・後編<br />
「ニッケイ新聞」　http://www.nikkeyshimbun.com.br/<br />
「ブラジル・サイト」　http://www.brazil.ne.jp/<br />
「私たちの40年！あるぜんちな丸同船者寄稿集」　http://40anos.nikkeybrasil.com.br/</p>

<p>注：文中では敬称を省略させていただきました。なお、山野正雄は仮名です。</p>]]>
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</entry>
<entry>
<title>『ＥＤと男の自尊心』河合顕子</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/2005/03/post_19.html" />
<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-03-02T07:12:57Z</issued>
<id>tag:www.journalistcourse.net,2005:/blog/1.20</id>
<created>2005-03-02T07:12:57Z</created>
<summary type="text/plain">はじめに　 　これは、私のドキュメンタリー作品の付録資料である。映像作品は、生の声にこだわったため、取材インタビューを中心に構成してある。しかし、取材はあくまで、私自身がこの目で見ることができた範囲内での事実であり、それはＥＤを巡る状況のほ...</summary>
<author>
<name>河合</name>


</author>
<dc:subject>修了課題</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.journalistcourse.net/blog/">
<![CDATA[<p><strong>はじめに</strong>　<br />
　これは、私のドキュメンタリー作品の付録資料である。映像作品は、生の声にこだわったため、取材インタビューを中心に構成してある。しかし、取材はあくまで、私自身がこの目で見ることができた範囲内での事実であり、それはＥＤを巡る状況のほんのある一面にすぎない。偏りも見られるだろう。<br />
　ＥＤは、男性の自尊心だけでなく、女性の自尊心とも深く関わっている、人間にとって極めて重要なテーマである。ＥＤは治療可能、つまり悩む必要はないように思われるのだが、そうもいかない。現場は深刻であり、その背景は実に複雑だ。<br />
　男女関係なくあなたが人間である限り、ＥＤはいつもそばにある。その距離は、年を重ねるごとに、縮まるいっぽうだろう。ＥＤの原因はさまざまであるが、ＥＤが精神に与えるダメージは強力であり、それを悩みとするか、自然に受け入れられるかで、あなたの人生が変わる可能性もある。<br />
　もし、あなたがＥＤを真剣に考えるならば、映像を見る前にこれを読んで欲しい。ＥＤは「起つ」「起たない」の問題なのか。なぜ、複雑かつ深刻になってしまうのか。一人一人の理解が、ＥＤのイメージを明るく変えてゆく力になる。<br />
　ＥＤから目をそらすなんて、今やナンセンス。切りたくとも切れない縁ならば、開き直って受け入れる。どうせなら、仲良く明るく楽しく。直面したとき「下を向いたら損」、それがＥＤである。</p>

<p><img alt="河合修了課題完成_0005 117_0001.jpg" src="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/河合修了課題完成_0005 117_0001.jpg" width="220" height="160" /></p>]]>
<![CDATA[<p><strong>「ＥＤと男の自尊心」資料メモ</strong><br />
　<em>女の前できちんと勃起できるのか、そして女を感じさせることができるの<br />
　か。これが男に課せられた試練である。それを上手にやり遂げることで、男<br />
　は自尊心を持つことができ、自己肯定できる仕組みになっている。</em>　　　　　　　　　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『感じない男』森岡正博、ちくま新書、２００５年）</p>

<p>　勃起は自尊心の象徴であると言う男性は多い。「ＥＤになって、男でなくなったような気がふっとする」、「勃起というのは、やはり男のシンボルですよね。それが回復するというのは、仕事をするにしても、あらゆる面で自信につながるように思う」（ファイザー製薬ＨＰ）<br />
　「僕たちの年齢になると、これまでに築いてきた仕事や社会的立場というものがありますから、これらはできれば崩されたくないですよね。その点、ＥＤはどうしてもダークなイメージがつきまとっているために、やはり誰にも知られたくないというのが本音でしょうね」</p>

<p><strong>日本人の気質</strong><br />
①受け身姿勢が基本・・・慢性疾患患者のうちＥＤについて相談意向を有している患者は各年齢で２～３割いた。それらの者の相談意向の強さは、「条件が整えば必ず相談する/是非相談してみたい」が４０歳代の８０％、５０～７０歳代以上の６０％であった。その条件として回答者の約半数が、「医師から何気なく聞いてくれたら」をあげた。（『性差と医療』）<br />
②日本ではＥＤの理解が非常に遅れており、ＥＤの社会的地位はまだまだ低い。</p>

<p><strong>女性問題</strong>（アエラ２００５年２月７日号）<br />
　「でも女って、女として扱われることで、かわいくなれるものでしょう」。ただし、女も、女として扱われたいのならば、女らしさを保つ努力が必要である。<br />
　セックスレスになるきっかけで１番多いのは妻の拒否であるが、夫がしてくれないという妻の悩みも深刻である。妻たるもの、夫に誘われてなんぼという意識がどこかにあり、自分から「セックスしよう」と言えないことが多い。夫は夫で、何回か拒まれると、「じゃあいいよ」とふてくされてしまう。お互い変なプライドが邪魔して、男と女になりきれていない。<br />
　「夫に相手にされなくて、ほかの男に抱かれてしまう女性の気持ちがよくわかる」<br />
　奥さんたちの方が深刻に悩んでいるケースも多い。ＥＤの本人は、探せば意外と簡単に見つかる。大体の人は、「まあ、そのうち治るだろう」など、いつかは上手くいくだろうと考えている。つまり、女の深い悩みと、男の楽観からすれ違いが生じてしまう（認めない男→正確なＥＤの認識がされていない）。夫婦間の深刻な悩みへ・・・</p>

<p><strong>夫婦関係</strong>（病院取材より）<br />
　病院に訪れるＥＤ患者の８～９割は、夫婦関係のことで本当に深刻に悩んでいる。セックスのことでいつも一方的になじられて、自分でも悪いと思うのだが、結局身体が応えられない。すると、悩みは深みにはまっていくばかり。<br />
　起たないことの悩みでもたらされる夫婦間のぎくしゃくは、深刻である。<br />
	<br />
<strong>ＥＤ知識　</strong>　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
　ＥＤとは、勃起機能の低下のことで、男性なら多くの人に起こりえる病気である。専門的には「性交時に十分な勃起が得られないため、あるいは十分な勃起が維持できないため、満足な性交が行えない状態」と定義されている。医学的な定義では、「勃起はしても、硬さや大きさが足りずに十分な勃起にならなかったり、あるいは勃起を維持できないために満足のいく性行為を行えないこと」となる。勃起が「常に出来ない人」だけでなく、「ときどきできないことがある人」「途中でダメになる人」「勃起の硬さが弱くなった人」もＥＤである。<br />
　ＥＤについては、性教育の進んだ欧米においても、長い間偏見があった。例えば、従来使われていた言い方に「インポンテンス」があるが、性的不能と訳されるこの言葉は、人として本来備わっている能力が失われていることを意味し、こうした悩みを持つ患者への思いやりに欠ける言葉だった。ＥＤは、「Ｅｒｅｃｔｉｌ　Ｄｙｓｆｕｎｃｔｉｏｎ」という勃起機能の低下という疾患を表す英語の頭文字をとったもので、ファイザー製薬の造語である。<br />
　ＥＤ患者は日本でも現在、４０～７０歳の男性の半数以上が何らかの原因でＥＤになっていると考えられている。ＥＤは、なかなか口に出すのが恥ずかしいということで、その実態を把握するのが難しいのだが、日本でＥＤに悩む人は、１，１３０万人、４０歳代男性の３人に１人が該当すると言われている。しかし、実際に医療機関を訪れるのはわずか４,８％の患者にすぎない。これはＥＤ治療の先進国アメリカの１０分の１。日本人男性の多くが、手を伸ばせば届く幸せを享受できていない。（果たしてそうだろうか。起つことは、幸せに直結するのか）<br />
　勃起は神経系と血管系が正常に働くことにより起こる。そのどちらか、あるいは両方に障害が起きることがＥＤの主な原因であると言われている。かつて言われてきたような加齢や精神的なものも原因の一部であるが、高血圧症や高脂血症、さらには糖尿病など、生活習慣に関係する病気が原因となることもわかってきた。逆にいうと、ＥＤの症状から基礎的な病気が見つかることもあるようだ。<br />
　ＥＤ患者の一番多い層は、４０代半ばから５０代半ばで、団塊世代とその付近。更年期障害による性欲の減退や、長く続く不景気やリストラなど、仕事のストレスが相当に強く、しんどい世代であると分析できる。６０代以上での潜在需要は実際には高いと思われるが、年だからと諦めてしまったり、インターネットをしないため情報収集が難しいというネックがある。<br />
　症状としては、２０代では緊張でうまくいかない例が多く、３０代から中折れの悩みが増え、４０代から５０代までは中折れがほぼ大半をしめる。６０代以上になると中折れ以前に勃起の硬さ不足や最初から勃起しないなどの悩みが増えていく傾向が見られ、７０代で　はしばらく使っていなかったので自信がないという例が多い。また、深夜のバイトをするなど、ホルモンバランスが崩れてＥＤになっているケースも多く見られている（ホルモンが足りていても、バランスが崩れてしまうと危ない）<br />
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>

<p><strong>ＥＤの種類</strong><br />
　中折れ（ＥＤで一番多い悩み）、早漏（ＥＤ治療が効果的）、据え膳（いざ入れようと思うとダメになる）、コンドーム（つけようとするといつも萎える）、緊張（２０代の若い人に多い、ヤングＥＤ）、人見知り（初めての相手だと起たない）、家だと・・・（外では起つ）、奥さま呪い（妻を想像してしまい、浮気ができない）、犬のおしっこ（風俗で起たなくなった）、・・・・。http://www.westcl.com/vf/vfaq.html#ed（ウエストＥＤクリニックＨＰより）</p>

<p><strong>治療薬の種類</strong><br />
　バイアグラ、ダイフルカン、シアリス、ミューズ、レビトラ、ベファー、ヴィガレックス、トーラス、ハーバル、威龍。</p>

<p><strong>ストレスの原理</strong><br />
　人間の自律神経には、交感神経と副交感神経がある。副交感神経はリラックスした状態で優位になる。これは、欠陥を拡張させて、血圧を下げた状態である。一方、交感神経は緊張した状態で血管を収縮させて血圧は上昇する。勃起は陰茎の動脈が拡張して血液が陰茎海綿体に流入して起こるので、もちろんリラックス状態（副交感神経優位）でないと起こらない。ストレスがあると、交感神経優位になり陰茎動脈は収縮して勃起は起こらない。ストレスは脳にも作用して性欲も抑制される。極端にいえば、けんかをしているとき勃起は起こらない。<br />
　リラックスした方がいいのだが、夫婦でセックス問題に悩んでいて答えが出てこないものだから、よけい悩みがたまってしまってだんだんリラックスできなくなる。<br />
＊薬・・・瞬間的に下半身が元気になるが、ストレスの問題が解消できるかというとそうでもない</p>

<p><strong>女に傷つけられる男のプライド</strong><br />
　悪循環に陥る、焦る。妻に「今日はやってくれるんでしょうね」なんて責められると「あぁー」と頭を抱えてしまって、リラックスなどできない。「下手くそ」といわれてプライドが傷ついたという話。実際それに近いことを言われると、気にしてないと自分では思っていても次の時に蘇ってしまう。鮮明に蘇るというわけではなくても、下手なのかなという意識をずっと引きずって行く。そのうちに病気じゃないかなんていわれると、なおさら。<br />
→男性の性というのはこういうものであると二人でよく話すと、ほとんどの場合は治る。</p>

<p><strong>バイアグラ（治療）への道</strong><br />
潜在需要を掘り出すヒント<br />
・院内のポスター<br />
・病/医院のＥＤ患者向け冊子の設置<br />
・バイアグラの院内処方<br />
・医師が、ＥＤの話を普段と同じように聞いてくれる（『性差と医療』）</p>

<p><strong>治療の利点</strong><br />
・セックスに関する悩みが減った<br />
・男性としての自信が回復した<br />
・パートナーとの精神的結びつきが深まった<br />
・今後の人生に対して前向きになった<br />
・人生の大切さを再確認した<br />
・男性としての自尊心が回復した<br />
・仕事に集中できるようになった（『性差と医療』）<br />
<strong><br />
真の解決に向けて</strong><br />
　コミュニケーション、理解し合う努力の欠如、「気づいて欲しい、分かって欲しい」。あくまで受け身のエゴ。答えに気づかせてくれるのは、人生の先輩、熟年夫婦モデル。<br />
　「男と女や夫婦は、お互い理解し合うことは難しいけれども、その努力をしているか」。心を許しあえる努力が必要。<br />
　熟年の方のＥＤというのは、病気だったり加齢によるものが多い。長年培ってきた夫婦仲をどう保つかということを男性がとても努力している。しかし、３０代の方たちは、コミュニケーションが下手。結局セックスというのはスケベなものとか、性欲を発散させるものという意識が若い人の中にある場合が多い。熟年夫婦はそういう性欲ではなくて、愛情の発露というか、意識がもともと違う。<br />
　ポイントは自信の有無。自信喪失しないことが、大切。自信というのは「自信を持て」「自信をつけろ」など、言葉で言ってもわからないもの。自然と身に付いていくというプロセスが大事（「できる」「起つ」根拠のない自信もあり！）。<br />
　なぜか？・・・自信のついた状態＝リラックス状態だからである。勃起することによって、不安を安心感が打ち消し、それによって交感神経よりも副交感神経優位の状態、つまりリラックス状態（＝自信）になるというからくり。（類似例：野球でいう勝利の法則）<br />
　要は、慣れ。会社であったことを話す、身体に触れたり、肩を揉んだり、握手したり。「お前が忙しいのはよくわかる。わかるけれども、ではどうしたらいいかというときに、たとえば奥さんの肩をぽんと叩いたりとか、寝るときにセックスまでしなくていいから抱き合って寝るとか、それだけやったら絶対文句は言われないから」。性交までしないとダメだと男は思い込んでいる。案外奥さんは、そこまで要求していない。<br />
ＥＤは自信喪失の連鎖だけれど、人間には自信の連鎖というものもある。一つの小さな自信を次の自信につなげ、確かな自信へ育て、ＥＤの悩みから解放される。<br />
　そのために、徐々に二人でコミュニケーション環境を作っていくしかない。誰でも最初からプロの夫婦じゃないのだから。</p>

<p><br />
<strong>参考</strong><br />
『性差と医療』（じほう）２００４年１１月号<br />
『ＡＥＲＡ』（朝日新聞社）２００５年２月７日号<br />
ファイザー製薬ＨＰ<br />
ＥＤ　Ｐｒａｃｔｉｃｅ　１号<br />
『感じない男』（森岡正博、ちくま新書）２００５年２月<br />
その他、取材（詳しくは、映像の中）</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>『介助犬と共に生きる社会へ』熊谷早苗</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.journalistcourse.net/blog/archives/2005/03/post_18.html" />
<modified>2006-07-30T08:24:23Z</modified>
<issued>2005-03-02T05:41:28Z</issued>
<id>tag:www.journalistcourse.net,2005:/blog/1.19</id>
<created>2005-03-02T05:41:28Z</created>
<summary type="text/plain">はじめに　 　犬は、私たちの生活に密着した生き物です。飼い犬に「お手」などの芸を教えたことはありませんか？　私も、かつて飼い犬のぽちに「お手」「おかわり」を教えました。食事の際に、「お手」「おかわり」をしてから、ご飯をあげます。ぽちは、どこ...</summary>
<author>
<name>熊谷</name>


</author>
<dc:subject>修了課題</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.journalistcourse.net/blog/">
<![CDATA[<p><em>はじめに</em>　<br />
　犬は、私たちの生活に密着した生き物です。飼い犬に「お手」などの芸を教えたことはありませんか？　私も、かつて飼い犬のぽちに「お手」「おかわり」を教えました。食事の際に、「お手」「おかわり」をしてから、ご飯をあげます。ぽちは、どこにでもいる白い雌の雑種です。「お手」をしたからといって、偉い犬になったわけでもなく、他の犬でも何かよほどのことが無い限り、教えればできることです。でも、そこに、ぽちと私のコミュニケーションが成立します。ぽちにとってみれば、「早くご飯が食べたいよぅ！」と言わんばかりに尻尾をぶんぶん振りながら、ご機嫌で「お手」をしてくれます。それを見た私は「可愛いヤツだなぁ～」と、さらにいとおしくなり、他でもないこのぽちが、愛情の分だけきちんと応えてくれる気がするのです。<br />
　さて、本題は「介助犬」。どんな犬か知っていますか？　「盲導犬なら、知っているけれど……」という人が多いことでしょう。盲導犬は、視覚障害者の目の役割をします。2004年に、映画『クイ－ル』（監督・崔洋一）が公開されたこともあり、盲導犬の役割を知った人や、興味を持った人がさらに増えたことと思います。</p>]]>
<![CDATA[<p>　介助犬は、肢体不自由者の手足の役割をします。日常生活で、肢体不自由者が困難な動作の手伝いをしてくれます。例えば、物を運んだり、拾ったり。エレベーターのボタンを押したり、段差で車椅子を引っ張ったりと、介助犬の仕事は、飼い主・使用者となるユーザー（user）の体の状態によって異なります。<br />
　家庭犬がこういう動作をしてくれたらどんなにいいか……なんて、考えている人も中にはいるかもしれませんね。しかし、介助犬がユーザーの身の回りのことをすべてしてくれるわけではないのです。介助犬は、手足の不自由なユーザーを助けるためにいます。ユーザーが自立した生活を送るにあたり、外出や仕事をする際の手助けをします。芸ではなく、人を支える仕事をする犬。ペットと介助犬の大きな違いです。<br />
　身体障害者補助犬法が、2002年5月に成立し、翌年10月から全面施行されました。介助犬、盲導犬、聴導犬（聴覚障害者の耳の役割を担うよう訓練された犬）を補助犬とし、その育成・使用・受け入れに関する法律です。今までに、レストランや各交通機関などで補助犬の同伴について受け入れを拒否された経験を持つ障害者は少なくありません。ですから、この法律の施行はまさに悲願でした。<br />
　しかし、法律施行後の今、劇的に何かが変わったわけではありません。施行後にも、受け入れ拒否されたという報告があります。最近になって介助犬の存在が注目され始めたものの、認知度はまだまだ低く、実社会で接する私たちの中には法律はおろか、介助犬の仕事を知らない人がたくさんいるのです。<br />
　障害を持つ人の身体の一部となって生きる犬を受け入れ、共に暮らせる社会。そこは温かいと思いませんか？</p>

<p><em>介助犬ってどんな犬？</em><br />
　2005年2月現在、介助犬使用者は全国で23名と言われています。介助犬の犬種は、ラブラドール・レトリーバーが一般的で、盲導犬の多くもこの犬種です。介助犬の適性があれば種類は問いません。雑種でもよいのです。ラブラドールの特徴は、性格が優しくて穏やか。頭も良く、体が大きいため力持ちです。段差がある所で、ユーザーの車椅子を引っ張ったりするには、相当の力が必要となります。また、比較的、毛が抜けにくいなどの要素も介助犬に適した犬であるといえます。とはいえ、介助犬になるからには、素質・適性が重要な鍵となります。補助犬として括られているからといって、盲導犬、介助犬、聴導犬が同じ犬で良いというわけではありません。人それぞれ、性格が違うように、犬にも異なる性格があるのです。それによって、介助犬に向いているが盲導犬には向かないというように、仕事と性格の適性を見合わせます。</p>

<p>　　「どんな犬が介助犬に向いているの？」<br />
　まず、攻撃性や警戒心が無く、人懐っこいことです。ユーザーの手となり足となり、色んな場所でお手伝いするわけですから、指示をもらってそれに反応し、仕事を楽しめることが重要になります。しかし、過度に反応し、興奮してしまう性格では困ります。いつ指示をもらっても反応できるように、そして、どのような状況にも順応する落ち着きや集中力を備えていることも必要です。<br />
　刺激に対し、あまり過度に反応しすぎるのは困ったものですが、少しだけやんちゃな方が介助犬には向いているのかもしれません。<br />
介助犬使用者のパイオニアである、木村佳友さんのパートナー「シンシア」は、幼少期には木村さんのご飯を横取りしてしまうくらいお転婆で、木村さんは手を焼いていたそうです。また、身体障害者補助犬法による日本初の認定介助犬使用者となった山口亜紀彦さんのパートナー「オリーブ」は、もともと盲導犬になる予定でしたが、その有り余る元気さは、盲導犬には向かないと判断されました。しかし、そこに居合わせた介助犬協会の方に、介助犬の適性がありそうだと素質を認められたそうです。<br />
　介助犬がよくする仕事で「Take(テイク)＝くわえて・取って」があります。例えば、「Take 電話」なら「電話をくわえて」です。この仕事ができるようになるために、その犬の最も好きなものを使ってトレーニングを積みます。<br />
ユーザーが取って欲しいものは、いつも同じ場所にあるとは限りません。どのような所にあるかわからないので、目的とする物を箱の中に入れたり、高い所に置いてみたり。目的の物を、訓練する犬が一番好きなものにすることで、犬は楽しみながら頑張って取ろうとします。犬にとっては楽しい遊びの中で、身につけるべき動作を織り交ぜるという工夫をこらし、訓練していきます。</p>

<p>　　「指示が英語なのはなぜ？」<br />
　日本語には、方言や男言葉・女言葉があります。それにより、犬が混乱し、指示を理解できないということが起こります。しかし、英語はそのような複雑な用法が無いので、介助犬を育てたトレーナーと、ユーザーの間で使用する言葉が変わる心配はありません。<br />
＜指示語の一部＞<br />
Come by heel　(カムバイヒール＝左横について)　<br />
Come by side　(カムバイサイド＝右横について)　<br />
Come by stand　(カムバイスタンド＝立って）<br />
Come(カム＝おいで）　Sit(シット＝座る）　Halt(ホールト＝止まる)　Go ahead(ゴーアヘッド＝先に行く）　Up(アップ＝前足上げる）<br />
Kennel up(ケネルアップ＝身体ごと上がる）　<br />
Leave it(リーベット＝離れなさい、それに興味を持たないで)　など。</p>

<p>　ここに挙げたのは、ほんの一部に過ぎません。これらの指示語と、日本語の単語・物の名前などを組み合わせてユーザーが望む指示を作ります。<br />
　それでは、教えているときに最も重要なことは何でしょう？<br />
それは、犬とよく目を合わせること。いわゆる「アイコンタクト」です。私たちは、犬をよしよしと撫でてあげることができます。でも、肢体不自由者で手を動かせない人は、それができません。だから、アイコンタクトでコミュニケーションを図ります。ユーザー側の感情を伝えることも大切ですが、犬の目を見て、ユーザーが理解してあげようとすることも大切なのです。そうすることで、お互いにどんなことを望んでいるのか、どのようにするべきか、だんだんわかってきます。人間だってそうでしょう?！　</p>

<p>　ちなみに。本を読んでいると、とても興味深い質問を見つけました。「猿の方が、手先が器用なんだから、介助動物に向いているんじゃないの？」というもの。確かに、猿の方が器用だし、そもそも人間に一番近い存在です。しかし、それゆえにダメなのです。人間がかかる病気と同じ病気にかかるので、向かないということでした。さらに、犬の方が猿よりも従順だということです。<br />
　<br />
<em>取材が困難？！</em><br />
　介助犬について調べていると、ある団体のHPを見つけました。「特定非営利活動法人・日本介助犬アカデミー」です。まず、自己紹介とどういった経緯で介助犬について調べているのかということを踏まえ、取材協力をお願いするメールを協会宛に出すことにしました。そのとき、ちょうどHPで2005年1月30日に身体障害者補助犬学術シンポジウムが開催されるとのお知らせがあり、一般参加も可能だったため、すぐさま応募することに。<br />
　後日、アカデミー事務局からメールが届きました。それを読んで、私自身、うっかりミスをしていたことに気がつきました。うっかりミスというか、配慮が足りない自分にがっかりしてしまったのですが……。<br />
　現在、全国で介助犬使用者は23名。まだまだ普及途中の介助犬とその使用者なので、取材依頼が殺到しているそうです。使用者は全国各地にいるわけですから、東京在住の私がお会いできる人は、都内もしくは都内近郊の方になります。仕事をしている方だっています。そうすると、おのずと取材対象人数が減ってくるわけです。それなら、電話、FAX、電子メールでも取材はできるだろうと思いますが、今回の取材は介助犬使用者。手や足が不自由な人なのです。ですから、わざわざ外出してもらって取材をさせていただくのもご迷惑になることですし、職場にお邪魔して時間を割いてもらうのも何だか気が引けます。<br />
　どうしたものか、と考えていたところ、事務局長の橋爪智子さんからメールを頂きました。学術シンポジウムが始まる前に、補助犬法問題・使用者連絡協議会発足記者会見が行われるので、出席しませんかという内容のもの。介助犬使用者の取材が難航するかと思っていた矢先のことですから、メールを何度も読み直して確認したほど嬉しいことでした。<br />
　<br />
<em>身体障害者補助犬学術シンポジウムへ　～その前に～</em><br />
　1月30日（日）晴れ。すっきりとした青空の下、冷たい風が気持ちを引き締める。<br />
余裕を持って会場に到着したため、11時30分から始まる記者会見まで、少し時間がありました。フロアをうろうろしていると、写真パネルを展示しているところでした。モノクロのパネルを少し近づいて見ると、木村さんとシンシアでした。木村さんの車椅子にそっと寄り添うシンシア。私は、シンシアの丸くて黒い目が大好きです。残念ながら、実際にお会いしたことはないのですが、介助犬関連の書籍を見ると、シンシアと木村さんの写真が使われていることが多々あります。「目は口ほどにものを言う」。シンシアの目は、写真を通してでも、優しく何かを話しかけているように見えます。<br />
介助犬の存在を知ったのは、『介助犬シンシア』（木村佳友　新潮文庫）を書店で見つけたことに始まります。その時まで、「介助犬」という言葉を知らずにいました。「介助犬って何だろう？」と思ってその本を手にすると、シンシアが電話の受話器をくわえているショットと、電気のスイッチを押しているショットが。賢い犬なんだなぁ～と感心しつつ、パラパラとページをめくりました。最初の数ページはシンシアのお仕事ぶりがカラーで掲載されています。その数ページを見て、シンシアの虜になってしまいました！<br />
これが、私と介助犬の出会いでした。<br />
　そうこうしていると、記者会見が始まる時間に。受付を済ませ、会場内へ。</p>

<p>補助犬法問題・使用者連絡協議会発足記者会見、開始！<br />
　会場に入ると、記者会見を行う発言者は既に前の席に座っていました。補助犬を足元に連れた5名です。メディア関係者は8名、協議会関係者5名、手話通訳士1名。<br />
　発足記者会見　出席者一覧<br />
竹松栄治・盲導犬エディ（全日本盲導犬使用者の会）<br />
清水和行・盲導犬クーリー（全日本盲導犬使用者の会）<br />
渡辺　宏・盲導犬うらら（全日本盲導犬使用者の会）<br />
松本江理・聴導犬美音(みお)（聴導犬使用者「タッチの会」）<br />
山口亜紀彦・介助犬オリーブ（日本介助犬使用者の会）</p>

<p>　今回、行われた記者会見の正式名称は「身体障害者補助犬法改正対策使用者団体連絡協議会」（補改使連）発足記者会見です。世話人の清水さんも、会見の席で「長くて言いづらい」などと嘆いていました！　漢字ばかりで、私たちには、「何のことやら？」という印象を受けます。漢字の一区切りずつ見ていくとわかるように、内容は補助犬法の改正に向けて、使用者団体で連絡協議会を立ち上げましたというものです。<br />
　もう少し詳しく説明しましょう。<br />
　補助犬使用者のアクセスを国として初めて保障した「身体障害者補助犬法」が2002年5月に成立し、同年10月1日に一部施行されました。この法律は、補助犬使用者にとってずっと望まれてきた法律でした。それでも、補助犬使用者の法律施行後の生活が劇的に変わるものではなかったのです。補助犬法の附則第六条には、法施行後3年後の見直しが謳われています。それが、2002年から3年たった今年、2005年なのです。<br />
　「法律」で定まっていないことにより、補助犬使用者が「アクセス」を拒否されることがこれまでにたくさんありました。しかし、いくら法律が施行されても、生活の場である社会を構成している国民の理解がなければ、意味をなさないのです。<br />
　施行されたものの、補助犬使用者にとって十分でなかった点などを踏まえて、より実効性の高いものへ法改正するために連絡協議会を立ち上げることになったのです。<br />
　<br />
　使用者側は、補助犬法に欠陥があるといいます。海外では、同伴する権利が保障されていますが、日本はアクセスを保障するというもの。ですから、受け入れ側が拒否することも可能になるのです。たとえば、アメリカには「障害を持つアメリカ人法（ADA）1990年」という障害者福祉法があり、障害者が公共施設や、公共輸送などへサービスアニマル（障害を持つ人の助けになる仕事をするよう、個々に合わせて訓練された動物）の同伴が認められています。オーストラリアの「障害者差別禁止法（DDA）1992年」や、イギリスの「障害者差別禁止法（DDA）1995年」では、サービスアニマルの同伴のよる差別を禁止しています。<br />
　今回、「補助犬法10条、11条」を改正してほしいという声があがっています。どのような内容なのか、見ていきましょう。</p>

<p>第四章　施設等における身体障害者補助犬の同伴等<br />
（事業所又は事務所における身体障害者補助犬の使用）<br />
第十条　事業主（国等を除く。）は、その事業所又は事務者に勤務する身体障害者が当該事業所又は事務所において身体障害者補助犬を使用することを拒まないように努めなければならない。<br />
（住宅における身体障害者補助犬の使用）<br />
第十一条　住宅を管理する者（国などを除く。）は、その監理する住宅に居住する身体障害者が当該住宅において身体障害者補助犬を使用することを拒まないように努めなければならない。</p>

<p>　このように、民間での受け入れが努力目標になっているのです。法律施行から3年が経ちますが、「就職するにあたり面接の段階で難色を示される」「民間の住宅に入居を断られた」という声があちこちから聞こえています。これでは、憲法22条の「居住・移転・職業選択の自由」に反します。補助犬使用者だって、皆さんと同じ権利を持っているのです。国の住宅、交通機関、職場で受け入れが認められるように、民間の機関でも同等に扱われることを望んでいるのです。<br />
　また、日本には今のところ苦情処理の規定がないため、仲裁機関の設置が求められています。そして、海外のように罰則をつくる事も、補助犬の同伴が権利として認められるには必要です。<br />
　会見の最後に、こんな一言を聞きました。「補助犬法という法律ができて、期待していました。しかし、まだ不自由なことが時折、起こります。私たちも、どこへでも自由に行きたいのです。皆さんにも理解してもらって、法律ができて良かったと思えるようにしたいです」（聴導犬使用者・松本江理さん）<br />
会見発表者5人の足元に待機していた補助犬たちは、会見の約30分間、身動きもせず、じっと使用者を見守っていました。</p>

<p><em>腹が減ってはシンポはできぬ</em><br />
　記者会見が終わると、昼食をはさんでシンポジウムが始まります。私は、先程、記者会見を済ませた5人と関係者数人の昼食を買いに行くお手伝いを頼まれました。記者会見に出席させていただいたお礼に、これくらいのことはお安い御用です！<br />
　受付をしていた健康科学大学・助手の石上智美さんと買出しに行きました。初対面なので、自己紹介をしながら話をすると、盲導犬の研究をなさっているとの事。後で気づくのですが、私は石上さんの論文を読み、参考にさせていただいていたのです。こんな所で、お会いできるとは……。世の中って意外と狭いものだなぁ～と、しみじみ。<br />
　お茶や弁当を買い、お腹を空かせた皆さんのもとへ。何種類か違うものを買ったので、好きなものを選んでもらい、私もそこに同席させていただいて昼食をとりました。ちなみに、私はカレーです。会見が終わって、ほっとしたのか、先程までの印象と打って変わって、皆さん、楽しそうにお話しながらの賑やかなランチでした。<br />
　私の隣には、聴導犬使用者の松本江理さんが座っており、足元には聴導犬の美音(みお)ちゃんがいました。松本さんはみんなとおしゃべりしながら、サンドイッチを食べています。私はその横でカレーをむしゃむしゃ……。ちらりと、足元の美音ちゃんに目をやると、<br />
「？！」<br />
鼻を両手で押さえた格好をしていました。偶然、そんな体勢になったのかなぁ～？などと考えつつ、聴導犬として働く美音ちゃんの仕事っぷりを見せてもらいました。しかし、仕事中の美音ちゃんの隣で香り漂うカレーをもぐもぐと食べてしまったのは、かわいそうだったかな、とちょっと反省。</p>

<p><em>補助犬シンポジウム</em><br />
　このシンポジウムは、日本介助犬アカデミー事務局内にある身体障害者補助犬学術シンポジウム実行委員会の主催によるもので、補助犬に関係する人たちが結集したものです。　　　　　　　<br />
母体となる介助犬アカデミーは、介助犬の理解や普及を目的とした活動を行っている非営利団体で、介助犬の調査・研究をしている学術的団体でもあります。研究団体なので、育成は行われていません。奈良県立医科大学名誉教授・髙柳哲也氏が会長を務め、1997年に設立しました。会長が医学界の方ということもあって、組織構成がしっかりなされている上、関連する役職の専門家が多数集結しているため、多角的でより綿密な研究が行われています。介助犬・シンシアのユーザー、木村佳友さんも理事を務めています。<br />
　また、身体障害者補助犬学術シンポジウム実行委員会の代表も、髙柳哲也名誉教授が代表を務めています。<br />
　<br />
　１．障害者自立支援給付法（仮称）　<br />
　補助犬を必要としている人たちは、身体に何らかの障害があります。なぜ、補助犬を使用するのか。それは一言でいえば、自立した生活を送るためです。日常生活の中で、常に誰かに頼って生活していると、万が一、その誰かですらいない場合に緊急事態が生じたとしたら、命に関わることだってあるかもしれません。<br />
　補助犬は、常に隣にいることだけでも、使用者に大きな安心感を与える役割があります。また、使用者は気兼ねなく頼むことができると言います。一人で外出する際は、常に誰かの手を借りなければ段差を乗り越えることも、買い物をすることも困難です。その前に、お手伝いしてもらうためには、見ず知らずの人に声を掛けて、頼まねばなりません。人によりますが、大半の補助犬使用者はそのことが大きなストレスになり、外出を楽しめなかったり、外出自体を控えてしまったりする人も少なくないそうです。<br />
　厚生労働省障害保健福祉部では、障害者の地域生活と就労を支援するための総合的な制度改革・改革のグランドデザイン案を打ちたて、障害者を「保護」する立場から、「支援」する立場への転換を図ろうとしています。<br />
　そのために、次のような障害保健福祉策の抜本的見直しがされています。</p>

<p>①障害保健福祉の総合化（年齢や障害種別に関わりなく、身近な所で必要なサービスを受けながら暮らせる地域づくりを進める）<br />
②自立支援型システムへの転換（障害者が、就労を含めてその人らしく自立して地域で暮らし、地域社会にも貢献できる仕組みづくりを進める）<br />
③制度の持続可能性の確保（障害者を支える制度が、国民の信頼を得て安定的に運営できる、より公平で効率的な制度にする）<br />
　このような観点から、現行の制度的な課題の解決を図り、新たな体制を整えようとしています。具体的に、どのようなことが問題となっているのでしょう。</p>

<p>１．障害者の法律は、障害の種別によって大きく4つの法律に分類されています。身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、児童福祉法、精神保健福祉法です。それぞれの障害に該当する人が、その法律に沿ったサービスを受けています。しかし、その内容は、ほとんど同じです。だとしたら、障害の種別に関わりなく身近な所でサービスを受けた方がよいので、福祉サービスを一元化し、公平なサービスを提供しようということです。<br />
２．現在、都道府県、市町村の窓口がバラバラになっています。目的、責務、用語の定義を規定し、国から都道府県、都道府県から市町村へ適切な支援を行うなどの相互的体制を組もうとしています。<br />
３．国の費用負担は、「補助金」という形で出されています。補助金は予算の範囲以内でなければいけません。超過分は出なくなってしまいます。これを「負担金」とすることで、予算がなくても義務となるので、費用が捻出されることになります。<br />
　<br />
　このように、国は、障害者がより自立した生活を送れるように、地域の整備を重点とし、就労や公平なサービスの支援をしようとしています。そのために、費用を皆で負担し支えあう仕組みの強化、利用したサービスの量や収入に応じた公平な負担の実施、国の財政責任の明確化を見直しています。<br />
　近年、障害者の地域社会への受け入れが謳われているように思います。身体に何らかの支障がある人を「障害者」として括ろうとしますが、一言に障害といっても、それぞれに違いがあるのです。障害種も多様化し、質的な複雑化にあります。専門職員が障害者の比率に対し少ない現状で、公平なサービスが、障害種を軽視した「公平」の名をふりまく単なるサービスになってしまわないことを願います。また、自己負担が増えることや、収入に応じたサービスが事実上公平になっても、果たしてそれが公平といえるのだろうか？などの懸念を持ちます。この法案については、現在、政府部内でも調整中であり、今後大きな変更がありうるということなので、議論する余地がありそうです。<br />
　２月10日(金)、午前中の政府閣議で、「改革のグランドデザイン」にもとづく障害者自立支援法案の国会提出が了承されました。介護保険制度のように、障害者の状態やニーズを中立的な審査会が審査し、受給するサービス内容を決定する事、サービスを受けた場合、新たに原則１割の自己負担を導入する事、施設を出て地域で自立ができるよう、就労や住宅サービスなどの支援を地方自治体が行うこと、などを定めています。<br />
これを受けて同日、第162回通常国会に法案が提出されました。国会審議は、実際には４月以降になる見込みで、審議の山場は５月の連休明け頃になることが予想されます。</p>

<p>　２．補助犬法施行後の調査と今後の課題 <br />
　補助犬法は、社会の受け入れを求めることを基礎としたものです。その一方で、使用者側にも義務があります。使用者側が常にきちんと整備していなければならないとも言えます。次のようなことが義務付けの一例です。<br />
・補助犬の行動の管理と衛生の確保<br />
・健康管理記録と補助犬認定証の所持<br />
・補助犬の表示　　など<br />
　　<br />
＜実態＞<br />
　以下は、日本盲導犬協会が2004年9月に全国の盲導犬使用者を対象に行った調査結果です。<br />
・補助犬法完全施行後、盲導犬の受け入れに関する社会の理解は進んだと感じる　６６％<br />
・実際に拒否を経験した人　５２％<br />
拒否の理由……ペットの入店不可　３７％<br />
店の方針　３７％<br />
受け入れ態勢がない　１６％<br />
保健所の指導　１０％<br />
補助犬が汚れている、臭い　４％<br />
盲導犬であることを証明する書類を所持していなかった　２％<br />
・補助犬健康管理手帳や盲導犬使用証明書を必ず持ち歩いている　７８％<br />
・補助犬法に使用者の義務が明記されていることをよく知っている　５２％<br />
・使用者が盲導犬の体を清潔に保つと共に、予防接種及び検診を受けさせることにより、公衆衛生上の危害を生じさせないように努めなければならないという義務を知っている　９１％<br />
　<br />
このように、使用者自身が必ずしも規則の細部まで把握していないという事実が浮かび上がったのです。今の段階では、補助犬法が完全施行されているとはいえ、周知の法律とまでは言えない状況にあります。お店や飲食店などで受け入れを拒否されても、拒否側に対して罰則がない状態です。しかし、今、使用者が常に受け入れを認めてもらえる体勢でいなければ、他の使用者にも迷惑がかかることになってしまいます。<br />
　法の見直しと共に、使用者が果たすべきことの見直しもしなければならないようです。</p>

<p>＜一般市民の意識調査＞<br />
　日本盲導犬協会が2003年8～9月に、東京都、神奈川県、仙台市で行った調査によると、補助犬法が施行されたことを知っている　４６％<br />
補助犬を受け入れることに賛成　８３％<br />
という結果が出ました。私の周りにいる同世代の数人にも、同じ質問をしてみましたが、知っている人はいませんでした。しかし、補助犬の受け入れに対しては、知らないと答えた全員が賛成すると答えていました。<br />
　価値観の多様化、個性重視の風潮の中、最近では、障害も個性の一つであるなどといわれるような時代になりました。そういった良い流れに乗って、補助犬も温かく見守られて社会の中に溶け込んでいけたら……。そう願うのは、贅沢なことなのでしょうか？</p>

<p><em>ダイエーの取り組み</em><br />
　コンビニエンスストアーのローソンを含む、全国約8300店の巨大流通グループであるダイエーは、補助犬法が施行される10年ほど前から盲導犬、聴導犬、介助犬の順に受け入れを開始していました。盲導犬が、もっとも早く、93年から受け入れが開始されていました。さらに、盲導犬育成のための募金活動も実施しており、全国盲導犬施設連合会に寄付され、訓練や育成の費用に充てられています。<br />
　そして、99年に介助犬の受け入れが始まります。受け入れが検討され始めた頃、ダイエーの担当者が木村さんの家を訪れたこともあるそうです。ダイエーは介助犬の研究者と相談し、従業員対応マニュアルを作成しました。99年4月末、宝塚中山店において、木村さんにシンシアを同伴した上で買い物をしてもらいました。一般客にも公開されていたので、担当者はその反応も見ていたようです。<br />
そして7月、全国のダイエーグループは、一斉に介助犬同伴を認めました。同年、「盲導犬募金1億円達成ふれあい教室」と題される催しが開かれました。実際にデモンストレーションを行い、目で見てもらうことで、文書で説明することの何倍もの効果があります。まさに『百聞は一見に如かず』です。このふれあい教室は毎年、全国各地で開催され、盲導犬ばかりではなく、すべての補助犬行っています。介助犬の受け入れと、ふれあい教室の開始年度は一緒です。これは、木村さんとシンシアのデモンストレーションの有効性が見出されたことが大きいのではないでしょうか。<br />
また、補助犬法全面施行に伴い、店舗近隣に居住する補助犬使用者を招 待するという、大変、画期的な取り組み「WELCOMEダイエー」が実施されました。参加者には、ダイエーの商品券を進呈した上で買い物をしていただいたという所に、ダイエーの太っ腹ぶりを感じずにはいられません！　補助犬使用者への配慮と、他の買い物客へのデモンストレーションにもなり、この催しにより補助犬の存在を知った人が多くいたことでしょう。ダイエーグループの創業以来のモットー「お客さまの声を聞く」という強固な礎は、お客さまのどんな小さな声にも耳を傾ける姿勢の支えであるように見えます。</p>

<p>３．指定法人という認定組織 <br />
　日本での介助犬の歴史は浅いです。どれくらい浅いのかというと、国内で訓練された介助犬が誕生したのが1995年といわれています。国内で訓練された介助犬が誕生する以前に、1991年にある女性がアメリカから連れてきたのが初めての介助犬です。介助犬が日本に来て14年、日本で生まれ育ち国内で訓練を受けた介助犬の誕生からまだ10年です。<br />
　盲導犬は、1957年に国産第一号が誕生しています。1984年に埼玉県の聴覚障害者２名に聴導犬訓練所が１号犬・２号犬を無償で貸与。これが、日本で最初に実用化された聴導犬です。こうやってみると、盲導犬・聴導犬使用者は、補助犬法が施行されるまでの長い年月の間に、かなり不自由な道を歩んできたことになります。<br />
　<br />
　　＜指定法人の役割＞<br />
　指定法人とは、補助犬として訓練された犬が、その使用者となるユーザーと共に公共施設など外部で適切な行動ができるかを認定する所です。また、能力が不足していると認める場合には、認定の取消をする機関でもあります。介助犬の指定法人は、厚生労働省の調べによると2004年10月5日までに5団体が確認されています。<br />
　指定法人の横浜市総合リハビリテーションセンターは、2003年に厚生労働省より介助犬・聴導犬の認定法人として指定を受けました。2005年1月30日までに11組の介助犬を認定しています。身体障害者更生施設長の小田芳幸氏は、補助犬は障害者の自立を補完する手段の一つであり、補助犬法は障害者の自立と社会参加で、そのために必要な認定であると述べています。<br />
　現状では、認定の基準が相対的で明確にされていません。各々の状態に応じた認定であると専門家は考えています。介助犬を必要とする人の障害の重度が、それぞれ異なるため、一律に同じ基準に達することは困難なのです。補助犬法が成立し、介助犬が使用者や各メディアを通じて、さらに知れ渡れば、介助犬の育成・需要がさらに高まることでしょう。そのためには、指定法人の認定の客観性をある程度、明確にする必要がありそうです。また、訓練事業者をはじめとし、介助犬の枠組みを越えて、補助犬として各関連機関との連携が重要になることでしょう。</p>

<p>４．育成補助事業<br />
　介助犬一頭を育成するのに、250万～300万円かかるといわれています。盲導犬育成でも同じくらいの金額です。その資金源は、一体何でしょうか？それは、それぞれの育成団体の会費、寄付、行政からの補助金、制作したグッズ販売の売り上げなどです。2003年からは、身体障害者補助犬育成補助事業が障害者（・自立支援）社会参加総合推進の選択事業として加わり、一頭あたり150万円を例示額として350頭分（盲導犬300、聴導犬30、介助犬20）の予算が計上されました。<br />
　2003年4月から社会福祉法の改正に伴い、介助犬訓練事業は第二種社会福祉事業となりました。訓練事業者は都道府県に届け出をしなければなりません。貸与または給付事業についての公的助成制度も開始されるので、届け出をしなければ公的助成は受けることができなくなります。貸与等の事業内容及び方法については、各都道府県に任されるので、特定の指定訓練事業者だけに公費助成をする自治体も出てくるかもしれないのです。<br />
　<br />
　　５．介助犬の健康管理<br />
　介助犬としてユーザーの下で働くには、まず健康が第一です。介助のお仕事って肉体労働ですからね！<br />
　補助犬になるために身体機能を大きく変えなければならないことがあります。それは、不妊手術を受けることです。雌に限らず、雄も処置を受けなければなりません。補助犬法で避妊・去勢が義務付けられました。発情期の行動を抑制・コントロールすることは訓練できず、補助犬候補の段階で、訓練に参加する以前に手術を済ませなければならないのです。また、雌の場合、初潮を迎える前に手術した方が、乳がんなどの病気を防げるそうです。犬にも、成人病があるといいます。<br />
　木村さんのパートナー・シンシアは、ペットとして飼っていた最後7ヶ月のときに手術をしたそうです。しかし、木村さんは、ふと「恋も知らず、可哀そうなことをした」と思うと前述の著作の中で述べています。<br />
　もう一つ、身体機能で重要なことがあります。介助犬を含む補助犬たちは、排泄を訓練によってコントロールできるようにするのです。ユーザーの指示に従って、排泄できるようにします。このシンポジウムのように、長時間、座席に拘束されることもあります。一緒に職場へ出勤する介助犬だっています。常にユーザーのそばにいなければならないので、この訓練はとても大切です。しかし、大半のユーザーがパートナーの排泄時間や、その状況を汲み取って指示を与えているようです。<br />
　<br />
シンポジウムの最後、補助犬シンポジウム実行委員会代表・髙柳哲也名誉教授が締めくくりました。髙柳名誉教授は、厚生科学研究障害保健福祉総合事業・介助犬基礎的調査研究の班長を務め、3年間の継続研究を行いました。それまでに、歴史の浅い介助犬の研究事例がなかったため、茨の道を切り開いてきたといえます。<br />
　介助犬については、諸外国と比較して後進国の日本ですが、介助犬の誕生から急速な発展途上にあります。後進国だからこそ、前例の失敗や数々の事例を集めて、生かすことができます。日本は、その利点を大いに活用して介助犬先進国にも貢献できるように、介助犬アカデミーをはじめとし調査・研究を行っていけたらと思います。</p>

<p><em>シンポジウム終了後……</em>　<br />
　今回のシンポジウムは休憩を挟みながら、約4時間30分に及ぶ長丁場でした。<br />
＜参加者概要＞申込人数121名（実行委員12名、関係者45名、予定総数178名）<br />
うち、補助犬使用者の参加が16名（盲導犬10組、介助犬4組、聴導犬2組）でした。補助犬たちも同じ会場内で、使用者の足元に待機していました。場内の約1割が補助犬というシンポジウムで、4時間30分の間、一度も犬の鳴き声を聞くこともなく、場内に犬のニオイがすることもありませんでした。付け加えて言うのなら、午前中の記者会見から昼食の間だってそうです。唯一、聞いた音は身震いをして毛並みを整えるときの音だけです。それを聞く以外は、犬の存在すら感じませんでした。ユーザーとパートナーが、まさに、一心同体になっているように思いました。</p>

<p><em>取材ができる？！</em><br />
　シンポジウムが終わると、事務局長の橋爪智子さんにお礼を言いに、と思ったのですが、出入り口にいた橋爪さんは、会場から次々出てくる出席者との挨拶で大忙しでした。<br />
　一段落ついたものの、これから懇親会があるとの事で、本当に息つく暇もなくという感じでした。その合間に、橋爪さんが介助犬使用者で話が聞けそうな人を急遽、教えてくださりました。先ほどの記者会見で、会見席にいたオリーブのパートナー・山口亜紀彦さんです。しかし、山口さんもこれから始まる懇親会に出席するところで、大急ぎで自己紹介をし、お話を聞くことに。聞きたいことは、前もって色々と考えていましたが、全部聞く余裕などありません。それに、シンポジウムや記者会見である程度、わかったこともあります。でも、ここで聞かなければ、これから先、取材することは難しくなってしまう！頭の中で「あれはだめ、これはさっきあの人が言っていたし……」などと、質問を高速で考えた私──。<br />
「山口さんは、補助犬法が施行されて、変化はありましたか？」<br />
「う～ん、そうですねぇ。僕は毎年旅行に行くんですけど、この前も受け入れを拒否されてしまいました。確かに、受け入れをする所は増えていますけど、まだ、そういう所もあるのが現状ですね」<br />
と、懇親会が行われる会場に向かい、歩きながら話を聞きました。会場は、シンポジウムが開かれたホールと同じフロアで、すぐ近くです。山口さんの隣には、もちろんオリーブがいます。「私の大好きな山口さんに、何を聞いているのかしら？」と、ちらりと私の顔を見た丸い目の愛らしさに、思わず抱きしめたくなってしまいます。オリーブには、人の心を丸くさせ、安心感を与える力があります。これが、介助犬の素質であり、介助犬として働く彼女が培ったものなのだと感じました。<br />
「そうですか。それでは、介助犬がいてよかったなぁと感じるのは、どんなときですか？」<br />
「いつもそばにいてくれることで安心します。家にいるときも、仕事をしているときでも。そういう、精神的なものが大きいですね。でも、それが一番必要で、大切なことだと思います」<br />
　そう語りながら、山口さんはオリーブを見つめていました。その目は、なんだか、オリーブに似ているようで、見ている私は愛情のお裾分けをしてもらった気分で、とても温かい気持ちがしました。話しながら、ついには会場に入り込んでお話を聞かせてもらいました。取材は、ものの10分。あっという間です。それでも、言葉以上に得るものがありました。山口さん、そしてオリーブ、お疲れのところ、ありがとうございました。取材ができただけでなく、私はお土産までいただいた気がします。<br />
　<br />
<em>人生の途中で</em><br />
山口亜紀彦さんは、千葉県千葉市の職員として働いています。今から10年前の1995年にオートバイの事故により脊髄を損傷し、車椅子生活になったそうです。山口さんは、下半身が不自由でありますが、上半身は職場で一般事務を難なくこなせ、不自由はありません。オートバイの事故──。そういえば、木村さんも、オートバイの事故で車椅子生活になったとのこと。この二人に共通する事例に、ハッとするものがありました。いずれも、突然、身体の自由を奪われたということです。<br />
　それまで自由に動かせたはずの足が、動かなくなる。少なくとも、自分には無縁だと思っていた「障害」という二文字。今、自分の意思で動かすことのできる手足が、明日には動かせなくなるかもしれないなどと考えて過ごす人は、極度の心配性か、何か病気を患っている人くらいのものでしょう。実のところ、私も考えていませんでした。お二人だって、そのようなことを考えていたわけでは決してないのです。<br />
しかし、誰にでも、起こりうることなのです。<br />
　車椅子生活になっても、お二人のように充実した暮らしを送っている人はたくさんいます。現在、こうして介助犬と共に生活や仕事ができるようになったのは、第一に、事故を乗り越えてきたことにあります。突然、身体の自由が奪われる。最初から素直に事実を受け容れることは、できないでしょう。それでも、徐々に現実に立ち向かい、リハビリを始めるなど、できる限りのことは自分の力でやろうとする精神力が、失われた機能の分をもカバーし得る程の力になるのです。<br />
　後天的な障害が、もたらすストレスは、計り知れません。当たり前のことができないという、苛立ち。不安。</p>

<p>　私は以前、大学病院のボランティアスタッフをしており、見習い期間中に、やらなければならない実習がありました。それは、「視覚障害者の体験」と「車椅子体験」です。布で目隠しをして、ペアになった健常者役の人に手を引いてもらい、病院内を歩きます。階段の昇降、曲がり角など、様々なところを歩きました。初めて体験した暗闇の世界。明かりがない、暗がりの中で「見えない」のとはまったく違います。暗がりの中でも、目を開ければ、それは「見えている」のです。階段を下りるときは、体の重心が不安定になりながら次の段を足の先で探すため、片足が宙に浮いて怖い思いをしました。その間、健常者役の人の腕をしっかりとつかみ、体を支えてもらっていました。そのとき、急に腕をつかまれたりすると、とても驚きました。名前を呼んでから触れる、次の指示をしてから介助する、当たり前のようだけれど、目が見えていたら、私たちはしないものだと気づきました。<br />
　次に車椅子体験です。先程と同じように、ペアになり、交互に体験します。車椅子も、技術が発達し、用途や障害に合わせて様々な種類があります。その大学病院の入り口には、20台ほど準備してありました。旧式と、アルミで軽量のため筋力の弱い人でも比較的、楽に使用できるドイツ製の最新式の二種類がありました。車椅子に乗ってみると、その視線は意外と低いと感じました。すれ違う人の荷物が肩にぶつかるなどしました。そして、ちょっとした段差や道のでこぼこは、靴を通して感じる何倍もの振動が体に伝わるのです。<br />
　ただ車椅子に乗るのではなく、足の力を使わないようにしていました。といっても、神経は通っていますから、できるだけ力を抜くことしかできません。手で車椅子を動かす体験をしたのですが、ほんの少しの段差や、歩いていてはほとんど感じない緩やかな坂道に、私は苦戦しました。<br />
　介助犬使用者は、「ちょっとした介助こそ、頼みにくい。しかし、そのちょっとしたことこそ手伝ってもらいたい」と言います。私はボランティアの実習時に体験したことを思い出し、「ちょっとしたこと」こそ、私たちが普段、気づかないようなことであると実感しました。<br />
　介助犬はすべてのことをカバーしてくれるわけではありません。あくまでも、介助をするのです。ユーザーは一つでも多くのことをできるように努力し、介助犬と共にトレーニングを積み、一緒に生活していくことで、ユーザーとパートナーという存在になっていきます。</p>

<p><em>私たちにできること</em><br />
　介助犬は、外での勤務時は「介助犬」と書かれた青いベストを着用します。どこかで勤務中の介助犬を見かけて、むやみに触ったり、話しかけたりすると、お仕事に集中できなくなってしまいます。話しかけるなら、是非ユーザーに話しかけてください。これまでに積み上げてきた訓練の成果を目で見てもらい、一人でも多くの人にその仕事ぶりを知ってもらえたら、介助犬もユーザーもきっと嬉しいと思います。</p>

<p>補助犬法第二十四条は、このような条文です。</p>

<p>（国民の協力）国民は、身体障害者補助犬法を使用する身体障害者に対し、必要な協力をするよう努めなければならない。</p>

<p>　介助犬をはじめ、補助犬が今よりもっと社会に溶け込んで、このような条文がなくても協力できる世の中になればと思います。だって、介助犬はユーザーの体の一部なのですから。</p>

<p><br />
＜参考文献＞<br />
『介助犬シンシア』　木村佳友・毎日新聞阪神支局取材班　新潮文庫<br />
『介助犬オリーブのきもち』　本田真智子　小学館文庫<br />
『介助犬を知る～肢体不自由者の自立のために～』　髙柳哲也編　名古屋大学出版会<br />
『犬にはわかる～介助犬トレーニング～』　矢澤知枝　誠文堂新光社</p>]]>
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<title>『ファンとは～２００４年、プロ野球再編問題から見えたもの～』坂本貫</title>
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<modified>2007-02-12T07:22:06Z</modified>
<issued>2005-03-02T04:47:48Z</issued>
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<summary type="text/plain">６月１３日の衝撃 　２００４年６月１３日、大阪ドームにプレーボールのコールが高らかに鳴り響いたのが午後１時２分だった。その約１時間後、同じ大阪市内のホテルで、ある記者会見が幕を開けた。 　会見の冒頭、山口昌紀近畿日本鉄道社長と小林哲也近鉄球...</summary>
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<name>坂本</name>


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<dc:subject>修了課題</dc:subject>
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<![CDATA[<p><b>６月１３日の衝撃</b></p>

<p>　２００４年６月１３日、大阪ドームにプレーボールのコールが高らかに鳴り響いたのが午後１時２分だった。その約１時間後、同じ大阪市内のホテルで、ある記者会見が幕を開けた。<br />
　会見の冒頭、山口昌紀近畿日本鉄道社長と小林哲也近鉄球団社長は、大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブが合併に向けて協議を進めていることを認めた。合併案は４月後半には浮上しており、ゴールデンウィーク明けにはすでに親会社の間で合意ずみとのことだった。<br />
　すべては結果報告にすぎなかった。そして、その報告さえ近鉄の試合中に行われるという配慮のなさだった。<br />
　その日、バファローズはサヨナラ勝ちを収め、ファンと共に快哉をあげた。そのとき選手の心にはどのような思いが渦巻いていただろうか？　親の心子知らずとはよく言うが、子の心情を常に親が熟慮しているとも限らない。</p>]]>
<![CDATA[<p>　近鉄とオリックスが合併する。その事実は二つの衝撃を自分に与えた。<br />
　第一の衝撃は、１２球団２リーグというこれまでのプロ野球の常識が簡単に崩れうると痛感したことだった。それが何ら絶対的なものでないと頭では理解していながら、これまで自分は実感としてその可能性を認識するには至っていなかった。平和ボケ、それに近い根拠のない信頼を球界に寄せていた。<br />
　そんな自分の目を覚まさせたのが、合併のニュースだった。これまで弥縫策の積み重ねで何とかバランスを取り繕ってきた球界が、一本のネジが外れたことで、一挙に解体に向けて突き進んでいくことは容易に推測できた。球界最大の危機の到来を肌で感じたことは、その未来について真剣に考えを巡らせる一つの契機となった。<br />
　第二の衝撃は、近鉄とオリックスという馴染み深い両チームが、合併という結論によってないまぜにされてしまう喪失感だった。<br />
　私事で申し訳ないが、自分の喪失感がどの程度のものであったかを知ってもらうためにも、少し自分のプロ野球ファンとしての遍歴を振り返ってみようと思う。<br />
　生まれは兵庫県神戸市、祖母も兄も熱狂的な阪神ファンという家庭環境で育った自分は、物心ついたときにはすでに縦縞のユニフォームに声援を送っていた。三つ子の魂は２０年の月日を経た今も変わることはない。阪神は自分にとってずっと特別なチームのままであり続けている。<br />
　そんな自分は、これまで二度の浮気を経験した。<br />
　最初は、阪神が弱体化のピークを迎えた小学生のときだった。負けん気の強かった自分は、不甲斐ない試合を繰り返す阪神に憤りを覚え、やがてそれは強い失望に変わっていった。そんな折、目に留まったのがパ・リーグの近鉄バファローズだった。当時の近鉄には、デビュー直後の野茂英雄がいて、トルネードと呼ばれる独特の投法で球界に旋風を巻き起こしていた。彗星のごとく現れた強烈な個性を持つヒーローに魅了された自分は、一時的とは言え熱狂的な近鉄ファンに様変わりした。それを機に、セ・リーグは阪神、パ・リーグは近鉄という応援スタンスが確立されていった。<br />
　偶然か必然か、次の転機は天災と共に訪れた。１９９５年１月１７日、突如神戸の街を襲った阪神淡路大震災は、被災者のなかに共同体意識を強く育む契機となり、その年、「がんばろう神戸」を合言葉に優勝街道をひた走ったオリックスの活躍に特別な意味合いを持たせることとなった。それまでは、ただのご近所さんとしての認識しかなかったオリックスが、その年初めて神戸のチームであると思えた。こうして、震災という特殊な経験がオリックスを自分のなかで特別なチームに変えた。<br />
　その後、年を追うにつれてプロ野球に対する関心は少しずつ希薄になっていった。嫌いになったわけではない。ただ、他に時間を割かれることが増えていくなかで、結果的にプロ野球に接する時間が減っていっただけだった。<br />
　今では、プロ野球との付き合い方は完全に確立された。寝る前のスポーツニュースは毎日の楽しみだし、「ＮＵＭＢＥＲ」を中心にスポーツ誌を購入することも少なくない。しかし、テレビでの観戦は昔に比べれば少なくなり、日本シリーズなどのビッグゲームを除けば、ケーブルテレビで時折、阪神のゲームを観ることがあるくらいになった。最後に球場に足を運んだのも、近鉄対ヤクルトの日本シリーズを観戦した４年前まで遡る。要するに、それほど強い関心があるとは言えないが興味の対象であることは間違いない、オリックスに対しても近鉄に対してもそんな状態が長く続いていた。<br />
　そんな自分が、合併のニュースを聞いた。まるで思い出の１ページと未来の１ページが同時に破り取られてしまうような喪失感を覚えた。今でも傷口が完全に癒えたわけではないし、これからも完治することはないと断言できる。合併反対の署名欄には喜んで名前を連ねた。そして、無責任な合併を敢行した親会社に対する不信感もおそらく長く消えることはない。<br />
　しかし、それが実際にどれほどのダメージを自分に及ぼしたかと言われれば、実はそれほどでもないような気もする。合併に嫌悪感は抱いたが、どこかで仕方ないとも割り切れた。合併に対する反発心が、試合に目を向けさせるということもなかった。いつしか、時折郷愁の念にふけることがある程度にまで、傷口は回復していた。<br />
　ふと、考えた。プロ野球はどこのファンですか？　去年まで、そう聞かれたときには、迷わず「セ・リーグは阪神で、パ・リーグは近鉄とオリックスです」と答えていた。<br />
　しかし、果たして自分は近鉄やオリックスのファンと言えたのだろうか？　今現在、阪神のファンと言えるのだろうか？　<br />
　６月１３日。これまで当たり前だったものが当たり前でなくなることによって、改めてプロ野球との距離を客観的に測る機会を自分は得た。その結果、これまでいかにファンという言葉を考えもなく用いてきたかを思い知らされた。<br />
　ファンとは何か？　<br />
　この文章は６月１３日の衝撃が生みつけた、ひとかけらの好奇心が綴らせたものである。</p>

<p><b>どこまでがファンか？</b></p>

<p>「スポーツ・演劇・映画・音楽などで、ある分野・団体・個人をひいきにする人」。岩波書店発行、広辞苑第五版の「ファン」の項にはこのような説明文が記載されている。特定の対象に強い思い入れを抱いている人、それが「ファン」の一般的な用法だ。<br />
　では、どの程度強い愛情を対象に注ぐことで、栄えあるファンの称号を与えられるのか？　ファンとそうでない人との境界線が愛情の強さを基準に決まるのだとすれば、依然、ファンという言葉の射程範囲は判然としない。　<br />
　ファンについて語るためには、まずファンという言葉の定義を明らかにする必要がある。ここではファンという言葉が日常どのように使われているかを手がかりに、それがいかに曖昧な観念にすぎないかについて説明を試みたい。</p>

<p>　一般にファンという言葉を用いるとき、人はどのような対象をイメージするだろう？<br />
　例えば昨年、韓流ブームが日本を席巻した。ブームを支えたファンと言われれば、韓国人スターの姿を一目見ただけで、涙を流す中年女性がすぐに思い浮かぶ。他にも具体的なイメージ像を結ぶファン層はいくつか存在する。<br />
　プロ野球もそのうちの一つだ。大学生１０人にプロ野球ファンのイメージについて自由に語ってもらったところ、実に６人までが「おじさん」のイメージを挙げた。さらに「ビール」のイメージを挙げたのが４人、それらは皆「おじさん」と「ビール」をセットで考えていた。他に特徴的だったのが「固定ファンが多そう」という声。これも１０人中５人、実に半数に及んだ。<br />
　以上の結果から、「常連のおじさんがビール片手に応援」という像が、プロ野球ファンの典型的なイメージの一つとして確立されていると言えそうだ。このイメージがいつどのように作られたかは問題ではない。ここではプロ野球ファンという言葉が、多くの人のなかで具体的なイメージ像に結びつく事実が重要なのである。<br />
　このように、ファンという言葉は典型的な支持者をイメージさせ、あたかも客観的に判別可能な特定のセグメントを形成しているかのような印象を抱かせる。しかし、そのイメージこそが幻想にすぎないのであり、ファンという言葉の語法を混乱させる要因となっている。</p>

<p>　以下は、ある大学生に、自分がプロ野球ファンに当てはまるかどうかを質問したときのやりとりだ。</p>

<p>　プロ野球はどこのファンですか？<br />
「横浜です」<br />
　横浜の試合はテレビとかでチェックしますか？<br />
「いや、全然。ただ、家が横浜だからベイスターズのファンっていうだけで、そもそもプロ野球自体にそんなに興味ないんですよ」<br />
　では、あなたは横浜ファンではないということですか？<br />
「そうですね。別に勝っても負けてもどっちでもいいし、そういう意味じゃ全然ファンじゃないですね」</p>

<p>　ここでのファンは、明らかに先ほどのファンとは用法が違う。それどころか、一連の会話に登場するファンはすべてが同じ意味で用いられているわけではなく、ここでの「～ファンですか？　」という質問は、「～が好きですか？　」という質問とほぼ同じ意味合いだということが分かる。<br />
　なぜ、ここではファンという名詞の形容詞化が起こっているのか？　それはファンという言葉が、対象に向けられた愛情の深さを自分の内面に問いかける質問であるがゆえに避けられないことなのである。<br />
　「好きと嫌いの心理学」のなかで、著者の詫摩武俊氏は、好きと嫌いは選択を前提にして初めて成立すると述べている。すなわち、人間は何らかの比較対象との兼ね合いでしか自分の愛情を推し量るすべを持たないのだ。好きか嫌いかは絶対的に人間の行動原理を支配するものではなく、あくまでも相対的にしか決せられない事柄なのである。<br />
　結果、「～ファンですか？」という質問を投げかけられた人は、何らかの比較対象を想定したうえで、自分の主観的な印象でファンか否かを回答することになる。必然的に、比較対象によって回答中に含まれるファンという言葉の持つ意味合いは大きく変わる。ここでの大学生の答えを例に挙げれば、最初はプロ野球球団の枠内で考えたからこそ彼は「横浜ファン」だったのであり、あとでは野球ファンのイメージと比較したからこそ「横浜ファン」ではなくなったのだ。<br />
　ここで注意しなければならない点は二つある。第一に、個々人から発せられるファンという言葉には相対的な好き嫌いの意味合いしか含まれていないため、内面の愛情の強さを推し量る材料としては必ずしも十分ではないという点。もう一点は、比較対象に何を想定してファンいう言葉を用いているか、回答者自身も意識していない場合が多い点である。<br />
　さらに、「～ファンですか？」という質問を投げかける際には、もう一つ大きな注意点がある。プロ野球ファンという言葉が、そのイメージ像を個々人のなかに具体的に描き出させることは先に述べた。すなわち、人はプロ野球ファンの基準を独自に設定していることが多く、そのイメージ像と比して自分がファンであるかどうかを判断する場合が多い。しかし、ここで設定されるプロ野球ファンの像は多分に個人差を含むため、必然的に同じファンという言葉でも認識のずれは避けられないのである。<br />
　今回の例のように、より深く回答者の内面を掘り下げるような質問が行われた場合はまだしも、「～ファンですか？」という質問が単体で行われた場合、そこでの回答は非常に精度に乏しい。むしろ、それは個々人のファン像を乱暴に他者に当てはめさせる結果をもたらしかねず、思い込みやすれ違いを生む契機になりかねない。</p>

<p>　このように考えていけば、ファンというセグメントが客観的に判別可能な集団として存在するという観念自体が虚構に過ぎないこともわかる。ファンというセグメントを切り分けるためには、愛情の強さを絶対値で測定するか、もしくは共通の尺度となる比較対象を設定するか、そのいずれかを要する。しかし、その両方が不可能であることはすでに述べたとおりだ。結果、ファンか否かを判断する客観的な境界線を設定することは、不可能であると言わざるをえない。<br />
　しかし、人はある特定の人物を指してファンかどうかを客観的に呼び分けている。それはなぜ可能なのだろうか？　<br />
　多くの場合、それは客観的な行動の観察結果にすぎない。つまり、プロ野球に関して言えば、球場に足を運ぶ回数や、試合結果に対する関心の強さなどを観察した結果、自分のなかに漠然と存在するファン像と比較して、相手がファンに当てはまるかどうかを判断しているのだ。ここでは、球場に足を運んだり、テレビを観たり、何らかの方法でプロ野球と接している状態を、プロ野球を消費する、と定義したい。プロ野球ファンという表現が用いられる場合、それはいかにプロ野球を積極的に消費しているかという行動の側面から語られることが多いのである。<br />
　詫摩武俊氏は、損得の基準、成否の基準、そして好き嫌いの基準が複合的に勘案された結果、人間の行動は初めて決定されると述べている。プロ野球はあくまでも娯楽であるがゆえに、好きか嫌いかという基準が、行動という結果に強く影響を及ぼしているかのような印象を受ける。しかし、そもそもプロ野球は娯楽にすぎないからこそ、損得や成否の基準によってより強い制約を受ける。<br />
　例えば、仕事の時間を削ってまでスタジアムに足を運ぶ人と、スタジアムに足を運びたいがやむを得ず仕事をしている人がいたとしたら、前者のほうがプロ野球により強い愛情を抱いているとは一概に言えない。そこには、欲望に抗う意思の強さといった個人の内在的要因のほかにも、職場環境や家庭環境といった外在的要因も強く作用してくるからだ。それらを一切考慮することなく、客観的な観察結果から相手の内面を推し量ってしまうことは少々乱暴にすぎる。<br />
　確かに、優良なプロ野球消費者が熱心なプロ野球ファンである蓋然性は高い。しかし、逆に熱心なプロ野球ファンが必ずしも優良なプロ野球消費者であるとは言えないことに、ここでは大きな落とし穴がある。<br />
逆に、プロ野球ファンという言葉から、勝手にその人のプロ野球との付き合い方を想像してしまうことも多い。最初に述べたプロ野球ファンのイメージ像などはまさにその典型だろう。一方、行動となって表れなければそれほど強い愛情を抱いていないかのような印象を受けるのも、ファンか否かを判断するに際して客観的な観察結果に頼りきっている証拠だろう。</p>

<p>　結論を述べれば、ファンとは最も広範な意味で「プロ野球に少しでも関心を抱いている人」という程度に考える以外に定義づけの方法はない。定義の曖昧さは、愛情が絶対的に測定可能な代物ではないため宿命的につきまとう。かといってプロ野球との付き合い方だけを尺度にファンの定義を当てはめることも、必要以上にファンの射程を限定してしまう結果につながり、妥当ではない。<br />
　ここではむしろ、ファンという言葉が単に消費者を指して用いられている場合と、より広い意味合いで用いられている場合とを積極的に切り分けて考えることの必要性を訴えたい。メディアで語られるファン、われわれが日常何気なく使用しているファン、それらは両者の使い分けが非常に曖昧である。「球場に足を運ぶファンが少なくなった」、「応援してくれるすべてのファンのために･･････」そこでのファンという言葉は何を指すのか？　一歩踏みとどまって考える余裕を持ってもいいのではないだろうか。<br />
　ファンという言葉が何を指すのか？　それを特定するためには、なぜそこでファンというセグメントを切り出して考える必要があるのか、文脈の目的を明らかにすることで逆算的に考えるしかない。それが消費者を指すのか、あるいはより広範な意味を持つのか、ここは特に慎重な考察を要するところである。<br />
　次章では、今回の球界再編論争をマクロの視点から検証することを通じて、プロ野球ファンという言葉の意味を考えていきたい。</p>

<p><b>ビジネスと文化の狭間で、プロ野球を叫ぶ</b></p>

<p>　２００４年、社会問題にまで発展したプロ野球改革騒動は、球界の未来にどのような影響を及ぼすのだろうか？　それを詳細に語りつくす試みは無為に等しいが、騒動がもたらした最も大きな意味合いを挙げるとすれば、以下の二つに集約されるように思われる。<br />
　一つは、球界が初めて本格的な改革に向けて動き出したという事実そのものだ。臭いものにはフタの論理で５５年もの歴史を積み重ねてきた球界にとって、自らの傷口に初めて正面からライトを当てたこと自体が大きな前進である。<br />
　もう一つの大きな変化は、初めて球界にビジネスの論理が正面から持ち込まれたことだ。球界を支配する数々の不条理がビジネスの常識に照らし合わせて再検討されるようになったことは非常に大きな意味を持つだろう。<br />
　これまでプロ野球はエンターテイメント産業でありながら、ビジネスの原理を排除した異常な状態にあった。それを可能にしてきたのは、昭和２９年の国税庁通達によって確立された、球団の赤字が親会社の広告宣伝費という名目で無制限に補填されるシステムだ。結果、プロ野球はビジネスの原理に縛られない運営が可能になった一方、赤字の垂れ流しが無制限に許される聖域へと化していった。<br />
　しかし、そのような護送船団方式は時代の変化とともに限界を迎えた。長引く不況によってわが子に脛をかじらせるだけの余裕を失った親会社は、球団を企業の一事業部門とみなすようになり、子の自立を促すようになった。ここに来て初めて、プロ野球界は収支の改善、すなわちビジネスとしての健全さを真剣に要求されるようになったのである。<br />
　そのような潮流のなかで、初めてビジネスの常識が球界の常識を覆した瞬間こそが、親会社主導で完遂された近鉄とオリックスの合併だった。それは親会社による不採算部門の事業整理に他ならず、ビジネスの世界では珍しいことでも何でもない。<br />
　こうして、ビジネスの言葉でプロ野球を語り始めたオーナーは、適正市場規模に合わせた事業の縮小均衡を図ろうとして、１リーグ制への移行を強硬に進めた。縮小均衡という戦略の是非や、説明責任の杜撰さはともかく、オーナー主導の改革がプロ野球ビジネスの健全性を標榜していたことは間違いない。プロ野球はビジネスである、そう断言するオーナーの姿がしばしば見られたことからも明らかなように、２００４年はオーナー主導でプロ野球のビジネス化が本格的に進められた年なのだ。</p>

<p>　それは産業としてのプロ野球の存続という観点から考えれば、いたって健全な第一歩だったと言える。しかし、一方でビジネスの論理の球界への浸透は、爆弾を持ち込んだ一面もあることを認識しなければならない。<br />
　「新スポーツマーケティング～制度改革に向けて～」（創文企画）のなかで、著者の広瀬一郎氏はスポーツビジネスの難しさを指摘している。スポーツビジネスとは、スポーツを商品化することで収益を増やす営みだが、それは一方でスポーツの魅力、すなわち純粋な感動を減じさせる作用ももたらす。収益の増加を目指す作業が、どこかで価値の減殺を招くというパラドクスからスポーツビジネスは逃れることができない。そのようなパラドクスを、広瀬氏は以下のフローチャートで説明する。</p>

<p>①おもしろい→②ビジネスになる→③ビジネスにする→④つまらない</p>

<p>　プロ野球をビジネスにする。それは、これまでエンターテイメント産業の王様に君臨していながら、収支の問題を度外視してきたプロ野球が、初めて③の段階に本格的に足を踏み入れたことを意味する。しかし、それは同時に④の危険に晒されるようになったことでもある。<br />
　広瀬氏も指摘するように、スポーツビジネスを成功させるためにはバランス感覚が必要とされる。プロ野球をビジネスにするという試みはそのような均衡点を的確に探り当てる作業だと言える。<br />
　ここでプロ野球改革に話を戻す。１リーグ制への流れがなぜあれほど根強い世論の反発を招いたかについては後で検討するが、オーナーがビジネスとしての論理を唐突かつ強引に押しつけたことがその一因であることは明らかだ。<br />
　野村総合研究所が２００４年１１月に実施したアンケートによれば、この１年間でプロ野球に対する関心が「低下した」と答えた人は全体の２７，８％にも及び、そのうち実に４６，４％までが「不祥事や再編騒動で興味がそがれた」とその理由を述べている。これは、スポーツの舞台裏にすぎないはずの金や政治の論理が前面に出すぎた結果、プロ野の魅力が一部損なわれたことを端的に表している。<br />
　そもそも、プロ野球はビジネスとしての成熟度の低さに関わらず、政治や金の匂いを露骨に感じさせる歪な存在でもあった。その原因としてプロ野球の起源が企業スポーツにあることを見逃すことはできないが、親会社の資本力の違いが戦力の違いに直結するようなシステムが整備されて以来、マネーの論理がより強く球界を支配するようになったことも事実だ。そのようなシステムを作り出した元凶者の言葉を借りれば、それは自由競争でありビジネスの常識となるらしいが、ビジネスの常識をそのままスポーツビジネスの常識に当てはめたことは浅薄な考えだったとの批判を免れない。マネーの論理を一部オーナー主導で部分的に導入していた経緯が、今回の親会社の強引なやり方に対する嫌悪感をより強くさせたことを指摘しておきたい。</p>

<p>　繰り返しになるが、スポーツのビジネス化の過程で、大切なことは均衡点を見誤らない慎重さだ。広瀬氏は、この均衡点は、人によって、文化によって、民族によって異なってくると語っている。すなわち、プロ野球のビジネスとしての成功は、この国でプロ野球がどのように根づいているかを厳密に検証することなしでは成しえないのだ。<br />
　このようなスポーツビジネスの均衡点を推し量る材料として注目しなければならないのが、スポーツの文化としての側面である。<br />
　プロ野球は文化である、それは昨年度オーナー主導で推し進められた改革に反論を突きつける側が、好んで引用したテーゼだ。彼らの主張は、大抵、以下の二つの論法から成り立っていた。<br />
　第一の論法は、収支改善策として球界の縮小均衡策を推し進めることに合理性が見出せないと非難するスタンスだ。そのスタンスは、赤字体質を改善できなかった企業の経営責任を糾弾する姿勢と、労働者である選手や消費者への説明責任が果たされていない点を批判する姿勢とで、三位一体にされている場合が多かった。いずれにせよ、それらはオーナー主導の改革の不適切さをビジネスの側面から訴えていたと言える。<br />
　もう一つの論法が、プロ野球の文化としての側面を強調し、オーナーの独善的な態度を批判するスタンスだ。ここでの主張は、プロ野球には文化としての側面があるから、ファンの声を無視した横暴は許されないという論理が中心になる。その際、日本プロファッショナル野球協約第３条1項の「野球が社会の文化的公共財となるよう努める」という条文を引用して、結果的にオーナーの協約違反を非難することも多かった。<br />
　しかし、そこで文化という言葉は、オーナーの恣意性を批判するためだけに引用された感も強い。球界のビジネスの側面に着目すれば、オーナーが消費者の意見を聞くか聞かないかはあくまで彼ら自身が判断すべきことであり、消費者の意見を聞かなければならない謂れはどこにもない。だからこそ、反意を表する側としては、自分たちが意見を主張する権利があることを何らかの形で正当化する必要性があり、そのために文化という言葉が登場したような感がある。<br />
　そのため、プロ野球が文化であるとは、果たしてどういうことなのかを正面から検証する姿勢は希薄であった。そこで、ここではプロ野球の文化としての側面について、少し考えてみたい。　<br />
　そもそも文化とは何なのか。レイモンド・ウィリアムズは、生活様式全体を構成する精神に文化の重きをおく観念論と、社会秩序全体に重きを置き、文化もその秩序の直接あるいは間接の産物と考える唯物論の二説が存在し、それらが合流することで現在の文化論が展開していると説明している。<br />
　観念論の立場からは、プロ野球が文化であるということは、プロ野球が国民生活を構成するうえで不可欠なファクターを形成していると説明され、唯物論の立場からは国民生活のなかに根づいている精神がプロ野球内部に色濃く反映されていると説明される。すなわち、プロ野球が文化であるということは、上記二つの点をプロ野球が満たすことで初めて達成されると言える。<br />
　ここでプロ野球はビジネスの観点から離れ、公共性の意味合いを強めるようになる。誰もが公平にプロ野球を享受できる権利。誰もがその健全な育成に責任を持つ義務。プロ野球の文化としての側面は、ファンより、もっと広範な意味でプロ野球の受け手を考えさせる概念なのである。<br />
　現在のプロ野球が日本文化として胸を張れる存在であるかどうかは、個人の解釈によって変わってくるだろう。ただ、ここで重要なことは、現在のプロ野球が文化と呼ぶにふさわしいかよりも、プロ野球を文化として考えていく姿勢を持つことが結果的にプロ野球の繁栄のためには不可欠であるという点だ。<br />
それは、暴力的なビジネスの論理が結果的にスポーツというコンテンツの価値を減少させないよう、オーナーに国民感情の精緻な分析を義務づけ、一方で国民にオーナーの暴政が起こったときにそれを戒める権利を認めることだとも言える。<br />
　プロ野球が本来的に企業の所有物である点に鑑みると、プロ野球の舵取りは最終的にオーナーの手に委ねられる。プロ野球の意義が単なる広告宣伝の域を脱し、ビジネスとしての成熟度を求められるのであれば、オーナーの関心はいかにプロ野球にビジネスチャンスを見出すかという点に集約されがちである。<br />
　しかし、ビジネスとしての成功を遂げるためには、消費者である国民意識を観察し、ビジネスのロジックを持ち出しうる臨界点を見出す作業が不可欠になる。そこでオーナーに求められるのは、国民意識を敏感に嗅ぎわける嗅覚であり、そのためにはプロ野球の文化的側面に注目し、国民生活そのものを観察することが必要とされる。<br />
　そして、プロ野球が文化として国民全体に広く享受されるためには、そもそもビジネスとして永続的に破綻しないことが前提として要求される。<br />
　このように、プロ野球のビジネスとしての側面と文化としての側面は決して対立関係にあるのではなく、相互補完的な関係にある。<br />
　プロ野球のビジネスとしての側面は現実論であり、文化としての側面は理想論とも対応する。プロ野球の繁栄は、プロ野球が国民全体から普遍的に愛される理想像を追求する過程で、ビジネスとして現実的なバランスを保っていくことによって初めて達成される。どちらに重心が傾きすぎても成功はない。大切なことは何度も言うようにバランス感覚であり、そしてそれを最も要求されるのは他でもない決定権を有するオーナーなのである。<br />
　ここでファンの話に戻る。ファンという言葉は、消費者を指す場合とより普遍的な意味合いで用いられる場合の二通りがあることはすでに述べた。プロ野球のビジネスとしての側面に言及する場合、そこで語られるファンはプロ野球の消費者を指す場合が多い。実際にプロ野球界の収支に影響を及ぼすのは彼らだからだ。一方、プロ野球の文化としての側面に言及する場合、そこで語られるファンはより広範な意味でプロ野球を愛している人全般を指す場合が多い。もちろん、広く国民の意識を俯瞰することも大切ではあるが、より重要なことはその境界線を浮かび上がらせることで、プロ野球の現在地を明らかにする試みだと言えるだろう。<br />
　なぜ、このような使い分けを認識する必要があるのだろうか？　それは改革論を具体的に検証する際、消費者を増やすためのアプローチと、ファンを増やすためのアプローチが、手法としても、意味合いとしても必ずしも一致しないからだ。<br />
　もちろん、ファンの数を増やすことが消費者の増加に貢献することは疑いない。しかし、ビジネスの側面でインパクトを最大にするためには、必ずしもファンを増やすことが最良の手段ではない。既存のファンをいかに消費者に変えていくか、現在の消費者をいかにより優良な消費者に変えていくか、それぞれの打ち手を費用対効果の側面から考える過程では、文化的側面を重視したアプローチは選択肢の一つにすぎない。</p>

<p>　今回の改革は無菌状態だった球界の経営を正常化するという命題を掲げて始まった。そこで検証されるべきは、もちろんビジネスとしての改革の合理性であり、効率性だ。しかし、だからといってプロ野球の文化としての側面を見誤れば、プロ野球自体を死滅させる結果につながりかねない。<br />
　今回、合併反対の気運が世論で盛り上がった背景には、プロ野球の行き過ぎたビジネス化を戒める側面よりも、消費者や選手を軽視したオーナー側の責任意識の希薄さを糾弾する側面のほうが大きかった。<br />
　しかし、結果的に騒動が社会問題にまで発展し、いたるところで合併の是非が語られる場を得たことは、結果的にビジネスとしての第一歩を踏み出したプロ野球にとっては非常に有用だった。なぜなら、その過程で今まで当たり前のものとして享受されてきたプロ野球の意味合いが改めて問われ、プロ野球の文化としての側面を考えるためのヒントが大いに提供されたからだ。<br />
　そのようなヒントは、プロ野球を愛し、今回の改革によって少しでも影響を受けたファンのなかに最も多く見られることは間違いない。なぜなら、彼らこそビジネスの原理によって喜びを奪われた当事者であり、分岐点に差し掛かったプロ野球の大いなる犠牲者だからである。<br />
　２００４年度を改革元年とするなら、そこでは失われたものを検証することが何よりも大切だ。プロ野球の文化としての側面を考え、結果的にプロ野球の繁栄に続く道筋を描くために、ここでは消費者ではないもっと広範な意味でのファンについて考えなければならない。<br />
　次の章では、実際にファンの声がどのように改革に反映されたか、あるいはされなかったかを、よりミクロな視点から検証したいと思う。</p>

<p><b>世論と、選手会と、オーナーと……</b></p>

<p>　２００４年、球界再編問題はプロ野球という単一のエンターテイメント産業の枠を超え、社会問題へと発展していった。ここでは、２００４年度の改革を概観することから始めたいと思う。</p>

<p>　合併という事実が電撃的に発表されてから、球界再編論議はおおかたの予想以上に混迷を極め、またドラマチックに展開していった。<br />
　強硬に主張される１リーグ制への移行に反逆の咆哮をあげた虎。球団買収に名のりをあげたＩＴ企業の若頭。悪の巨星と目されていた独裁者を襲ったスキャンダルと失脚劇。メガネがトレードマークのプロ野球選手会会長の孤独な戦い。そして、球場から歓声が消えた９月の週末。<br />
　豊富なキャスティングに彩られた球界再編劇は、加熱していく報道合戦によって次第にエンターテイメント性を増していった。それに呼応するようにして世論の関心も高まっていき、最終的には傲慢な経営者に立ち向かう選手会の背中を強く後押しする声として結束していった。<br />
　９月２３日、プロ野球選手会と日本プロフェッショナル野球組織（ＮＰＢ）との話し合いが妥結に行きついた。結果、近鉄とオリックスの合併が覆されることはついになく、５５年に及ぶ両球団の歴史に幕が下ろされることが正式に決まった。一方、２００５年シーズンからの新規球団参入の可能性についてＮＰＢから信用に足りる発言を引きだしたことは、選手会が最後の最後で勝ち取った戦果だった。<br />
　この日を、選手会と経営者の争いは一応の決着を見た。しかし、球界再編をめぐるドタバタ劇は終わらない。１１月２日、西武ライオンズが日本一を決めた日から遅れること約１週間、選手会がつないだタスキを楽天三木谷社長がしっかりと受け継いだ。実に半世紀ぶりの新球団、東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生だ。さらに、クリスマスイブには、福岡ソフトバンクホークス誕生のニュースも空から舞い降りた。<br />
結果的に、合併球団であるオリックス・バファローズも含めて１２球団２リーグという従来の形はギリギリのところで保持された。新たに加わった親会社が共にＩＴ企業であるという点は、まさに時代の趨勢を色濃く反映していると言えるだろう。ライブドアの参入こそ認められなかったが、手を挙げた企業が球団を買える、そんなビジネスの論理で説明のつく部分が球界に増えてきたことは確かだ。</p>

<p>　では、その過程でファンの声はどのように活かされたのだろうか？<br />
　今回の騒動を振り返ったとき、最もクローズアップされる点は、これまで選手会を歯牙にもかけなかった球団オーナーが、初めて選手会と一つのテーブルを囲み、なおかつ持論を大きく転換させるまでに至ったことだろう。その背後に、世論の大きな圧力があったことはすでに述べたとおりである。<br />
　ここで世論の声とファンの声を混同してはならない。プロ野球を愛する者と、そうでない者とでは、プロ野球改革の持つ意味合いが大きく異なるからだ。</p>

<p>　そもそも、今回の騒動を通じて、世論の関心はプロ野球の未来そのものからは少しずれたところにあった可能性が高い。それを立証するために、ここでは二つのデータを引用する。<br />
　ＮＨＫ放送文化研究所が９月に実施したアンケートによると、選手会によるストライキを「支持する」声は有効回答数全体の７８％にも及び、１２％にとどまった「支持しない」声を大きく上まわった。支持する理由については、「１：選手会側の要求に球団側が誠実に答えていないから」が４０％、「２：球団の合併によって選手や職員の雇用に大きな問題がでるから」が１８％、「３：球団側が球界再編の将来展望をきちんと示していないから」が４０％、「４：その他」、「５：わからない」がそれぞれ１％、２％となっていた。<br />
　ここで、「１」もしくは「２」と回答した人、ストライキ賛同者の５８％までは、労使間交渉として今回の騒動に注目していたことが分かる。５８％の人々にとって、球界の将来図はあくまでも二番手の問題でしかなかったのである。<br />
　このことを別方面から裏づけるデータもある。朝日新聞社による電話調査によれば、６月の時点で「２リーグ存続」を訴えた声は４０％に止まったのが、８月の時点では存続派が７３％に増えた。しかし、１１月中旬に日本経済新聞社が行った世論調査によれば、「２リーグ制を維持するべきだ」と答えた人は再び全体の４２％に止まっている。<br />
　なぜ、球界と選手会の交渉が佳境を迎える８月だけ、「２リーグ支持」を訴える声が急激に増えたのだろうか？　そこには、選手会への支持の高まりが、選手会が訴える２リーグ制の支持に直結したというカラクリがあったように思われる。言い換えれば、２リーグか１リーグかという問題は、世論では簡単に意見が変わる問題にすぎなかった、ということでもある。<br />
　世論が盛り上がっていくプロセスを辿ってみよう。「誰が『プロ野球』を殺したのか！」（祥伝社）のなかで、著者の永谷脩氏は、合併反対のムードが一気に高まりを見せたのは、ライブドア堀江貴文社長が７月４日、大阪ドームに登場してからのことだと主張する。ライブドアは６月３０日に近鉄買収の意思表示を示していたが、当時の読売巨人軍渡辺恒夫オーナーはそれを一蹴した。その後、堀江氏は薄皮を一枚一枚剥いでいくかのように、ライブドアが近鉄を買収できないことの非合理性を説明していった。結果、「やむをえない帰結」という正当性を失った合併という選択肢は、世論の反発を買い、それを押し通そうとするオーナーは理不尽と言われても仕方ない状況に追い込まれていった。オーナーの主張してきたビジネスとしての正当性が、ライブドアの登場によって大きく揺らいだのである。<br />
　そのようなオーナー側の劣勢に追い討ちをかけたのが、７月８日に渡辺恒夫氏の口から飛び出した「たかが選手」発言だった。これによって選手に対する世論の同情は一気に高まり、それと反比例するように傲慢な経営者イズムに対する反発も跳ね上がった。<br />
　こうして、必ずしも必要ではない強引な合併劇に振り回され、意見を述べる場さえ与えられない選手会は、夢を与えるスターから悲劇のヒーローへと一転したのである。</p>

<p>　このように球界再編問題と言われながら、世論の関心は球界の未来そのものではなく、選手会ＶＳオーナーという労使間交渉の帰結へと集約されていった。そして、その傾向をそもそも方向づけ、助長したのがメディアによる報道だったことも忘れてはならない。<br />
　６月１３日以降、球界再編問題は常にメディアの中心を占めるようになり、それが世論の土台になったことは間違いない。理想から言えば、メディアでの論争は常に球界の未来を第一に見据えて、慎重に展開されていくべきだった。<br />
　しかし、現実は違った。メディアは選手の意見に耳を傾けない経営者に痛烈な批判を浴びせ、「たかが選手」発言以降、その傾向はますます顕著になっていった。時代錯誤の論理をふりかざす傲慢な経営者と、泣き寝入りの窮地に立たされた選手会。メディアは強者と弱者を明確に描き分けることによって、選手会ＶＳオーナーという構図を世論の意識に定着させていった。<br />
　論点を単純化した対立構図は受け手にとってわかりやすく、ニュースとしても見栄えがいい。再編騒動そのものがコンテンツであり、それに演出を加え、売り込みをかけるメディアとすれば、そのような構図の設定は視聴者の感情的な部分に訴えかけるベストな手法と言えた。<br />
　しかし、対立ばかりが強調される報道は、どうしても勝敗や優劣といった相対的評価に観る者の視点を追いやってしまい、肝心の絶対的な評価を疎かにさせた。メディアの報道のなかで、プロ野球の未来という議論の本質的な部分に対する言及は少しずつ減っていった。<br />
　そして、選手会によるストライキを経て、迎えた９月２３日。新規球団の参入に関する譲歩案を約定したことで、選手会と経営者の交渉は終焉を迎えた。それは、選手会ＶＳオーナーという構図で騒動を見守ってきた世論にしてみれば、十分満足に値する選手会の勝利として映った。<br />
　これによって充足感をえた世論の合併問題に対する関心は急速に冷めていき、メディアも楽天ＶＳライブドアという新しい抗争関係の報道にすぐさま軸足を移していった。その狭間で、近鉄とオリックスの合併が承認されたという事実は、磯部近鉄選手会会長の涙とともに、大いなる犠牲としてその日かぎりの同情を買うにとどまった。<br />
　こうして、元々は近鉄とオリックスの合併問題として始まった話が、合併承認という結果について十分に語られることなく終わってしまった。同様の弊害は、楽天ＶＳライブドアという新規参入合戦にもそのまま指摘される。球界の未来を考えれば、どちらの企業が参入するかは枝葉の問題にすぎず、本題はどのような資格と理念を持った企業が球界経営にふさわしいかという絶対的な基軸を設定することだった。そのことには十分に言及されず、楽天の当選、ライブドアの落選という結果だけがクローズアップされたのは残念なことである。</p>

<p>　２００４年は始まりの年にすぎず、プロ野球問題はむしろこれからが本番だ。１２球団２リーグという体制が保持されたから、一安心という話ではまったくない。旧体制が維持されたのは、むしろマネーの論理だけを球界に持ち込み、経営責任の常識を持ち込まなかったオーナーに批判の声が高まった帰結にすぎず、１２球団２リーグという体制に何ら合理性が見出されたわけではない。<br />
　逆に、球団赤字をいかに解消するかという問題は、旧体制のなかで模索するという縛りを設けられてしまった。オーナー側が説明責任を果たしたうえで、適切なプロセスを踏んでいれば、合理的な帰結として球界規模の縮小という方策も十分採りえたと個人的には考えている。その可能性を無碍に摘んでしまったのは大きな損失であり、選択肢が狭められたなかで、いかに球界のビジネスとしての健全化を図っていくか、改革の真価が問われるのは今なのである。<br />
　しかし、協調関係が保たれているうちは、メディアがそれを大々的に取り上げることもない。藤原帰一氏がテレビで語っていた言葉を、ふと思い出した。<br />
　「人は戦争の記憶は覚えているのに、平和の記憶はなぜすぐに忘れてしまうのだろう？　」<br />
　戦争の報道はニュースになるが、平和の報道はニュースにならない。しかし、球界が生き残るための戦いが行われているのは、まさに今なのである。</p>

<p>　話をファンに戻そう。世論の盛り上がりと、それが球界に及ぼした影響についてはここまで語ったとおりである。登場人物は、オーナー、選手会、そして世論の三者であり、そこにファンの影を見出すことはできない。<br />
　なぜ、ファンの声はクローズアップされることがなかったのか？今日、社会に大きなインパクトを及ぼすためには、メディアの波に乗ることが不可欠である。ファンの声が耳に届かなかったというのであれば、それはメディアによって代弁されなかったという事情があるのは間違いない。<br />
　では、なぜ今回の合併劇を通じて、ファンの声はメディアに乗らなかったのか。その理由として、メディアの側でファンの声と世論の声を分けて伝えるインセンティブが欠けていたことが挙げられる。<br />
　今回の騒動を通じて、ファンの声もまた、選手会の全面支持という形で概ね結束を固めていた。もちろん、そこにはオーナーによって虐げられた選手会を後押しするという意味合いもあったが、一方で経営者から黙殺されたファンには、交渉の席に座る選手会を自分たちの代弁者にするという選択肢しかないという事情もあった。<br />
　結果、選手会を支持する世論のなかに、ファンの声とそうでない者の声が入り混じってしまった。ファンの声が世論の波に吸収された形であるが、ファンとしても世論の波に乗ることで選手会の背中を強力に後押しする推進力を得ることができた。報じるメディアの側にしてみれば、同じ選手会支持という立場に集約されるのであれば、ファンと世論との間に境界線を引く必要はなかった。こうして、ファンの声は世論の声にいい意味でも悪い意味でも埋没していったのである。<br />
　世論の後押しを受けた古田敦也選手会長を中心としたプロ野球選手会は、オーナーの横暴に待ったをかけたヒーローとして語られることが多い。確かに、ファンの願いを直接聞き入れる立場にいた選手会の意見は、ファンのそれと非常に同調的だった。しかし、最終的に選手会にはあくまでも選手の雇用を考えなければならないという現実的な事情があり、理想論を語るファンの完全な代弁者にはなりえなかった。ファンが選手会を全面的に支持していたとは言っても、そこには立場や目的に微妙な違いがあったことを忘れてはならない。そして、その違いを指摘しなければ、球界の未来を照らす光を見失いかねない。</p>

<p>　ファンの声とは何だろう？　確かな形があるとすれば、それは１２２万票にも及んだ近鉄とオリックスの合併に反対する署名に尽きるのではないだろうか。<br />
　必ずしも１２２万人全員が近鉄とオリックスの優良な消費者であったはずはなく、また、ある必要もない。１２２万人がまったく同じ意見であったはずがないし、合併という帰結が残す傷口もそこには１２２万通りあるだろう。さらには、単に選手会の立場に同情して署名しただけの人もいるだろうし、インターネットによって署名自体が容易に行える背景も考慮しなければならない。<br />
　それでもなお、１２２万という数字には隠然たる意味がある。それぞれの生活のなかで、それぞれの思いを見つめなおす過程で、結果的に１２２万人が署名を厭わなかった、それこそがプロ野球の文化的側面として重視されるべきであり、ファンの声として尊重されるべきだからだ。<br />
　むしろ、結果的に１２球団２リーグという結果にいたることが９月２３日の時点で容易に想像がついたのであれば、近鉄とオリックスの合併を押し切ることの必然性は皆無に近かった。ライブドアという球団の買収に手を挙げる存在がいて、それに売れなかったことの合理的な説明はいまだなされていない。あまつさえ、ライブドアが新規参入合戦に敗れた後で（正確には落選が世間に発表される前に）、西武ライオンズの買収を打診されていたことも報じられている。そういった事情に鑑みれば、結果的に二つの球団を潰して一つの球団を作るというプロセスを踏むことには、ビジネスの側面からも文化の側面からも１２２万という数字を覆すだけの合理性はない。<br />
　今回の騒動に犠牲者がいるとしたら、それは誰だろうか？　当初の懸案であった近鉄の経営権の処理は果たされ、選手の雇用も確保された。<br />
　結局のところ、涙を呑んだのは合併という帰結によって帰る場所を失ったファンだ。それぞれの生活のなかで喪失感を覚えたすべての人が、今回の騒動のまぎれもない犠牲者なのだ。それは５５年という歴史を背景に育まれてきたプロ野球の文化としての理想像を考えるうえで、非常に大きな損失だったのではあるまいか。</p>

<p>　このように、ファンの声は常に世論の声と一緒くたにされてきた。世論の合併論議に対する関心が急速に冷めていくと、それまで世論の声と重なりあうことで影響力を発揮してきたファンの声もまた、社会の隅へと追いやられてしまった。後には誰もファンの叫びに耳を傾けようとはしなかった。こうして、ファンの声は一度もそれとして認識されないまま、騒動の沈静化を迎えた。<br />
　今、その無念をクローズアップしてもいいのではないか。ファンという一般名詞で語るのではない。一人一人の顔を取り出して、それぞれの生活のなかで、それぞれの愛し方に焦点を当てて、プロ野球ファンになるということはどういうことなのかを考えてみてもいいのではないか。<br />
　次章では、なぜ人はファンになるのか、ファンになるとはどういうことなのかを考えていきたい。一つには、プロ野球の文化としての側面を考える一助とするため。一つには、今回の騒動が生み出した悲しみを知るため。</p>

<p><b>好きって何ですか？</b></p>

<p>　幸い、雨ではなかった。しかし、晴れでもない。曇り。それも一部の雲間さえ見出だせない、完全な曇り空。<br />
　８月１１日午前９時、大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの合併反対を訴える第２回デモ行進が日比谷公園をスタートする。時刻はすでに午前９時を少し回っていた。東京メトロ霞ヶ関駅を飛びだした先に待ちうけていた空模様は、今にも声をあげて泣きだしそうだ。<br />
　雨が降る可能性のほうが高かった。それでも、一筋の光が差す可能性がゼロでないのであれば、そこに集う意味はあった。コンクリートから染み出す熱気が身体を蒸す。滴り落ちる汗。干あがる喉の奥。刺さる好奇の視線。浴びせられる嘲笑の声。<br />
　しかし、新橋を経由し、日比谷公園に帰ってくるまでの約１時間、魂の叫びは決して枯れなかった。</p>

<p>　１９８９年、近鉄バファローズは９年ぶり３度目のリーグ優勝を果たした。当時の球団帽子を目深にかぶった男性は、色のついたサングラスをかけ、バファローズのタオルで口元を覆って、デモに参加していた。<br />
「前回ね、ライブドアの堀江社長の会見を見に行ったとき、社長の後ろでおもいっきりテレビに映ったんですよ。その日は休みやったからよかったけど、今日は実家に帰るからって言って、無理して盆休みを一日早く会社からもらったからね。ばれるとまずいんですわ」<br />
　噴出す汗が止まらない。真夏の重装備は顔を隠すためのものだと、男性は恥ずかしそうに明かした。年齢は３０代中頃。小気味よい関西弁がデモの最中から印象的だった。<br />
　小学生のときから生粋の近鉄ファンだった。きっかけは地元大阪のチームということ。阪神タイガースは兵庫のチーム。大阪のチームは近鉄バファローズ以外にはありえなかった。<br />
　そんな近鉄がなくなると聞いたとき、これ以上の悲しみなどないというくらい思いつめ、同時にずっと愛してきた近鉄のために何かがしたいとも思った。そんな折に、今回のデモのことを偶然知り、いてもたってもいられなくなって参加した。<br />
「近鉄には近鉄の伝統的なチームカラーがあるからね。それが合併によってなくなってしまうんはホンマに悲しい。選手もバラバラになってしまうしね。パ・リーグがなくなることにも反対やね。パ・リーグにはパ・リーグのよさがあるから。味がある。<br />
　新しいチームなんか絶対応援せえへん。合併チームなんかに愛着持たれへんよ。ファンはやめる人多いやろね。近鉄が残る以外に方法はないね」<br />
　会社を休んでまで、顔を隠してまで、デモに参加する。デモは確かな抗議の手段だ。しかし、そこにどれほどの生産性があるかは正直なところ疑わしい。<br />
　それでもデモに参加しようと思ったという男性。彼の中で、近鉄バファローズという存在は一体何なのか？<br />
「勝ち負けだけで明るくも暗くもなるし、それだけで気分が違うというか、そんな感じかな。色々教えてもらったよ。何事もあきらめたらアカンとか、執念とかね。色々（近鉄を通じて）勉強することもあった。選手が苦労して、頑張ってる姿とか励みにもなるしね」<br />
　なぜそこまで近鉄を愛するのか？　プロ野球に、近鉄に求めているものは何なのか？<br />
「そんなん言われても難しいな･･････」<br />
　そこで初めて男性は考える仕草を見せた。<br />
「やっぱり熱い戦いとか、そういうのかな。そもそも野球は好きやけど、でもやっぱり近鉄のいるプロ野球が好きやねんな。近鉄がおらな応援したいとは思わへん。何なんやろな。よくわからんわ」<br />
　意地悪な質問をしてみた。近鉄の本拠地が大阪でなくなっても応援できるか？<br />
「それはやっぱり大阪にいてほしいけどね。でも、チームがそのままなら応援できると思うよ」<br />
　きっかけは大阪。しかし、今はただバファローズというチームが好き。理由は自分でもよく分からない。　　ただ、好きだという強い気持ちに偽りはない。その思いが男性に行動を起こさせる。<br />
「近鉄だけが１２球団で唯一日本一になってへんからね」<br />
　男性は最後に、近鉄にとっての、そして自身にとっての悲願を熱く語ってくれた。<br />
　しかし、夢は決して叶うことはない。近鉄バファローズの来シーズンは、二度と来ないからだ。</p>

<p>「悲しいですよ、やっぱり。球団が消滅してしまうっていうのは」<br />
　近鉄の赤でもオリックスの青でもない。オレンジ色のハッピは、広島東洋カープのそれ。<br />
　その日、デモに参加していた２１歳の男子大学生は、ひいきではないチームに寄せる思いを口にした。　今回の球界再編問題で広島カープが話題にのぼることはほとんどない。それにも関わらず、今回の問題をとても身近に感じているという。<br />
　ファン歴はそれほど長くなく、今年で６年目くらいという。熱狂的なファンを地元に抱えることで有名な広島ではあるが、彼の場合は少々違う。<br />
「ほら、広島ってお金ないじゃないですか。何かそれがかわいそうで」<br />
　広島を好きになった理由を尋ねられると、彼は照れくさそうに言った。その言葉を聞いて、ひねくれた自分は思った。ただ貧乏な球団というのなら、広島の他にも枚挙にいとまはない。他に何か直接のきっかけはないのか？<br />
　それを尋ねると、彼は考えこんでしまった。悪いことを聞いてしまったとこちらが恐縮してしまう。それでは、と質問の矛先を変えてみる。広島カープとはあなたにとってどのような存在ですか？<br />
「僕にとってですか･･････」<br />
　そうつぶやいた彼は再び思考の海に沈んでいった。しかし、今度の悩み方は先ほどまでとは様子が違う。答えが見つからないというより、愛情を示すに足りるだけの最適な表現が見つからないといった感じだ。<br />
「いやあ、かけがえのない存在というか。すでに身体の一部みたいなもんですかね」<br />
　すかさず相槌を打った。それでは、広島が勝つだけで一日幸せになれるとか、そういう感じですか？<br />
「いや、そんなこともないんですよ。広島の場合、お金がないのは分かっているから、そんなに強くなくても、例えば優勝とかしなくてもいいんですよね。<br />
　もちろん、（優勝を）期待しないというのではないですよ。それは頑張ってほしいですけど。でも、勝ち負けだけとかじゃないんですよね」<br />
　彼は苦笑して言った。勝負の醍醐味とは明らかに矛盾する正直な思いに、彼自身も少々戸惑っているようだ。<br />
　勝たなくてもいいとまで言うと語弊はあるのだろう。しかし、勝ち負けを超越した思いが存在することもまた事実だ。強さではない。地域愛に根ざした愛情でも、勝利に対する渇望でもない。では、一体何が彼を広島ファンにしているというのか？　そもそも彼にとって、広島カープのカープたりうるアイデンティティとは何なのか？<br />
　広島が近鉄と同じような立場になったら合併球団を応援できるか、との質問に、彼はすかさずノーと答えた。一方で、カープが広島を本拠地としなくなったとしても応援できると言った。カープが金持ちになったら？　その質問は一笑にふされてしまった。<br />
　では、選手についてはどうか？　彼が初めて購入した広島カープのユニフォームの背中には、ＥＴＯのネームが入っていた。江藤は広島不動の４番バッターとして活躍した後、９９年オフにＦＡ宣言をして巨人に移籍した選手だ。<br />
　長く応援してきた選手が移籍した。それでも当時はただ寂しかったというだけで、広島に対する思いには一切の陰りもなかったと言う。愛着を抱いていた選手でさえ、広島を出てしまえばよそのチームの選手になる。逆に広島に移籍してきた選手であれば、旧来の選手と分け隔てなく応援できる。<br />
　やはり、ここでも愛情はチームそのものに集約される。<br />
　なぜファンであるのかとの問いかけに明確な答えはない。ただ、その一途な思いは広島カープというチームに結ばれ、広島カープを含むプロ野球界全体に注がれる。<br />
　インタビューを終え、ベンチを立ち上がろうとしたとき、彼は笑って言った。<br />
「広島の応援ってスクワットするんですよ。それを一日やると、次の日とか太股が筋肉痛になって大変で……。それでもやっぱりまた応援に行っちゃうんですよね」<br />
　昨日から広島は神宮球場でヤクルトスワローズとの３連戦の最中である。もちろん彼は今日も球場に足を運ぶと言う。</p>

<p>　ファンの声を集めた結果、わかったことがいくつかある。まずは、ファンになる動機についてだ。<br />
　ファンの口から語られる動機はまさに十人十色である。近鉄ファンの男性のよう</p>]]>
</content>
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<title>『「脳科学」化社会』赤木智弘</title>
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<modified>2007-02-10T17:59:44Z</modified>
<issued>2005-03-02T00:59:41Z</issued>
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<created>2005-03-02T00:59:41Z</created>
<summary type="text/plain">はじまりは「ゲーム脳」だったはずだ。 　2004年の大晦日を翌日に控えたあの日、あるデパートの書店の前を通りがかった時に面白いものが目についた。 　通路に面した書棚に、脳関連の本がずらっと並んでいるのだ。さながら「脳フェア」といったところか...</summary>
<author>
<name>赤木</name>


</author>
<dc:subject>修了課題</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.journalistcourse.net/blog/">
<![CDATA[<h2>はじまりは「ゲーム脳」だったはずだ。</h2>

<p>　2004年の大晦日を翌日に控えたあの日、あるデパートの書店の前を通りがかった時に面白いものが目についた。<br />
　通路に面した書棚に、脳関連の本がずらっと並んでいるのだ。さながら「脳フェア」といったところか。<br />
　本のタイトルをざっとあげてみると、『脳が若返る100のコツ』『脳が若々しい人老けやすい人』『百人一首で脳を鍛える方法』『和田秀樹の全脳トレーニング』『左脳を鍛える大人の迷路』『右脳を鍛える言葉の迷路』『脳を鍛える記憶術』『大人の脳を活性化　名作音読ドリル』『川島隆太の自分の脳を自分で育てる』『脳を鍛える即効トレーニング』『５分間活脳法』『大人から子供まで毎日続ける脳力日記帳』『大人から子供まで脳力を鍛える音読練習帳』まだまだあるが、きりがない。<br />
　タイトルからしても分かるように、これらの本は脳研究の専門家に向けた医学書ではなく、一般の人に向けた脳の本である。</p>

<p>　「脳」がこんなに流行っているのか……。</p>]]>
<![CDATA[<p>　そこで感じた感慨深さは、決して肯定的な感情ではない。<br />
　「脳科学によって、貶められているモノがある」<br />
　その事を、ある一件以来、常に考えてきた私にとって、このような脳情報の氾濫は、見るに耐えないものだった。</p>

<p>　ブラックボックスであった脳の仕組みが詳しく解明されるようになったのは、極めてごく最近の事である。<br />
　以前の脳研究といえばもっぱら「解剖」という行為が中心であった。なぜなら、解剖しなければ脳が見えなかったからである。<br />
　解剖学者として知られる、元東京大学教授の養老孟司は、『脳の中の過程』（哲学書房 1986）の中で、「20世紀は解剖学を「死体解剖学」であると悪口する」と記している。<br />
　解剖するには、それが死体でなければならず（生きたまま解剖したっていいが、解剖の過程で死体になる）、生きた脳の動きを観察することはできなかった。<br />
　それがCTスキャンやMRI、PETといった技術が発達することによって、生きたままの人間の脳を、つぶさに観察することができるようになった。<br />
　そして脳科学は「最新の脳科学」にあふれるようになった。</p>

<p>　けれども、「最新の脳科学」はあくまでも「最新」なのであり、決して多角的な視点をもって、実証された科学ではない。いわば「枯れていない科学」であり、その内容には眉唾なものが多く含まれる。<br />
　しかし、そのような実情には触れず、脳科学は我々のような科学リテラシーを持たない一般市民の前に絶対的な存在として姿を現す。<br />
　そして、さまざまな人の思惑とともに、脳科学はねじ曲げられ、利用される。</p>

<p>　私がそんなことを痛感したのは、2002年のことである。</p>

<h2>『ゲーム脳の恐怖』の恐怖</h2>

<p>　「やれやれ、またか」<br />
　それが「ゲーム脳」という言葉に初めて出会ったときの印象だった。<br />
　2002年７月８日の毎日新聞夕刊１面に「ゲーム脳」という文字が踊り、10日にNHK出版からゲーム脳という言葉の生みの親、森昭雄の著書『ゲーム脳の恐怖』（NHK出版 2002）が発売された。<br />
　新聞記事を見るに「ゲーム脳」とは、人間らしい感情をつかさどる、大脳の前頭前野という場所の活動が、TVゲームをしているときに低下するのだという。そして、TVゲームを長時間しているほど、前頭前野の活動レベルが慢性的に低くなるというものらしい。<br />
　つまり、このことから当時流行していた「キレる」といった行動の原因をTVゲームのやりすぎに求めることができるという。</p>

<p>　だが、私は初めにこの言葉を聞いた時には、鼻で笑う以外のことをしなかった。<br />
　なぜなら、こうしたTVゲームに対するいいかげんな言説は、我々にとっては「よくある話」でしかなかったからだ。<br />
　TVゲームや漫画、それからホラーやオカルト関連といった、オタクカルチャーは、1988から89年にかけて起こった「宮崎勤事件」以降、常に風評の的にされ続けてきた。<br />
　さも漫画やアニメやホラービデオ、そしてTVゲームいったオタクカルチャーが宮崎を殺人鬼に仕立てあげたかのような、相関関係と因果関係の区別すらしない、感情的な報道が相次いだ。<br />
　市民団体は「うちの子供が殺人鬼になっては大変！」と、有害マンガ（アダルトマンガ）の規制を求めた。揚げ句の果てには、TVリポーターが89年夏のコミケット（日本最大の同人誌即売会）の会場前で「ここに10万人の宮崎勤がいます」などと名誉毀損どころではすまないことを言ってのけるに至った。<br />
　そのうちに、表面的には感情的批判は下火になるものの、オタクと猟奇犯罪のイメージはわかちがたく結びつき、今では確固たるものになってしまっている。<br />
　こうした状況の中で、「ゲーム脳」などと言われたって、「いまさら」感が強いのもやむなしといえよう。<br />
　ただ、今回の場合は「科学的な根拠」が存在することが、今までの批判となんとなく違った気はしてはいた。<br />
　けれども、ネット上を見回しても「ゲーム脳は根拠なし」といった意見が多数であったし、同じくネット上であるが、精神科医である斎藤環の的確な批判などもあり、いずれ消えていく言葉であろうと、当時はその程度に考えていた。</p>

<p>　たしかに今、当時に比べればゲーム脳という言葉自体を聞くことは少なくなった。つい先日発売された『ゲーム脳の恐怖』の続編となる森の『ITに殺される子どもたち』という本がそれほど売れたとも聞いていない。<br />
　しかし、それにも関らずTVゲームというメディアに対する批判は絶えることがなく、いまだにTVゲームは子供にとって有害であると信じている人は少なくない。それどころか文部科学省がTVゲームの悪影響を調べた報告書を作成するなど、むしろ「ゲーム脳」という言葉がはやっていた頃よりTVゲーム悪影響論の定説化が進んだ印象を受ける。<br />
　森は脳科学の専門家として、全国各地の市民団体や大学の講演に出演、TVのニュース番組などにも顔を出し、ゲーム脳を広め続けている。<br />
　その一方、我々ゲーマー側の「対ゲーム脳理論」は決してネットの中を出ることはないし、ゲーム業界側の振興団体である社団法人CESA（コンピュ−タエンタ−テインメント協会　以下CESA）も、「ゲームソフトが人間に与える影響に関する調査報告書」などの調査報告書を出してはいるが、こうした言説が社会に伝わっているとは言い難い。<br />
　たまに週刊誌などに斎藤環や香山リカといった科学者たちの、対ゲーム脳理論が出たりはするものの、そこからTVゲームに対する偏見が払拭されるようすは見られない。<br />
　いったい、どうしてゲーム脳理論はこれほどまでに人々に受け入れられ、浸透したのであろうか？<br />
　そのことを考えたいのだが、まずはゲーム脳理論とそれに対する反論をを一通り理解しておこう。</p>

<p>　森のゲーム脳理論とは、どのような理論なのか。<br />
　ゲーム脳理論の根幹は「テレビゲームをしている人の脳波が変化する」ことにある。<br />
　その変化とは「前頭前野の働きが低下して行き、β波の出現状態がα波のレベルまで低下してくる」ということである。そして「β／α」の値が低くなればなるほど、問題であるという。,<br />
　つまり、TVゲームのプレイ中にβ波の働き（前頭前野の働き）が悪くなることを問題にし、これが慢性化した状態を「ゲーム脳」と呼んでいる。そして、この状態は高齢の痴呆者と同じ脳波傾向だという。<br />
　なるほど、確かに子供が痴呆化しては大変である。この理論が世間の親たちに衝撃を与えたのは当然であろうし、TVゲームを子供から取り上げるのも致し方ないことではある。<br />
　ただ、それはこの理論が正しければの話だ。<br />
　この新聞発表の２日後に書店に並んだ『ゲーム脳の恐怖』を読むと、理論のほころびが見えてくる。</p>

<p>　森はTVゲームはβ波の出現状態は低下するので、脳に良くないと言うのだが、脳機能を良くするためにと、森が推薦する「運動」においても、実はβ波の出現状態は低下している。<br />
　『ゲーム脳の恐怖』p.24にTVゲームをしている時の脳波が載っており、同書p.124にウォーキングした時のグラフが載っているのだが、これが程度の差さえあれど、TVゲーム、運動のどちらでも、その最中にはβ波の出現状態が低下し、終了後には元の値にまで戻っている。これのうち前者を「ゲームを始めてすぐに、β波が下がっています」。とし、後者を「運動をした後、グッとβパーセント（原文ママ）が増加しました」としている。同じ傾向のグラフで結論が２つあるのは、恣意的な解釈をしている証拠と言える。<br />
　同じような恣意的解釈は、p.104-108でも見られる。ここではその他のTVゲームと違って、β波が増大した「ホラーアクションアドベンチャーゲーム（以下ホラーアクションAVG）」（文中では「ロールプレイングゲーム」と記されている）に対して、これはストレスで脳に過剰な負担がかかっている証拠なので、脳に良くないなどという。<br />
　さらにその一方で、p.120-121ではダンスゲームは「β波が上がるから良い」という。ホラーアクションAVGとの違いは、ダンスはゲーム最中にはβ波が出現状態が低下し、終了後には上がり、ホラーアクションAVGの場合は、ゲーム中にもβ波が上がりっぱなしだということ。そしてこの前者を脳に良いとし、後者を悪いとしている。<br />
　しかし、すでにお気づきのとおり、前者のβ波の動きは、ウォーキングやTVゲームをしている時のβ波の動きとまったく同じものであり、まったくTVゲームの脳への悪影響を肯定する材料になっていない。<br />
　また、データの取得方法そのものにも問題がある。森は脳波を「ノーマル脳」「ビジュアル脳」「半ゲーム脳」「ゲーム脳」の４つに分類し、彼らがTVゲームをプレイした時のα波とβ波の関係を示すグラフを掲載(p.74-77)しているが、なぜかデータの取り方が一定ではない。<br />
　ノーマル脳は測定開始から１分30秒後にTVゲームを始め、４分少々で終了している。ビジュアル脳は測定開始２分過ぎからTVゲームを始め、７分に終了。半ゲーム脳とゲーム脳はいずれも測定開始から１分後にTVゲームを始め、６分に終了。と、見事にバラバラだ。同条件で比較すべき実験で、このような条件のズレは測定結果に重大な影響を与えかねない。<br />
　グラフ上に見える条件すら、これだけ違うというのだから、脳波を取る被験者の環境条件、つまり検査の場所や、プレイするTVゲームソフトといった事柄すら同一ではなかったのではないかと、つい勘繰ってしまう。<br />
　また、痴呆と同じ脳は傾向だという話に関しても、痴呆とゲーム脳の脳波の状態が似ていたとしても、それで因果関係を証明した事にはならない。ゲーム脳のような状態が慢性化すると痴呆に繋がるということは、本の中でほのめかされてはいても、決して十分に検証されているとはいいがたい。ただ脳波の傾向が同じというだけに過ぎない。<br />
　また、森自身がゲーム脳を調査するきっかけになったのは、「プログラマーの脳波をとったら痴呆者と同じ脳波を示した」ことから、「画面に向かっている時間が長いせいではないか」と推測したことであり、これなら「モニター脳」と名付けてもおかしくない。また後に森自身が「メール脳」（携帯メールをしすぎるとゲーム脳状態になる）という言葉を発表したように、決してゲーム脳はTVゲームだけに起因する現象ではない。ならば、ゲーム脳という名称自体の必然性がない。<br />
　また、前述した精神科医の斎藤環が、大手オンライン書店、bk1（www.bk1.co.jp）の書評欄にこの本に対する詳細な批判を述べている。<br />
　森の脳波に関する基本的な知識が謝りであること、森が開発したという簡易型脳波計の仕組みに対する疑問、そしてゲーム脳のキモでもある「痴呆ではβ／α値が低い」という解説が、決して痴呆臨床の立場から見て正当な説ではないということが説明されている。</p>

<p>　このような疑問は、『ゲーム脳の恐怖』が出版された直後から、何人もの人が繰り返し口にしてきた。当然、森にも届いているはずである。<br />
　だが、この批判に対して森はほとんど、いや一切と言っていいが、答えていない。<br />
　2004年７月に発売された『ITに殺される子どもたち』（講談社 2004）においても、これらの批判に答えるわけではなく、『ゲーム脳の恐怖』と同じ理論を繰り返すだけである。<br />
　ちなみにこちらの『ITに殺される子どもたち』では、脳の活動をグラフィカルに表示するシステムを用いて脳の働きを見ている。<br />
　携帯メールやパソコンでの読み書き、アニメ、漫画の視聴では、脳があまり働いておらず、紙への書き取りや読書、音楽鑑賞、そしてホタルを見ている時には、脳が活発に働くとし、前者は脳に悪く、後者は脳にいいとしている。つまり、脳全体が働けば働くほど「脳によい」と見ているわけだ。<br />
　しかし、この見解も、最新の脳科学では危ういものとなっている。<br />
　2005年、東京大学の酒井邦嘉助教授らが、ブローカ野の研究において、英語に対する習熟度が高ければ高いほど、ブローカー野の活動が「節約」されることを発見した。節約ということは「脳が働きが少ない」ということであり、習熟度が高ければ高いほど脳が活発に働かないことを示している。これは森の考え方とまったく逆の見解となる。<br />
　また、1992年、カリフォルニア大学のHaier RJらによる研究では、「テトリス」という、アクションパズルゲームの金字塔ともいえるTVゲーム（森もこの「積み木合わせゲーム＝テトリス」を被験者にプレイさせて脳波の測定を行っている）を用いて、脳のブドウ糖代謝のようすを測定した。<br />
　するとこれも被験者がテトリスに慣れるにしたがって、ブドウ糖代謝が減少することを発見した。そしてこのことは、効率の悪いエリア利用の減少、つまり慣れにより「脳の働きが効率化」しているのではないかとの見解をしている。<br />
　また、森と同じく、前頭前野を働かせることの重要性を訴える、東北大学の川島隆太教授は、『天才の創り方』（講談社インターナショナル 2004）の中で、暗算で複雑な計算をしている時には脳はほとんど活性化していないというデータを示している。これを森の見解にあてはめれば、毎日のように複雑な計算をしている学者も、TVゲームをしている子供と同じということになってしまう。ちなみに川島は同書の中で、ゲーム脳理論を「脳科学者には噴飯もののトンデモ理論」と切り捨てている。<br />
　もちろんこれらも、森の研究と同じ、「１つの研究結果」でしかなく、ただちに森の見解を否定する材料にはならない。<br />
　しかし、脳の活動が活発でないことを、単純に脳に悪いと断言することはできない。それだけは確かである。</p>

<p>　さて、ここまででゲーム脳理論を論破したとはいわないが、少なくとも鵜呑みにすることはできない理論であることは、伝わったと思う。<br />
　しかし、こうした批判は先にも書いたように、なかなか外に伝わらない。<br />
　では、どうしてこれだけの批判をされながら、「ゲーム脳」という言葉は生き残っているのだろうか？</p>

<p>------------------------------------------<br />
なぜゲーム脳理論は受け入れられるのだろうか？<br />
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<p>　2005年２月14日に大阪府寝屋川市の小学校で、卒業生の17歳の少年に教師が刺殺されるという事件が起った。<br />
　そしてこの少年が小学校時代にTVゲームにハマっており、不登校気味であったことから、「TVゲームの悪影響なのではないか」という報道がさかんになされた。マスコミは大学教授などにコメントをとり、TVゲームの悪影響という見方を、公然化しようと躍起になっている（私にはそう見える）。もちろんその大学教授の中には森も含まれる。 <br />
　ニュースでは犯人らしき人物にわずかでもオタク的兆候があれば、それを犯罪との因果関係があるかのように報じる。記憶に新しい、奈良の幼女誘拐殺人事件では、犯人像がまったく特定されていないにもかかわらず、犯人とオタクを結びつける報道が相次ぎ、「犯人はフィギュア萌え族だ」などと煽りたてるジャーナリストまで出る始末であった。<br />
　のちに浮かびあがった容疑者は、行きつけのスナックがあるなど、まったくオタクとは相反する要素を多く持った、ただのロリコンオヤジであった。<br />
　しかし、マスコミはこれを「平成の宮崎勤事件」として報じたし、先のジャーナリストもフィギュア萌え族という誤った見解に対する訂正は行っていない。</p>

<p>　犯人に関する趣味嗜好がここまで詳細に報道されるのは、その趣味嗜好が犯罪に直接関係するものである場合と、これらのようなTVゲームやアニメ、フィギュアといったオタクメディアである場合のみである。<br />
　たとえばタバコの常喫者が犯罪を犯しても、読売ジャイアンツの強烈なファンが犯罪を犯しても、部屋が本で埋めつくされるような活字マニアが犯罪を犯しても、決してそのことは報道されることがない。当然、「それらの悪影響で犯罪が起きたのではないか？」などという珍説が飛び出す余地はない。<br />
　逆に考えれば、「犯人がオタクメディアにハマっていた」という報道がなされるならば、当然、ゲーム脳理論がマスコミによって受容される土台が存在するわけだ。<br />
　ここにゲーム脳理論の需要の１つがある。</p>

<p>　では、マスコミはいつごろから犯罪と直接関係のないはずのオタクメディアを関係あるかのように扱うようになったのか。<br />
　1988年から1989年にかけて、４人の少女が行方不明になった。<br />
　「今田勇子」を名乗る犯人は、被害者宅にハガキや遺骨を届るなど、その行動がマスコミの興味を強烈に引きつけた。<br />
　そして容疑者として逮捕された、宮崎勤の部屋にマスコミのカメラが入ると、そこに映し出されたのは大量のビデオテープや雑誌などの山であった。この、とても常人のものとは思えない部屋のようすは、その報道を見聞きした多くの一般視聴者に、きわめて強烈な「オタク」のイメージを植えつけた。（「オタク」という言葉自体も、この事件がきっかけとなって一般の人に広まった）<br />
　このイメージから「オタクメディアの愛好者＝犯罪予備軍」という見方が、マスコミと視聴者の間で共有されることとなった。<br />
　つまり、「犯人がオタクメディアにハマっていた」という情報は、宮崎勤連続幼女誘拐殺人事件以降、「マスコミと視聴者の間で共有されるべき情報」ということになったのである。</p>

<p>　だが、ゲーム脳理論が受け入れられる原因はそれだけではない。<br />
　なぜなら、決して宮崎勤以前に、オタクメディアに対する偏見がなかったわけではないからだ。<br />
　たとえばインベーダーブームが過ぎ去った後のゲームセンターには「不良のたまり場」のイメージがあり、子供がゲームセンターに行くことを禁止していた学校や親は多い。<br />
　確かに不良のたまり場と化していたゲームセンターもなかったわけではないが、ゲーム機が数台置いてあるような、不良がたまるような環境にない駄菓子屋すら、目の敵にした人は少なくなかった。<br />
　少なくともこの時期に、「ゲームセンターに行くことは不良の始まり」であるかのような価値観が、多くの人、特にPTAを始めとする教育関係者に共有されていた。<br />
　そして1985年には、改正風俗営業法が施行され、ゲームセンターは風俗営業とみなされ、深夜営業の禁止など、さまざまな規制を受けることとなった。</p>

<p>　ここで注目したいのは、このゲームセンターへの批判という文脈の中で、すでに「ゲーム」そのものよりも「子供」という側面が強調されていることだ。「子供が不良になるので、もしくは不良がいて危険なので、ゲームセンターは良くない」という文脈の批判がされている。<br />
　この点はゲーム脳理論も同じである。TVゲームをすることによって「子供の脳が痴呆化するので」TVゲームは良くないとしている。<br />
　どちらも「子供にとって有害」という点で批判さ